暗涙(あんるい) 〜ただ雨のなか〜






泣きたい時は泣け、と人は言う。――だから泣こう。ただ人知れぬ、雨のなか。







 ばたばたばたと、軒先からこぼれ落ちた雨が地を叩く。その音にはっと目を醒ました少女がひとり、跳ねるように飛び起きて、薄暗い小屋のなか絹のような黒髪が揺れた。
 (いまの…っ。夢……?)
 掌を圧しつけたら、胸がどくどくと高鳴っていた。少女はかすかに唇を震わせたが、どうにか声は出さずに済んだらしい。隣で静かな寝息をたてる仲間たちを見回し、彼らがいまだ眠りのなかにあることを確認すると、少女はほっとため息をついて、起こしかけた身体をまたその場に横たえた。
――時は戦国。ところは武蔵の山の奥。もとは退治屋の出自であり、今は因縁の宿敵を葬り去るため、目的を同じくする仲間と旅を続ける――少女の名は珊瑚。こうして幾日を過ごしたのか、もう数え切れない。
 破れ家【やれや】一歩手前といったこの庵は、剥がれた板壁のあちらこちらから外の光が入り込んで、真夜中の今でも薄っすらと明るい。夕方から降り始めた激しい雨も弱まり、一刻ほど前からはもう湯煙ほどの細雨【ほそあめ】に変わった。仲間四人と一匹の寝息以外には、時折雨滴【うてき】を吸いきった藁屋根から大粒の水が落ちるくらいで、あとは妙にしんみりとした静けさが小屋の隅々まで広がっている。建てつけの悪さゆえに閉まりきらなかった表戸から、青白く薄明かりが筋を描いて流れ込み、まるで眠りから醒めた彼女をゆるやかに誘い出しているようだった。
 (月、出たのかもしれない)
 ならこの雨ももう止む――。ぼんやりと考えながら、珊瑚はのろのろと体を起こし、もう一度仲間たちを見回した。隣に寝入る少女はともかく、壁にもたれて目を閉じただけの半妖と法師の眠りは異様に浅い。だが幸いにも、今日はみな揃って深い眠りの中にいるらしかった。わざとこつりと音を立てて床に指をついたが、ぴくりと動く様子もない。
 (なんか、死んでるみたいだ)
 水底に沈んだような青い光は、仲間たちの肌から血の色を失って見せる。瞼を伏せた彼らの寝顔が、まるで蝋人形のように固い。その光景にぞくりと一瞬背中をざわめかせ、珊瑚は慌ててばかばかしいと唇の端を吊り上げた。
 ――すこし頭を冷やそう。
 そうでなくとも先の悪夢に胸中は掻きまわされて、一筋縄では安眠に就【つ】けそうもない。ならば、と心の中で小さくため息を洩らし、珊瑚はあたりを窺いながら体を起こした。
 しばし夜露にでも濡れれば、すぐに熱【ほて】った動悸もおさまるはず。そう思って、外へ出る。



 霧のように立ちこめる微細【びさい】な雨滴。その中に林立【りんりつ】する黒い梢は、まるで雲の上に浮び上がる無数の柱がごとく。空に伸びる炭のような枝々と体にまとわりつく篠竹【しのたけ】の露さえなければ、本当に雲上【うんじょう】を歩いていると思い込んでしまいそうなほどだ。
 覚束【おぼつか】ない足許に神経をめぐらせながら、それでも傍から見れば幾分頼りない足取りで、珊瑚はあてもなく森の中を歩いていた。湿り気を吸った小袖も髪も、重たくなって肌に貼りつくだけ、胸裡【きょうり】をがたつかせる夢の咆哮を鎮めてくれはしない。いい加減邪魔になった苔色の腰巻をはらりと解きながら、珊瑚はぎゅっと眉をひそめた。
 あんな夢を見るようになったのは、一体いつの頃からだったか。
 その夢に追い立てられるようにして一人小屋を抜け出すのは、一体これで何回めを数えるのか。
 (忘れなきゃ――)
 そして、この言葉を自分に言い聞かせるのは、もうこれで百を疾【と】うに越えているような気がする。
 夢の残滓【ざんし】を振り払うことができぬまま、珊瑚はこれ以上進むのを諦めて、手近な木の根に腰をおろした。地面から飛び出るようにしてうねる形の悪い根は、ごつごつとした表面にたっぷりと水分を含んでいて、小袖の布に冷たく沁み込んでくる。針のような雨はまだしんしんと、夜の森に降り続いていた。
 (さっきの夢――分かってる)
 何が原因であったのか。だが、それを敢えて認める気分にもなれなくて、少女は苦々しげに睫毛を伏せ、ちっと一つ舌打ちをした。
 「ばかだね、あたしも」
 こうして瞼を閉じると、浮かんでくる顔がある。それが――昔は弟や、父親だった。だが今は違う。秀でた眉と通った鼻梁を持つ、すっきりとした麗容の青年…彼の黒い瞳が、今まさにこの瞬間も、珊瑚を見つめて微笑んでいる。
 彼の名は弥勒、といった。その名からすぐ知れるとおり、仏門に就いた法師である。本来ならばまだ、師のもとで鍛錬を積んでいてよい年頃であるのだが、彼には事情があった。
 その右の手に――命を虫食【むしば】む、呪いをもつ。封印を解かれれば全てを喰らい、吸い尽くし、ひいては彼自身の命まで呑みこんでしまう魔の風穴。彼はそれを消し去らんがために、珊瑚たち一行と共に敵を追っている。
 今目裏に浮かんでいるのは、その弥勒の顔だ。
 ――好きなのですか。
 ――彼のことを、好ましく思っているのですか。
 ――姉上。ねえ…
 (違うったら…ばか!)
 細い声が追いすがるように耳元で響いたように感じ、珊瑚は苦しげに唇を引き結んで呼吸をとめる。
 …さっきの夢もそうだった。奈落の城に囚われ、いいように使われている愛しい弟が、珊瑚を向いて悲しそうに訴えかけてくるのだ。あの男を大切に思うのか、その気持ちは里を偲【しの】ぶ気持ちよりも強いのか、死んだ仲間のことなど忘れてしまうつもりだろう――と。
 (あの子はそんなことを言う子じゃない)
 大好きな弟。気が弱くて、色が白くて、いつもあたしのあとを追いかけていた。今は奈落の哀れな下僕となされているけれど、この手に取り戻せばきっと、また優しいあの子に戻ってくれる。それに今だって、まだ人の心を失ってはいないと、犬夜叉が言っていたではないか。あたしが誰に想いを寄せようと、きっとあの子は止めたりしないだろう。そうではなくて。
 (恐がっているのはあたしだ)
 この瞼に映る顔――それがあの人に成り代わったその日から、珊瑚は悪夢に苛【さいな】まれるようになった。悲しい顔で訴えかけてくるのは、弟だったり父親だったり……。だが夢は所詮、見る者の心を映す鏡にすぎぬ。里を忘れるのではないかと、問い掛けているのは他ならぬ彼女自身、夢に現れる人物ではない。
 「忘れなきゃ」
 しとり、と肩に落ちたのは、もたれる大樹がたたえる、大粒の露。つられたように続く幾つかの水粒が、珊瑚の濡れた髪をより重く、湿らせてゆく。いい加減俯いた頬に貼りついた髪が鬱陶しくなった珊瑚が、忌々しげに首を振った。ばさ、と黒髪が振り払われ、透明な雫が塵のように細かく散った。
 (遂【と】げられはしない)
 要するにこれは、恋。男勝りな性格所以【ゆえん】、この歳になるまで経験することがなかった、甘い物想い。――珊瑚は弥勒に、淡い恋心を抱いた。そしてそれに気づくと同時、珊瑚は自分の想いが危険であることにも、気がついてしまっていた。
 (こんなことを考えてる余裕なんてないはずだ。あたしの心は――)
 里と皆のことで一杯。……だが迷いなく断言できるだろうか。
 見上げた空を、紫色の群雲【むらくも】が次々と流れては消えてゆく。黒い枝々の隙間から見えるその光景に、珊瑚は我知らず小さなため息をついた。十六夜【いざよい】の月を薄っすらと覆ったり、また離れたりするこの雲が、降り続いている霧雨の原因だろうか。だとしたら、当分止みそうにない。
 (風流なんて興味ないけど、まさにあたしの心みたい、ってやつ)
 踏ん切りがつかなくて、中途半端に彼を好きでいる自分。想いを遂げる気もないくせにかといって捨て去る勇気もないだなんて、まさに止むか止まぬかのこの霧雨と同じように、鬱陶しくて性質【たち】が悪い。
 正直――恐かった。普段は不真面目な彼の、ふとした瞬間に見せる優しさが、だ。法師であるためかそれとも彼自身の心根ゆえか、彼がかける言葉はいつも、自分がまさにその時求めている部分を的確に埋めてくれた。もう二度と癒えることなどないと思っていた心の傷が、嘘のように癒されて消えてしまうのは、だが心地良い反面湧き上がる冷たい恐怖を煽る。
 (あたしの中の一番は琥珀や父上や里の仲間たち、そうじゃなくちゃいけない)
 ただでさえ、奈落を追い続ける日々は辛い。死に物狂いで走り続けなければ、息苦しさに負けて立ち止まりそうになる。そんな中にあって、もし恋という甘い誘惑に溺れてしまったれば――結果は瞭然【りょうぜん】。きっともうそれ以上は進めなくなる。
 仲間を裏切って、それでも弟を敵の手から救い出そうとしたあの時の激情は、決していいものではなかった。だが今の自分には、どうしても必要なものなのだ。また同じ状況になっても同じ道を選び、そしてそれを間違っているとも思わないほどの強い気持ちを、いま失ってしまうわけにはゆかぬ。
 (だから、忘れなきゃ…)
 この想いは仮初めのもの。憎い敵を追い続けるなかで少し心が揺れただけだと、何度も言い聞かせたはず。けれどその効果が幾分も上がらなかったのは、今の自分を見ればすぐに分かることである。
 こんな弱い心でいたら、斃せるものも斃せなくなるじゃないか。その証拠に――そこまで呟いて、少女は徐【おもむろ】に揺【ゆ】らりと立ち上がった。そしてわざとふらついた足取りで樹の幹に体を寄せ、鋭い視線を横に流しながら、梅色の唇をきりと形良く噛み締めた。
 「見縊【みくび】られたもんだね、あたしも」
 見れば夜の闇に紛れて、きちきちと哭く小さな影がひいふうみい。紫色の薄靄【うすもや】に身を窶【やつ】しながら、それでも隠しきれぬ緑色の瞳を輝かせる何かが、いる。その正体を一睨みで察した珊瑚が、餓鬼の派生【はせい】か、と小さく笑った。
 手足の細い、子鬼の形をしていた。人の子供よりさらに一まわりも二まわりも小さく、両の手指には指がそれぞれ三本ずつしかない。ただ尖った朱色の爪がついているから、切れ味は鋭そうだと、そんな感想をもった。
 「ったく。おちおち一人で考えごとも出来やしない」
 発条【ぜんまい】じかけのように覚束【おぼつか】ない動きで、自身の数倍もあろうかという大鉞【おおまさかり】を抱え、餓鬼共はあきらかに珊瑚の魂を狙っていた。ひょっとしたら彼女を、恋に迷った自殺志望者と勘違いしたのかもしれない。
 (まあ確かに、そう見えたっておかしくないか)
 自嘲的な思いが頭に浮かぶ。したたる雫をぬぐいもせず、ぼんやりと視線を漂わせたり、夜月を見上げたり。彼女の体からは相当な負の思念が流れ出していたに違いない。思い当たる節があるだけに反論はできないな――などと悠長なことをひとしきり考えたあとで、珊瑚はそっと懐【ふところ】に手を差し入れた。
 と、その動作を認めた鬼たちが、かたりかたりと揃って一歩退きながら、囁くように一斉に語りかけ始める。
 ――おいてけ。おいてけ。そのたましい、われらがもろうてくうてやろ
 ――おいてけ。おいてけ。そのたましい、いまがちょうどよいあんばい
 「うるさい。あんたたちの餌【え】になぞならないよ」
 ――おいてけ。おいてけ。すててゆけ……
 「…ちょっと」
 ――くろうてやろ、すうてやろ。
 (ちっ、通じないか)
 こやつらはもののけの中でももっとも低級な部類に属する。すなわち自らの力で人の命を奪うことも出来ず、主に自分より力のある妖族のおこぼれに与っては、辛うじて細いいのちを繋いでゆくだけの種族だ。こうやって人語を話してはいるが、その意味を解しているかどうかも甚だあやしい。人の娘を脅かすだけの科白を、どこぞの誰かに聞いて真似ているにすぎないのかもしれぬ。珊瑚は、いくら口頭で追い払っても聞く耳もたぬ愚鬼【ぐき】を前に、心の中で嘆息した。
 (無意味に飛び具を費やしたくないし)
 かといって、こんな鬱陶しい目に遭ったまま黙っているつもりもない。
 しばしそんな考えに耽る珊瑚の頭上は、うっそりと茂る森の闇。……出ていたはずの月が、翳りはじめていた。



 (……ちくしょうっ)
 細々とまた降りだしたしとやかな雨の中、紗【しゃ】のような白霧【はくむ】をぬうようにして駆ける、少女がひとり。地を蹴り幹を飛びわたるたび、腰まではあろうかという黒髪がひるがえり、雨露をざんとはじく。
 少女は、追われていた。――それは一瞬の判断を読み誤ったがため。雑魚はえてして強い者と組みたがる、そんな里の常識を完全に失念していた。突然背後からしかけられた一撃を避けきれず、珊瑚は不本意な手傷を負ってしまったのだ。
 枝をつかんだだけでも腕に、ちり、と引き攣れた痛みが走る。掠り傷ではあるものの、小袖が含んだ湿り気のせいで血がいまだ止まらぬ。だがそんな小さな痛覚をいちいち気にしていられるわけもなく、珊瑚は奥歯に力をいれて、先に片付けるべき伏兵の動きへ神経をめぐらせた。その頬に、こめかみからつうっと落ちた冷たい雫が伝う。
 …気を一点にとられぬようにしなければ。敵は後ろから追う族【やから】一匹ではないのだ。まだどこかに潜んでいるはずの子鬼たち――同じ過ちを繰り返すものか。
 (右)
 葉陰に身を隠している妖気。それがわずかにそよめいた一瞬、薙いだ右腕に確かな切断の感触が伝わった。遠慮なく最後まで刃先を振り切り、ちらりと見遣った視界に暗緑色の灰が散る。きいい、という叫びと共に塵となったのはやはり、大鉞を抱えた子鬼であった。珊瑚が己らの主で手一杯であるうちに、鉞で魂【たま】を刈りとってしまうつもりだったのだろう。
 (――よし)
 一発で三匹仕留めた。もう余計な気配はしない。
 だが、安心して立ち止まるわけにはいかなかった。後ろからぴたりと珊瑚を追ってきた気配が、とたん高く跳躍したのだ。
 「……しつこい!」
 ひらりと返して振り下ろした珊瑚の切っ先が、またも敵を裂かんと闇に滑る。それを予想していたかのように敵がすっと横に動き、あいにくにも今度の一撃は、珊瑚の狙いどおり相手の臓腑を掻き切ってはくれなかった。逆に咽喉元をなにかの金物【かなもの】で際どくかすられ、神経がぴりりと逆立つ。俊敏な動きを阻む木々の黒い腕【かいな】をぬって、どうにか安定した足場に着地しながら、珊瑚は心の中で悪態を吐いた。
 (ちょこまかと……雑魚が)
 先にちらりと目の端に映った顔面からすると、敵は人の姿を借りているらしい。吃と睨んだその先に、ようやくぼんやりとした敵の顔をみとめて珊瑚は思わず眉をひそめた。
 闇に溶ける墨色のころも、やや錆びかけた鈍金【にぶきん】の錫――敵は僧形【そうぎょう】。旅法師のなりをしていたのである。
 (この坊主……妖怪に身体を売ったのか)
 そういえば先日かごめを呪った黒巫女も、美しさのために妖怪と結んだとかなんとか言っていた。ならばこやつが求めたは、「永遠の命」といったところか。
 (なんて愚かな)
 歳は中年どころ。みればどこか穏やかそうなその面【おもて】が、血の気も真っ青に失せていて空恐ろしい。漏れるわずかな月明かりを頬に受け、男は皺を深くして笑んでいた。墨衣が闇に溶けて、まるで僧のかたちをした能面が宙に浮かんでいるように見える。
 『…この身も、よいものぞ。そなたも共に来ぬか…』
 ぽつり、艶のない男の唇から零れるように穏やかな声が洩れる。そのさまを睨みつける珊瑚の背筋に、一瞬ぞっと寒気が走った。
 『ほれ、われを呼んだはぬしであろ――』
 男は、唇ひとつ動かさずに喋った。まるで腹の底に住まう何者かが、僧の身体の内から言葉を発しているかのようだ。ぴくりともせぬ僧形の面【おもて】から、這うように声だけが流れ出てくる。
「…巫山戯るな。あたしは妖【あや】しの成敗を生業とする身。腐った坊主なんぞと一緒にされる云われはないね」
 そう言いながらも、声に戸惑いが滲んでいる気がして、珊瑚は内心にひやりと汗を流した。聴いているだけで湧き上がってきた胸の悪さに、奥歯を噛む。男は珊瑚の揶揄にはぴくりとも反応せず、代わりに薄い唇をいっそう歪めて、また言葉を流しはじめた。そういえばこの男には…歯がないようであった。
 『われを呼んだは、ぬしぞ。ぬしの心ぞ。ぬしの心がわれを呼んでおったわ――』
 くく、と響いた声にあわせ、緇衣に包まれた妖しの肩がかすかに震える。おそらくは嗤っているのだろうと思いながら、珊瑚は言い返せぬ口惜しさに唇を噛んだ。
 ――男が言ってるのは、ほんとうだ。

 これだから恋なんて、いやだった――

 『われと共に来ぬか…』
 男の言葉は続く。じりじりと自分の心が追い立てられてゆくのを感じ、珊瑚の額を嫌な汗が伝う。だが、負けるわけにはゆかなかった。
 里のこと、弟のことを思ってここまでやってきた。恐れることなど何もなくて――あとはただ、あたしが強い心を持てばよい。
 (もう二度と、あんな夢は見ない)
 あの人の笑顔にもけして揺らがず、前だけを見据えて…ただ強くあれ。あたしの心。

 「…ふん。馬鹿馬鹿しい」
 念じるように呟いて、珊瑚は目の前の妖僧をじろりと睨みつけた。後ろに回した構手【かまえて】は、既に腰帯に隠された刀の鞘をしっかりと捉えている。娘の狼狽を予想しているであろう妖【あや】しに向かって、珊瑚はひらりと薄い微笑【わら】いを刻んでみせた。
 「呼んだって――へえ、誰がだい。見て分からないの。あたしは妖しを狩る者だ、狩られる者じゃない」
 『何を言う。われには視【み】えておるわ…』
 男の面【おもて】は動じない。けれど、珊瑚のきっぱりした物言いに気を殺【そ】がれているのは明らかだ。腕を動かさぬよう、手首の返しだけで刀の鍔【つば】を割る。かちゃり、と小さな金属音が闇に響いた。
 「あたしはおまえとは違う。妖怪と結んで手に入れたものなんて、まやかしに過ぎないと分かってる」
 『愚かな――ぬしが心は、強くなりたいと願【ねご】うておった』
 「一緒にするな。たとえ心がどうあれ、あたしは最期まで自分の命でことを成す。そうじゃなきゃ意味なんてない。あんただって、気づいてない訳じゃないんだろう?あたしを引きこもうとしたのは、同胞【はらから】を見つけて自分の正しさを確かめたかったからだ…」
 『ぬかせ。われは』
 「もういい」
 言うが早いか、白い刀身をすらりとひらめかせて、珊瑚は足元の地を強く蹴った。留守になっていた錫を男は慌てて翳そうとしたが、珊瑚の俊敏な動きには敵【かな】わない。
 ――それはまさに一瞬。数多の死線を掻い潜【くぐ】ってきた、若き退治屋の動き。
 がす、と朽ちた木を刺すような音がして、気づけば男の眉間には珊瑚の刃が深々と突き立っていた。
 (そう、これがあたしだ)
 溺れそうなほどに煙り立つ霧と、木炭のように黒い梢。その中で、一瞬視線を泳がせた男の体が、溶けるように崩れて落ちてゆく。珊瑚が最後にみとめたのその表情は、はたして永遠の生への諦めか、解放された歓びか、絶望か――ともあれもう二度と、あの肌を撫でる穏やかな声音が珊瑚の胸を悪くすることはない。珊瑚はゆっくりと身体の緊張をゆるめ、刀に残った男の残滓に目をやった。
 男の中身は、もうからからに乾いていた。幾百の月日を流れてきたのだろう……そしてなぜ、彼はその手に永遠の時を欲したのだろう。聖【ひじり】の風に清められた身で、一体なぜ。
 ざ、と刀身を一振りして、からみついた繊維のような肉片を振り落とす。肉に水気は全くなくて、宙に飛び散ると同時、音も立てず塵のように細かく砕けて消えてしまった。残るものなど何もない。ただ珊瑚の左腕に残ったかすり傷だけが、男が確かに存在したことの立証だ。だがそれすらももう、半ば閉じかけている。
 (あんたは、弱すぎた)
 男の心を蝕んだものが、何だったのかは分からない。けれど少なくとも、彼の心が弱すぎてこうなってしまったということだけは分かるのだ。自分にも、いつかこの身の辛さに負けて魂を手離してしまう時が、来るかも知れないと思ったことがある。
 (だけどあたしは、あんたみたいにならないよ)
 忘れよう、何もかも。
 刹那でもあたしの心に、いらぬ欲を芽生えさせたあの人のこと。忘れて、泣いて、作り変えてしまえばいい。彼はただの仲間、出会った時からこの方、彼に仲間意識以外の感情を抱いたことはない――
 空に月の影は消え、篠突【しのつ】く雨が世界を水模様に変えていった。刀を収めることも忘れ、叩きつける雨粒に頬をさらしながら、珊瑚は人知れず泣いた。
 (流れてしまえ)
 この雨と、涙に紛れて。

 涙には、二つある。人前で流す明るい涙と、人目を忍んで流す暗い涙。そしてその後者を呼んで、暗涙【あんるい】という。


 今は泣かせて。そしてきっと、強くなる。何もかも忘れればきっと――
 降り頻る雨のなか、少女は声を上げて涙を流す。それは誰も見ることのない涙――この夜が明けるまで、暗涙に咽【むせ】ぶ。







了.



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