秋風の中 akikaze no naka |
煮えるように暑かった昼間からは想像もつかぬほどに、涼しい風が、畔【あぜ】にかこまれた小道を西から、東へ。 いつだか聞いたわらべ歌のように、遊びに暮れた子供たちがひとりふたり、各々の家路へとつく時刻である。 山の稜線近くまでおちたまるい陽が、やわらかく輪郭をくずして空に溶けている。格子状につづく畔のそれぞれが、その壮烈なほどにみごとな光を映じて、まるで天も地も橙一色の……美しい夕景【ゆうけい】だった。 「かごめ。子供らと遊ぶのはよいが、せっかく摘んだ薬草を落としてくれるなよ」 「だいじょうぶ――楓ばあちゃんたら、あたしそんなにおっちょこちょいじゃないわ」 老いた巫女の軽口に、振り向きざまつんとかわいらしく唇を尖らせてみせてから、かごめは同意を求めるようにかたわらに遊ぶ二人の童女に微笑いかけた。 「でもねかごめおねえちゃん。今日は三度も、籠をひっくりかえしていたわよね」 応じるようにさざめいた彼女たちの、頬までが夕日で茜に染まっていて、オレンジみたいだ。ときおりたてる笑い声や仕草のどれもがみずみずしくて、豊かな気持ちとその揺曳【ようえい】とをかごめの胸にもたらしてくれる。 鋭い指摘に苦笑を浮かべつつも、かごめは満ちたりた気分のまま、つづく畔の景色に目を向けた。 (こういうの、平和っていうのかもしれないなあ) 強化ガラスとアスファルトと鉄筋と、そんなものに守られた現代よりも、なぜか実際は危険に満ちているはずの戦国の世界でこそ、ほんとうに平和なひとときを味わえるような気がする。 椿の葉のように濃いグリーンの短いスカートを、湿気を含まないさわやかな風が吹きぬけ、ちいさく躍らせる。わずかに寒気を感じて軽くくしゃみをしたところに、楓が笑いを含んだ声で言った。 「そんな薄っぺらい格好をしておるからじゃ。もうすぐ夜の冷え込みがはげしい時期になる。気をつけなさい」 「はあい」 確かに、ここのところ昼間と夜の気温が全然ちがう。太陽が高い頃はまだ射貫くような暑さがあるのに、ひとたび陽が落ちれば、草葉のかげから忍び出た夜の空気が、汗ばんだ肌の体温を奪ってゆく。セーラーの半袖からのぞく二の腕がうっすらと粟立つのを感じながら、かごめは次に家に帰ったら冬用の制服に変えようと、そう思った。 「ねえ、かごめおねえちゃん。おねえちゃんはどうして、楓さまみたいな巫女さまの着物を着ないの?おねえちゃんも、巫女さまなんでしょう?」 道端の、名も知らぬ黄色い花を見つけ歓声を上げていた童女のひとりが、ふと振り向いてかごめを見た。 その言葉に反応したもうひとりも、そういえばおかしいね、と相づちをうって頷く。同時――かたわらの巫女が背を硬くしたのを感じ、かごめはそうと悟られないようにちいさく息を吐【つ】いた。 (――やだなあ) 楓ばあちゃんまで。 「そうねー。だってあたしの現代【くに】じゃわらじなんて履かないし、袴とか小袖とかも着ないのよ。…慣れなくって。ますます草につまづいちゃうわ」 つとめて、なにも気にしていないんだというふりを装いながら、かごめはそう答えた。 ――言った内容に嘘はない。ただ、それが一番の理由じゃないというだけだ。 片方の童女はそれで得心がいったようだったが、もう一方はふうんと呟きつつもまだ、なにかひっかかる様子で首をかしげていた。その、ちょうどかごめと同じくらいの長さの黒髪が風に揺れ、夕日に映えてどこか切なげに映る。 はたから見たら、自分もあんな風に見えるのだろうか。 (まるで別人に見えちゃったりも、するのかな) 夕日というのは不思議なものだ。わけもなく、見ているものの心を締めつける。笑っているのにまるで泣き顔のように見えたり、よく見知っているはずのひとが、突然全く知らない人に思えたりする。 (今、犬夜叉がいなくてよかった) 陽が沈む。いや、沈むというよりむしろ、溶けてゆくといった感じか。 背後から徐々に広がってくる淡色【あわいろ】に押されるようにして、狭【せば】まる光。それが本当に消える刹那に、相反するようにして夕焼けの空はもっとも美しいかがやきを見せる。かごめは西へ向かって目をほそめながら、籠を抱く腕にぎゅっと力をこめた。 なぜだか、ひどく悲しくなってくる。早くおいでと声をかける楓に背を向けたまま、かごめはほんの少し眉をよせた。自分の前世だと告げられたかの巫女の魂が、この風靡【ふうび】にさそわれるようにして、かごめの心と重なったのだろうか。 「いやあね。こんなのって……ばかみたい」 呟いて、目の端に滲みかけた涙をぐっとこらえる。かごめは無理矢理つくった笑顔を浮かべ、引き離されてしまった巫女たちを振り返った。 そして、駆けだす。 その時の彼女は、ほんの一瞬、よぎった思いを胸の裡【うち】におしこむのに必死だった。だから――気づかなかった。背後でもうひとり、彼女に別の誰かの面影を、重ねてしまった者がいたことに。 かさり、と、乾いた草を踏む音がする。つづいて、はっきりと自分の名を呼ばわる声を耳にしながら、少年はむっつりと押し黙って藪の翳にかがみこんだまま、今しがた姿を現した奇妙な装束の娘に、怒ったような困ったような複雑な視線を投げた。 「犬夜叉……どこ?近くにいるんでしょ」 薄闇にまぎれて、彼女が今ひどく心細げな表情をしているのがわかる。犬夜叉は、自らのもつ獣の視力にうんざりしながら、頬に垂れかかる長い髪をふりさばき、立ち上がった。そして、いつもならいい加減おとなしく出ていってもいいはずのところを、今夜は逆に、森の奥へ向かって大きく跳躍した。 気づかれないような配慮などしなかったから、彼が飛びあがった途端、ざっと小さなつむじが捲き起こって、少女に彼の居場所を知らせた。はたと顔をふりむけた少女が、一度目を見開いてからすぐに怒ったような表情に転じ、口をひらく。 「犬夜叉!やっぱりいたんじゃない!」 その少女の身長の、たっぷりふたつ分以上上の梢に姿を現しながら、少年は自分の表情を悟られないよう肩越しに振り返った。 水干の背が、燃えるような緋色で夜の梢を切り取る。振り向きざまの自分の視線が、ことのほか鋭く見えることも知ったうえで、少年はわざとそう振る舞った。 「ぎゃんぎゃんうるせえよ。晩飯なら要らないと言ったろ」 「だって。あんた朝も昼も、何にも食べてないじゃないの!いくら半妖だからって光合成できるわけじゃああるまいし、食べなきゃ体力つかないでしょ。いつまでもそんなこと言ってないで……」 「よけいな世話だ!」 凄むような声で少年はそう答えた。普段なら、憎からず思っている相手にはけして使わない、低い声だ。だが、さっと諭すような表情を消した少女に、ひるむ様子はない。険しくなった眦【まなじり】と開きかけた唇が何を意味するか感じとり、犬夜叉はそれを遮るように早口で言った。 「飯は…あとで良いから」 目を逸らし、切った言葉の続きは、打って変わってかすれるような音にしかならなかった。少女の眉間が、いぶかしげに曇る。 「……ひとりにしてくれよ」 しばしの沈黙のあと、少女はちいさくわかった、とだけ言った。そして、もう何も言わずに踵を返してもと来た道を逆にたどり始めた後姿に、思わず振り返って手を伸ばしかけた自分に気づき、少年はぐっと唇を噛む。 遠ざかってゆく、馴染んだ気配。それが薄れるに従って、まるで昔の自分へ遡ってゆくような錯覚を覚えていた。 恋というものの存在を知ったのは、一体いつの頃だったか。さらに言えば、恋というものをほんとうに理解したことは、あっただろうか。 ようやく、最後の残り香とともに少女が今しがたまでいたことを示す一切が消え、少年はちいさく安堵にも似たため息をついた。 まだ夜も浅い時刻である。見上げる空は繁る豊かな木の葉におおわれてわずかにしか見えないが、差し込む寂光【じゃっこう】と風の匂いからして、酉の刻を半時【はんとき】ほど過ぎたあたりだろうと思われた。 (くそ…っ) 意味もない悪態をついてみる。うんざりしたように低く喉を鳴らし、少年はきっと前を見据えた。――さっき少女が消えていった夜の道。もうここにはいない彼女の姿は、彼を自嘲的な気分にさせる。 (あいつが悪いわけじゃねえのによ) いや、むしろ非は全面的に自分にある――眉根を寄せ、ようやく立ちすくむ自分の間抜けさを認めて、少年はどさりと太枝【ふとえ】に腰をおろした。 ――ああいう桔梗の顔を見るのが、俺は苦手だった。 そうして、思い出すのは、日暮れ時にかいま見たかごめの横顔。 吸い込まれるように、魅入られたように、夕陽をみつめまるで泣いているように見えた。ぬばたまの髪が微風になびいて白い肌を彩る様が、目裏【まなうら】に焼きついている。 (……俺は、一体誰を思ってる) 出せぬ答えだ。自覚しつつも繰り返してしまう自問自答は、結局ゆき着く先も見せぬまま、癒えない生傷を心に残すばかり。いっそのこと誰もかも嫌いになってしまえたらどんなに楽かと、埒もないことを考えて少年は苦笑いする。 ふと我に帰るたび、己の行動の不甲斐なさがうとまれてならない。五十年前に終わった筈の恋人と、いまだ縁を断ち切ることもできず、あげく気持ちの方までもが紫煙のごとく、ゆらゆらと胸に尾を引いている。 生霊【いきりょう】と化してしまった彼女がどうであれ、犬夜叉自身が彼女を恨んだり憎んだりすることなど、考えられなかった。 (忘れられやしない) やはり愛していたのだ。今になって思う。 もうあんな、子供と戯れて微笑う桔梗の姿を見ることは二度とない――桔梗自身も、その笑顔も、五十年前に奪われてしまった。それを、かごめのふとした横顔に、ふとした笑顔に、重ねて思い出してしまうたび、切なさとそして罪悪感にとらわれる。 どうして死んでしまったのだろう。たがいに生きてさえいればいつかは、全て元どおり、二人生きてゆくことも死ぬこともできたはずなのに。 死んでさえいなければ。 (桔梗…どうして、死んだ――) 共に時間を過ごしたわずかな間、確かに二人は幸せだった。 ……答えは出ない。 ざざあと風が吹く。木々が鳴く。あわせるようにして、少年の白く長い髪も闇に踊った。 深い海の底のよりも空の果てよりも、もっと濃くしなやかな夜の黒。その中天あたりに、檸檬の薄切りのような満ちかけの月が、まるでぺたりと貼りつけたみたいにして浮かんでいる。妙に質感のない、厚みの薄い月だと、見上げながらかごめはそう思う。……我知らず、ため息がこぼれた。 ――犬夜叉の態度の、原因はわかっている。彼があんな風にして自分を避けたがるのに、理由はそう多くない。そしてその数少ない理由を一つに絞ることも、難【かた】くはないことだった。 夕暮れの自分の姿を、彼はどこから見ていたのだろう。 茫々と草の繁った暗い夜道を、たった一人で寝屋まで帰りつくのは結構寂しく、そして怖い。懐中電灯のひとつも持たずに犬夜叉を追いかけてきたことを後悔しながら、かごめはひたすら前だけを見るように努めて、足を速めた。 いつもなら多少無理を言ってでも犬夜叉を付き合わせるところだが、今日はどうしてもそうする気になれなかった。 (やっぱり、そこまで寛大になれないわ) すべてを理解した上で彼のそばにいることを、心に決めたのだとしても。 離れるのはいや。だけれど、隣にいる自分に遠い誰かを重ねられるのもいやなのだ。……複雑な乙女ごころだと、小さく揶揄【やゆ】して苦笑を浮かべる。 「情けない……」 ぴたりとその場に足を止め、かごめは瞼をとじる。そうすると、今自分がどこに立っているのだかわからなくなっていい。 楓が、もう夜の冷え込みがきびしい時期になると言っていたが、本当だ。まだどこか湿気を帯びた、それでいてつめたい風が、すうと肌の表面をすべってゆく。訪れた初秋【しょしゅう】、そしてその先に待ち構える冬すらも思わせるような、寂しい気配だった。 ちりちりと鈴虫の鳴く声が耳朶【じだ】に静かにひびき、そのたびに夜の闇までが微かにふるえ……音と共に降りつもってゆく。 まだまだ幼すぎるのかもしれない。恋だの愛だのなんて、わからない。自分が彼のことをどう愛しているのかも、今の二人の在りようが本当に正しいものなのかも、わからない。ただ、離れると辛くて、もういやだもうだめだと呟きつつ、結局はまた戻ってきてしまう。 そばにいたい。枝葉を全て取り去ってしまえば、本音はそれだけ。 だけど、それだけじゃ、足りないのだろうか。 あの女【ひと】と競【せ】りあうには――まだまだ、足りないのだろうか。 愛しかたとか、想う気持ちとか、彼をどれほど必要としているかとか。 「ばか、なに泣いてるのあたし」 鎮守の森の静かな息吹が、馨【かお】りたつようにかごめをつつむ。ふわりと全身を攫【さら】って吹く風に、スカートがやわらかくふくらんだ。かごめは目の端に滲んだ涙をさっと拭い、顔を上げ…そしてそのまま、動きを止めた。 (なに……っ) ぞくり、と全身の肌を悪寒が舐めてゆく。身体じゅうの血液が、一気につま先へ落ちたかのように感じて、かごめはその場に立ち竦んだ。冷たく、そして粘り気のある独特の気配が、ゆるゆると渦を巻いきながら森の口を流れ出している。これは――。 逃げなければ。とっさにそう思った。 さっきまで、中天でぼんやりした光を放っていた甘い柑橘【かんきつ】の月が、黒い薄雲に覆われてみると、血のように毒々しい赤色に見えた。風までもが口ごもったような轟【とどろ】きをあげて、夜を不吉の気配に染めてゆく。ただの天気の急変だと片づけるには、あまりにも全てが濁りすぎていた。かごめはごくりと唾を呑み、音を立てないように道の脇へ寄って、その場にしゃがみ込んだ。 (でも、下手に動いたら、その方が危険だわ) 夜に彼女のセーラーホワイトはよく映える。妖しの眼力をもってすれば、鴉【からす】に紛れた白鷺【しらさぎ】を見分けるよりも容易く、見つかってしまうだろう。手の平にじっとりと嫌な汗が滲む。かごめは息をつめた。 スカートに胸を押し付けるほど屈みこみ、低い位置からあたりに視線を走らせる。妖気の主が誰であるかは分からないが、かなり強い魔気を持っていることだけはよく分かった。足元で揺れる青草が、瑞々しさを失ってかさかさと縁【ふち】から萎【しな】びてきたからだ。 ……犬夜叉は、どうしたのだろう。普段なら、もう助けに来てくれていてもいい頃なのに。 頭に浮かんだどうしようもなく情けない考えに、唇を噛む。かごめは両腕に顔を埋めた。ついていない日というのは、とことんついていないものだ。犬夜叉でなくとも、弥勒や珊瑚や、楓たちが気づいて、すぐに助けに来てくれると思っていた。 だのに、誰も現れてはくれない。 実際のところ、かごめが気配に気付いてからまだいくらも過ぎてはいない。けれど、落ち込む気持ちとふくらむ寂しさの中で、時間の流れが数十倍にも、遅く感じられた。 そうしていくばくかの、時が流れた。 突然――ぼんやりとした靄【もや】の中に、薄い光が、ぽつりぽつりと点りはじめた。はたと顔を上げ、ちょうど闇から浮かんだばかりの「光」を目にしたかごめは、氷で撫でられたように身震いした。 静かな光をまとっている幾つもの……人の顔。そしてその顔全体が、薄く、発光していた。 ちょうど人面果のように、どの頭にも首の切り口がない。そしてその本来なら首のついているあたりをよく見れば、どの頭【かしら】も拳大よりすこし小さいくらいの、黒い瘤のようなものを持っていた。 なんだろうと、かごめは半分草に身体を埋めたまま両目を細め……それが虫の胴体の形をしていることに気がついて、息を呑む。 頭上をふわふわと、頭がひとつ流れてゆく。 彼らは皆瞼をぼんやりと開いていたが、果たして目の前の物を映しているかどいうかは疑問だった。凝【じ】っと息をこらえているかごめに、少しも気付いた様子を見せないのだ。唇だけが妙に紅い女の首と、いま確かに目が合ったのに、彼女はずんずんとかごめに近づいてそのまま頬をかすめて飛んでいってしまった。その乱れた蜘蛛の糸のような一束の毛が、かごめの首筋に触れさえしたが、それでも女の首はなんの反応も見せなかった。――おそらくは、何の害もない……ただの流離【さすら】う霊【すだま】たち。 恐怖は消えない。 おぞましい気配。 だがかごめは、彼らが自分に危害を加えそうもないことをもう一度確かめ、ゆっくりと立ち上がった。 (犬夜叉が……みんなが、気付かないはずだわ) 彼らは、妖怪ではない。肌に貼りつく湿った冷たさが、確かに妖気によく似ていたが、まったくそのものではなかった。強いて言えば、奥歯からこめかみにかけてキインと響くような、頭の痛くなるような嫌な感じがない。そんなところか。 空気が揺れる。黄泉の世界との境界が、かごめの周囲でぎりぎりまで曖昧になる。 かごめはただ彼らを見ていた。確かに気味が悪かったが、慣れてしまえばそれほどにも感じない。若いの、歳をとったの、髪の長いの、短いの……はかなく霊火をまといながら風に乗る、死人たち。 何か、この世に未練を残しているのだろう。 かつて、まだ犬夜叉と出会ったばかりの頃、タタリモッケという妖怪を見たことがある。早くして亡くなった子供たちの魂を慰め、彼の世へと送る害のない妖かしだった。生というものへの未練を残した子供たちは、タタリモッケの笛の音【ね】の中で鎮まり、消えてゆく。 だが大人になった死人たちに、そのような救いの主【ぬし】は現れない。自ら未練を昇華させ消えてゆくか、それが叶わず永遠【とわ】にただよい続けるか。……後ろ髪引く想いのあまり、己を妖怪となし、堕ちてしまうか。 そのいずれであるにせよ、そう易くは救われない。 ――かの女【ひと】も、きっと。この霊【すだま】たちと同じ、報われぬ思いを抱いたまま――。 そこまで考えたところで、かごめは意識を手離した。視界に一瞬にして暗幕がおり、膝をがくりと折った身体が、冷たい地面に崩れ落ちるようにして重なる。セーラーの襟が最後まで風とからまり、ばたばたと五月蝿くはためいていた。 (忌蛍【いみぼたる】…か) 縁起の悪い。ふとそう思って、少年は苦笑を浮かべた。普段なら縁起など、なんてひ弱な人間めいたことだと、嫌って気にもしないくせに。…なにを今更。 (かごめも見たかもしれねえな) 忌蛍は、人と妖怪の中間体のような存在だ。例えば生きた人が鬼になる一歩手前の状態を「生成り」と呼ぶが、死んだ魂で言えば忌蛍がちょうどそのような状態にあたる。とはいえ「生成り」状態の魂が常に忌蛍の姿をとる訳ではないのであって、虫の姿を模しているのは強いていえば、偶然とか気候とか気の流れとか、そういったものの相乗効果にすぎない。 いくら夜目の利く犬夜叉でも、さすがに少し距離がある草原での様子を、手に取るようにうかがい知ることは出来なかった。ただ普通の蛍にしてはやや動きがおかしかったし、目に映る光の大きさも異様に大きかったから、忌蛍だとわかったのだ。さっきかごめを見送った時と同じ幹の上から、犬夜叉はぼんやりと、別にさしたる興を引かれる風もなく、乱舞する光の群を眺めていた。 黒い、塊のような木々の中から、時折幾つかの忌蛍が迷い出てきてはどこかへ消えてゆく。高く昇れるものほど昇華の時は近く、低く地を這うようにして飛ぶものは未練が強いものだという。ならばそうして空高く消えていった魂は、ようやっと現世から解放されたものたちか。何故かしら、胸の奥をぎゅっと掴まれたような切なさを感じて、犬夜叉はその光景から目を逸らした。 ――自分は、いつまでこんなことを繰り返してゆくのだろう。 桔梗といつかは黄泉路を共にすると誓った。だが結局のところ、桔梗は人で、自分は妖し。黄泉路を辿るのは彼女独りで、自分は一体どこへゆけるものか。 一瞬で消え去ってしまえればまだしも、ひょっとしたら今度はかごめへの想いを残したまま、どこか光のない世界を漂うのかもしれない。それとも、人である部分だけが黄泉路を辿って、醜い妖怪の部分はこの世に留まってしまうだろうか? (くだらねえな) 一度契った約束を違える気など、毛頭ない。毛頭ないのだけれど――ただ。 ただ…。 (かごめの顔が見たい) こうして一人でいたって、悪い方向へしか考えが進まないのは分かっていた。さっきかごめが迎えに来てくれた時、素直に従っていれば良かったのだ。 ざん、と、わざと考えを蹴散らすような大きな音を立てて、犬夜叉は幹を蹴った。視界を、自分の水干の緋色が走る。 夜、特に朔の夜、決してこの衣の色は身を隠すに適しているとは言えなかったが、犬夜叉はその鮮やかな色を気にいっていた。自分の思い切りの悪さを隠してくれるような、鮮烈な緋。 …いつもその様でありたいと。 彼の足で、草原まではさほども時を要しなかった。急に拓けた視界に、数を増した忌蛍の光が飛び込んでくる。そのさまに犬夜叉は眉をひそめた。 (やっぱ、気味の良いもんじゃねえ) かごめは、これを見て怖がりはしなかったか。ちゃんと宿へ帰れただろうか。 今更ながら、早く後を追えば良かったと後悔しながら、犬夜叉は目の前を横切った男の頭を首の動きだけで器用に避【よ】けた。まだ妖怪となっていないものたちを、無為に傷つけるのも本意ではない。 一歩一歩、歩を進める。 当たり前の事だが、どの蛍の顔も、人相が異なっていた。ただどれもこれも虚ろな、生気の感じられない表情をしていたから、至極よく似て見えた。 (かごめは、こんな顔はしねえ) きっと、たとえ不本意な死を遂げたとしても、それはそれとして割り切ってあっさりと天に昇ってしまうだろう。未練だって、思いきりよく切り捨ててしまうに違いない。 なんて綺麗で、鮮やかな娘。その鮮やかさゆえに、目を奪われる。 (俺とも――桔梗とも、違うな) 好きというより、むしろ憧れに近い。守ってやれるのはその軟【やわ】な身体だけで、心など誰にも汚すことはできないのだ。きっと――。 「退【ど】けよ」 また目の前に、幾つかの忌蛍が現れた。一つは男だったが、あと二つは女の頭で、風にもてあそばれた黒い髪がざわざわと犬夜叉の視界に広がっていた。犬夜叉は軽く一つ舌打ちをし、女の顔を睨みつけようとした。そして彼女と、目が合う。 「んだよ、てめ…」 目が合う? おかしな話だ。彼らは決して前を見てはいないはずなのに。 だが女は、確かに犬夜叉と目を合わせた。そして、何か言いたげに、口を半ば開きかけさえしたのだ。犬夜叉は、腹の底がすっと冷たく、重くなるのを感じた。 爪先に、何かが触れる。人肌の温【ぬく】さが、春夏秋冬問わず常に裸でいる彼の足に、伝わってきた。え、と小さく呟いて見下ろしたその先――横たわった少女の姿に、少年は一瞬叫び声をあげそうになる。 「かごめ…?」 さっき目を合わせた女の首は、また目を虚ろに閉じて、漂うように犬夜叉の脇をすり抜けていった。その首筋に、生きた女のような、一筋の湿った黒髪の感触。 何かが、耳元で音を立てて砕け散った。――そのように、感じた。 自分の裸足が触れているものが、ちょうど倒れたかごめの体だと気づいて、犬夜叉は思わずふらりと二三歩後退る。セーラー服の裾が、倒れた拍子にそうなったのだろう、大きく捲くれ上がってかごめの肉の薄い腹部を露わにしていた。 「かごめ!!」 まずは声が、突き上がってきた。我知らず立てた劈【つんざ】くような悲鳴に、少年ははたと正気を取り戻す。 慌てて屈み、抱き起こしても、少女の四肢は力ない。支えの手を外せば、くたりと正体を失って今にも犬夜叉の腕から崩れ落ちてしまいそうだった。骨のない人形のように、かごめの首ががくりと後方にかたむいて、薄い肌を通して透けそうに白い咽喉笛がさらされる。 (こんな――) 普通なら、気づいたはずだ。 外傷もなく、発熱もない。少し蒼褪めていて、吐く息が浅く、全身の力が抜けている……人ならぬ気に中【あ】てられた者が陥りやすい症状。だけれど、今の犬夜叉に、それを理解して対処するだけの余裕はなかった。 乱暴すぎるとも思えるような所作で、少女の肩を掴み、揺さぶる。だが、無為に黒髪が揺れるだけで反応はなかった。 (かごめ) ぶれるようにして重なる、かごめとよく似た冷たい死相。固く閉じた瞼。 ――桔梗の死に顔を、直接見たことがあるわけではない。だが、取り巻く黄泉の気配と、蒼褪めた顔色と――似すぎるほどに酷似したかごめの顔とで、記憶が渦巻いた。 (やめてくれ) 独り取り残されるのは、辛い。 妖しの血を引くがゆえに、多くの人々の生き死にを目の当たりにしてきた。それは時に、数少ない少年の理解者をも、二度と届かぬ淵へと連れ去ってしまった。父も、母も、そして―― 少女の上に屈み込んで、その頬に触れても、かごめは瞼を開けない。つややかで綺麗な黒髪のせいで、よけいその肌が白く血の気を失って見える。 呼び覚まされ揺さぶられる、ざらついた数々の記憶。それに今にも囚われそうになりながら、犬夜叉はその黒髪に五指を絡める。華奢な身体を抱いて、繰言のようにその名を呼んだ。 ――かごめ。 ひどく悲しい夢を見ていた。そんな気がする。 目を覚ましてすぐ、飛び込んできたのは鮮やかな緋色だった。何度も自分の名を呼ばわる声と、痛いほどの強さで背を掻き抱く腕。良かった、本気で怒っていたわけじゃなかったんだと頭の隅で考えて、かごめは目の端に残った涙をこっそりと彼の胸の中で拭い、瞼を開けた。 「かごめ……かごめ!?」 「大丈夫。多分ただの貧血…」 そう言って身体を起こしかけたかごめの腕を、犬夜叉は確かめるようにきつく掴んだ。そして、まじまじと眺める。 その様子はあまりに不安そうで、彼がいつもより傷つき易くなっていて、彼女のことを普段以上に心配したのだろうと感じさせた。 「びっくりした?」 さっきの彼の態度を思い出して少し意地悪くそう問うたかごめの言葉に、犬夜叉は途惑ったように目をしばたたく。かごめはもう一度大丈夫、と小さく言い、まだ放そうとしない犬夜叉の腕を軽く押して、おろしてくれるよう促した。 犬夜叉はそれで初めて、自分が臆面もなくかごめの身体を抱いていたことに気づいたようだ。何か言いたげな様子を見せながら慌てて腕を解いた。 忌蛍はいつの間にやら姿を消していて、辺りは青い闇に沈んでいた。紅かった月も元の冷たい色に戻って、今はしんしんと音もなくあえかな光を溢【こぼ】している。風もやんでいたので、互いの衣擦れが妙に静寂を壊し、耳についた。 「悪かったな」 「…なにが?」 「…さっき」 別に気にしてなんてない。そう答えようと口を開きかけ、かごめは一瞬首肯するのを躊躇【ためら】った。 つい今しがた、そこまで寛大にはなれないと自嘲したばかりだ。そうそう、自分の思いに相反することを答える気にはなれなかったのだ。 今肯んじてしまえば、ただの嘘になる。――それはかごめの望むところではなかった。 黙り込んでしまった彼女を不安に思ったのか、かごめ、と犬夜叉が名を呼び、瞳を寄せてきた。それにかごめは笑顔を浮かべ、慌てて的外れな答えを返す。 「あたし、どれくらい気を失ってた?随分と長く?」 見上げた視線に、冷たい月が映る。赫い水干の肩越しに見たそれは、かごめの肌をより白く、透けるように淡い色に見せる。 「いや。四半時くらいだ。…お前、途中で忌蛍を見たろ」 「忌蛍?そう呼ぶのね。…見たわ」 「気を失ったのは、あいつらに近づきすぎたせいだ。中【あ】てられたんだよ」 「…でも、妖怪じゃなかったわ。妖気じゃなかったもの」 「だけどやっぱり、人じゃないからな。あいつらの周りは黄泉との境が曖昧になってて、ただの人には毒が強い」 「――ふうん」 会話が上滑りしていた。それを互いに解っていたから、妙に核心を外した受け答えだけがつらつらと流れていても、それを止めることが出来なかった。大体、犬夜叉がこんなに自分の知識を話すこと自体が珍しい。 空の色が濃く深くなって、もう夜も更けたのだと判る。昼間の水蒸気を閉じ込めた風が、するりと肌の上を滑っていって、かごめは肌寒さに肩をすくめた。 「…帰ろう。弥勒さまたち、きっと心配しているわ」 同意を求めるように視線を合わせたが、ちょうど彼が月に背を向けていたので表情は窺えなかった。かごめはとりあえず少しだけ笑んでみせ、立ち上がる。――いや、立ち上がろうとした。 「ちょっ…犬夜叉!」 突然、腕を強く引かれた。 不覚にも語尾がかん高くうわずる。その事実に頬を染めながら、かごめは事態を把握しようと、跳ね上がった心臓を抑え頭を働かせなければならなかった。 抱きしめられていたのだ。それも、普段とは違う。 ――初めて正面から犬夜叉に抱きしめられた時のことを、思い出す。あれは鎮守の森の井戸のすぐそばだった。今みたいに突然のことだったから、抱きしめられた感覚はあまりはっきりとは覚えていない。ただ、犬夜叉の肩越しに見た木々の緑と、ちらつく木漏れ日が、妙に印象深く記憶に残っている。 今彼の肩越しに見えるのは、やはりさっきとおなじ、冷たい色の月だった。――薄く、透明な。 すがりつくような彼の抱擁に、かごめの胸が切なく痛む。それは、過去にそう抱きしめられたすぐ後に、ひとときの別れが訪れた、そんな記憶と……ああそんなことより。 (犬夜叉、震えてる?) 無言で、かごめの肩に顔を埋めるようにしている犬夜叉の背に、腕を回す。意外とたくましく筋肉をまとっているはずなのに、今はひどく華奢な背に感じられた。 「ねえ…どうしたの。やっぱりあたしが心配だったの?」 答えはないが、よくわかった。彼は相当心配したのだ。桔梗を思い出していたすぐ後で――しかも死人たちに囲まれて、かごめが倒れていたとあっては。 彼の人一倍傷つきやすい部分を、抉るようなことだったろう。どれだけ胸を痛めていたか…だがそれは、かごめには想像の及ばないところだ。 「かごめは…」 犬夜叉が呟くように言った。やはり、少し声が震えている。 「…ん」 「かごめは、死ぬな」 「うん」 「絶対だ。絶対死ぬな。俺は――」 「わかってるよ」 さらさらと、耳元で零れるような絹音がする。豊かな犬夜叉の白い髪が、月を映じてほのかに青く光を放って見える。 ぼんやりと滲む夜の静かな風景を、視線だけで辿った。背の高い、今はシルエットだけになっている草の海は、黒々とした夜の闇の中でわずかに明るい。……照らしだす月のせいだ。 かごめは瞼を閉じた。 「死なないわ。頼まれたって、死んでなんかやらない」 回された腕に力がこもる。彼の不安が伝わってくる。 もう少しこのままでいてあげたい。だから、念珠の言霊のことは今だけ忘れることにしようと、かごめは思う。 温度の低い月の光と、冷んやりなめらかな夜の風。そしてかすかに響く軽やかな虫の声。 どれもが秋を思わせるなかで、互いの体だけが、温【ぬく】い。 "Good for Nothing, 8000Hit-Kiri-illustration" by Puu. Thanks a lot. |
了. |