魂離 tama-sakari 1 Written by administrator of "idibata-zoushi":rekkapon. Special thanx. |
――お前の一生は、もう数年しかねェんだぞ? 苦渋に満ちた声が、『俺』の口から吐き出された。 目の前の『俺』は、俺の目を真っ直ぐに見据えながら、その台詞をもう一度繰り返そうと、ひゅっと息を吸い込む。 その息が喉の奥から吐き出されるのを遮るように、俺ははっきりと応えた。 ――解ってる……俺は、死ぬことなんざ、怖くねえ。 怖くねえ……その時は確かに、そう思っていたんだ。 茜色の陽光を背に浴びて進む俺達の様子を、爺いの姿をした妖怪が伺っていたのに気づいたのは、俺が先か弥勒が先か――ともあれ、相手に飛びかかりなぎ払おうとした俺と弥勒が空中で激突し、地面にしたたか背中を打ちつけたのが、多分こうなった原因なんだろうと思われる。 ひしゃげた妖怪の臓腑を引きずり火花の散る頭を押さえた俺と、同じく片腕に血塗れの臓物を握りしめた『俺』が、あんぐりと口を開けたまま互いの顔を見交わすという、前代未聞の出来事。 鏡なんぞついぞ覗き込むことなど無いが、水面に映る影くらいは眺めるともなく見ていた。 だから自分がどんな容貌をしているか、ついでに言えば自分のような姿格好を備えた人間――妖怪も含めて――等、そこらに転がっている訳など無いことも充分承知している。 妖怪と人間の特徴を併せ持つ異形の者など、そう簡単にいてたまるものか。 だから、目の前で呆然と俺を見返す銀髪金眼に獣耳を備えた半妖の姿は、正しく俺のものだと言えるだろう。 丸く目を見開いた無防備な表情がやけにガキくさいと、奇妙に冷静な思考の端でそんな感慨がふと浮かんだ。 だが、そんな冷えた心とは裏腹に、伸ばした指先は隠しようもなく震える。 意のままにならぬ身体を叱咤し、せめて手の震えだけでも押さえようと集中させた俺の視線は、そのまま一点に固定されて再度大きく見開かれた。 ――風穴……。 自分の差し伸べた手の内に、冥府への入り口が風鳴りと共に顎を開いていた。 つまりは、俺と弥勒の魂が入れ替わってしまったと言うことだ。 女二人と七宝は、俺達から遙か離れた道沿いで、額を寄せ集めてひそひそと何か言い交わしている。 時折不安げな視線がちらちらとこちらに落ちるところを見ると、大方俺と弥勒の双方にどう対処して良いのやら考え倦ねていると言ったところだろう。 ――んなこと言ったって、外見がどんなだろうと俺は俺で代わりがねえだろうによ。 ぶちぶちと一人ごちる俺の手の中で、しっくりと馴染む弥勒の錫杖。 こつこつと地を突く衝撃に応じて、頭上の金輪がしゃらしゃらと涼しげな音色を奏でる。 足周りに纏いつく袈裟衣の内からは抹香の静謐な香りが立ち上り、絶えず鼻先を擽っていた。 穏やかな音と香は、ささくれ立った俺の気を落ち着かせる――身内に轟く微かな音から耳を背けてさえいれば。 やや前方を静かに歩む後ろ姿は、見慣れない紅と銀。 今は残照を浴びて暗紅色と藍に沈んだその背に視線を転じると、俺の姿をした弥勒は気付いたかのように振り返った。 「……あんだよ」 刹那絡み合った視線をもぎ離すように、不機嫌を装う俺の声は、低く涼やかな青年のもので。 応える弥勒の声色は、微かに高い少年のもの。 二言三言の、他愛ないやりとり。 戯れ言の応酬がふと途切れ、話の内容にそぐわない、どこか思い詰めたような横顔を見せていた弥勒が、不意に声を振り絞ったのだ。 「お前の一生は、もう数年しかねェんだぞ?」 弥勒との話を打ち切るために、態とらしくかごめを追いかけ回した。 かごめは瞳に戸惑いの色を浮かべながらも、素直に付き合ってくれている。 時間を掛けて少しずつ近づく、弥勒と珊瑚の距離。 黄昏の中に滲む影を見定めて、かごめがほっと息を吐いた。 「……珊瑚ちゃんと弥勒様は、大丈夫みたいね」 言いながら絡めかけた腕を途中で止め、おずおずと俺を見上げるかごめ。 こっちの方はあまり大丈夫でもなさそうだ。 「……んだよ。 俺は俺だぞ」 「頭では判ってるんだけど……ね」 顔は弥勒様だし……と続けるかごめの顔は、闇に紛れてもう表情が読めない。 いつもの俺ならばこんな暗がりくらい何と言うことも無いのにとつらつら考え、俺は少し身体を硬くした。 月に一度の朔の夜――妖力を全く失った無力な己を思い出す。 今の俺は、正に朔夜の脆弱な姿だ。 かごめどころか己の身一つロクに守ることの出来ない、弱く脆い人間の身体だ……。 つい先刻、弥勒に向かって死ぬのなんか怖くねえと啖呵を切った自分がこのザマかよ、と自嘲の笑みが零れたが、それでも身内を駆け下りた冷たい感触はしばらく消えなかった。 いつのまにか衣の袖を掴んでいたかごめの腕が、俺の心に呼応するかのように、きつく二の腕を抱き込んでいた……。 切り窓の外には、煌々と照らす初夏の月。 熱を含んだ昼間の風は消え、今は冷涼な夜気が小屋内をゆるゆると満たしていた。 淡い色に染め上げられた四角い夜空を眺めやり、俺は微かな溜息を吐く。 山裾の村に腰を据え、早くも十と余日。 梅雨を過ぎた頃から、日差しは少しずつ熱を増し、それに伴い木々の緑が色濃く染まる。 季節の移ろいを体中で感じながら、俺達はここで足止めと言う名の長逗留を余儀なくされていた。 楓婆あの村でさえ、こんなにも長い間留まっていたことはない。 そしてその間、情けないことに俺は殆ど安眠を貪ることが出来ずにいた。 原因は、今も身内を駆け回っている風音の唸り声。 晴れていようが雨だろうが、お構いなく吹き荒ぶ右手の呪いが、俺の瞼を押し上げるのだ。 ――ったく……情けねえ。 気が付くと、右手を凝視している。 左手で右手首をきつく握りしめ――まるで、そうすることで風の通りを遮ることが出来るとでもいうかのように――憑かれたように瞳を凝らす。 同じ姿勢で右手を見つめている弥勒の姿を、浅い眠りの中で認めたことは幾度かあった。 またロクでもない事に神経を使いやがってと心中で呟きながら、無理矢理瞼を閉じた自分。 奈落の野郎をぶっ倒せば済むことだと、単純に闘志を燃やしていた己を思い出し、俺は自嘲の笑みを浮かべた。 視線を屋内に転じると、囲炉裏を囲んで浅く盛り上がった影が緩やかな起伏を描いている。 大小三つの影はそれぞれ健やかな寝息と共に、安息の時を過ごしていた。 普段ならば壁により掛かっている弥勒でさえ、今夜は手枕で横たわりぐっすりと眠りに落ちている。 数日前の朔の夜でさえ、奴は安穏と眠りを貪っていたのだ。 ――いい気なもんだぜ。 こっちはずっと眠れねえってのによ……。 心中で毒づきながら、俺は無理矢理目を閉じる。 兎に角少しでも身体を休めておかなければ、身体を壊しかねない。 只でさえ、人間の身体は弱いものなのだから。 ――死ぬのは怖くなかったはずだ。 闇に身体を預けて、俺は一人ごちる。 幾多の妖怪と死闘を繰り返し、幾度も死線を彷徨った。 桔梗の矢に射られて封印された五十年は、俺にとって死と同然の時間だった。 奈落を倒した曉には、桔梗と共に地獄に行く覚悟だって出来ていた。 ……何より俺が死んだからって、後に遺されて泣く者もそう多くはない――筈。 ……かごめ……。 閉じた瞼裏に、鮮やかな笑顔が映る。 だが、その顔はこの二週間ずっと曇りがちだった。 弥勒や珊瑚に遠慮してかあからさまに態度に出すことは無かったが、偶に二人きりで過ごす午後など、物問いたげな視線を始終俺に絡めてくる。 ――まだ、元には戻らないの? その答えは、俺の方が知りたい。 弥勒すら首を傾げている、この異常な入れ替わり劇が、いつ終結するのか。 何者の意志なのか、あるいは超自然に起こった現象なのかさえも、未だ判別してはいなかった。 二人の魂を分離した者がたとえ何者であれ、誰かがもたらしたものならばこの二週間の間に次の行動を起こしてしかるべきである。 それが、俺達が常々追い求めている憎い敵の仕業ならば、尚のこと。 だが、奈落の第二陣どころか騒ぎ一つ起こらないまま、無為に日々は過ぎるばかり。 もしや、このまま――ずっとこのまま魂がこの肉体に捕らわれたままになってしまうのではないだろうか。 肝の冷えるような考えに、俺は再び硬く閉じていた瞼をかっと押し開いた。 ――この弱い身体を晒したままで、俺は一生過ごさなければならないのか? あれほど忌み嫌っていた朔の夜と同質の日々を、敵の影に怯えて脆弱な身体を夜陰に潜めて過ごす夜を、これから一生――? ――一生、か……。 俺の視線は、またしても己の右手に向けられる。 右手に穿たれた風穴がいつその牙を剥くのか――弥勒は後数年と言っていたが、夜な夜な唸り続ける風音の成長具合を聞き分けられるほど、自分はこの穴と長く付き合ってはいない……。 本当に後数年なのか、それとも数ヶ月、数日、もしや数刻? こみ上げる吐き気を堪えて、俺は眇めた眼を真正面に引き戻す。 視界の端に眠る半妖の少年――否、少年の身体を身に纏った弥勒の魂を揺り起こしてやりたい衝動が、身内から沸々と沸き上がる。 揺り起こして、胸ぐらを掴んで、思う存分揺すぶって問いつめて……。 『何故、元にもどらねえ? 俺は、こんなにも戻りたがっているってのに!』 死にたくない。 少なくとも、こんな理不尽な形で、己の生を終わらせたくなんかない。 やりたいことは、まだ残っている。 この手で奈落を葬り去って、遺恨を全て取り払って……哀れな巫女の魂を救ってやって。 それから……それから。 ――俺は、莫迦だ。 張り通せない矜持なら、最初から持たねば良かった。 俺の戯言を聞いたとき、弥勒は内心で笑っていたことだろう――何も知らない癖に判った風な事をぬかす、と。 弥勒が抱いていた恐怖と焦燥は、半端な覚悟で乗り越えられるものではなかった。 戦いと言う極限状態の中で自覚する恐怖とは一線を画した、穏やかな日常の中でじわじわと自分を浸食し続ける闇の繊手。 心から人生を楽しむことの出来ない、己の未来を見つめることの出来ない、……生きながら魂を喰われていく様な、この寒さ。 ――参ったな……。 身体を丸めて、己の膝を抱え込む。 頭上の金輪が、動きに伴いしゃん……と擦り音を響かせる。 その微かな音色にさえ周りの者が気づくのではないかと――眠れぬ自分を見られるのではないかと怯え、俺は半端な姿勢のまま身を固くして辺りの気配を探った。 死ぬことなんか、怖くねえ。 ……だけど生きながらにして死に続けるのは、やりきれねえんだ。 ――やりきれねえ……んだ……。 「あー、畜生! 弥勒の野郎、何処に逃げやがった」 がたぴしと立て付けの悪い木戸を無理矢理押し開くと、中で昼餉の汁を煮ていたかごめが、おかえりーと声を掛けてきた。 明るい陽光の下からいきなり屋内を覗いた所為で一瞬潰れた眼を凝らすが、探していた銀と紅の色は此処には見出せない。 舌打ちと共に身を滑らせ後ろ手に木戸を閉めると、薄闇の中にぼんやりと、かごめの白を基調とした異国の装束が浮かび上がった。 「珊瑚ちゃんを見なかった? ちょっと出てくるって言ってたから、あんた達を探しに行ったと思っていたんだけど」 小首を傾げるかごめの顔は、口調を裏切りのんびりとしている。 さあどうだったかなといい加減に応え、俺はどかりと囲炉裏端の筵に腰を下ろした。 先刻までの騒ぎを思い出し、沸々と怒りがこみ上げてくる。 「どうしたのよ。 眉間に皺なんか寄せちゃって」 鉄鍋を火から下ろし終えたかごめが、俺の顔を覗き込んだ。 穏やかなその笑顔を見上げ、俺はけっと毒づく。 「弥勒の野郎が、村の女共に囲まれて鼻の下を伸ばしていやがったんだ」 「またなの? 弥勒様も飽きないわねー」 溜息混じりで肩を竦めるかごめ。 この二週間、殆ど毎日俺と弥勒は同じ様な諍いを繰り返していた。 「あの野郎俺の格好で女を侍らせやがって、女共も女共だ……何が『この人は悪い人ではないわ』だ! でっち上げの身の上話なんぞ、簡単に信じるんじゃねーってんだ」 「……一応、犬夜叉の身の上話は嘘じゃあないんだけどね」 ぽそりと呟くかごめの声は、この際無視する。 弥勒の語りが嘘でないことは百歩譲って認めても良いが、あんな同情を引くように思い入れたっぷりに語られると、こちらの尻がむず痒くて仕様がない。 「……やっぱり犬夜叉の周りに他の女の子が群がってるのは、ちょっと嫌かも……」 ふふ……と微笑んで、かごめはすとんと俺の隣に腰を下ろした。 緩く弧を描いた黒髪が、ふわりと鼻先を掠める。 右腕に微かな温みを感じ、俺の心臓がことりと大きく跳ねた。 「本当の犬夜叉はこっちだって、頭では判ってるつもりなんだけどね」 俺を見上げるかごめの視線は、俺の身体を突き通し何処か遠くを彷徨っているようで。 弥勒の姿を纏った俺に、こうして心安げに寄り添ってくるかごめ。 不埒に肩を抱く鈎爪のついた手を、慣れた手つきで抓り返す珊瑚。 外見に惑わされる事無く、内に息づく魂と真正面から向き合って接してくれる仲間達……でも、それでも。 ――なんだか、珊瑚ちゃんに悪いような気がして……。 触れるか触れないかの瀬戸際で、ぴくりと動きを止める細い指。 ぺろりと舌を出すかごめに何言ってるんだと返しながら、俺も心の中では納得している。 何と言っても俺自身が、今までのようにかごめに何心無く触れることを躊躇っているのだから。 黒衣に包まれた大きな手――この手でかごめに触れてはいけないと、心の何処かで制する声が聞こえてきて。 ぼんやりと考え込んでいた俺の右手を、華奢な指先が不意に滑った。 「……っ!」 反射的に、ばっと腕を振りほどく。 過剰な反応にかごめは刹那丸く目を見開き、次の瞬間何とも言えない悲しげな表情を浮かべた。 「……悪い」 「ご免なさい」 詫び声が重なり、互いの視線が絡まる。 宙に浮かせたままの右腕をゆっくりと引き戻しながら、俺は再度ぼそりと呟いた。 「……悪い……。 この手だけは、どうしても馴染めねえんだ」 「……やっぱり、怖いの?」 「……ああ……」 半瞬躊躇った後、俺は素直にこくりと頷いた。 「ああ、怖い。 いつ、この風穴が俺を飲み込むのか、俺には見当もつかねえから」 いつ、何の拍子で暴走するかも判らない、冥府への扉。 触れるのも怖い、触れられるのも怖い、ましてやこの穴を開くなど――魔物共を吸い込むなど、俺には考えることも出来ない。 「……弥勒は、すげえよな」 ぽつりと、言葉が零れ出す。 左手で右手首をしっかりと押さえつけ、視線はそこに固定されたままで。 「俺には出来ねえ……この風穴とこれ以上付き合っていたら、気が狂っちまいそうだ」 「犬夜叉……」 「情けねえだろ? ……でも、本当のことだ。 俺には、とても弥勒みてえに平気な顔を装って風穴と向き合うことなんかできねえ」 関節が白く浮き上がる左手。 右腕の血流を堰き止めて掌ごと右手が腐り落ちれば、それで呪いは消えるだろうか? そんな埒もない考えが、痺れと共に脳内を駆け回る。 絞り込みすぎて小刻みに震える両腕を、かごめの白い手がそっと覆った。 「当たり前じゃない。 あんたは弥勒様じゃないんだもの」 やんわりと宥めるように、俺の手をなぞるかごめの細い指先。 「たった二週間で、犬夜叉にしっかりと風穴と向き合いなんかされたら、それこそ弥勒様の立場がないわよ。 弥勒様の生きてきた道と、犬夜叉が通ってきた道は全然違うものだわ。 悩みも喜びも、全部それぞれ違ってて当たり前なのよ」 紫紺の手甲を巡る指を、今度は俺も止めなかった。 「弥勒様が村の娘達に話して聞かせるあんたの過去話だって、本当のことは犬夜叉しか判らないでしょう? 犬夜叉の過去も思い出も、それは全部あんた独りのものなんだから。 あたし達にはそれを推し量ることは出来ても、本当に理解することなんかきっと出来はしないのよ」 それでも、少しでも近づきたいとは思っているんだけどね――かごめの指が、紫の手布を柔柔と絡める。 その裏に息づく呪いの虚穴を、せめてその掌で暖めようとするかのように。 「……かごめ……」 「あんたは犬夜叉――他の誰でもないわ。 そうでしょう?」 俺を見上げる漆黒の瞳が、微笑を刻んで揺れている。 ――ああ……そうだな。 空いた左手を、そっと薄桃色の頬に伸ばす。 触れた指先にかごめはぴくりと身を竦め、次いでその長い睫毛に縁取られた眼を伏せた。 「……ごめん。 やっぱりこれ以上は……」 弥勒様に触れられるみたいで……呟きながら背けた横顔は熟れたように紅く、黒髪の間から覗く耳も熱を孕んでいる。 俺は俺だと言い切った同じ口で、俺の動きを封じるかごめ。 酷く矛盾したその言い分に、それでも俺は頷くしか無くて……。 確かに俺自身、他の男が――それがたとえ弥勒であっても――かごめに触れるのは許せない。 ――戻りたい……俺自身に。 握り込んだ左手をかごめの肩先に回し、衣の袖すらも身体には触れないように気を付けながら、そっと細い躰を包み込む。 壊れ物を扱うように、散り初めの桜花を手折るように……。 ――戻りたいな……。 固く閉じた瞼の内がほの白く発光し、音が消える。 持ち上げた腕の感覚が、身体を包み込む熱が消え、次の瞬間――俺の身体は叩きつける冷気の直中に居た。 見開いた目の前は、白一色で溢れていた。 白い水飛沫、白い水泡、流れ落ちる清流に濡れそぼった白銀の髪。俺の顔を呆然と見上げる白い顔の女は、ぐっしょりと濡れて下から肌の色が透けて見える白襦袢一つを身に纏っただけの……。 「さ……珊瑚?」 「犬夜叉? 元に戻ったの……きゃっ!」 慌てて胸元を隠す珊瑚。 身を捩られて初めて、自分の両腕が珊瑚の肩を抱いていたことに気づく。 そして、自分も上半身肌着一枚の姿であることも……。 「珊瑚……お前ら一体……」 「ち……違うのっ、そんなんじゃ無い!」 必死で両手を振りかけたために露わになった胸元を、羞恥に頬を染めながら再び掻き合わせる珊瑚。 丸めた背中と背けた紅い頬が、つい先刻のかごめの肢体と微妙に重なり、俺ははっと顔をあげた。 ――やべえっ! 俺が此処に居ると言うことは、かごめの傍には今弥勒が居るのだ。 吐息が混じるほどの間近に、まさにかごめの肩を抱き寄せんばかりの格好で。 「弥勒てめえーっ!」 ――かごめに指一本でも触れてみやがれ、只じゃおかねえ! ざぶざぶと水を蹴立てて、俺は川を渡り始める。 後ろからは狼狽しきった珊瑚があたふたと駆け寄り、何かしきりに叫んでいたが、そんな声に耳を貸す余裕は俺には無かった。 ぎりぎりと握りしめた手の指先には、鋭い鈎爪が伸びている。 もうその掌に風穴は無く、手も足も身体全部が元の感覚を取り戻していた。 自分の身体が懐かしい。 中途半端で厭わしかった、『半妖』と言う己の成り立ちも、月に一度否応なしに訪れる無力な人の身体も、未熟故に己を見失う獣の様な自分の姿でさえ全てひっくるめて、自分が堪らなく愛しかった。 俺は犬夜叉――他の誰でもない。 このどっちつかずの半端な身体も、ふらふらと定まらないあやふやな心も全て纏めて、一個の己だ。 悩みも痛みも恐れも惑いも、全て引っくるめて俺は生きている――生きていく。 身を切るような初夏の清流に半身を浸し、俺はひたすら前を見据える。 願わくば、もう一人己を取り戻した片割れも、俺と同じ喜びを噛みしめているように。 風穴の呪いも、日々身を苛む死への恐怖も全て引っくるめて、自分は今生きているんだと実感していて欲しい。 もう二度とてめえと入れ替わるのは願い下げだと言い放つ俺に、それはこっちの台詞だ莫迦犬がと太い笑みを返す弥勒。 お互いに自分の身体が一番だと、小突き合いながら確認しあう光景を思い描きながら。 ――俺は俺、弥勒は弥勒。 誰にも成り代われない自分本来の姿で、俺達は生きていく。 これからも、ずっと――。 ――いやいや、少し悪戯が過ぎてしもうたかの……。 川風に紛れて聞こえた、誰かの声。 耳に届いたそれに向かって俺はけっと毒づき、次いでにやりと笑みを刻んだ。
「お兄さまっー!」(>『置換』はもはや弟分)
深入りしすぎない簡潔なタッチで、人間の心理をみごとに描写してらして、まさに大人の文章。 尊敬してやまないれっかぽん様が小説を書いてくださるなんて、この時ほど「サイトやってて良かった」と思ったことはないであります(涙 ああどうすればれっかぽん様に、この感謝の気持ちが伝わるんでしょうか・・・ |
了. |