焔として往け en to shite yuke 1 |
こぉん、こぉん、ちきちりり… こぉん、こぉん、ちきちりり… 町を東西に貫く大通りに、人々の喧騒が満ちて行く。濡れた筵を絞る者、どうにか避難させた商品を並べ直す者、濡れそぼった着 物を取り替えに帰る者………そんな人々の頭上を、清んだ鉦鼓の音が響き渡っていった。皆、一瞬ふ、と足を止め、ぼんやりと鉦鼓 の音色に耳を傾ける。けれどそれは一瞬の事で、皆我先にと各々【おのおの】の身支度に忙【せわ】しなく引き戻されていった。 こぉん、こぉん、ちきちりり… こぉん、こぉん、ちきちりり… 「大車…あんなにボロボロにされた筈なのに、目、開けたら一瞬で元通りになっているんだもの、驚いたな」 薄墨でさらりと若竹を描き出した涼しげな団扇【うちわ】。それをぱたり、ぱたり、と緩やかに煽りながら、かごめが誰にとも無くぽつ、と 呟く。 「…まぁ、神もお許し下されたと言う事でしょうな。いや、良かった良かった…」 いつに無く呆けた顔で、弥勒はいまだ雨露の残る風景を眺め遣る。その後ろで、髪をもう一度結い直した珊瑚が濡れた傘をぱし、と払いながらくすりと微笑った。飛び散った水滴が、西に傾いた陽光に照らされてきらきらと散じる。 「法師の癖に神様に抗ったりするからだろ。そんなに呆けた顔をして、法師様も意外と初心【うぶ】な所があるんだねぇ。大体、あの位 で天罰が下るんだったらさ、もうとっくの昔に雷に打たれて真っ黒焦げだろ、生臭の法師様?」 珊瑚のからかう様な口調に、弥勒はぽりぽりと頭を掻く。珊瑚の言うとおりではあるけれど、やはりああも面と向かって神に抵抗するのは 随分と精神を費やしたのだろう。何時もの様な減らず口も叩かず、まだ少しぼぅっとしている。 「まぁったく、だらしがないねえ。ほら、袈裟がぼろぼろじゃないか、仲乃婆に言って着替えでも貸して貰いなよ。ほら」 はいはい、と首を竦【すく】める法師を、薄蒼の単【ひとえ】に彩られた娘がきゃらきゃらと笑いながら追い遣っていく。 (いいんだあ…仲が良くって) 少し羨ましそうに目を眇【すが】めながら、それでもかごめの頬が微笑に少し柔かくなる。あたしも浴衣、着替えなきゃ駄目ね、びしょびし ょだもの、そう小さく呟いてかごめはふっと辺りを眺め回した。 (そう言えばさっきから姿が見えないのよね、あいつ) 人々が正太郎達に群っている間に、随分と傷を負っていた筈の犬夜叉はふらりと姿を消してしまった。本当なら直ぐにでも駆け寄って ゆきたかったけれど、何故か一瞬垣間見た横顔に心を掴まれて、かごめは追い掛ける気を失ったまま立ち竦【すく】んでしまった。 (さっきの事、まだ謝っていないし…そろそろ、見つけたって良いよね) 大方【おおかた】、と小さく呟きながら、かごめは畳んだ塗り傘を片手に迷いも無くある場所へと向かって行った。 軽く空気を撫ぜた夕風に細い木の枝がさらりと煽られて、青葉に残っていた雨の跡をぱらぱらぱら、と振り落とす。顔に降り掛かって来 た水滴に少し目を眇【すが】めた犬夜叉は、ゆらりと首を回して遠く茜色の西空を見遣った。その染まり行く空を、清清【すがすが】しい 鉦鼓の音が浄化して行く。 ――思い出す…幼かったあの頃。 今と同じ様に、里を一望できる大樹の上で…俺は独りこうやって鉦鼓の音に耳を傾けていた。 只ぼんやりと何も考えない様にして、それでも聞きたくない祭りの喧騒が耳に付いて離れなかった。 (でも今は)、と犬夜叉は心の中で独りごちる。先の闘いで自らを引き戻してくれた声を、もう一度頭の中に蘇らせる。柔かい匂いの記憶 と共に、鮮やかな娘の笑顔が流れ込んできた。慰めるでもなく、哀れむでもなく、ただ何の気なしに傍らで陽気な声を立てる娘。彼女の 膨れっ面を、昔出逢った女と重ねてしまったのは、もう随分と昔の事に思われる。 得たくて、得たくて、それでもどうしても得ること叶わなかった自らの居場所。足掻いて、殺して、蹴散らしても、何時も寸でのところで己の 指から擦り抜けてしまった幸せを、彼女はまるでいとも簡単だと言わんばかりに運んで来た。 だから、離れる事など出来ない。こうしている今だって、彼女の笑顔が、匂いが、声が…頭について離れない。 (中毒だ…) 思い出しながら、犬夜叉は困った様に瞳を閉じる。雨上がりの少し湿気【しけ】た冷風【ひやかぜ】が、すぅっと闘いで火照った身体を凪 いで行った。 俺はきっと、あいつから離れられない――そう思う。 「犬夜叉ーっ。」 風と共に耳朶を心地良く刺激する声が舞い込んできた。微睡【まどろ】みの中で溶け込んできた其の声を、心地良さげに包み込んで、 犬夜叉はもう一度優しい夢に身を委ねる。 「もう…っ」 木の葉の陰からしな垂れ落ちる赤い袖は確かに犬夜叉の物なのに、返事の一つも返さない彼にかごめは少し頬を膨らませる。けれど、 ひょい、と枝下から覗き込んだかごめは直ぐ様柔かい笑顔になった。 「心配してたのに…なーんだ、眠ってただけなのね」 ちょっと拗ねた口調とは裏腹に、優しい光に瞳を揺らせてかごめはそっと黙り込む。自分の目線より少し上で健やかに寝息を立てる 少年は、先程の荒々しい闘いからは想像もつかない程幼い。闘っている時の彼は、逞しくて、艶やかで、そして何より……かごめでも 見惚れる程に美しい。妖かしと呼ばれて忌み嫌われる父親の血が、けれど本当は彼を浄化しているのではないかと、そうかごめには思 われる。 (でも、こうやって寝てる顔も…あたしは好きだな) ひょい、と爪先立ちになって、眠りこける犬夜叉の顔を間近に捉えてみた。白銀の緩やかな前髪も、気の強そうな上がり眉も、柔らかな 金色の濃い睫毛も…みな彼の幼さを強調して居る様で、思わずかごめはくすりと笑みを零す。不思議の妖力【ちから】で、もう鮮烈な 色を取り戻した緋の水干、その緩やかな撓【たわ】みに包まれて目の前の犬夜叉は本当に心地良さそうだ。 「風邪、引いちゃうよ」 少し肌蹴【はだけ】た袷【あわせ】から日に焼けた肌が覗くのを見て、かごめはそっと手を伸ばす。水干は見た目より少し硬くて、まだ真 新しいものの様に綺麗だった。かごめの指先に、零れ落ちた白銀がするっと絡む。沈みかけて一層濃く照る茜日【あかねび】が、かごめ の白い手を、犬夜叉の銀の髪を、溶け合うように柔かく染めていった。 それに一瞬見惚れていたかごめは、ふっと視線を上げてみてびくりとする。何時の間に目を覚ましたのだろうか、此方をじっと見詰める金 色の瞳が、二つ。 「ご、ごめんねっ。起こしちゃった?」 慌てて手を離したかごめを、犬夜叉はいまだ微睡みから抜け切っていない瞳でぼんやりと眺める。そ して気付いたように眠気で僅かに重い頭をふるっと一振りして、何も言わずにするりと枝から滑り降りた。木の葉と擦れた水干が、しゃ、 と軽い衣擦れの音を立てる。 「ねぇ…」 何時もなら悪態の一つも吐いて来るような状況だったにも関わらず何も言わない犬夜叉に、かごめは少し途惑って躊躇いが ちな声をかける。 「まだ、怒ってるの…?」 恐る恐る、といった風体で話し掛けるかごめに、犬夜叉は、ぁあ?と言って胡乱【うろん】な目を向けた。その様子に少しほっとしながらも、 かごめは畳み掛ける様に問い掛ける。 「だから、お祭りの……。嫌いだったのに、ごめんね?」 もごもごと口篭りながら言うかごめを見遣った犬夜叉は、一瞬「ああ、そうか」 というような顔をして、直ぐさま明後日の方向を向いてしまった。 「そんな事あ、気にしてねえ」 橙の夕日に目を顔を向けてしまった犬夜叉をかごめは暫くつまらなさそうに見ていたが、これ以上何を言っても仕方がないと諦めたのだ ろう、自分ももう何も言わずに、すとんと少し離れて座り込んだ。東の空は、もう既に宵の訪れを拡げ始めている。 その様子をちらと眦【まなじり】で見た犬夜叉は、気付かれない様にさっと視線を戻してもう一度夕日に顔を向ける。自分の斜め後ろで 夕日を眺めている少女は、きっと自分の行動の本当の意味には気付いていないだろう。 ――その実犬夜叉は、見惚れていたのだ。 柿色に蝶鳥を染めた大柄の浴衣。黒襦子と染分絞りの書夜帯を胸高に締めたかごめは、髪を高く結い上げて顕わになった白い首筋を 少し傾ける様にして、ぼんやりと夕陽に頬を染めている。 履き慣れぬ塗り木履【ぼっくり】のころん、ころんという音……その軽い音が耳朶を掠めた時から、本当は胸の動悸は上がりっぱなしだっ た。彼女の国の物だと言う髪を洗う洗料。その花の様に艶やかな香りと彼女自身の甘い体臭が絡み合って、何時もかごめは良い匂い を纏【まと】っている。豊かに揺れる黒髪、それを今は高く高く結い上げて、雨風に少し解【ほつ】れた筋髪もまたどうにも言えない程に 鮮やかだった。きっと此処まで歩いてくる間にも数々の男が振り返っただろうに、当のかごめはそんな事気にもかけずに今こうして自分 の近くで困った様に座っている。 自分の共の法師に言わせれば、「贅沢なものだ、お前も」なのだろう。自分でその言葉を反芻してみても、全くにその通りだ。勿論、か くいう彼とて今頃は、切れ長で凛とした瞳を持つ娘と共に、贅沢な思いをしているには違いないのだったが。 「陽…暮れちゃうね」 夕陽を頬に暫し物思いに耽【ふけ】っていた犬夜叉は、自分のすぐ真隣までかごめが寄っていたのに気付いてば、と勢いよく振り返る。 「なに、どうしたの?」とあどけない瞳を向けてくるかごめを見ながら、犬夜叉は自分の頬がもう隠し通せない程に紅潮しているのを感 じた。 「…変なの」 けれど焦る犬夜叉を尻目に、かごめはそんな事は意にも介さないといった風体ですっと前を向く。その濃く長い睫毛に又しても暫し思 考を止めた犬夜叉は、すっと右手に絡んだ細い腕に今度こそ顔から湯気を立てて身体をびっと硬直させた。けれど、かごめはそんな 犬夜叉にお構いもなく、ぎゅっと更に腕に力を込める。その甘い拘束から如何にか逃れようと暫しわたわたともがいていた犬夜叉も、そ んなかごめの顔を見て諦めたように動きを止めた。 「な、何だってえんだよ全く…」 自分の白銀の髪にかごめの結い髪が凭【もた】れるのを感じて、犬夜叉は困ったように問いかける。 こぉん、こぉん、ちきちりり… こぉん、こぉん、ちきちりり… 「ねぇ、犬夜叉。」 「ぁあ?もう、何だよ!」 「次も」 「はぁ?」 「次のお祭りも……一緒に、二人で一緒に見ようね」 (ああ、そうか…) 気持ち良い匂いに包まれながら、犬夜叉は思う。祭りの日、祭りの夜……自分はきっと、もう二度と、寂寞【せきばく】とした思いに囚わ れる事はないだろう。 沈みゆく太陽が、線となり、点となり、じゅわっと地平に身を沈める其の瞬間、眩【まばゆ】い程の茜色が世界を照らし出す。続いて訪れ る静かな残夏の宵が、東【ひんがし】の空から柔かく、寄り添う二人の影を包み込んだ。 今はまだ、このままで良い。言葉にも、態度にも、素直な気持ちが乗せられなくても。 優しい思いに包まれて、付きもせず離れもせずのこの距離が――まだ、二人にとって心地良いから。 ![]()
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「兄【あに】さーんっ」 もうそろそろ帰ろうか、というかごめの声にゆっくり二人が立ち上がった時、遠く丘の麓から少し掠れた少年の声が響いて来た。誰、と問 いかけるかごめの視線に、犬夜叉は振り返って不信そうに眉を吊り上げる。 「お前ぇ…」 「さっきは…迷惑、を、掛けたね」 ぜっ、ぜっ、と余程急いで駆けて来たのだろう、肩で息をしながら少年が言う。その顔の面影が、ついさっき会った誰かに似ている様な…。 「…お前え、信介!」 先の闘いを思い出して、犬夜叉は思わず苦い声を上げる。けれど信介は其れに臆する事無く、「にっ」と笑って 見せた。子供らしく血色の良い唇から覗いた真白な八重歯が、正太郎のそれと良く似通っている。鼻っ柱に貼り付けた薬布が、少し 小生意気な彼の顔をずっと愛嬌のあるものに見せていた。 「良いから、兄【あに】さん、早く来てよ。皆、あんたを待っているんだから」 はぁ?何言ってンだ、お前え、とまだ状況を掴みきれずにいる犬夜叉の腕を、信介はもどかしそうにぐぃ、と引っ張った。ほらもぅ、早く早 く、とぶつぶつ言いながら走り出す信介に、犬夜叉も振り解く訳にも行かず付いてゆく。かごめは、一瞬ぼおっとその光景を眺めていた が、直ぐさま面白そうにくすっと笑って、からり、ころり、と木履【ぼっくり】を鳴らしながら二人の後を追いかけた。 場所は東西貫く大通りの東【ひんがし】の端。既に薄闇が掛かる中、氏名【うじな】や屋号が太々と書かれた真っ赤な堤燈が陽気な 色で辺りを照らし出している。道の両端を大通り西の端【は】までずらりと一直線に並んだ提【さ】げ堤燈は、夜の微風に煽られてゆらり ゆらりと揺れながら黒々とした文字を夜闇に浮かび上がらせた。 東の端【は】に、「龍」のくずしを大柄に散らした揃浴衣【そろい】達が一際騒がしく集まっている。龍字の紺と下地の白の彩が、男達の 僅かに緊張した興奮の中で入り乱れていた。その喧騒の真ん中に、天蓋を指し示す様に高く高く聳え立つ、黒塗りの大車。下から照 らす行燈【あんどん】の燈と空を覆う黒天が、何十間とある大車を更に更に高く夜の闇に溶かし込んで居た。大神輿には、先に焼け爛 【ただ】れてしまったはずの唐絨毯【からじゅうたn】が、湿気た夜風に煽られてばたり、ばたりとはためいている。その錦糸と朱糸を織り交ぜた紋様が、煽 られる度に角度を変えて鈍く艶【つや】めいた。 二人を追って少し息を上げていたかごめは、角を曲がった途端飛び込んで来たその風景に思わず圧倒されて足を止める。大車を見上 げると、星の少ない黒空の中にすぅと吸い上げられる様な感覚すら覚えた。立ち止まった足許で木履【ぼっくり】がころん、と寂しげな音 を立てる。 (高い…) 「皆、連れて来たよっ」 信介の声が響いて、わいわいと己の作業にとりかかっていた男達が、ざぁっと一気に振り返る。ざわりと喧騒が波紋をなして、浪【なみ】 が退くように静かになる。その中から、一人の男がすっと出て歩み寄って来た。 ――『妖怪が、妖かしの血を受け継いだ者が、我らの神物に指一本触れる事、決して許さぬ!』 先に、そう叫んだあの、男だ。揃浴衣【そろい】の裾を太腿までたくし上げ黒い足袋はだしを履いた男は、雨の中で見たよりもずっと精悍 な顔立ちをしていた。僅か皺の刻まれた壮年の頬に、目尻に、少し無骨な感じのする硬そうな灰色の髪。良く日に焼けた褐色の肌が、 彼に祭りを仕切る長【おさ】らしい「風格」を与えていた。 随分と様子の違う男の風体にわずか警戒を解きながらも、やはり先の言葉を思い出しているのか、犬夜叉は硬い表情で男を見詰めてい た。近寄って来た男がぴたりと立ち止まって口を開く。 「妖かしが、触れてはならないと、思っていました。…だから、貴方が車に触れようとした時、止めさせなければと思った。貴方が、半分 だけの妖かしであるから」 犬夜叉が、表情も変えずにぴくりと片眉を吊り上げる。金色の双眸がさっと色を変えた。 だがそれに気付いても躊躇うことなく、けれど、と男は言葉を綴る。 「祭りを、里を救ってくれたのは…貴方です。感謝している」 そう云って、男はすっと右の手を差し出した。ごつごつと骨張った掌が、 二人の間に小さな影法師を落とす。けれど、犬夜叉はへっと小馬鹿にした様な声を出して、下らねーとばかりに両手を深く組み込んで しまった。後ろではらはらと見守っていたかごめは、犬夜叉、と声をかけようとして、続けて零れた犬夜叉の言にふっと口を噤【つぐ】んだ。 「礼を言うなら…剣【つるぎ】を守った二人の坊主に言うんだな」 逸らしていた双眸を、さっと揃浴衣【そろい】の男達に滑らせる。 「あいつらは、命を賭して、剣を手離さなかったんだ。尻尾巻いて逃げてく様な奴らだったら、俺だって助けはしなかったぜ」 その歯に衣着せぬ言いように、けれど気分を壊した風もなく、男は相好を崩して笑い出した。 「確かに…いやはや、頼もしい若者が出て来てくれて、私もそろそろ引退時かもしれませんな」 はっはっは、と面白そうに声を上げるこの豪快な男に、犬夜叉はふんと鼻を鳴らして応戦する。 と――ん、と、突如清んだ鎚【つち】の音が空気を貫く。 えいやっ、と威勢の良い声が合わさって、賑やかに鉦鼓の音が鳴り始めた。こんこんこんこん、ちきちきちきちき…遠くで聞く哀愁ある 音色とは違って、間近で聞く其の音は意外にも力強く、心躍る。男達が勢い良く気勢を張って、興奮の波を巻き起こした。 「犬の、兄【あに】さ―――んっ」 沸き立つ喧騒に思わず気を抜かれていた犬夜叉は、遥か上方から己の名を呼ぶ声を捉えて不信そうに黒天に目を凝らす。 ――『さあ、祭りが、始まりますよ』 先の男の声が自分の真横で響いた様に、犬夜叉は感じた。 「兄【あに】さーん、早く、登っておいでーっ」 漸く、声の主が小神輿に乗る正太郎だと気付く。犬夜叉はふざけんなと返そうとして、続け様の正太郎の言葉に、思わず呆けて言を 失った。 「法師様も、もう、お登りだよ!」 その言葉にゆるりと振り返った法師は、高い高い小神輿の上から困った様に肩を竦【すく】めて見せた。 すたり、という音と共に緋色の衣が舞い降りる。その動きと共に、白銀の絹髪がふうわりと撓った。 「なーにやってンだよ、弥勒。こんな所で」 平生通りの不機嫌な声で問い掛ける声に、若い法師は視線だけを寄越しながら面白そうに答えた。新しい墨染めの衣が、拡がる闇と 煽【あお】る風にはためいて、夜の四十万【しじま】を抹香の香りに染めて行く。下からの喧騒はどこか遠く、夜天に近い此処は妙に静 かだ。 「ああ犬夜叉。何だかんだ言って登って来たのですな」 「…んなっ…べ、別に俺はなあ!」 けっと馬鹿にした様に唇を尖らせる犬夜叉を、けれど弥勒の黒曜の瞳が、見透かす様にみやる。 「まあ良いではないですか、犬夜叉。今宵は…………祭りなのだから」 はぁ、馬っ鹿じゃねぇのかお前え、と小さく悪態を吐きながらも、犬夜叉はどかりとその場に腰を下ろす。おや、という顔をして此方を覗い てくる法師に、犬夜叉はふいと怒ったように背を向けた。ばさり、と白銀がはためいてうら若き法師の視界を彩る。 「――仕方ねえな……付き合ってやらあ」 人々の喧騒が遥か下に沸き起こる。一瞬、ぎし、と軋【きし】んだ音を立てて、大車はゆっくりと巨体を動かし始めた。滑る様に仄【ほの】 かな向かい風が二人の頬を撫でる。其の視界のずっとずっと向こうまで、点々と光る二列の赤提灯が絶えることなく連なっていた。 こぉん、こぉん、ちきちりり… こぉん、こぉん、ちきちりり… 「ねぇ、かごめちゃん。」 かけられた珊瑚の声に、かごめはなぁに、と振り返った。団扇片手に、こめかみから流れる後れ髪を玩【もてあそ】びながら、珊瑚は凛 とした瞳を少し面白そうに輝かせている。紅を引いた唇が、花弁の様な笑みを形作っていた。 「何だかんだ言って、楽しそうだよね、あの二人」 見上げれば遥か上方の小神輿の上、すらりと天を突く剣飾りの傍らで、真新しい黒衣の法師と艶【あで】やかな緋色の半妖が、黒白朱 の三つ巴を織り成しながら黒い夜空に風吹かれていた。白銀の髪をたなびかせ仏頂面を貼り付けた犬夜叉の双眸が、何故か何時もよ り明るい色に見えて、かごめは思わずくすりと微笑ってしまう。 大きな瞳の少女が、くるり、と頭【かしら】を振り返らせて悪戯っぽく声を潜【ひそ】める。白い首筋に零れた一筋の黒髪がゆるりと流れて 滑らかな肌を滑った。浴衣に象【かたど】られた柿色の蝶鳥が、幻想的な提灯の明りに照らされて今にも舞い出しそうに目映い。 「そうだね、きっと、楽しいんだよ」 夏が名残惜しげに、其の残香を振り撒く時節。 秋が足早に、野山を紅に染め始める時節。 入り口と出口が交差する行き逢いの夜、男達は挙【こぞ】って夏送りの祭りに身を興じてゆく。 捻鉢巻【ねじはちまき】の少年が高く高く、その白い刃【やいば】を突き上げる。 刀身がすらりと夜風を切り裂いて…柄に捲かれた菊綴がその動きを追う様に舞った。 祭りの夜は、まだ、これから――― 焔として――往け。 |
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