置換
chikan
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Inspired by administrator of "tenkuukaikatsu":minato. Special thanx.







 置換【ちかん】。
 それはある日突然に。
 それはある時突然に。

 何の予告もなしにやって来る…。

 ――置換――。



 燦々【さんさん】と太陽が耀いて、繁り始めた瑞々しい若葉を照らし出す。その若葉の天蓋の下を旅し行く一行もまた、若葉に負けずと一層若々しく、賑やかに細道を歩いていた。心地良いほど高い青空が、見守るように涼やかな色で彼らを癒す。時として辛い旅の路も、この様に爽やかな青空の手に掛かっては全てが素晴らしく幸福なのだと思われて来る………そんな初夏のある日。

 ――さあて。
 ふとしわがれ声が波紋を落とし、青空が嗤う。天蓋を透かす目が、ゆったりと笑んで面白そうに細道を覗き込んだ。

 「もうっ、犬夜叉のバカ!!」
 一見仲良く歩んでいるように見えた一行から、何やら若々しい声が突きあがってくる。これまた微笑ましい偶【たま】さかの小喧嘩か、と思いきや、どうやらそうでもないらしい。声の主は頬を膨らませて隣の少年に突っ掛かっている。
 大きな瞳の印象的な可愛らしい娘――しかし、どうも様子が尋常ではなかった。
 さらさらと緑風に踊るぬば玉の髪も、少し上気した桃色の頬も、十二分に人目を引いて憚らないけれど…しかし、彼女の突飛もない風体は、更に更に人目を引く所の騒ぎではない。極端に短い袖からも腰巻からも真っ白な生肌を突き出して、これでは道咲く花も恥らって 顔を背けたくなると言うものだ。
そしてよく見てみればどうだろう、その隣で仏頂面を更に顰める少年も、只人ならぬ半の化生であるらしい。山の緑を嘲るかのように鮮烈な紅赫をはためかせ、滑らかに流れる真珠色の髪からは、彼の顔以上に表情豊かな犬耳を二つ、ちんまりと乗せている。

 ――ほほう。

 それだけではない。
 頬を染めながら言い争う二人のすぐ後ろには、これまた見逃す訳にはゆかぬ光景が繰り広げられている。
 墨染めの衣に嫋【たお】やかな紫袈裟を纏【まと】った青年が、一見して仏に仕えていると判る身姿もなんのその、まるで仏罰など恐れぬかの様に鮮やかな手付きで隣の生娘の尻をつるりと撫でる。「何すんのよ、セクハラ法師!」とこれまた聞き慣れぬ言葉が娘の口から上がるが、「せくはら」と断言された青年はといえば怒りを往【い】なすようにへらりと笑んで見せるだけ。巨大な得物の一刀両断を躱【かわ】しながら、またしても娘の尻を捉える。娘らしい弾力ある腰の曲線を、まるで熟知しきっているかのように易々となぞる様は、余程この手の事に精通していると見えた。その隣で頬を沸騰させる生娘が、美しいながらにとんでもない巨力を披露して辺りの木々を薙ぎ倒してゆく。
 ――何と騒騒しく、何と傍迷惑で、何と興を引く一行ではないか。

 ――ほほう……面白いものを見つけたわい。

 「ねぇ、弥勒様今何か言ったぁー?」道化た衣装の娘が、ふと振り返って法師に問い掛ける。
 「いいや、かごめ様、何も申しておりませんよ。」
 「ふぅん…」頬に季節外れな紅葉を花開かせた男がそう答えるのを、ちら、と見遣っただけで娘は再度前を向き、華奢な顎に悩ましげな細い指を添える。後ろでもう一度盛大な陥没音が響いていようと、足元の地面が幾らか揺れようと、そちらの方はあっさり無視して、少女は小さく不満の呟きを洩らした。
 『――…でもさぁ、弥勒様以外に、ほほう、なんて言う人、いる?』

 けれど、彼女がその事を気にとめたのもそれっきり。直ぐ様今しがたの口喧嘩を思い出し、憤慨を取り返して横の半妖に向かって突っ掛かってゆく。

 ――ほほう……面白いものをみつけたわい。

 風に乗って、また、小さなしわがれ声が囁く。けれど声は初夏の風にふわりと煽られて、た易く辺りに四散していった。その声の事を、もう、誰も思い出さない。
 ――気にも、留めない。

 だけど、気に留めて置けば良かったのに――そう、御節介な私は思ってしまうのだ。
 それともこの声は本当に只の幻聴で、青空が悪戯心を起こしたなんて私の推測は全くの妄想に過ぎないのか。今となってはもう、誰にも知る術はない――。



 それはつい数日前の事。
 もう十分に傾いた橙【だいだい】色の太陽が、そろそろ夜の女王と選手交替しようと山端へ向かいかけた頃だった。いい加減宿先を確保しなければならないというのにまだ山の中腹を降り進んでいたかごめ達は、日が暮れるまでに近くの人里に辿り着こうと歩を速めていた。幾ら鬱陶しい梅雨が過ぎ、まだまだ暑さもなくしのぎ易い初夏であるとは言え、一日中山を登ったり降りたりばかりを繰り返していては足に来る。弥勒も珊瑚も犬夜叉も、山歩きなど日常生活の一部としか感じないほどに山歩きには慣れていて、ちっとも疲れる様子を見せないが、かごめは、と言えばもう何時も喋ってばかりいる口が全く動かなくなるほどに疲れ果て、皆と少し離れた所を黙々と歩くだけだ。けれど無理もない。彼女の世界では山歩きはおろか、歩く山自体がそうそうそこらに横たわっているものではなくなってしまっているのだから。
 この山中でテeツノクルマは使い物にならない。かといって遅れをとってこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかない。それが分かっていたかごめは、皆にこれ以上気を使わせない様只ひたすら足先に神経を集中する。
 けれど山中での旅路の中で、一【いつ】の事に気を捉われるなど言語道断。
 妖怪ならずとも、猪が飛び出してくるかもしれないし熊が襲ってくるかも知れぬ。はたまた人里近い辺りともなれば野犬が徘徊している可能性も高い。
 かごめは油断しすぎたのだ。

 きちきちきち……、と発条【ぜんまい】を巻くような音が耳朶を微かに引っ掻いた。
 (ん…何だろ…さっき通り過ぎた山栗鼠かしら)ぼんやりとした頭でかごめが考える。けれど神経はずっと足先に集中させたまま、少し彷徨わせた視線も直ぐに足許に落としてしまった。
 そして五、六歩手前を行く犬夜叉に追いつこうと僅か脚に力を込めた瞬間――-。

 ざしゅ……っ。
 「痛……っ!」

 耳心地の良くない斬音と、かごめの小さい悲鳴が同時に上がる。

 「かごめっ!!」
 直ぐ様飛び寄った犬夜叉が、かごめの首筋にしがみ付く小さな餓鬼を見つけて舌を打つ。そして次の瞬間にはその小さな化けモノも、怒り狂った半妖の鉤爪で灰と霧散された。
 …しかし、かごめの真っ白な首筋には無残な深い掻傷。しゅっと走った赤い傷口から赤い雫が筋を引いて流れ落ちる。
「 大…丈夫…」じんじんと響く痛みに思わず蹲【うずくま】って傷を抑えたかごめが細く言う。けれどその声が消えぬ間に、彼女はかくん…とその場に崩おれてしまった。

 どうやら餓鬼は、小さい身体に強い毒気を有していたらしい。かごめは直後高い熱を出し、その後十日間ほどは動く事も叶わなかった。幸い妖毒には詳しい珊瑚の存在と近くの村で分け戴いた薬草が良く効いた事で大事には至らなかったものの、一行の守り手たる男二人は小さ過ぎる程の妖気だとて油断した事を、かごめが歩ける様になるまでの間深く深ーく反省させられたのだった。



 そんな出来事直後の旅の道である。
 かごめ自身、そしてそれ以上に弥勒と犬夜叉は辺りの動向に神経をぴりぴりと逆立てていた。特に犬夜叉など、かさりという山鼠の足音にすら鋭い視線を空かさず投げる有様で、逆に無駄な殺生をしてしまいやしないかと周りの心配を買う始末である。先程まで何だかんだと声を掛けていたかごめも、いい加減諦めて七宝の戯れ相手に没頭する事を決めた様だった。
 けれどそんな一日に限って、朝野営を張った河原を発った時から一度も妖気らしい妖気を感じなかった。四魂の玉を狙っているのは奈落だけではない。しかもこの間と違って此処は山も相当奥まった所だ。先にかごめを傷付けた餓鬼程度なら、いやそれよりもっと大物であっても、ごろごろ居ておかしくない筈だった。
 (妙な感じだ……。)
 神経を張り続ける事に幾らか飽いた犬夜叉が、鬱陶しそうに眉を顰める。実際、こうも何起き無いと気が抜けて鬱憤の晴らし様子も無いのだ。かと言って別に何かが起きて欲しい訳では無いけれども…。
 そんな事をつらつら考えながら、犬夜叉が前方の羊歯【しだ】茂みを邪魔臭そうに睨み付けた……その時だ。
 突如右背後の藪中に妖気を感じて、犬夜叉は空【す】かさず両足を撓【たわ】める。琥珀色の双眸を鋭く流し、目標物に意識を絞って一気に跳ね上がる。そのまま宙で身体を捻【ひね】り、後ろ手に鉤爪を振り翳し…。

 べしゅ……ごつっ

 相当に間抜けた音と共に何かに頭を強【したた】か打ち付けて、犬夜叉は頭に星を散らした。突然の事に、見上げる頭上の風景がくらりと回る。その時一瞬目に飛び込んできた、梢の間に映る青空が、くつ…と嗤ってぐんにゃりと歪んだ。

 「…ってぇな…っ。」
 漸くくらくら回った眼【まなこ】が景色を正常に映し出し始めて、犬夜叉は今だずきずき疼く頭に手を遣った。
 と、直ぐ真後ろで、あいたた…と誰かが同じく声を挙げる。振り返ろうとした途端、後に廻した手がぬるりと滑【ぬめ】る何かに触れて、犬夜叉は背中に貼りつく、見るも無残な異形の残骸に気が付いた。直ぐ様引っぺがしてみると、もう元の姿を止【とど】めぬ程見事に拉【ひしゃ】げた老人の頭蓋―目玉が眼蓋から飛び出して潰れ、黄色くがさがさ乾いた前歯が折れてくすんだ白髪にからみ付いている。掴んだ手を血液ともつかぬどす黒い液体に濡らされて、けっ気色の悪ィ、と悪態を付いた犬夜叉は、今度こそ盛大に怒鳴り掛かろうと、後ろの輩を振り返った………の、だったが。

 びしいっ。

 ――向き合った顔が凍り付く。
 片手に化生の残滓を滴【したた】らせた法師と、頭を摩【さす】る真っ赫な衣の半妖が――固体と、化した。

 え――?

 「何……だ、お前…。」
 どちらともなく、ふるふると震える指を相手に向ける。

 何で…。
 犬夜叉の瞳に、犬夜叉が。
 弥勒の瞳に…弥勒が。

 映、る…?

 「…んだとぉ…。」
 「なにぃ…。」

 「「っっでが其処にいるんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」」

 閑静な森を、若い声が盛大に劈【つんざ】いてゆく。
 驚いた可哀相な鳥達が、ばさばさばさと彼方此方【あちらこちら】で飛び立った………(合掌)。



 「気持ち悪い。」
 切れ長の瞳をした小粋な娘が、にへらにへらと微笑を貼り付けた半妖にびしりと人差し指を突き付けて断言する。
 「……っていうか、怖い。」
 珊瑚の紅白の小袖をしっかと握り締めたかごめが、か細い声で訴える。
 直ぐさま後を追い掛けて来て事情を知って以来、二人の娘は腰を引いたまま男たちに近寄ろうとしない。否、むしろ近寄れない。
 信じる、信じない、という問題以前に、この目の前の状況は一体――。

 「何ですか、二人とも。」
 「…んだよ、文句あるかっ!?」

 「やっぱ怖いよ、珊瑚ちゃん〜〜〜〜〜〜〜っっ。」
 犬夜叉の微笑と法師の三白眼に身を晒したかごめが、まるで犬を怖がる子供の様に、ひぃっと珊瑚の後ろに身を隠す。それを片手で庇った珊瑚も、目の前の二人にさっと視線を這わせて思わず背筋に薄ら寒いものを感じた。ごくり、と乾いた咽喉を鳴らして息を呑む。
 情けないと人は笑うだろうか。
 百戦錬磨の退治屋の娘が、たかが一介の法師の睨みにたじろぐとは。
たかが一匹の半妖の「微笑み」に背筋を――ぞわり。
 (……こ、怖い――)
 思わず頬を強張らせながら、珊瑚はもう今度こそ躊躇う事なくずざりと後退った。笑いたければ、笑え。
 怖いものは――怖いっ。

 兎にも角にもどこかに落ち着いて、それからじっくりと考えねばならない。―この際、四魂の欠片探しは一時休止を余儀なくされる。最早、欠片の気配を探りつつのんびりと道を行くわけにもいかず、一行は雲母の助けを借りて一気に近くの村の外れへと飛んだ。

 南中の刻を過ぎて随分と高くなった天蓋の元、辺りの景色を楽しむ余裕も無く、足早に旅人達はゆく。男が二人、娘が二人、共に旅をすると言えば何やら好ましい雰囲気をも期待してしまいそうだが(実際そうではあるのだが)、今日ばかりはそういう訳にはいかなかった。逃げるような速度で進む娘達と、何やら呆けた面【おもて】を提げた男衆の間には、哀れ共に旅する者かどうかすら疑わしくなる程の、深く切り立った亀裂が走っている。
 けれど、それもある意味仕方の無いことだったろう。
 何しろ、さっきから会話らしい会話が成り立たない。かごめは元より、珊瑚ですらどちらの傍を歩けばよいのやらほとほと思いあぐねて、結局娘二人寄り添うように話し合うしかなかったのだ。
 「ねぇ珊瑚ちゃん、これっていつまで続くの…?あたしさっきから、どっちに何て話し掛けたらいいか分んないんだけど…。」
 かごめがひそひそと珊瑚に耳打ちする。答える様に珊瑚も低い声で囁いた。
 「――わかんないよ。っていうか犬夜叉の方はまだいいけどさ…法師様の…。」
 そこまで言って形の良い柳眉をきゅ、と顰める。その顔が少し蒼褪めているように見えたのは、気のせいだろうか。
 「何だか犬夜叉の顔が笑うと別人みたいで、さ。」
 その言葉にかごめも無言で首をぶんぶんと縦に振る。何しろ平生から、笑顔など殆ど全くといっていい程見せる事の無い犬夜叉だ。笑ったにしても、勝利の笑み、と言った所か……兎に角その顔で柔らかい微笑を湛【たた】えているのだから堪らない。

 じぃ――――…………。

 (ははは…)
 人一人が拳大位にしか見えない程遠くからの、ぐさぐさと突き刺さる視線に弥勒が苦笑する。
 「おなご達に随分と嫌われてしまった様ですなぁ…。」何時もと歩き勝手の違う身体に少々戸惑いを覚えつつ、錫杖が無くて手持ち無沙汰な右手で軽く頭を掻く。勿論その手に、風穴は、無い。
 (妙な、感じだ。)
 少し尖った爪と柔らかい掌の感触に、今は寧ろそんな感想が浮かんで来た。誰のものであろうと手は手でしかないというのに、触れるもの全ての感覚がいつもと違って感じられるのは何故なのだろう。やはり痛みに疎いということは、触覚機能自体が人のそれと異なるということなのだろうか。爪を立てて拳を握り込んでみても、手袋でもしているかのように痛みは全く覚えない。只指先の圧力を感じるだけなのだ。
 「やはり…」
 さらりとした銀髪の感触を感じながら手を降ろし、弥勒は少し後ろを面倒臭げに歩く自分の身体を振り返る。
 それにしても、むっつりと顔を顰【しか】めてしまっては、折角の自分の美顔も台無しだ。寧ろ、相当に柄の悪い暴力法師にすら見えてくるから、余計に悪い。――困ったものだ。
 「…あんだよ。」
 視線に気付いた法師姿の半妖が、空【す】かさず機嫌の悪い返事を返してくる。弥勒は少し真剣な眼差しをして見せて、右の手をすっと差し出した。

 「返してもらいましょうか、その錫杖。」

 かくっ。
 的外れな言葉に思わず骨を抜かれた犬夜叉は、直ぐに眉を吊り上げて目の前の不届きな顔をした自分に対し声を上げた。
 「…ぁのなあっ!!其の格好で錫杖なんぞ持って居たらおかしいだろうが!大体てめぇだって、俺のカタナを腰に差してるじゃねぇかよっ。」
 噛み付かんばかりの勢いで食いかかってくる所を見ると、奴も相当に気が立っているらしい。無論、その一端が身体の交替だけでなく、先程からの恋人の態度にある事は易く想像出来たが。弥勒はのらり、と交わす様に物騒な形相をした己の身体【から】に応えを返す。
 「私の格好をして太刀なんぞ持っていた方がよっぽどおかしいでしょうが。まぁ…お前の身体で錫杖を持っていた所が、役に立つかどうか極めて疑問ではありますがね。」
 「お前…」犬夜叉は的を得ない法師の言葉に呆れた様な声を挙げた。
 「じゃあ、一体何が云いたいんだよ、え?」
 弥勒はふらりと視線を泳がし、自らの、いや犬夜叉のものである筈の、鉤爪を見た。若い少年の手に獣の爪が生えているというのは、随分奇妙なものだと、自分の手になってみて改めて感じる。そして、また応えに成らぬ応えを吐いた。
 「犬夜叉…。お前、其の身体をどう思う?」
 「ああ!?」
 いい加減痺れを切らした犬夜叉が、今度こそ掴み掛かりかけて、弥勒の一転した真剣な表情にぐ、と歯を噛む。
 「…お前の身体、って事かよ?」
 「そうだ。お前、私の身体に魂が移って仕舞った事をどう思う、と問うている。」
 「どう…、って、気に入らねぇに決まってるだろうがよ?人間の身体で一生過ごす何て御免だぜ、俺は。」
 その言葉にふ、と眉を寄せて、弥勒は一瞬口篭った。
 「一生…、か。」
 耳聡くその言葉を捉えた犬夜叉は、弥勒の真意を掴みかねて不信感を顕わにする。けれど何か弥勒が深く考えて居るという事だけはひしひしと感じられた。平生物事を深く考え込みなどしない自分の横顔が、今は瞳を遠く何事か思い遣っていて、何だか相当に胸の奥がむずむずする。自分の顔などよく見た事など無いけれど、こういう、顔だったのか。
 (何…考えてやがる。)
 その心中を察したかの様に弥勒が再び振り向いた。けれどその眼差しは何処か自分を透過して居る様に、遠い。白銀の滝が、遠く茜色に照り出した夕陽に映えて、穏やかな色に染まっていた。光を背景にしている所為だろうか、僅かに顔のトーンが落ちて、彼の表情を一層昏いものに見せる。
 「確かに、私は鉄砕牙の会得が無い…。」
 弥勒は呟く様に唇を動かした。
 「けれど私とて多少は法力を会得した身、妖気を感じる事も難くはない…お前の身体に魂【たま】が移った今、そのうちに鉄砕牙を使いこなせる様になるやも知れぬ。ましてや法力は人の魂から発せられるもの、この身体でも使える可能性は大きい。だが……」
 「何が、云いたい。」
 弥勒の言葉を、犬夜叉が何時に無くどすの効いた声で押さえた。
 「確かに俺には法力なんざ、使えねぇな。身体だって人間のカラダだから、軟【やわ】だ。だから…だから俺が心配だとでもぬかすのかよ?俺が雑魚どもに襲われてあっけ無くおっ死んじまうのが哀れだとでも云いてぇのか?俺は……」
 「違う!」
 少し俯いたまま黙って犬夜叉の言葉を聞いていた弥勒が、突如押し殺した、叫びともつかぬ荒い声で犬夜叉を制した。
 その顔に表れた苦渋の表情に、犬夜叉も思わず気を呑まれる。
 「お前の一生は。」
 そこで弥勒は一度、大きく息を吸った。

 「お前の一生は、もう数年しかねェんだぞ?」



 ほっとしなかったと言えば、嘘になる。
 嬉しくなかったと言えば――舌が真っ黒に染まりそうだ。
 じんじんと痛む頭を押さえ、初めて自分と彼が入れ替わったと知った時――、一瞬頭を過【よぎ】った考えなど思い出したくもなかった。思わず右の手を左手で弄【まさぐ】って思ったことは、まるで最低な人種の考えること。愚かに過ぎる…。
けれど一瞬でも、ほっとした。不安が取り除かれたかのように感じたのだ。不謹慎だと頭の何処かが訴えているのに、自分はあまつさえその声までも無視しようとした。そうまでして、この体を――。

(風の音が、無い――)

 手前勝手な考えだ。今自分の魂が納まっているのは自分の体ではない、他人の身体だというのに…まさか自分はその体をこのまま奪い取ってしまいたいなどと思っているのだろうか。違うと言い切れるか?
 ――否。
 その場で右手を耳朶に押し当てる訳にもいかず、必死に腕【かいな】を制しながら、けれど己の思考はその一点を離れなかった。
 いつも、いつでも、絶えず己の命を喰い潰し、ともすればその精神までも狂わせそうになる地獄の唸り…それが、どれほどに耳を澄ませても神経を尖らせても、全くもって聞こえないのだ。その事だけで、ここまで安堵を禁じえないなどと、今までは思ってみもしなかった。
 (一体誰が…)
 突如口惜しさのうねりが押し寄せる。弥勒は頭の奥が熱くなって唇を噛んだ。
 (誰が、こんなふざけた事を)
 さもなければ知らずとも済んだのだ―己の中の醜い感情など、知らずとも済んだ。父を失って以来ずっと共に在った風の音、無論慣れきってしまったと言えば嘘になるけれど、それでももう幾らかは、受け容れる強さも出来ていると思っていたのに。
こんな事態にさえならなければ――。
 そうでもなければ、こんな惨めな自分にはならなかっただろう。普通の体を羨む気持ちも、それに焦がれる卑しい欲望も…前にもまして強く覚える風穴に対する恐怖心も――煽られずに済んだ筈だ。
 けれどもう、己は知ってしまった。
 風穴が意味する犬夜叉の魂の死。それを解った上で己を突き上げてくる喜び。どす黒い己の闇の部分を。
 怖いのだ。どれだけ抵抗しても溢れて溢れて、己すべてを支配してしまいそうなこの感情は、止まらない。誰でも心の中に鬼を飼うとは知っていたけれど――まさか自分までも。それも、誰よりも巨大な…。
 最後の抵抗だった。言わずといれば無視することも出来た、誰にも気付かれずに過ごす事も出来たやも知れぬ。
 けれど自分の中に巣食う鬼が恐ろしくて――御したくて、弥勒は犬夜叉に吐いたのだ。己の中の毒を。
 …それなのに。



 「解ってる」
 唐突な犬夜叉の応えに、弥勒は金色の眼【まなこ】を見開いて犬夜叉の黒い瞳を見詰める。今目の前で犬夜叉が、唇を動かして何か言った――だのに、耳には何も響いてこない。聞こえているはずの言葉を、弥勒自身が受けいれられないでいた。
 「解ってる、って云ってんだよ」
まるで先程の弥勒の様に、今度は犬夜叉が彼の考えを見透かしたのだろうか。
 「俺は、死ぬ事なんざ、怖かねぇ」
 目の前で、自分の顔が思いっきり渋面をしている。茜色の夕陽を受けて、鈍金の錫杖が艶々と照った。それを掴む手甲を嵌めた掌と、捲きつく数珠が触れ合って軽くかちりと鳴る…その音が何故かまるで耳元直ぐで響くように思われるのは、やはり半妖の耳が敏【さと】いからだろうか。その割には大切な部分が聞き取れない。
 奴が、犬夜叉が何か喋っている――何かを、俺に向かって。
 (何を言っているんだ、お前は)
 「だから怖かねぇって、云ってんだよ!!」
 まるで恐れ慄【おのの】くような表情で目を見開く弥勒がもどかしくて、犬夜叉は苛ついた声を挙げる。そして急に声を落とすと、ぼそり、と、吐き捨てる様に小さくこう言った。

 「だから…気にすんな」

 その声だけが、どうしてかはっきりと聞こえた。
 もういいだろ、とばかりに立ち竦【すく】む自分を後に残して犬夜叉はかごめとの対峙に意を決して行ってしまった。おいこらかごめいい加減にしろ、さっきから避けやがって気分の悪ィ、とかごめを追い回す随分と幼い自分の姿を遠目にして、弥勒は一人取り残された様な気分に陥【おちい】った。
 「情けねえ…」
 ガキだガキだと思って来たやつに借り作ってしまったというのか、この俺が。

 初夏の風が檸檬色に薫ってふわりと朱い水干を膨らます。のろのろと歩き出した半妖姿の法師の後ろで、何時の間に来たのやら、紅白の小袖の良く似合う娘が一人考え深げに立ち続けていた……。







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