焔として往け
en to shite yuke

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 こぉん、こぉん、ちきちりり…

 こぉん、こぉん、ちきちりり…



 山裾の村里が何時に無く沸き立つ。行交う人々は皆笑んでいて、何処か忙しげに姦【かしま】しく声を交わし合い、或る者は走り、或る者は油を売り。そんな人々の間の彼方此方【あちこち】に揃浴衣【そろい】を着た男達が目に付く。くすんだ色合いの着物を着る者が多い中、彼等の白地に藍の染め抜きが颯爽と目立っていた。真岡【もうか】木綿に象られた「龍」の町名くずしは、恐らくこの村の名に因んだものなのだろう。
「今日はお祭りなのね!」その中にあって更に人目を引いて憚らぬ異国の少女が声を挙げる。あられもなく素足を曝【さら】して腰巻とも付かぬ布を巻き、胸元に鮮やかな赤の薄布を結んだ恰好は、数多の国を渡り歩いて来た浪人ですら見た事の無い程珍奇なものだ。けれど、当の本人はそんな事を気に留める風も無く、大きな黒瞳をきらきら輝かせて辺りを楽しげに眺め遣っている。
「ねぇ、何のお祭りかしら…夏祭りかな?」首だけを横に向けて隣を歩く少年を振り返るけれど、彼は何とも渋い顔のまま、
「けっ、興味無ぇや、そんなモン」と吐き捨てる様に一言返しただけで、直ぐにぶすりと横を向いてしまった。白銀の豊髪が彼の動きに併せてゆるりと流れ、目にも鮮やかな緋色の水干としゃ、と布擦れの音を立てる。髪から突き出た犬耳で彼が半妖である事は易く知れたが、眉根を寄せる横顔は随分と綺麗な線をしていて、人間そのものだ。
 けれど自分の言を一蹴された事に腹を立てている少女には、その繊細な造作も目に入らない様である。
 何よ、無愛想な奴ねと唇を尖らせて緋衣をきゅっと曳【ひ】き、詰め寄ろうとした。
「鴻【おおとり】の大明神を祭る祝いの日だそうですよ、かごめ様。」
 今にも何時もの軽口応戦が始まりそうなのを見兼ねて、有髪の行脚僧が後ろから助け舟を出した。
 かごめと呼ばれた少女は、まるでその舟を待っていたかの様にぱっと振り返って、けれど更に疑問を投げる。大体、この村に入ってからそう幾時も経っていないのに如何してそんな事を識っているのだろうか。
「誰に聞いたの、弥勒様」
「ああ、それは…」
 けれど応【いら】えは間髪入れず飛び込んできたもう一つの娘の声に気圧された。
「どうせ、先【せん】の村娘にでも聞いたんだろ」
 いかにも興味無さそうな態度も強がりに過ぎぬと暗に伝えているかの様なつっけんどんな声が、菩薩の名を負【お】びた若者の顔を更に悟った顔にさせた。
「おや珊瑚、妬いているのですかな?これは嬉し……」
「己惚れんじゃない!」
 びしりと凍った声音に貫かれて、さしもの弥勒も僅かに身体を退【ひ】く。ぎんぎんと空気を伝わって来る殺気は、よもや気の所為などではあるまい。
 とんだ誤解ですなぁ、とぽりぽり指で頬を掻く法師に、日頃の行いが祟っとるのじゃぁ、と肩口の子妖が嗜【たしな】めた。ふわふわとした自慢の尾をぱたぱたと法師の背に当てて、湿気【しけ】た顔をする彼は、子供の癖に随分とませた化け狐の幼い息子だ。
 法師は、ふぅーっ、と情けなさげな溜息を吐【つ】いたが直ぐに気を取り直して、元の話に筋を戻す。
「ですからね、鴻の大明神はこの辺りで最も勢力を持つ祀り神、この国の村々は何処もこの時期になるとこの様な祭りを催すのですよ…時には幾つかの村が合同して執り行う事もあると聞きます。此処の祭りも案外、そうなのかもしれませんよ。」
 それにほら、と続けて人差し指を右方に向ける。
「あれが鴻の祭に特徴的な縁起の飾りです。」
 見れば軽業師や人形使いに紛れて、熊手に色紙を飾った簡素な品を売る人々が幾らもいる。売り手たちは殆どが年端ゆかぬ少年や女子供で、恐らくは仕事の片手間の稼ぎに作ったのであろう縁起の物を所狭しと筵【むしろ】に並べて座っていた。空いた暇の内職や、未だ未だ仕事に出るには幼すぎる者の手で作る物にしては良い収入になるのであろう、出店に占める割もかなりである様だ。此れでもかとばかりに色彩々【いろとりどり】の和紙を飾った熊手が、祭のワンシーンを一層色彩豊かなものに仕立ててい る。
「幸せの熊手……福や金運を集めるって謂【いわ】れだよね。」
 うちの里の祭にも似た様なのがあったんだ、と先程とは打って変わった様子の珊瑚がぼんやりと言う。恐らくは、絶えてしまった里の風景を久方振りに思い遣っているのだろう、遠くを見遣る瞳が何処か憂いを含んで揺れていた。余り好ましくない事を云ってしまったと責を感じたのだろうか、弥勒は少し目を眇【すが】めて、ついと展【の】ばした掌を珊瑚の頭に置いた。ぽん、と乗せられた手の重みが気恥ずかしがって、おふざけでは無いと分っていながら気の強い娘はそれを間髪入れずに振り払う。
「何さ、どさくさに紛れて何しようって言うんだい!」
 けれどその朱に染まった頬が妙に可愛らしくて、少し前から様子を傍観していたかごめはふぅと鬱げな溜息を吐【つ】いた。
 何だかんだ言ってあの二人は仲が良いのだ。道行く中【うち】の口喧嘩も、傍から見れば只の痴話喧嘩で、会話が続いていると言う点では寧ろ羨ましくすらある。勿論弥勒や珊瑚に言わせれば、かごめと犬夜叉もそれに同じなのであって、羨むといった感情が甚だ正当性に欠けるものであるのは明確なのだが、恋に悩める当のかごめにしてみればそんな事はちっとも分る筈がない。
 殊【こと】に祭の中心部に成るであろう辺りに差し掛かった頃からの犬夜叉の機嫌の悪さは、一層かごめの思考をマイナス方向へと導いていた。後ろで賑やかな応酬が繰り広げられているのを只背に感じながら、傍らの少年を見遣ってもう一つ、かごめははぁーっと盛大な溜息を吐いた。
 少し聞えよがしを期待していたのが見事にヒットしたのだろうか、意外な程あっさりと犬夜叉は挑発に乗ってくる。
「何だよさっきから!俺の面見て溜息ばっか吐きやがって、文句が有るならはっきり言え!」
 自分から嗾【けしか】けたものの、図星を衝【つ】かれてかごめもかちんと来る。大体、ずっとむすっとしていたのは何処の誰だ。折角話し掛けても気の無いどころか悪意すら感じる語調で返されては腹が立って当然と言うものではないか。
「何よ!ずっとぶすーっとしちゃって、あたしの話なんて聞いてもいなかったじゃないの!?あたしだって偶にはねぇ、気の利いた会話ってもんがしたいわよ、莫迦!」
 おう上等じゃねぇか、女の下ら無い話に付き合わされる方の身にもなってみろ堪ったモンじゃねェや…等々、かごめの頭の中では既に彼の反応が音声付でリプレイされている。どう言い返して遣ろうとまで考える、少々熱の入った頭が、けれど予想もしなかった沈黙に、勢い余って空廻りした。
どうしたと言うのだ、何時もなら即噛み付いてくる様な状況なのに彼は怒るどころかまたむっつりと黙り込んでしまった。
 其の横顔が一瞬寂しげに歪んだ様な気がしてかごめははっとする。
「ったく、何だって言うのよもう…。」
 どう言って良いか分からずに小さくもう一度言い返すと、それが聞こえてか聞こえずか、犬夜叉がゆっくりと言葉を発した。
「祭は、好かねぇ。」
 ……はぁ?
 何を子供っぽい事を言っているのだ。ずっと仏頂面を貼り付けているかと思えば、その理由は祭りが嫌いだから、と?駄々を捏【こ】ねるにも程がある。――けれど其処まで考えてかごめははっとした。
 祭りの醍醐味は、見る者よりも寧ろ創る側の者達にしか味わえないもの。特にこの様な小さな山里での祭りと言えば、老若男女皆皆【みなみな】総出で土台に飾りにと力を合せる。男衆は駆り出され、この時ばかりは富むも貧しいも関わり無く、経験だけが物を言う祭りの世界に腕を掛けるのだ。鉦鼓の音合せ一つ取っても気の抜けるところは何もない。殊に鴻の祭りと言えば、その完成された勇壮な大車【おおぐるま】や山輿【やまみこし】の巡行が西域一と謳われる程。
『祭は人生だ。』
と誰かが言った。
 辛い練習や準備が有ってこその栄えある舞台は、男の人生の縮図の様だ、と。年端も行かぬ幼い少年達すら、小さな頭【かしら】にねじ鉢巻を締めて逸早【いちはや】く大人の男と仰がれたいと鉦鼓の鎚【つち】を執る。
 けれどそれは人間だけの世界。
 大きくなった今なら兎も角、まだ自分の生まれの所以【ゆえん】すらはっきりと掴めないうちに、天涯孤独の世界に放り出された幼かりし頃、遠くで鈴生【すずな】りにはためく数多の掛堤燈の燈を、木陰に深く身を沈めても耳に響く鉦鼓の音を、彼は一体どういう想いで聞いていたのだろうか。自らを襲って来る人間を恐ろしいと思い、それでも尚仲間に入れたらと思い、その揺れる心の狭間で彼はきっと人里から離れる事など出来なかったに違いない。日常と違って興奮した熱気が漂う祭りの時なればこそ、その一体感を垣間見るしか出来ぬ彼の胸は一層深く抉られただろう。
(あたしって、馬鹿だ…。)
 今更に彼の心を悟って、かごめは自嘲的な気分になった。
 無論、現代にもそういった村八分的な事を好む者がいるのは事実だし、かごめだとてそれを知らぬ訳ではないが、それはあくまで人伝えに聞いたものにしか過ぎず実感など到底湧いて来はしない。
 ましてや妖怪等、戦国にスリップした今でこそ頻繁に見るようになったとは言え、現代での十五年間では存在すら信じていなかったのだ。半分が妖怪で半分が人間である等というとんでもなく複雑な状況に生まれ育った者の心中を、察せと言う方が無理というものだろう。
 けれど其処で責任を感じてしまうのが彼女の性格。
 先程までも勢いも何処へやら、今度は溜息の一つも無しに黙り込んでしまった。



 何分程そのまま歩いていただろうか。
 祭りの中心地に差し掛かったと思った所から随分と歩いた筈なのに、辺りの景色はちっとも変らず、寧ろどんどん賑やかになってきていた。存外に、先の弥勒の推測は当っているのかもしれない。この祭りは一行が思った以上に大規模なものらしかった。
 じゃらんっ、と直ぐ側で大きな音がして、かごめははっと我に返った。聞きなれた錫杖の音にしては随分と耳に付く様な…。
 振り返ると、後ろを歩く弥勒と珊瑚も音がした方を振り返っている。
 …子供だ。
 齢【よわい】は十にも満たぬ程…七、八歳位だろうか。赤筋入りの印半纏【しるしばんてん】に紺の腹掛け、水仙黄の絽帯をきゅっと締めた背中には、幾つもの張子【はりこ】と共に大小様々の鈴をがらつかせていた。
 幼い子供には数が多い事も自慢なのだろう、身体を揺らす度に、じゃらん、じゃらん、と活きの良い音を立てる。
 背に吊るした数々の張子――達磨【だるま】に木兎【みみずく】、犬まである――、その陽気な風体に似合わず、少年の顔は困ったように少し赤められていた。
「ねぇ、一つ位いいだろう?こんなに沢山あるんだもの。此処のが一番物が良いから、御祖母【おばあ】ちゃんに買って来てと頼ま れているんだ」
「そうは云うけどねぇ、長元【ながもと】の坊【ぼう】。幾ら御前さんでもこちとらは商売だからねぇ、特別に売ってやる訳にはいかな いよ。他の子達にも売ってやらなきゃ、ならなく成るだろう?」
 少年は、恐らくここら当りでも名の通った豊かな家の出なのであろう。長元…という位だ、大方大きな長屋の家主と云った所か。 見れば、足袋はだしの者達が多い中、彼だけは幼いながらに革緒の雪駄【せった】などを突っ掛けている。
 比べても随分と質素な着物を着た売り手の男は、食い下がる少年を無碍【むげ】に追い払う訳にもゆかず、困った顔をして短く刈り込んだ髪をわしわしと掻いた。本職は職人工なのであろうか、少し指先の曲がった大きな手は見るからに器用そうだ。成る程、 少年も云っていた通り、彼の熊手は他の所で売られる物より上質で、鏤【ちりば】められた小さな四方紙も淡く綺麗な色合いに 纏【まと】められている。
「ほら、一度戻って婆様に銭を貰ってこりゃぁ良いだろう。そしたらちゃんと売ってやるさ」
「…仕方無いな…分ったよ、小父【おじ】さん」
 とうとう諦めたのだろう、少年はまたも鈴をじゃんじゃんっと揺らして踵を返し、気落ちした様に歩き出そうとする。
「……それで、御代はこれでよろしいですかな?」
(み、弥勒様!?)
 見れば何時の間に介入していたのだろう、銭紐を解いて出した数枚の小銭をちゃりんと筵に置いて、弥勒は熊手を一つ摘み上 げている。そしてそのまま、ほら、とばかりに驚いた顔の少年にひょいと差し出した。
「ほら」
 やっと諦めをつけた物を目の前にぶら提げられて、少年は一瞬むっとした様な表情【かお】になる。正に「おあずけ」された犬と 言ったところだ。この法師は自分をからかっているのだろうか。少年の顰められた眉がその言葉をありありと物語っている。
「何だい、用が無きゃぁ己【おい】らはもう行【ゆ】くよ。忙しいんだからさ」
 少年の隠さぬ不信に、弥勒は苦笑する様子も無く穏やかな顔をみせる。
「持って行【ゆ】きなさい」
 は?…と呆けた後で、少年は皺寄せた眉をぱっと開き一瞬で驚いた顔に転じる。そして恥ずかしそうに少し顔を俯けながら、有 難う、と小さく言った。

 少年のの背中の鈴が、じゃらん…と揺れる。



 日が少し傾きかけた刻、一行は益々喧騒の増した通りを足早に行く。
 通りでは大車の組上げが佳境を迎え、支えの太縄があちらこちらに張巡らされていた。剥き出しだった木の骨が荒縄だけで高く 高く組み立てられて行く。人の背より高い車輪が回る様は、想像するだけでも圧巻だ。
 人の出入りも増え、大きい通りが既にかなり窮屈に感じられる。夜ともなれば恐らく歩く事もままならぬ程に混み合うのだろう。
「ほら、もう直ぐ其処だよ。それが己【おい】らの家だ」
 じゃんじゃんと相変わらず盛大に鈴を鳴らしながら少年が振り返る。先の一件に、如何してもお礼がしたいとせがまれた一行は、 今宵一晩の宿を彼の家にと定める事にしたのだ。
「奴ぁ随分といい着物を着ているからな、お前どうせそこに目を付けて奴に声掛けたんだろ」
 小声で其れでも嫌味の一つを呟く犬夜叉に、弥勒はふぅ、とお決まりの溜息を吐き、此方も小声で言い返す。
「お前ねぇ…私の行動をそういう風にしか見ていないのですか」
「そりゃぁお前ぇ、平生【へいぜい】の行動を省【かえり】みてみろ」
 すかさず答えた、これまたお決まりの言葉。弥勒とて既にこの言葉を期待して行動しているのではあるまいか、と時々犬夜叉は 思う。無論そんな言葉を期待する所以もないけれども、そう思ってしまう程に弥勒は毎度毎度この言葉を浴びていた。
「犬夜叉…私はお前が一番良く解っていると思っていたのですが?」
「ああ?何言ってやがる、てめ…っておい坊主!お前の家はこの屋敷じゃねェのか、入り門通り過ぎてどうする。」
 通り過ぎる入り門を眦【まなじり】に捉えて、犬夜叉が前の少年を牽制する。確かに、彼は先程「己らの家」と銘打った筈の家の 門を、何の事無く通り過ぎようとしていた。
「犬の兄【あに】さん、さっきから何度も言【ゆ】うているだろ。己らの名前は正太郎だよ」
 そうでなくともこの年頃の男の子は、坊主と一括りに呼ばれるのが嫌いなのだ。挙句彼は良いところの息子だ、坊主と呼ばれた 事など無いのであろう。犬夜叉の風体に怯える事も無く、質問の答えより先に自分の名前を強調する。
「分った、分った、坊主。で、俺の質問に答えろよ。」
 正太郎は、ちっとも分っていないじゃないか、と顔で言ったが、先程から何度と繰り返されるやりとりに諦めを感じたのか、今度は素直に答えを返した。
「此方から入っちゃ、拙【まず】いんだよ…うちの叔父さんは堅物【かたぶつ】だから」
 どーいう意味でい、と仏頂面を更に顰めて食って掛かりかけたが、正太郎はそれに気付いてか気付かずか、するりと走り出して声 を挙げた。
「御祖母ちゃん!」
 見れば白地に淡い菫色【すみれ】の絽を重ね着た老女が、呼ばれて正太郎の方を振り返っていた。駆け寄ってくる孫息子に、相 好を崩してにこやかな笑みを浮かべる。髪は品の良い白髪混じりで、其れを後ろにきゅっと留め上げている。挿した珊瑚の簪【かん ざし】がたおやかな雰囲気の彼女に良く似合っていた。
 其れをざっと見ただけでも、他の老婆達とは一つも二つも違っている。だが、その出で立ちに嫌味な豪奢さは無くて、寧ろ慎ましや かな控えめさがその全身に溢れていた。
「おやおや、正【しょう】さん。熊手を買って来たのかい?随分と良い品だね、軒に飾って置くといい」
「違うよ御祖母ちゃん、これは人にあげるんだ…そこの人に買って貰ったんだよ」
 此処へきて老婆は漸く一行の存在に気付いた様だ。只でさえちぐはぐな一行に、一見して半の妖と分る少年まで居ると言うのに、 老婆は躊躇う様子を微塵も見せなかった。見かけのたおやかさだけでなく、随分と気丈な所も有るらしい。
「これはこれは…うちの正太郎が御世話に成りましたのか」
 老女はつつ、と近寄ってきて軽く頭を下げる。
「いえ何、大した事はしておりませんよ。おお、宜しければ御名前を。」
 おいおい、こいつとうとうばばあに迄手ェ出すつもりかよ。…犬夜叉がぶつりと呟く。かごめがまさかぁ、と言った肩で、七宝が「有り得 んとも言い切れんぞ」と耳打ちした。珊瑚はといえば、白けた眼をしてノーコメントを決め込んだらしい。
そんなやりとりに気付いた風も無く、老女はにっこりと笑って答えを返す。
「わたくしの名は仲乃【なかの】。貴方がたは旅の御方と見受けます、祭りの夜では宿にお困りでしょう、どうぞ此方で宜しければお 入り下さい」
 此方で…そう、彼女も一行を表門から入れようとはしなかった。勿論、今までにも物の怪がいると言う理由で何も言わずに裏口から通 された事は何度もあったが、そう言う家に当った時は皆暗黙の了解として野宿を択んでいた。けれど、この老婆からその様な悪意は 感じられない。
『叔父さんは堅物だから。』
 この家には何か複雑な事情があるのかも知れなかった。



「そうですか…あの熊手は母上の墓に」
 そうでなくとも仏に仕える身姿だけで人の信用を得る事が出来るのだ。それに加えて彼の愛想の良い話振りと流暢な話題があれば 正に社交面の天下無敵。若い娘から老女まで、弥勒はどんな種類の人からでも核心の話を聞き出すことが出来た。
 この仲乃と名乗る老女も例に洩れず。弥勒達と話すうちに次々と家の事情について語り出した。
「ってお前ェ、母親に供えるんなら初めからそういやあ良いじゃねぇか。何だってわざわざ婆あに頼まれたなんぞ嘘を吐いたんだよ」
 ぽか、と小気味良い音を立てて、犬夜叉が正太郎の頭を小突いた。痛ぇ…と涕目になりながらも少年はぼそっと言葉を返す。
「だって、この歳で母さんに遣るだなんて恰好が悪いだろ。己らは此れでも名取り息子なんだから、腰抜けと噂されちゃあ困るんだ」
 もう、犬夜叉ったら、小さい子を苛めないのとかごめが半妖の衣を捕まえる。犬夜叉は少し不満気な顔をしたが此処は惚れた女の 所業、大人しくだんまりを決めた様だ。
「いえ、正太郎は…ほら、正さん、もう直ぐ町会所に行かなけりゃいけないよ。皆もう待っているだろうから。」
 老婆は言いかけた言葉 を途切らせて、正太郎を促した。正太郎は、ああこりゃあいけないと呟いて直ぐ様障子を引いて出て行った。ぱたぱたぱた…と廊下 を駆ける軽い音が遠ざかって行く。それを確かめるかの様に暫く黙り込んでいた仲乃は、ぱたんと戸を閉める音を最後に足音が消え ると漸【ようや】くゆっくり口を開いた。
「正太郎は…あの子は可哀相な子でね。自分では跡目だと云っているけれど、本当はそうも行かない事を知って居るのですよ。だけ ども何時もああやって威勢を張っている…強い子です。」
 仲乃はそこまで言って、先の正太郎の言葉を反芻しているかのように少し 言葉を切った。
 つまり、と仲乃がいうにはこうだ。
 正太郎は確かにこの長元家の跡取息子として長男の長子の生を受けた。しかし事も有ろうか彼の父親は彼が未だ幼かりし頃に病で 倒れてしまったのだ。代わって出て来たのが父親の義兄、つまり父親の姉の夫、吉丞【きすけ】。
 例によって例に洩れず、吉丞は長元の正統は自分であると主張を始める。その暗雲立ち込める日々の中で、最後の砦でもあった正 太郎の母親が野臥せに襲われて生を断ってしまった。其の時からはもう坂道を転がり落ちる様に吉丞の暴挙が始まった。正之助は良 い着物を着、良い雪駄を与えられて体面的には良い所のお坊ちゃま。けれど其の翳で一度家に入れば全く別の生活が彼を待ち受け て居た。世話の者もろくに付けられる事無く、家持【やも】ちを生業とする上で必定の学問寺にすら、彼は思う様に通わせて貰えない のだ。
「それでも娘―つまり吉丞の妻と言う事になろう―が生きていた頃はまだここまで非道くはなかったのです。あれも体面を気にする男 ですから、娘の手前、さしてわたくしを蔑【ないがし】ろにすることは御座いません。わたくしが正太郎を守ってやれたましたけれ ど…娘が亡くなってからは目も当てられませぬ。せめて正太郎にだけは手を掛けてやりたいと言うに、老体が情けなくて」
 余程気に病んでいるのであろう、若かりし頃の美しさが窺い知れる柳眉を顰めて仲乃は小さく嘆息した。元々の背丈だけの所為では 無い、正座した膝頭に齢を刻んだ掌を行儀よく揃える様は、家の重荷と窮屈な生活とで随分と小さく見えた。
 と、急に仲乃がぱっと顔を上げて今度はかごめと珊瑚に目を向けた。
「お嬢さん方…」
 重い話を打ち明けられたばかりだ、二人とも心なしか緊張して、「はい。」と同時に声を揃える。
 けれど仲乃の方はといえば突然思い出したようににっこりとして、先の重い空気を振り払う様な話題に転じた。
「貴女がた、旅の道中なら祭りにめかし込む着物を御持ちで無いのでは御座いませぬか?わたくしの娘が着た者でも宜しければ、ど うぞ御召しになって下さいましな。年寄りは物持ちが良いのですよ、着れぬ事は御座いますまい」
 自分の思い付きに、孫娘を持たぬ老女は余程妙案と嬉しくなったのだろう。「ささ、さ、宜しければ」とくいと乗り出した身を二人に寄 せて、思わず断りの言葉が引っ込んでしまう様な笑みを振り撒いた。
 宜しければといいつつも寧ろ着せてみたげな老女の勧めに、かごめは一も二も無く同意する。夏は皆が浴衣を着るようなこの世界で、 果たして現代の様に浴衣姿が男心を擽【くすぐ】る妙薬となり得るかどうかは甚だ疑問だが、それでもかごめの頭には犬夜叉が過【よぎ】った に違いない、珊瑚ちゃんも一緒に着ようよと誘っている。
 珊瑚はと言えば、何時も小袖ばかり着ていて女らしく高帯を結んだ事も久しく、別にこのままでいいよと渋っている様だ。
「おや、何を云うのです珊瑚。いやいや、うら若きおなごの浴衣姿を拝めるなんて光栄だとは思いませんか、ねぇ犬夜叉。惚れたおな ごなら尚の事」
 興味ねぇよと顔を朱くする犬夜叉の傍らで、「弥勒様、そんな事言ったら珊瑚ちゃんが余計着たがらなく成って仕舞うでしょ」とかごめ が嗜【たしな】める。
 けれどそんなこんなは最早全く眼中に無い仲乃、既に浴衣を幾反も並べて嬉しそうににこにこと微笑っていた。





 何だかんだと言って結局老女の好意に甘える事になった娘二人。
 同室を追い出される事となって少々不服げな男衆と子狐が一匹、品の良い調度の部屋で暇を持て余していた。磨き上げられた梁は 少し薄暗くなった障子越しの寂光に照らされて滑らかな鈍色【にびいろ】に艶めいている。未だ夕涼みが涼しい時期でもなかろうに、 この家に染み渡った空気はどこかしんと冷えていて、客人の身にも肩身が狭く感じられた。
「遅せぇな。たかが浴衣をめかすぐれぇで、どうしてこんなに時間を食うんだよ?」
 只でさえ気の短い犬夜叉だ。男三人放り出され、苛々した様子で舌打ちをする。
「犬夜叉は気が短いのぅ。」
 先程少しまどろんでいた七宝も、僅か前に起き上がって面白そうに部屋中を見回っていた。付きの者がいないと言っていたから、恐ら くこの部屋は仲乃のあつらえだろう。日頃良く御目にかかる豪奢な部屋とは一味違う、老女の静かな生活が刻み込まれた柔らかな色 調。家全体の重苦しい空気さえなければ、居心地の良い雰囲気に満たされるに違いない。さり気無く飾られた橘の白い花弁が、挿 された青磁の花瓶の置かれる床に、ひらりと一枚落ちていた。 「七宝、犬夜叉はかごめ様の浴衣姿を早く見たくて堪らぬのですよ、解っておあげなさい」  茶化した事を言いながら、弥勒もいい加減待ち草臥【くたび】れたのか言葉に左程張りが無い。一刻も経つ訳では無い、せいぜい四 半時に過ぎぬのに、この家では時間が平生よりゆっくりと流れる様に思われた。
 ばしぃんっっ
「な゛っ…」
 突然静寂が打ち破られる。乱暴に引き開けられた障子戸がびいぃん、と悲鳴を挙げた。何奴、と三者が一斉に振り見ると、正太郎が 膝に手を付いた恰好で、ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を付いていた。汗に塗【まみ】れた顔が、首筋が、涙を堪【こら】えた所為か酷く紅潮して いた。ぐ…と一つ咽喉を鳴らすと、正太郎はがくりと其の場に崩おれて膝をつく。
「……くしょう…ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!!」
 堰を切ったように溢れ出す涙と嗚咽。三人は突然の状況に一瞬呆け、成すすべなく彼を見詰めるしかなかった。
「………兎に角、説明しなければ何も解りませんよ。さ、落ち着いて」
 案の定、逸早【いちはや】く言葉を掛けたのは弥勒だった。先に正太郎が駆け込んできた時こそ、驚いて少々眉を吊り上げたものの、 今では平生の柔かい諭し口調に戻って正太郎の肩に手を置いた。
 正太郎はその手で初めて、自分が客人の前にいると気付いたのだろう。先程まで空だったこの部屋に、如何いう事情か男三人がい たと知って正太郎は恥ずかしさに息を詰まらせる。独りで泣きたくて此処まで来たと言うのに、自分は何という醜態を曝してしまったの か。狼狽しながらも、無礼を詫びなければと思ったのか、はたまた一行に無礼を働かれたと思ったのか、正太郎は必死に涙を飲み込 んで言葉を吐く。
「お…御客人には由縁なきことだ、何でも無いから…」
「其の顔で何でも無いはねえだろ。ばばぁに心配掛けたくねぇなら、後腐れない相談相手が今ここにいるじゃねぇか。ほら、とっとと 吐きな」  とたとたと歩いて来た犬夜叉が、正太郎の脇にどさ、と座ってぶっきらぼうに声を掛ける。犬夜叉、脅して如何するんです、と小さく嗜 めた弥勒は、内心相当に驚いていた。彼が自分から相談相手を買って出るなんて一体如何した風の吹き回しか。けれど兎に角、相 談相手としての向き不向きは差し置いても、成る程犬夜叉の言う事には一理ある。
「彼の言う事は正しいですよ。私共は旅の者、お前が何を見せた所で明日明後日にはこの地を離れる身。ここにいたのを縁と思っ て、さあ、お話しなさい」
 二人の言葉に不本意ながらも納得させられてしまったのだろう。正太郎のくりっとした瞳から再び大粒の涙が零れ出した。



「ほら、正さん、もう直ぐ町会所に行かなけりゃいけないよ。皆もう待っているだろうから」
 そう祖母に促されて、正太郎ははっと我に返る。
 そうだった。今夜は正太郎にとって一世一代と言っても過言ではない晴れの舞台。一ヶ月もの間穢れに触れぬ様にし、毎日大明神 を参り、剣舞の錬を重ねてここまで来たのだ。

 大車に唯一乗ることが許される幼い男児――丁度今日から一ヶ月前、正太郎は「舞童【まいわらべ】」に選ばれた。
 舞童は鴻の祭りの花形だ。それが一体如何いう形で選ばれるのかは、代々祭祀の家にのみ伝えられていて一般の者には知らされ ない。けれど毎年、必ず一人の男児が「舞童」として白羽の矢を受け、そしてそれが喩え村一の放蕩者の息子で有ったとしても、 誰一人けちを付ける事は許されなかった。誰の意志にも拠らぬ、神の童……だからこそ「舞童」に選ばれた者は相当の名誉をその 手にする事となる。
 自分が選ばれる事など有り得ないと思っていた。  舞童は寧ろ、何故こんな家の出の者がと思われる様な家から選ばれることが多かった。村一裕福な長元の息子である自分は、喩え 今のように暗い生活を強いられているとしても矢張り他の子供達と比べて良い生活をしている。愛情の欠落においては涸れた様に 飢えていても、肉体的な飢餓を余儀なくされた事など生まれてこの方なかったのだ。傍目には満たされた生活を送る自分…これ ではとても舞童に選ばれる事など望めまい。
 だから、或る朝起きた軒先に一本の真白な文が挿されているのを見付けた時、彼はどうしようもない気持ちに駆られた。無論嬉しい に決っている。華だ。一生にもう二度と廻って来ないであろう華だ。誰が何と言おうとそれは彼に与えられた宿命で、逃れる事など出 来ないし、逃れたいとも思わない。
 けれど――果たして自分で良いのだろうか?
 舞童に選ばれた者は其の後の人生ががらりと変わると言われている。そんな重圧に耐えられるのか?
 そんな自問自答を三日三晩繰り返した後で、彼は漸く決意する。――舞童は自分以外に有り得ないと。
 それからは毎日が戦争だった。持った事も無い舞剣を持たされ、足竦【すく】む屋根上で舞う錬をさせられ、日々欠かさず明神を参り、 穢れを避け……。土を裸足で踏む事すら許されなかった。彼は祭りが終るまで、神の子として生活しなければならない。
 そしてとうとう迎えた今日という日。
 大車の天辺【てっぺん】で立ったって、舞剣を振り翳したって、もう恐くなどない。 ずっと長元の長になる者として認められたかった。父が死んで、母が死んで、自らの立場が限りなく崖縁まで追い篭められてしまった 今ですら尚、正太郎は自分が長になると誓っていた。だから、学問寺に通わせて貰えなくても、公の場に跡目として紹介されずとも、 自分がいつかと信じて疑わない。舞童に選ばれた事もそう。きっと己【おい】らの願いが届いて、自分こそ跡目だと村に知らしめる好 機を神がお膳立てしてくれたに違いない。そして正太郎が長元家から童に選ばれるという事は、事実彼の予想通りの効果を持ってい た。

 ――それなのに。  それなのに!!
 息せき切って町会所の戸を引いた正太郎は我と我が眼を疑った。

「信介……!」
 そこで自分が着る筈だった揃浴衣【そろい】を着ているのは…自分が持つ筈だった舞剣を持っているのは。それは紛う事無き吉丞 の愛息子【まなむすこ】、信介だった。





 涙で時折咽喉を詰まらせながらの正太郎の話。
(…詰まりは跡目を完全に奪われたということなのだな)
 吉丞とやらのやり口に苦々しい思いを抱いた弥勒は秀麗な眉をぎゅ、と顰める。どういう裏を使ったのかは解らないが、兎に角正太 郎は舞童の座を従兄に奪われた。そしてそれは、何も事情を知らぬ村人達に、正太郎自ら身を引いて舞童を譲ったのだと映るだろ う。次男が自分に任された大任を、辞して長兄に譲る事は公にも良くある事……従兄に過ぎぬ信介に対してそれに等しい行為をした ということは、正太郎自身が「長元家を継ぐのは信介だ、だから一家の長に対して舞童を譲るのだ」と宣言したと取られても仕方ない。
 目の前で口惜しさに泣き崩れる少年も、それが解っているからこそなのだろう…。
「お前えが悪いじゃねえか」
(…なっ)
 どうしたものかと暫し思いあぐねていた弥勒は、突然口を開いた犬夜叉の言葉に驚愕し、また蒼白になる。何を考えてい るのだ、否、寧ろ考えてすらいないのか、それが今正太郎に向かって言う言葉か!
 思わず手も出せずに睨む弥勒を気にも留めず、犬夜叉はしらっとした顔で正太郎を見返す。正太郎は慰めの言葉ならいざ知らず、  自分を責めるかの様な言葉を刺されて、一瞬嗚咽も止めて犬夜叉をぽかんと眺めやった。
「犬夜叉!お前…」
 漸【ようや】く我に返った弥勒が、がしゃんと錫杖を乱暴に置いて犬夜叉の胸倉に掴み掛かる。
「お前、そこまで無神経だとは終【つい】ぞ思わなかっ…」
「五月蝿えよ」袷【あわせ】を掴んだ手を、犬夜叉がぎり、と本気で掴み返す。「てめぇには解らねェ、黙ってろ」
 ぎん、と睨み返す眼 光に、弥勒は何か犬夜叉の思うことを感じて、黙ったままと手を引いた。
「坊主…お前、本当に譲る気がねぇんなら、その場でてめえの従兄とやらをぶん殴ってやりゃあ良かったんだ。何故そこで何も言わ ずにのこのこ引っ込んで帰った?弁解の一つもしやしねえで、相手を怨むのはお門違いってモンだぜ」
 何時になく、犬夜叉の双眸が真剣だ。怒っている…否、苛ついている。犬夜叉は今、明らかに何かに対して苛ついていた。
(重ねているのか)
 不本意にも脇に引いていた弥勒は、漸【ようや】く得心がいって密かに頷いた。
 そう言えばこの村に着いた時からそうだった。喧騒に混じって耳朶に付く鉦鼓の清んだ音。客引きの言葉を挙げる飴売りの声。大人 達の足許をきゃらきゃらと、一段高い声を挙げて擦り抜けて行く浴衣姿の幼子に、視線をすっと滑らせた犬夜叉を、弥勒は離れた所 から確かに見止【みと】めていた。
 強くならなければ、拳に訴えなければ、自らの居場所を勝ち得る事の出来なかった犬夜叉の幼年時代。拳を以って居場所を手にす る事など叶わぬと知っている筈の今ですら、居場所を求める正太郎の瞳に幼い頃の思いを彷彿としてしまったのだろう。
(好きな様にしろ)
 確かに力で己の場所を抉り取ることなど出来ないけれど、それにしたところが確かにこの正太郎、些【いささ】か行動が甘すぎるのもま た事実。少し酷ではあるけれど…犬夜叉の好きに言わせてみるのも悪くない。
(俺にこいつ等の気持ちは、解んねぇしな…)
 そう心中で呟いて、手甲と数珠に封印された右の手をぎゅ、と強く握り込む。
 こいつ等が俺の気持ちを理解出来ない様に。俺に解らない正太郎の気持ちも、お前なら解ってやれるのかも知れぬ。
 そして事実、食って掛かるかの様に思われた正太郎は、くっと言葉を呑み込んで真っ赤になった顔を俯かせたのだった。





 ごろごろごろ…
 ごろごろごろ…ぴしゃっ
 障子越しの光が急に薄暗くなって、かごめはふ、と眉を顰【しか】める。良く耳を澄ませてみれば、遠く雷鳴の音も耳を掠り始めた様だ。
「婆さん…雲行き、一寸【ちょっと】怪しいんじゃないかい?」
 雷鳴に続いて軒先を打ち始めた雨音に、珊瑚も不信な顔をして呟いた。水仙の単【ひとえ】に白茶金らんの丸帯をゆるりと結んだ珊 瑚の姿は、薄暗くなった部屋明かりの中で随分と艶っぽい。高く結い上げた髪は何時もと全然違うのに、言葉づかいだけは普段通り なのね、とかごめは心中で苦笑を洩らす。これでたおやかな口調であれば、そん所そこらの美姫【びき】も逃げ出すほどに美しいと言うのに。
「おかしいですねぇ…鴻祭は明神の祭り、空が濁った事など今までに聞いた事が有りませぬ」
 舞童を務める筈の孫息子が気に懸かるのだろう、仲乃はかごめの髪を結う手を暫し休めて、不安げな視線を障子の方に向けた。
「正太郎くんの折角の晴れの祭り、本当に見に行ってあげなくて良いんですか?」
 当然とも言えるかごめの問いに、仲乃はふわりと微笑って再びかごめの髪に櫛を通し始める。
「良いのですよ、あれは強い子です、きっと御役目立派に果たしますでしょう。老いた御ばばは家でじっと祈るだけ」
 そんなもんかしら、とかごめは少し唇を尖らせてみたが、仲乃のゆったりした言葉に何やら納得させられて、ぼーっともう一度障子側 に視線を漂わせた。雨音は愈々【いよいよ】激しく、本格的に降り始めた様だ。ばたばたばた、と乾いた土を叩く雨粒の音が、徐々に  ざぁざぁとした滝音に変わってゆく。夕立だろうか。
「それにしたって、今頃は丁度大車が動き始める刻だろ?何だってこんなに都合よく降り始めるんだろうねえ…鬱陶しいったらありゃ しない。折角の祭りだというのに」
 何だかんだ言って珊瑚も正太郎が心配なのだろう、きゅ、と形の良い柳眉を寄せて止みそうも無い雨音に耳を清ませた。只の夕立に してはまた随分と雷鳴が近い。
 と、流れる雨音に紛れて小さな足音が聞こえた気がして、かごめはあれ、と視線を揺らす。今確かに、とたとたと足音が聞こえた様な…。
 ぱんっ、と脇の障子が音を立てて、かごめと珊瑚は思わず目を合わせる。足音は聞き間違いではなかった様だ。入ってくるなり、大変 じゃ、大変じゃぁとおろおろした声を挙げる七宝の様子に、どうやらこの雨に感じていた不安が的中したらしいと二人の娘は揃って 眉を寄せたのだった。







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