紅蓮 gurenn |
真っ赫な蓮は、鮮やかで美しい。肉厚な花弁は艶冶な質感を持ち、紅を引いた女の唇をも思わせる。 ――それは紅蓮【ぐれん】、そしてその花が持つもう一つの意味。 焔【ほむら】。 紅蓮…赫い焔をも意味するその花は、熱く燃え盛って近づく者を灼き尽くしてしまう。高邁【こうまい】な花は、決して他を寄せつけない。 手折【たお】ることなど出来はしない。 熱く、気高く…美しくて、きっと己の手に入りはしないだろう。 ――けれどそれでも構わないのだ。 身を灼いて、拒まれて…それでも今は、照らされてみたい。 昏い水底に澱んだ己の全てを、照らしてくれる紅い炎に。 美しすぎる程に儚く、熱い彼女の。 燃ゆる、紅蓮――。 突き抜ける程に空が蒼い。 厚い積雲は峨峨【がが】とせり立ち、その青白の対照【コントラスト】が痛いほど目に沁みた。初夏から盛夏へと移行する、その中間点。その陽差しは灼けるほどに暑いのに、一度木陰に入ればまだ涼しい風が肌を撫でてくれる。流れてくる哀のこもった歌が何処からともなくたゆたい、気だるげな色を含んで緩い空気の中へ溶けてゆく。 (挽歌…) ちゃり、と琳琅【りんろう】の音が響き、木陰で一人午睡を貪っているかに見えた青年が、瞼を閉じたまま静かに両手を合せた。 そよ吹く風に括られた蓬髪を乱された青年の、その身体に纏った墨の緇衣からは、穏やかな抹香のかおりが立ち昇っている。――まだ若く美しい彼は、もう遠い昔に俗世を断った法師だ。聞こえ来る挽歌の声に耳を傾け、暫しの瞑目を捧げるその横姿は、まるで彼のその若さに似合わぬ苦行の襞【ひだ】を存分に表しているかのようだった。 「一人になるのも久方振り、か…」 青年が小さく呟く。その言葉が風と共に小さく舞って、散った。 一見すれば、浮き草と身を馳せる山伏とも思えるが、彼はそうではない。同じく山野を歩いてはいるものの、その目的は仏道修行以外の所にあった。 彼は、その生に刻まれた呪い、右手を穿つ天籟【てんらい】を消し去る為に、女子供を含む仲間達と寝食を共にしながら、諸国を歩き回っている。 (情けない体【てい】たらくだ) ――そう、青年は思う。 自身の生き様。 (俺だけだ…自分の欲のために愚昧【ぐまい】を曝しているのは) 彼と道行きを共にする者達…一人は愛した女の仇を討つ為、一人は愛する肉親を取り戻す為、一人は…慕う男を支える為。そんな思いで旅を続けている。彼以外の皆夫々【それぞれ】が、自分ではない誰かの為に生き、苦難と立ち向かっている。その中にあってどうしても、彼は自分の生き様への羞恥を感じずにはいられなかった。 彼はただ、自分の片腕では支え切れぬ楔を、どうにか消し去ってしまいたいと希【こいねが】う。 誰の為でもない、ただ自分のためだけに。それが、酷く醜くて愚かしい事に思えて…彼はどうしようもない気持ちになるのだ。 (いっそのこと…) …また独り身に戻ってしまおうか。そんな事も、思う。 長い間孤独だった。いや、孤独を選んでいた。父が身罷り、右腕に巣食う呪いを受け継いだ…その日から、決して人と深く関わりはせぬとそう決めていた。優しく厳しい老僧から学ぶ事は全て学び取って、そして独り、旅に出て。 ――飄々と生きてきた積りだった。 青年のとば口をとうに過ぎ、もう一人の男へと成長しようかというこの歳まで。長い旅の末に唯一友人と呼べるようになったのは、古狸の化け物が一匹、それぐらいか。道すがら情を交わした女にすら、決して心の内を明かしはしなかった。 無論、今とて仲間に心を晒したつもりは毛頭ない。それは、彼らと離れた自分の存在を、しっかり保っておきたいからだ。身も心も触れ合ってしまえばきっと抜け出せなくなる、己の生を蝕む風を、怨まずにはいられなくなってしまう。何れ彼らの前から消えるかも知れぬ運命が、憎くて憎くて堪らなくなってしまうだろう。 そうなれば、心は憎悪に塗れ慧眼は曇る。――奈落の思うつぼだ。 だからこそ、心の闇を開きはしない、悟らせはしない。 (だったら、独りに戻っちまえばいい) 自分の生き様を醜いと思い、情けないと思っても、やはり抜け出せはしないのだ。結局、この呪いを断ち切るか…この命が潰【つい】えるまで、自分はいつまでもいつまでも敵を追うだろう。――自分の為に。 ならば、敢えて自分を今の大所帯に留め置く必要などないではないか。少し人恋しい思いに惑わされて、安穏とした生活に足を染めかけてしまっただけだ。その生活すら、自分の意地汚さを思い知らせ、敵への憎しみを増幅させるだけならば、その中に浸って一体何の得があろう。 (潮時…なのかも知れねえな) 今ならまだ、未練を胸中に留めずに済む。かごめには犬夜叉が居るし、犬夜叉にはかごめが居る。七宝だってあの二人が良くしてやるだろう。自分が居なくなったとて、ただの気紛【きまぐ】れな奴だったと、そう思うだけで終わってくれるかもしれない。――そして自分もそう、思って終われる。あれは自分の気紛れだった、さして深い意味は無かったのだ、と。 衣を絡【から】げて立ち上がった弾みに、右腕に抱えた錫杖がしゃらんと軽やかな音を立てる。それが今の彼の心情に酷く似合わない涼やかさに響いて、弥勒はふっと唇の端を吊り上げた。穏やかさのみを身に纏った自分の、その心中はかくもどろどろと濁っている――おかしなものだ。 彼の立つ場所は、少し小高い山々の丁度麓【ふもと】に当たるだろうか。立ち上がった視界に飛び込む、緑鮮やかな翠巒【すいらん】の帯。澄んだ碧落【へきらく】はやはりどこまでも透明で、じっと見上げれば吸い込まれんばかりに思われた。 (そうだ、俺が居なくなったとて…何も変わらん) この世界も。青空も。きっといつもと同じ様に日は暮れて、また次の朝昇るのだ。その繰り返しだけが永劫の時の中、いつまでも変わらず廻り廻り廻り…。 ――だのに。 心の帳を、その切り端を、何かがしかと握って自分を留めようとする。いつもなら立ち上【のぼ】ってすぐ掻き消える感情が、今は何故か、ゆらゆらと揺曳【ようえい】を続けて長く後ろに残っている気がした。 (……) ここは、楓の村から数里は離れた山間【やまあい】の僻村。妖怪退治に出向く珊瑚と言う娘に付き合って――彼もこうしてここに来た。ただそこで艶福家【えんぷくか】の面目躍如っぷりを発揮したばかりに追い出され、こうして午睡でもと麓に登っている。退治屋の生き残りである彼女なら何も心配はないとそう思ったからこそ、さして反論もしなかったのだ。 (…遅すぎるな) 南中の前にはこの村に着いていた筈だ。あれから少なくとも四半時は過ぎた…陽はとうに西向きに傾いている。彼女ほどの腕っ節で、たかが雑魚に過ぎぬ妖怪にこれほど時間を費やす事が、果たしてあるのだろうか。聞いた話からして化け鼬【いたち】か化け鼠か、その類いといったところと推測していたのだが…。 (いや、どうでもいい) ただの気にしすぎだ。彼女が今どうであろうと、自分の生き方には何の関係もない。 自分はもう、ここを去るつもりなのだ――もう一度そう思おうとしたが、何故かどうしても弥勒の気分は晴れなかった。 「じゃあ、毒焚きは気をつけて扱って下さいね。人が吸ってもけっこう咽喉が痛むから」 「…へえ、どうも有り難いこってす、何のお礼も出来ませんで」 言いながらへこりと丁寧に頭を下げたのは、この村の長格の人物だ。長、とはいえ栄えた村の長の様に裕福な訳ではない。小さな村であればそれを総べる者とて大した財は無く、他の村人と比べて幾らか生地のしっかりした着物を着ている、というくらいだ。 萎びた茶色の道服を羽織り、曲がった背を更に曲げて礼を言う老人は、普段からさして尊大に振舞うことなどないのであろう。自分より幾回りも若い娘に惜し気もなく白くなった髷頭【まげあたま】を下げる。 その様を見た若い娘はにこっと小さな笑みを見せ、手の平をひらひらと顔の前で振った。 「構やしないよ、あんなの退治した内にも入らないさ。それに小さいの一匹取り逃がしちゃったしね…多分毒を焚けばもう寄っては来ない筈だけど」 予想通り、屋根裏に巣食っていたのは家鼠の化けたものだった。元来小さくて弱い動物、それが化生となっても大して手間取る相手では無い。いつも通り毒の煙で炙【あぶ】り出して、出てきた所を飛来骨で薙げばすぐ終わる。 実際、数がやたらと多くて閉口した以外には、普段と変わりない仕事だった。 「じゃ、連れを探さなきゃいけないから」 何かあったらまた、と言いながら娘は軽く背の曲骨を揺すり上げ、まだ頭を下げている男衆にもう一度笑みを見せながら、背中を向けて歩き出した。その後姿に、少し上ずった若い女の声が被さる。 「あの…連れの御方【おかた】に、くれぐれも宜しくと…」 (――全く、あの助平法師…) 頬を桃色に染め、胸元にしっかと手を掻き合わせている娘の様子に、退治屋の娘は暫し心中にて眉を顰める。今度の娘には一体何を言ったのやら。…どうせ聞いているこちらの尻がむず痒くなるような事を、恥かしげもなく並べ立てたに違いない。一体どこの仏様に身を捧げたもんだかねえ、実は天狗の回し者なんじゃないの――そんな事をつらつら考えながら、視線だけを後ろに投げて言葉を返す。 「はいよ、ちゃんと伝えておくからね」 くれぐれも…と追い縋る視線をまだ強く背に感じたが、そうそう付き合ってもいられない。大体、生臭坊主の撒いた淡恋の種を、いちいち自分が拾ってやらねばならない義理などないのである。若い恋芽を植え付けられた娘には同情を覚えなくもないけれど、ここは何を言っても仕方ないと、珊瑚は少し引かれる髪をぱさっと一振りして速める足に力を入れた。 (随分時間を食っちまった) 日が傾いた…と言うには少し早すぎるが、それにしても昼餉の時刻は疾うに過ぎたろう。無論、大して広い村でもなく探せば彼は直ぐ見つかるだろうが―先程無碍【むげ】に追い出してしまった事もあり、悪いなという気がしないでもなかった。 初夏の空は高い。直に照らしつけてくる太陽は既に熱く、珊瑚の鴉羽の髪を容赦無く灼いた。空気のどこかぽったりとした厚みの所為で、遠く向こうに視える景色がまるで別世界のヴィジョンの様に思われる。 「あっつ…」 背を豊かに流れる髪が、今は少し鬱陶しい。それを片手できゅっと一纏めにしながら、もう一度高く括ってしまおうかな、などと思っていた時だ。 ――翠の樹下に一人、佇む人影を見つけた。 ぼんやりと錫杖を手にしたまま、いつになく深い皺を眉間に刻んで、弥勒はどこか遠く景色に目を馳せている。別世界の向こうで、彼の棚引く墨色は今にも消えてしまいそうだと、珊瑚は思った。 (なに…?) 思わず立ち止まる。 そういえば、彼は何やらの呪いに侵されているのだったっけ。 …そんな事を思い出した。珊瑚はつい一二週間も前、帰る所も肉親も仲間も全て失ったばかりだ。植え付けられた新しい、激しい憎しみは、彼女の中で今こうしている間にも心を身体をじりじりと灼き続けている。それは時が経つほどに激しく熱くなっていって、時に我をも見失いそうなほどに―胸の奥が、熱い。このままずっと月日を過ごしていけば、いつかその憎しみに自身が呑み込まれてしまう…そんな気がした。 幼い頃から、我が手を呪いに侵されてきたという法師――彼の中で、その憎しみは今どんな色に変っているのだろう。時を経た分、自分のそれより激しいのか…それとももう、鎮火されてしまったのか。 一見しただけでは涼やかで穏やかな法師も、心内【こころうち】ではどうなのか、そんな事は誰にも解らないと珊瑚は思う。現に今だって、彼は深く何かを思い悩んでいる様だ。漂わせた視線が酷く痛い。 ――何処かへ行ってしまうつもりなのだろうか。 何故かそう思えた。それはきっと確信にも近かったかもしれない。そして今ここに偶々居合わせた自分は、なんとしてでも彼をここに留めるのだろう。 でもそれはきっと、得た仲間をまた失うのが遣る瀬ないからだ―そう珊瑚は自分に言い聞かせる。 眇めた睫毛の間で、法師が突然――全く突然、振り返った。 「…遅かったですね」 「雑魚だったんだけどね…数が多くててこずった」 ちちと小鳥が鳴く蒼茫とした木陰。 珊瑚の簡素な答えに、そうですか、と呟きながら弥勒は何故だか呆けた様な気分にさせられていた。思い出した途端現れた娘の、そのタイミング良さに拍子抜けさせられたのだ。先まで廻らせていた何処か退廃的な想いが、彼女の連れてきた太陽の香りと共に一瞬にして色を変えてしまった。 彼の顔を見た途端何やら言いたそうな表情をした珊瑚も、やはり少し拍子抜けしたように口を噤む。 まだ二人は出会って間もない、こういう何という事の無い時間に交わす会話がそうそう見つかる訳ではないのだ。無論いつもならここで弥勒が何やら気の利いた事でも言うのだが、今はどことなく沈黙が心地良くて彼も何も言う気にはなれなかった。珊瑚が肩からひょいと外した白い巨骨を弥勒が軽く受け止めると、珊瑚はありがと、と小さく言ってその場に腰を降ろす。 そのまま珊瑚は暫く気もなさそうに手元の草を弄んだりなどしていたが、ふとその手を止めると、自分の様子を何やらまじまじと見詰めている弥勒に向かって問いを投げかけた。 「ねえ法師様、さっきここに立ちながら…どこへ行こうと思っていたの」 その言葉にあまりに真っ直ぐに核心を突かれて、弥勒は一瞬ひやりとする。 (…気付いていたのか) 女の勘は鋭いもの、これまでにも何度かそういう問いを受けた事がある。けれどそれは大体花町の娘か蓮っ葉な遊び女と決っていて、弥勒はそれを理由に、あえて彼女達の言葉を自分の気を引くための戯言だと片付けていた。 それにあながち彼の考えも的を外してはいなかったろう。相手の身の上を悟ったような口を利くのは、客を扱う女のよくする手段だ。喩え本当に彼の心中の闇を見抜いていたとしても、それを態々口に出すのは彼の心を我が物にせんが為、彼自身に然程興味が有る所以【ゆえん】ではない。それは彼女達の職業上の性で、彼もそれを熟知していたからこそ軽くかわしてくる事が出来た。 ――が、今彼女達と同じ問いを投げた娘は、とてもそんなかわし方には乗ってくれそうもない。その瞳の黒さに、弥勒はまるで自分の心中を見透かされ、晒されているような気分になった。それは余り長く浸っていたい感覚ではなく、弥勒は胸の内で自分の鈍感さを軽く罵る。もっと早く彼女の存在に気付いていれば、こんな面倒な事にはならずに済んだのだ。こうやって心中を読まれそうな局面に立たされるのを、彼は昔から嫌っている――あの夢心にすら、悟ったような事を言われると反感を覚えたというのに。 だがそこは人付き合いに長けた男の事、掌【たなごころ】を読まれたかすかな狼狽など微塵も見せずに、柔らかい笑みだけを湛【たた】えて素早く切り返した。 「いえ…お前が余りに遅いので心配していただけですよ。それにこの辺りは結構な佳景ですからな。夏山の緑を楽しんでいた」 その言葉に、しかし珊瑚は余り納得した表情【かお】をしない。それでもこれ以上問おうとは思わなかったのだろう、ああそう、と低く納得の言葉を寄越しただけで、後は立てた膝を軽く抱え込んだまま暫く何も言わなかった。 夏山の濃く茂った樹緑は、確かに目に沁みて心地良い。こんもりとした凹凸【おうとつ】を描く山の表面は、まるで生き物のようにうねりながら何処までも続いてゆく。そういえば楓の村は、あの山を一つ越えた辺りだった。 「法師様はさ」 今度は自分の爪先辺りをじっと凝視しながら、珊瑚がまたゆっくりと口を開く。今は本当に山の端を目で辿っていた法師は、後ろから舞い込んできた風を背に柔らかく受け止めながら、顔だけを珊瑚のほうへ向けた。 「…何です」 「法師様はさ、憎いとは思わない訳」 「…憎い、と」 そう、と小さく答えた珊瑚の双眸が、今はしっかりと弥勒の瞳を捉えている。その目の奥に、弥勒は盛る熱い炎を垣間見た気がした。 「――奈落のことですか」 疑問形をとってはいるが、これは明らかに問い掛けではない。そう自覚しながらも、弥勒は彼女の言葉先を促した。先程から、どうも彼女の真意が掴めなくていけない。彼がそんな思いを味わったのは、一体どれくらい前の事だっただろう―。 何にしても、社交家を称す自分が相手の真意を量りかねている様は、まったくもって痒いところに手の届かないもどかしさを感じさせる。 珊瑚は彼ののらりくらりとした問いに、幾らか気分を昂じさせた様に瞳をすっと眇めた。 「それ以外に、誰がいるって言うの」 「いえいえ…」 弥勒はその勢いに少し肩を竦めると、柔らかく諭す様な声で、いけませんなと答える。彼は誰が何と言おうと仏道に身を置く者、幾ら破戒僧の沼に片足を突っ込みかけているとはいえ、目の前で誰かを憎いだの怨んでいるだのと言われてあっさり、そうですか、と首肯する訳にはゆかない。 「珊瑚…、恨みを持っても、何も変わりはしませんよ」 もう太古の昔から言い古されてきて、今では萎れかけてしまった様な言葉だ――が、それでもそれは幾らかの真実を突いている。どこかで聞いた事があるのには閉口させられるが、この場で彼女に言うには決して間違った言葉ではない、そう弥勒は思っていた。無論、彼女が反論しないとは考えていなかったが。 案の定、珊瑚は彼の言葉にぎゅっと強く眉を寄せる。 酷だといえば酷な話だ。珊瑚は、仲間も里も肉親も全て一夜のうちに失った娘なのだ。挙句仇である筈の妖かしにまんまと騙され、下らぬ余興を踊らされ。――恨みに思うななどと、そんな事を言うのは確かに無体なのだろうが、けれどやはりどうしてもその境地に立たねば人は救われぬ。恨みに身を任せていれば、その先にあるのは待ち構える地獄の顎【あぎと】しかない。 しかし意外にも、返ってきた珊瑚の答【いら】えは、弥勒の言葉を是と解するものだった。 「…そうだろうね」 だが、やはり声は固い。指先を見詰めて伏せられた黒い睫毛を、枝の隙間から届いた翠の光が仄かに透かせた。それを、やや細かい瞬【まばた】きで弾き散らせると、珊瑚はやおらすっと立ち上る。 その動作の流れのまま、珊瑚が小袖の左手だけを軽く後ろに流した。ぎゃっ、という叫びが響いて後ろの草叢が大仰に騒ぎ、それを視線だけで冷たく見据えながら珊瑚は小さくちっと舌を打った。 弥勒もまた、薄っすらと肌を刺していた気配を探って眇めた目を藪蔭に送る。 「おや…これはまた、随分と肥えた鼠ですな」 ぎゃぁぎゃあと喚きながらまろび出てきたのは、珊瑚の飛道具に今深々と目を一つ抉られたばかりの妖怪だ。 肥えた鼠…とも見えなくも無いが、どうやら巨大化しすぎた所為であろう、余り原型を留めていない。蛇のように細く長い舌が、凍てついた人の肌のような赤黒い紫色にちろちろと蠢き、その額を飾るこれまた紫の眸に至っては、珊瑚に潰されてなお四の眼光を煌めかせている。上背は珊瑚より少し小さいほどだが、男の腕よりも太そうな節浮き上がる尾は、娘一人くらいなら一叩【ひとはた】きで打ち殺せそうだ。 「お前…」 余り見ていて気持ちの良いものではないその妖怪を、僅かに寄せた蛾眉の下からひたと見据えながら、珊瑚は忌々しげに声音を低める。そのまま他はぴくりとも動かさずに、さっきとは逆の腕だけを構えた脇差に軽く添える。かち、と鯉口を切る音が響いた。 「さっき逃げた一匹だな。しかも」 「―憑かれてますな」 しゃん。 傍目にはそう見えなかったろうが、珊瑚がわずかに腰を撓ませた。小鹿のような四肢にぴりりと一瞬緊張が走ったところを、しかし弥勒の錫杖が素早く遮る。 「珊瑚、お前は先の退治で充分だ、ここは私が」 「冗談じゃない。」 目の前を涼しげに、しかし強固に阻んだ錫杖を、珊瑚はぐいと掴んで押し戻した。その瞬間、飛び上がった物の怪の前歯と引き抜かれた珊瑚の脇差ががきりと交わる。もともとが屋内にある物なら何でも齧切ってしまう輩、やつの歯はいやに硬質でたちが悪い。普通の刀でそうは避け切れるものではない…しかし、それでもその一瞬を制したのは、退治屋の珊瑚だった。 弥勒の錫杖を押さえた方向に、自分もくるりと身体を回り込ませながら首の動きだけで敵の爪を逃れる。そのまま刀を持つ手首に少し捻りを入れてやると、鼠の歯はいともあっさりと砕けた。 またしても、風流の欠片も無い奇声が上がる。 「やれ、手の荒い…」 「五月蝿い。これはあたしが逃した獲物なんだ、手出しするんじゃないよ」 ちゃんと避【よ】けてよ、とそう珊瑚が言うが早いか、二人の間にぎゃあぁっと気勢一声、切れ上がった口の端から血糸を引いた鼠が掛かってくる。ふう、と溜息を吐いた弥勒の袈裟黒と珊瑚の紅色の袂【たもと】が、さっと分かれた。思い切り突っ込んだ鼠は、目的物を突然二方向に失って前面の樹元に荒々しくぶつかる。 ――その刹那、鼠の首元で何か黒いものがちらりと動き、また引込んだ。 弥勒の慧眼が、それを捉えて鋭く光る。 「珊瑚、気を付けなさい。敵はこやつではない」 飛び散った枝葉を豊かな緇衣の袖でふわりと叩【はた】きながら、腰を落として飛来骨を手に取っていた娘に弥勒が注意を促す。 「判ってる」 それをさも、当たり前の事を聞かせてくれるなといった体【てい】に返しながら、珊瑚はぐいと白い巨骨を肩に掲げた。敵の首元でまた、黒い何かが小さく動く。 「化け鼠が…こんなにでかくなる訳はない。もう一匹とり憑いているのは悪霊か、鬼か…」 そう言いながら珊瑚は、今度は何故か飛来骨をその場にどかりと手放してしまった。潰れた下草の幾筋かが、ばさとその場に舞い上がる。珊瑚の引き締まった肩の筋肉に、きゅ、と更なる緊張が走った。 (――いい判断だ) その様を慌てもせずに見ていた弥勒が、さっと鋭く彼女の立ち位置を見測る。 飛来骨は近距離の敵には向かない武具だ…ましてや、奴の後ろには切れ味の悪そうな若い樹がある。一振り投げたところで、角度を変えて戻ってこないか、その場に落ちてしまうかだろう。敵は図体の割りにすばしこい、外したらただの徒骨【むだぼね】だ。そんな回りくどい事をするよりは、間合いの狭い脇差で正確を突いた方が早いと――珊瑚はそう、判断したのだろう。 …しかし、それは即ち相手の間合いに直に踏み込むと言う事。危険は数倍高まる。無論大した相手ではないから命の危険は無いだろうが―それでも、奴の硬い体毛に触れただけで人の肌は細かく切れる。ましてや今の彼女は、いつもの戦闘服で肌を覆っていない。 (小さな怪我など厭わないつもりか) 「出て来い!!」 娘の鋭い声が響き、同時に珊瑚の黒髪が木々の碧に隠れた。――跳躍したのだ。 (―仕留める) そう弥勒が思った瞬間、体勢を立て直していた鼠の頭上に忽然と珊瑚の小袖が現れる。太枝に軽く一度足を据え、直ぐ様それを蹴り上げて鼠の首元へ正確な切っ先を翳した。 ――が、その流れる動きが一瞬かくりと崩れ、珊瑚の躯が僅か右側に傾ぐ。 「珊瑚!」 髪を纏めていた結い紐が、枝の一本に引っ掛かっている。弥勒があっと思う間もなく、平衡を失った華奢な躯が物の怪の傍らへ倒れこんだ。珊瑚の頬を、汚れた鼠の針金の様な毛が強く擦【かす】った。 ぎいぃぃっ。 鼠の顎【あぎと】が異様な大きさに開き、珊瑚の頭を今にも噛み砕かんと迫る。 「ちっ」 がきいっ。 咄嗟に翳した脇差の鞘が、辛くも珊瑚の頭に届き掛けた鼠の口蓋に突き立った。 「さ…!」 「手出しするな!!」 既に錫杖を打ち薙ごうとしていた弥勒の動きを、珊瑚の叫びが引き留【とど】める。立てた鞘は、しかしそれごと娘の頭を呑み込んでしまわんとする鼠の咽喉奥へ、少しずつ深く嵌まり込んでいた。細い腰を押さえつける鼠の後足が、変化の果てに備えられた鋭い爪で小袖を裂き、赫い鮮血の花を滲ませる。鞘を支える肘が湿った土に強く圧し当てられて酷い軋みを訴えていた。 鼠の顔は今や動物の原型は全く留めていない、既にとり憑いた鬼の表情を現して来ている。頬はみしみしと凹凸【おうとつ】に波立ち、毛が剥がれ落ちて徐々に黒い肌の色へと変わり始めていた。それとは逆に、その後頭部の方の毛は姥のように乾いた白髪を繁らせてきている。珊瑚の肩を押さえる前足までもが爪の長い人の手形に近付いていた。 鬼の生臭い息を掛けられて、珊瑚が思わず眉を顰める。 …けれどその表情も一瞬のこと、強まる力と邪気を腕一本で御しきりながら、珊瑚は制した弥勒の方に炯とした双眸を投げた。 「法師様、あたしはね」 そこで途絶えた言葉が、喰い縛った歯の奥に消える。 あたしは――。 鞘にかけられていた力を行き成り解かれて、鼠――いや、今は鬼の形相であるその頭蓋が、勢い余ってがしゃりと珊瑚の肩へ落ちた。牙が肩口を酷く裂いたが、けれど珊瑚はその痛みに表情すら変えぬまま、自由になった腕を強【したた】かに打ち下ろす。 ――仕込刀。 喰い込んだその切っ先がまさに、鬼の厚い肌を貫いて頚髄を突いた。 …があっ……。 剥き出しになった太い牙が二三度がくがく震え――、一瞬で全ての輪郭が壊れる。苦悶の表情のまま、鬼のその存在感が灰となった。…そして、霧散。 「珊瑚、せめてその顔の傷を…」 「だから、平気だってば」 今の出来事がまるで嘘の様に、村は盛る太陽に照らされて至極明るい。そう、時間にしてみればほんの僅かな時間だったのだ。葉を落とされて幾分疎【まば】らになった木陰を潜り出れば、冴え渡った空の蒼がつんと目の奥に沁みる。 掠り傷程度に薬など勿体無いと言って、珊瑚は今だ血の滲み出す傷に晒しだけを強く捲くと、さっさと身支度を整えてしまった。結い紐を失ってぱらぱらと零れ落ちる髪を鬱陶しそうに押さえて、武具の入った頭陀【ずだ】を肩に引き上げる。その仕草はいつも通りに機敏で、小袖に滲む血さえ無ければ今手負いであるなどとは全く思えなかった。 さらに珊瑚が持ち上げようとする巨骨をこればかりはと奪い取りながら、弥勒は態と渋面を作って、思わず顔を上げた珊瑚の頬傷にぺたりと薬布を貼り付けてやる。子供っぽい扱いをされたと思った珊瑚がじろりと弥勒を睨み付けたが、弥勒はそれを意にも介さず、さらに肩の荷までも掏【す】り取ってしまう。 「ちょっと!」 取り返そうと伸ばされた細い腕を、けれど弥勒は上背であっさりと躱【かわ】し少々困ったように眉根を寄せてみせる。 「珊瑚…男の前でおなごが無理をするものではない」 「誰も無理なんてしてないってば、返してよ」 「あのですね、珊瑚」 彼の左手に収まった珊瑚の手首は、驚く程に華奢で細い。手指も、細かい傷痕を除けば、家事に荒れた村娘のそれより幾段も滑らかで繊細だった。それに内心驚きながらも、顔だけは無理に渋面を保ったまま弥勒は嗜めるように珊瑚の手を押さえる。 「…お前はどこからどう見ても手負いだ。私は傷一つない。いいですか、この挙句お前にこんな大荷物を持たせて帰ったりなどしたら、一体私がかごめ様や七宝にどういう目で見られると思うんです」 …これにはさしもの珊瑚も、次の句が継げなかった。確かにそうだ、珊瑚の退治を手伝う為に来た筈なのに、彼女だけ怪我を負って帰ればかごめならずと犬夜叉までもが訝るだろう。一人でかたをつけたいと言ったのは寧ろ珊瑚の我儘なのだから、これ以上その事で弥勒を疑いの的に曝してしまうのは流石に気が引ける。 無論、弥勒もそれを狙って言ったに決っているが、一理あることを態々覆す気にもならず、珊瑚は渋々と伸ばした手を引込めた―――、と。 「解ったからさ…放してくれない」 「おや」 「…助平男!」 いたた、と態とらしい声を上げて抓られた腕を擦る弥勒を、珊瑚が柳眉をそびやかせて冷たく一瞥した。その視線に思い切りぐっさりと射抜かれて、弥勒は苦笑する。 (元気だ…) 「ったく、いつもそうやって女をひっかけてるんだろ。さっきの娘【こ】には何を言ったんだい、えらく差し迫った顔で宜しく伝えて下さいと言っていたけど?」 (あー…そう言えばそんな事も) すっかり忘れていた。随分と小柄で、目が大きいのだけが取り柄といった感じの、ありふれた村娘だった…気がする。さして印象深かった訳でもなく、ただいつもの習慣でお決まりの科白を言っただけで記憶にも残っていなかった。彼にしてみれば、言わば初めましての挨拶をしたようなものである。 「何です、妬いておるならそうと言えば」 「馬っ鹿じゃないのあんた」 こちらもまたあっさりと斬り捨てられた。くるりと踵を返した珊瑚は、ふんと鼻を鳴らして緑の丘肌を降りていってしまう。荷物の事など、もうどうでも良くなったらしかった。 弥勒は今度こそ素晴らしい速さで遠ざかってゆく背中を、巨骨を背負い上げながらぼんやりと眺める。ずしりと掛かってくる彼女の武具の重量は、戦いの最中に見える軽い動きからは全く想像だに出来ないほど重かった。彼女と引けをとらぬほど、いや若しくはそれ以上に身体を鍛えてある弥勒だからこそ、こうして軽く持てるようなものの、普通の若い坊ちゃん息子であったなら持ち上げることも叶わないであろう。 それを、まるで鳥の羽のように扱う珊瑚。一体どんな鍛え方をしたのやら、見当もつかなかった。 そして、その鍛え上げられた筋肉を覆う薄くて華奢な肌。その感触を、手甲に覆われていない左手に思い出しながら、弥勒はさっき彼女が言いかけた事を思い出していた。 『法師様、あたしはね――』 手出しされるのは嫌いだとか、女扱いをされるのは真っ平だとか…彼女がその後に続けそうな言葉は沢山あった。けれどきっとそのどれも的を得てはいないと、弥勒は今更になって感じる。 恨みを持っても何も変わりはしないとそう言った自分。あの後に続くべくは、きっと彼女の答え。 普通なら、若い娘の手出ししないでという願いなど、聞き入れはしなかったろう。あの時だって、まかり間違えば腕の骨の一本や二本、折られてもおかしくない状況だった。たとえ後から罵倒されようとも、普段の彼なら決してそこで引き留まったりしない。闘う女は美しいと思うけれども、目の前でそれを繰り広げられるのはやはりどうしても胸が痛んで仕方ないものなのだ。 動かなかったのではない。 ――動けなかった、のだ。 手出しをするなと言った、珊瑚の言葉。きっと退治屋の里に暮らしていた頃から、負けん気の強い彼女は何度もそんな事を言ってきたのだろう。けれども…先に彼女が自分へ向けた声は、明らかに負けん気だけではない色が含まれていた。それは、生まれて初めての強い憎しみを得て、まだほんの数週間しか過ぎぬ彼女の心の中で、既に固く根付き始めている色。 憎しみに滾った焔の――紅蓮の赫色だ。 確かに彼は、その色を目に見、耳に聞いた。 憎しみの形には色々あって、その色も様々に変わる。どす黒い赫もあれば、静かに凝る紫の憎しみもあるだろう。けれど、彼女の見せた焔は――何の雑じりもない、一点の曇りもない、紅絹【もみ】のような赫だったのだ。そして自分はそれを、美しい、と思った。 彼女の隠さぬ憎悪も、そしてそれを隠そうともしない彼女自身も、「美しい」と。 紅蓮は、美しく咲くばかりではない。 …儚く散るばかりでもない。 燃えて燃えて、耀いて、焦がれて……そして今、自分はその華に心を奪われた愚者となったのかもしれなかった。 ――けれどそれでも構わないのだ。 憎くない筈はない、悔しくない筈はない。それを…隠しても殺しても仕方ない。ならばいっそのこと、地獄にまで堕ちん程に怨んでやる。そしてそれをも厭わぬと。 …そう彼女は言っていたに違いない。 『――憎いとは思わない訳?』 今一度そう問われたら、自分は一体どう答えるだろう。是と答えられるだろうか。 照らされたい。彼女の焔に。 それが喩え身の破滅でも、構いはしない。自分の奥底に凝った醜さを彼女はきっと溶かしてくれる、燃やしてくれる、だから。 構わない。 もっと近付いて、己を照らしてくれ。 自分の憎しみをも、曝け出せる強さを。 紅蓮――。 世界の陰影がくっきりと浮かび上がってきた。草葉の陰も、土埃の道端も、光と影を鮮明に映し出してそこに在る。それは、今なお照り返す天道の所為か――それとも今目の前をゆく娘の所為か。 そんな事を考えながら、法師は暗澹【あんたん】たる己の運命に、今しばらくの別れを告げた。目映い彼女の、背を追いながら。 |
了. |