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(姦しいことだ・・・) 見渡すは一面、薄紫の花。さらさらと零れるような日の光の中で、年端もゆかぬ少女がひとり、歓声を上げて戯れている。 「わあ!きれい」 転がるように走り、誰が答えるでもないのに何事かをしきりに喋る。草に足をとられてふらつきながら、さざめくように笑う。少女はまるで子犬か何かのように、無邪気に花畑の中を駆けまわっていた。 (まったく、何が興をひくのやら) その様子を眺めるもなく見やっていた男は、心の中でため息をついた。そしてうんざりとした様子で、目を逸らす。 男の名を、殺生丸。犬妖怪を父母にもつ彼は、生粋の妖かしである。その雪白の豊かな髪は吹く風に絡まってさやさやとなびき、骨を模した鎧のもと、守られた深葡萄【こきえび】色の狩衣は空気をはらんであくまで軽い。存在そのものが風のようなその男は、冷酷無慈悲なその名の表すものとは正反対に、匂いたつごとく美しかった。まるでこの世のものではないと、そんな形容がぴったりくると言えばよかろうか――ただ残念なことに、当の本人は一切おのれの外見に興味をもたぬようであったが。 (この香【か】・・・好かぬな) 悪戯な風が運んだ甘やかな花の香【こう】に、男はほんのわずか眉間をひそめる。そしてゆっくりとあずけていた幹から身体を起こし、立ち上がった。 「――りん、来い」 「ええ…っ」 男の言葉に、少女ははじけるように振り返った。そして思わずあげたは否の声。 「殺生丸さま、今来たばかりなのに。もう行かなきゃ駄目?それに…邪見さまは?」 そのころころとした愛らしい声に、だが男はますます眉をしかめてくるりと背を向けた。 「邪見はじきに追いつく。来ぬのなら構わぬ、先にゆくぞ」 子供へ向けたにしては余りに素気なく、感情のこもらぬ声だ。そのままもう何も言わず歩き出してしまう男の姿に、少女は慌てて走りより、その白い衣をひいた。 「ご、ごめんなさい。置いていっちゃいやだ――りんも行く、行きます」 「…好きにしろ」 また、花の香【か】が香る。甘く、心地良い。 その匂いのもとは、りんの片手に名残惜しげに握られた一輪の花だった。殺生丸はそれを一瞥し、けれど何も言わぬまま、ただ袖をひとさばきして小さな腕を払いのけた。 (好かぬ――) りんが小さく息をのんで立ち止まり、顔を歪ませる。そして泣くわけにはゆかぬと唇を噛んだ、そのすぐ後――驚いたように軽く目を見開いた。前を向いてしまった喜怒哀楽のすくない男の顔に、ほんのわずか、感情の色がよぎったのを目にしたのだ。 「殺生丸さま…?」 独りごとのようなりんの声に、男は答えない。 ――花の名は知らぬ。ただ、その香のもたらした遥かな記憶に、思いは駆ける―― 白い光が屑のごとくちりちりと細かくまたたいて、まるで今にもこぼれ落ちてきそうなほどの、見事な星空である。それはうるさいほどに煌【きら】びやかで、普段は薄暗いはずの木立の中までうっすらと明るい浅紫に変えていた。まばらな木々そして森を一面に覆う篠竹が、降りそそぐ銀色の中でざわざわと揺れ、静かな詩【うた】を詠じる。 (――おかしい) その美しい風光を物騒な視線で睨みすえ、殺生丸は訝しげに頭【かしら】をめぐらせる。そして彼にしては珍しくはっきりと眉を寄せると、袖の中で組んでいた手をほどきながら小さく呟いた。 「さては、妖しの謀【たばか】りか」 だが見たところ、薄もやの影すらなく見通しのよい森の中に、彼の手をわずらわせるような妖しの気配はない。むしろ穏やかすぎるほど静まりかえった夜であるというのに、なぜか殺生丸は妙な胸の騒ぎを覚えていた。 視覚にも聴覚にも、触覚にさえふれるものは何もない――否。 ふと、細めていた金の眸が、獣を狩る色にぎらりと光る。 「そこか――」 泳ぐようだった視線の先が、とらえた森のずっと奥。ぼうっと、常人には分からぬ森の瑞気【ずいき】が、そこにたゆたうように集まっている。そしてそれを認めると同時、鼻先を通りすぎたかすかな甘い香りに殺生丸は渋面をつくった。 なんだ、この匂いは。…花か、それにしてはやけに鼻につく。 そしてしばし沈黙した後やっと遠い記憶を思い起こした男は、そのもともと表情に乏しい秀麗な顔に薄っすらと苦笑いが浮かべ、独りごちた。 「なるほど…きさまか」 ひらりと雪白の衣をひらめかせ、音一つ立てず犬の妖かしは降り立つ。 近づいてみればその場所は、一面に紫の広がる花の野であった。そして淡い色が滲むように咲くその花群を、照らしだすひとりの女――梅重【うめがさね】に身をつつみ、まるで彼の訪れを待っていたかのように佇んでいるその女の面【おもて】が、殺生丸の姿を捉えてわずかに綻【ほころ】ぶ。そして、まるで見知った者へ出会ったかのように軽く、礼を寄越してきた。 (やはり) 黒くつややかな長い髪。大きくくっきりとした瞳をかざる柳眉、そして紅の花びらのような唇。桃花のごとく愛らしいのに、それでいてどこか勝気な性格をうかがわせる。少女をすこし脱け出たばかりといった風の女は、ただよう雰囲気だけがひどく大人びていて芳【かぐわ】しかった。 その女の面を金の視線でひたりと見据え、殺生丸は眉一つ動かさぬまま簡潔に問うた。 「――何用【なによう】」 「お久しゅうございます。……前にお会いしたのは、もう百年【ももとせ】も昔になりましょうか。殺生丸どの」 「……ふん。百年【ももとせ】であろうが千年【ちとせ】であろうが関係なかろう。きさまはもう死んだ魂【たま】、なにゆえ浮世に戻ってきた」 二人の言葉が茫々と木霊する。生絹【すずし】のように薄く透ける気配が、それにあわせて震えるように揺れる。 女に集まる瑞気【ずいき】は、死に魂【だま】を昇華させようとする森の摂理が働いたためのものだ。何らかの未練を残した魂であればなおさら集約するものも多く、畢竟【ひっきょう】、この場は昼のように白々【しらじら】と照らされている。 殺生丸の問いに、女は寂しげに微笑んだ。 「今宵は朔でござります、殺生丸どの。若【わか】が――犬夜叉がわたくしと近うなる夜ゆえ、わたくしはこうして月に一度、この世に引き戻されてしまう。まだ、昇れぬのです」 とたん、心に黒い翳が横切ったのを殺生丸ははっきりと感じた。 犬夜叉――厭わしい合いの仔の名だ。 殺生丸にとってたった一人の腹違いの弟は、皮肉にも人の女の血をひいていた。父亡き後、穢れ者として一族から独り放り出されてからは、どこでどうしているのかも分からぬ。ただ風に聞いた噂では、願いが叶うという妖しの珠を求め今は武蔵の国にいるとか―― 『人の血を享けた下賎めが、見苦しくあがきおって』 邪見にその話を聞いたとき、殺生丸はそう斬ってすてた。あのような下衆【げす】に、弟などという感情はもとより涌かぬ。 本人に責がある訳ではないと言え、犬夜叉の出生によって一族にもたらされた禍【まが】は甚大だった。長【おさ】が人と交わったという事実は、一族の権威と意地を地へ失墜させるに足る。犬夜叉の誕生後すぐの長の死も、半妖の出生と無関係に見ることは出来なかった。…少なくとも、純粋な妖しの血を引くもう一人の息子にとっては。 何に対してか、くだらぬことよと小さく吐き棄て、殺生丸は踵を返す。 「ならば、勝手にするがよかろう。私はきさまらの親子愛とやらに口出しするつもりはない」 そして今しも風を繰【く】りよせ舞いあがろうとしたところを、唐突に女の声がつき通り、はばんだ。 「まって!」 ぴたりと殺生丸の背がとまる。いや、正確にはとめられた、と言ったほうが正しい。 所詮人と侮ってはいたが、女はもう百の時を流離【さすら】った未練の霊【すだま】だ。紅い唇のつむぎ出す言魂が、森気もろともやわらかく、殺生丸の背を押しとどめている。その感触にぴくりと片眉をはね上げ、殺生丸は射るような眼差しで振り向いた。 「――なんだ」 「ひとつだけ……」 ――紫の香が薫る。 その時初めて、花の香に混じる女の芳香に気づいた。それは恐らく、人の女の。妖かしにはない甘やかな香り。…殺生丸は眉を曇らせた。 (忌わしい) こんなものを何故父親が愛したのか、自分にはとんと理解できない。そう心中で呟いて、殺生丸は感情のない視線を女に据える。だが女は、比翼の睫毛を瞬【しばた】かせながら、その様子に気づく風もなく言葉を続けた。 「ひとつだけ、お尋ねしたきことがございました」 「……」 振り仰ぐように女は星満【ほしみ】つる天を見上げた。零れおちてくる幾千の明りが、白い頬の上であざやかに戯れて瞬間透明な涙のようにも映る。薄っすらと女を覆う白い靄までが女の香に染まり、わずかに紫色を帯びて細やかに輝いていた。 「あなたは決して、朔の犬夜叉を襲おうとはなさいませぬ。それは……」 「――下らぬな。相手の寝首をかくなど私の趣味ではない、それだけだ」 「…そうですか」 そして、大輪の花がゆっくりと綻びるように、女は微笑った。 「あなたはやはり、お父上によく似ておられる。優しいのですね」 女の影が消えてゆく。梅紅【うめくれない】の衣が、闇に融けて紫色にかすむ。 そのさまを、やはり眉ひとつ動かさずに見つめながら、殺生丸は呟くように言った。 「どこまで彷徨う――」 『もう、すぐ……あと少しだけ』 けれど、とかき消える寸前に女が唇を開く。 今宵あなたさまにお会いできて、よかった――それが殺生丸の耳に届いた最後の声、そして最後に女を見た瞬間。殺生丸はただ、ふんと鼻を鳴らして踵を返した。あわせて、彼の半身を覆う銀の毛皮が残った紫の香と絡み、ふわりとそよめく。 それから幾日も経たぬ頃、男は弟が霊力ある巫女に封印されたことを知る。そしてさらに五十年ののち――封印から放たれ再び出合った弟に、なぜか彼はあえてその母の幻影を差し向け、命を狙った。 まるでなにかを断ち切りたいがごとくだと、当の本人も気づくことのないままだった。 「殺生丸さま!」 突然かけられた声に、殺生丸はふと現実に立ち戻った。そして降りそそぐ陽光にわずか金の眼をそばめ、ゆっくりと歩みを止めた彼のすぐそばを、しばしの追憶が散ってゆく。 「――何だ。りん」 そう返した声は、自分でもそうとはっきり分かるほどに平坦だった。もとより少女の問にさして興味を持った訳でもなく、加えて今は他事に意識を傾けていた――そう、いまだ薫る紫の香。だが少女は、不思議そうにぱちりと大きく瞬【まばた】きしただけで、わずか眉をひそめながらさらに言葉を続けた。 「りんはお花が好きなの。だっていい香りだもの。……殺生丸さまは、嫌い?」 花の原に入ったとたん殺生丸の機嫌が悪くなったことに、少女も薄々気づいているのだろう。それとも、さっき一瞬だけ彼女の握る一輪の花に目をやったのを、敏感に捉えていたのだろうか。 「どうして?」 ――相変わらず、立ち入ったことを衒【てら】いもなく聞いてくる。拾った時からわかってはいたが、と自嘲的な苦味を胸に滲ませ、少女にあわせた視線をついと逸らせながら、殺生丸はわざと無機質に言った。 「私たちの嗅覚は人間などと比べものにならん。鼻についてかなわぬ。その塵【ごみ】を捨てろ」 その言葉に、予想通り少女は悲しげな顔をした。反論の声こそ上げないものの、訴えるような少し怨めしげな視線を背に感じる。殺生丸はそれを跳ねつけるように白雪の衣をひらめかせ、背を向けて歩みはじめた。 少女はそれでもしばらく逡巡していたが、殺生丸がどんどんと先に進んでしまうのをみとめて、ようやく決意を固めたようだ。たっと小走りに少し脇へそれ、握っていた一輪の花を地面に手置【たお】く。 名残惜しそうに花弁に一触れして戻ってくる少女を横目にとらえながら、殺生丸は小さくため息を洩らした。 (やはり、この香は――) 花の香にしては、鼻につきすぎる。……始めからそう思っていた。 少し歩を速めれば、後方に響く足音の間隔も心もち短くなる。ついで、ただでさえ早く幼い呼吸が、一層小刻みになる。そうして突き放しておきながら、今の自分が決してこの少女を完全には捨て置けないことが、彼にもようやく分かり始めていた。 (人の香だ) 温かく、甘い。ただの花であるはずが、妙に温度があると感じたのは、少女のまとう乳くさい体臭と混ざり合っていたためだ。 優しいのですね――ついさっき思い出した女の言葉が再び耳によみがえり、殺生丸は皮肉っぽい笑みを唇の端に浮かべた。 (下らぬな) 朔の夜の犬夜叉を見逃したのは、憐憫からなどではない。ただ気が向かなかった、それだけのことだ。それもわからずに――このわたしの不興を買うなど、母親の気持ちとはまこと、愚かなもの。 (なんなら今度、月の無い日に奴を八つ裂きにしてやっても良い) その思いが、心内【こころうち】の本音と全く逆行していることをつよく意識しながら、殺生丸はぴたりと足を止めて振り返った。その背に、息を荒げて小走りになっていたりんが頭からぶつかり、きゃあと小さな声を上げる。 「良い、気が変わった」 「……え」 「拾って来いと言っているのだ。もう一度気が変わらぬ内に、さっさとしろ」 途端、少女の瞳がぱあっと明るくなる。花が咲いたように満面に笑みを浮かべ踵を返した少女に、殺生丸は一瞬眩しそうに両目をすがめ、またすぐもとの冷静な顔に戻った。鼻先をかすめる風が含む慣れない匂いに、ようやく真っ直ぐ意識を向ける。 (ふん。やはり好かぬ香だ) だが、あえて避ける必要もない。これがただの――気まぐれに過ぎないのなら。 やがて鼻についた甘い香りも、森の噎せかえる緑に紛れてもうさほどは気にならなくなっていった。花を出来る限り後ろ手に持とうとためつすがめつする少女が、さっきから背後で賑やかな声を上げている。わずかに首を傾けそれをちらりと目の端で確かめてから、殺生丸はいつも通りの短い一言を発した。 「……りん、早くしろ」 けれどそれでも、少女は明るく笑んでまた駆けて来る。まるでそれが当然であるかのごとく、嬉しそうにほてった頬を輝かせるのだ。 ただ、彼の元へ。融けてゆく――甘い香り。 |
了. |