緋の想い hi no omoi 1 |
――もう三年…かあ。 窓の外に見える御神木にも春が訪れて、枝々はふっくらとした浅緑色の豊かな若葉に覆われている。18歳になった日暮かごめは、目の前の薄い冊子を閉じて外の景色に見入っていた。 "Manual For New Students"……冊子は、彼女が今年入学する予定のアメリカの大学の便覧だ。 アメリカ。 それは三年前までは考えもつかなかったこと。高校受験のさなか、戦国時代との二重生活を強いられていたかごめには、当面の生活の両立が精一杯で、自分の将来について思いを巡らせる暇すらもなかった。 突然戦国の世へ放り込まれ、銀色の髪と金色の瞳を持つ半妖、犬夜叉と出会った。 それぞれに消えることの無い傷を負った仲間達と出会った。 彼らと寝食を共にし、迫り来る時間の中で妖怪たちと戦った―日々。 短かった筈なのに、それまでの人生で一番濃密な時間だった。自分の居場所が、段々と戦国の世にあって当然のものとなっていく感覚。 「ただいま。」 井戸を潜り抜けて戦国へ着くたびに自然と口をついて出た言葉は…。いつまでも、いつまでもずっと、続くように思っていた。 そして、半妖との、恋。 けれど彼が自分ではない巫女を選んだと知った時、かごめはその世界に別れを告げる決意をした。 井戸はもう埋められた土の中…。 それでも未だに、心の土の中から時折顔を覗かせる消えない記憶。埋め切れなかった記憶が、夜叉の水干の乱れるような緋の色が、消えない。 (だから留学すると決めたのよね) かごめの脳裏には今、当時の情景が色彩豊かに蘇っていた。 (御神木やら骨食いの井戸なんかに囲まれてちゃ、いつまでも新しい私になれない。逃げるのとは違うのよ。だって新しい私の居場所を見つけたら、私必ず戻ってくる、ここに) 後継ぎだしねー、そう呟きながら、かごめは冊子を開きっぱなしの旅行かばんに放り込み、蓋を閉める。 出発日は今日だった。 部屋の片隅に歩み寄り、そこに立てかけてあった弓葉を手に取ってかごめは思い返す。戻ることは決してないと解っていながら高校で入ってしまった弓道部。妖怪の眼球のような的の中心に、いつも重ねていたのは何だったのだろう。 何にしても、弓はかごめの手に本当によく馴染んだ。 もう使うこともないだろう。私が発ったら捨てておいてとお母さんに頼もう。 その時。 ――何? 何か、何かを感じてかごめははたと息を止める。いつかどこかで感じた事のある、閃くような感覚が一瞬視界を彩る。 (これは――四魂の玉の気配…?) 思わず自分の頭をよぎった考えを、かごめはすぐに打ち消した。 (そんなはずないじゃないの。井戸はもう土で埋めてしまったはずだわ) 慌ててその不穏な感覚を振り落とそうとする。けれどもう一度窓の外を眺めてみて、かごめは今度こそ確信した。 …四魂の玉だ。間違うはず無い。 これは確かに…四魂の玉!! 息を切らして祠の引き戸を開けたかごめは、しかし一瞬にして白けた気持ちになった。そこには四魂のかけらの気配など微塵も残ってはいなかった。むんと立ちこめるまだ新しい土の匂いが、三年という時の意外な短さを感じさせ、忘れたはずの懐かしい気持ちを蘇らせる。 (そういえば三年前から一度もここには足を踏み入れてなかったっけ) 懐かしさという妖精が、ふいにかごめの辛い記憶を柔らかなヴェールで包み込む。三年前以来初めての素直な懐かしさの気持ちに少々驚きを覚えつつ、かごめは井戸への階段を降りていった。あまりに思い出が近くにあって、まるで三年前のあの日に戻ったような錯覚すら覚える。犬夜叉に会える、そんな優しい想いに心躍らせて、この井戸を通り抜けたものだった。 井戸の縁に触れてみる。 零れ出す土に触れてみる。 (戻りたい) 抑えていた気持ち。かごめの体の中で冷たく固まっていた想いが、手の土の感触にゆっくりと溶け出してくる。急速に熱くなる想いは、かごめ自身を飲み込まんばかりに体の底から流れ出して止まらない。かごめは唇を固く引き結び、瞳をぎゅっと閉じてそれを体の中に押し戻した。 「忘れたはずだわ」 しっかりと瞼を開ける。視界の端に、栗色の自分の髪を一束捉えた。薄い桜貝色に塗られ、白い小花と金色の小さな玉が飾られた自分の爪に目を落とす。 鏡を見る度に大人っぽくなってゆく自分の顔は、戦国時代に非業の死を遂げた巫女にどんどん似てきていた。 ――桔梗。 思わず呟いて仕舞うのが嫌で、髪を染め、眉を茶色く引き、化粧をして、かごめも派手な女子高生の仲間入りをした。 耳には五つ、小さな赫い石が光っている。けれどそれでも、洗い立ての素顔に残る桔梗の面影は消すことが叶わなかった。 それどころか、心に深い傷を負った彼女の顔に浮かぶ表情は以前にも増して桔梗そのものだったのだ。 「感傷的になるなんてらしくないわよ、かごめ!私は三年前とは違うの、もう何もかも違うんだ」 もう一度井戸を眺めて、かごめは踵を返す。 (早く行かなきゃ、飛行機は待ってくれないのよ) サヨナラ。 そう思って視線だけを後ろに流したその瞬間。 ――あ… 階段を踏み外したかごめの身体が宙に浮かぶ。 かごめ、どこにいるの、時間よ、と呼ぶ母の声が遠ざかってゆく。 (痛くない?私床に落っこちたハズじゃなかったっけ) 気がついてかごめは瞳を開けた。春の爽やかな陽射しが闇に慣れた目に沁みる。 陽射し? はたと気付いてかごめは自分のしがみ付いているものを見た。 井戸の縁の木枠。土で埋まっていたはずの井戸の中から外を覗く様な格好で、かごめは井戸の縁にしがみ付いていた。 ――まさ…か。 「お前……」 ばっと顔をあげたかごめの瞳に飛び込んできたのは―― 緋色。 緋色。 鮮やかに耀く――緋色の衣。 新緑色の風景との対照で、風に揺れる水干はまるで真っ赫に燃える炎の様だ。 犬…夜叉…… 疑いようも無かった。かごめは戦国時代に戻って来たのだ。 「かごめ…っ」 金色の瞳を驚きに見開いて、犬夜叉が小さく叫ぶ。 「お前本当にかごめなのか!?」 栗色の髪と眉。鮮やかなピンクのTシャツにはそれより一段濃いピンクでラメのハートが象られている。黒と白のチェックのサブリナパンツの下からはほっそりとした足首。 ミュールの爪先からは赤く塗られた可愛らしい爪が覗いて。 この少女が、かごめ…?でもこの鼻先を擽る優しい匂いは。 「誰よ、あんた」 驚きと懐かしさと悲しみが一度に噴出した心とは対照に、かごめは頭の芯がすっと冷えてゆくのを感じていた。ゆっくりとした動作で井戸から身体を起こし、五百年前の土に再び足を下ろす。 「私はかごめなんかじゃないわ」 鋭い瞳で半妖を睨(ね)めつけた。 「かごめじゃない、少なくともあんたの知ってるかごめじゃない」 三年前より少し背が伸びた少女の四肢が、伸びやかに春の緑に影を落とした。ざわ…と木々を揺らした風が、突然の平地に驚いて地を低く撫でてゆく。 「お前の匂いは…かごめの匂いだ」 犬夜叉がまだ揺れる瞳で少女を見返す。 (泣いてる?昔私にそばに居てと頼んだ時と、同じ瞳だ) 三年前のかごめなら、駆け出して抱きついていただろう。抱き締めて、そんな瞳をしないでと囁いただろう。だが今のかごめの心には、悲しい恋の傷痕と、そしてもう一つ。 漆黒の墨が一滴、滲んでいる。 「匂い?じゃあ、そんなもの消してしまわなくちゃならないわね」 意地悪く微笑ってかごめはガラスの小壜【こびん】をポケットから取り出した。しゅ、と軽い音を立てて、何か透明な霧を吹きつける。 ふわっと甘い香りが広がった。 「おい、止めろよ!」 犬夜叉は駆け寄ってかごめの手から小さな壜を叩き落とした。かごめの腕をつかんで、その感触を確かめる。 ――戻ってきたのか、かごめが…。 「放して!!あんたなんか知らない!」 かごめは纏(まと)わりつく想いを切り離すかのように、犬夜叉の手を振り解いた。 「どうしてよ…どうして今更こんな所に戻ってきたの?私はこんな所に来たかったんじゃない!触らないで!!私を帰らせて!」 (そうだ、早く帰らなきゃ飛行機に遅れる…!!) かごめは慌てて時計を見る。 「あと、一時間しかない…。今すぐ帰らなきゃ、今すぐ!」 (そうよ、そうしなきゃいつまでもここから離れられない…) 「待ってよ、かごめちゃん!その髪の色…ほんとにかごめちゃんなの!?」 珊瑚が耐えられなくなってかごめに駆け寄り、弥勒もそれを追って駆け寄った。珊瑚がかごめの肩に手を掛け、呼び掛ける。 「かごめちゃん…?」 「触らないで!!」 かごめはばっと顔を上げ、珊瑚の手を跳ね除けた。 「私は帰りたいのよ!わかる?あんたたちは四魂の欠片を見つけるために私が必要なだけじゃない。そんなくだらない理由で私を引き止めるわけ?…っ馬鹿にしないでよ!」 そして思いついたように一瞬息を呑み、ゆっくりと付け加える。 「それに…私はもう四魂の光を感じることはできないわ」 驚いて黙り込む一同を、勝ち誇ったような笑顔を繕【つくろ】って見回した。 「どうしてなんです、かごめ様?」 弥勒が合点が行かない顔で不安げに呟く。 この少女は本当にあのかごめ様なのだろうか。彼女は、いつも周りが眩しく思うほどに明るかった…。 くす。 「かごめ様?」 「桔梗がどうして霊力を失ったか忘れたわけじゃないでしょう?」 「どういう事だよ?」 犬夜叉が嫌な予感に耐えかねて叫ぶ。 「わからないの?」 ゆっくりと木々の緑に目をやる。 「私にはもう決めた人がいるの。愛してる人が」 悲しい。悲しい、嘘。珊瑚でも弥勒でもなく、犬夜叉だけに向けられた嘘。 ――お互い様でしょ、犬夜叉。 悲しい想いを憎しみにすり替えて仕舞おうとしても、傷痕はただ深まるばかり…。 もう誰も口を利く者はいなかった。かごめは彼らに背を向け、井戸の縁に手を掛けて目を閉じる。 (前、犬夜叉が井戸を壊した時、強く犬夜叉に会いたいと思ったら戦国へ戻れた。私にとって今一番大切なのは現代でしょ?そうでしょ、かごめ。―だったら。戻れるはず、強く思えば。現代に戻れる) 井戸の木枠を強く握り締める。瞼をぎゅっと閉じて、瞼の裏に強く強く想いを浮かべる。 ――ママ。おじいちゃん。 何度も何度も想い返す。 行きたかった大学。アメリカ。私の居場所はきっとそこにある。きっと…! 還りたいの、私の時代(くに)に。 ――草太…!! ぐらりと身体が傾ぐ感覚に、目を開けてみると、目の前の戦国はもうゆらゆらと揺れる陽炎の向こうのようにぼんやりと霞んでいた。 犬夜叉達の呼ぶ声が遠くに聞こえる。 もういい。 カツン… ――え………? 今にも掻き消えようとしていた目の前の景色が、急に鮮やかな色彩を取り戻した。遠く離れた所に響いていた皆の声がいきなり耳元に聞こえ、犬夜叉に掴まれている腕の感触が戻って来る。 かごめにはさっきの小さな音の正体が判っていた。 皆の手を振り解き、井戸の周りの草に目を凝らす。 「草太、草太どこなの!?」 一瞬、草の中に太陽を視て、かごめははたりと手を止めた。 (あった…) 草根をそっと掻き分ける。 光ってる? 指先を触れると…熱い。怯える様に光る小さな硝子球。それはかつてかごめの幼い弟のものだった。 もう一度手を伸ばそうとしてはたと手を止めたかごめの背に、緊張が走り、かごめはばっと振り返る。 「どうしたんだよ?!」 犬夜叉の問いに応えることなく、かごめは森の一点を見据えたまま動かなかった。 「姿を見せて」 巨大な邪気の渦。ねっとりと生温かい瘴気の風が噴き出して通り過ぎざまに木々の幹を抉り、根元近くを蝕まれた木々は灰に変わって音も無くさらさらと消えてゆく。 ジジ…ジジ…と耳鳴りの様に聞こえていた音が徐々にトーンをあげて、それが虫の羽音だと気付かせた。その後ろに浮かぶ輪郭は、若い男の格好をしているのか。 舞い上がる灰が春風に煽られてより高く消えてゆき、男の正体を明らかにした。 病弱な貴人といった面持ち。濃い睫毛に縁取られた切れ長の双眸は、眦(まなじり)が鋭く、ゆるゆると流れる黒緑色の長い髪は、妖風に吹かれてその顔を半ば覆っていた。長く陽に当たったことの無い、青白い肌。似合わないほどに朱く薄い唇は、何を考えているのか幽(かす)かな笑みを浮かべていた。 パシッ…!! 音を立ててかごめの足許の硝子球が弾け飛ぶ。 ――姉ちゃん、姉ちゃん 「姉ちゃん、早く帰って来てよ?」 「もー、わぁかってるって、草太。ちょっと買い物に行って来るだけでしょー?今日はお母さんが居ないんだもの、晩御飯の材料買って来なくちゃどうしようもないの。草太もねぇ、男の子なんだし一人で留守番くらい何時もしてるじゃない」 靴紐を結びながら、かごめは呆れた声で応えた。 今日は荒れそうだな、と洗濯物を取り入れた時の鼠色の空を思い出す。 「だってぇ、なんか今日はすごく変な天気なんだもん」 確かにその日は奇妙な天気だった。夕方でもないのに朝から低く雲が垂れ込め、風も夏特有の湿気の無いからっとした風とは程遠く、じっとりと含んだ水気で苛苛した気分を誘った。 「大丈夫大丈夫、ちょっと異常気象なだけよ、天気予報も言ってたわよ?雨は降るけど大した事無いって。ほらほら、いってきます」 そう明るく言って不安そうな弟を家に一人残した、夏のある日。 その時扉を閉めざまにちらっとみた、不安そうにいつまでも自分を見送っていた姿が、最後の弟の姿になってしまうなんて。 帰って来た時にはもう草太の息は絶えかけていた。外傷も何も無く、ただ真っ青な顔で目を見開いて。 「どうしたの!?何があったの、草太!!」 そう呼び掛けても草太は答えず、ただ、何事かを小さく呟いて絶命した。凍りついた表情はまるでこの世ならぬ物を目撃したかのようで、その瞳は大きく見開かれたままだった。肌は緑白色に色を失い、半開きになった小さな可愛らしい唇はかさかさに水分を失っていた。愛くるしかった弟の顔、今眼の前に横たわる蝋人形は―――誰…? 堅く握り締められたその手には、炭酸水(サイダー)色の硝子球……………。 母と祖父が帰って来るまでの数時間の記憶が、かごめには無い。卒倒しそうになっている母を助け、いつもとはうって変わって冷静に行動したのは祖父だったそうだ。かごめはただ茫然と弟の亡き骸の横にへたり込んでいたと言う。 思い出した、あの言葉。 ずっと思い出せなかった最期の言葉。 ――蜘蛛、が、姉ちゃん…怖いよ…。 「あんた…だったのね…」 「ふ…何をしに帰ってきた、小娘。髪の色が変わっているが…、愛しい男に裏切られてすら想いは捨て切れなかったか。愚かなものだ」 「ふざけないでっ!」 かごめは顔を上げ、因縁の敵妖を睨みつける。それは、その場にいる誰もが見たことの無い、憎しみと悲しみの織り成す紫の炎に滾【たぎ】るかごめの瞳だった。沸騰した両眼からは熱いものが零れ出す。 「一つだけ答えて」 色を失った花弁は細かく微動しながら、それでも塊のような言霊を紡ぎ出してゆく。 「もしあんたが…もしあんたの眼の前に私の弟が居たら、あんたどうする…?」 「決まっておろう」切れ長の双眼がさも面白げに生気を燈した。「我が瘴気で一撫でしてやるのみ」 少女の瞳の炎がふっと吹き消された。 そういうこと…。草太がいきなり還らぬ人となったのは。 500年後、500年の時を隔てて――この男は私の弟を殺める。 私が現代に還ってしまったから…この男の息の根を止めなかったから…だから、だから草太は…!! 何も言わずにかごめは奈落に背を向け、二、三歩足を進めてぴたりと立ち止まった。 「残ってやるわ。」 誰に言うでも無く、けれどはっきりとした口調でかごめは言った。徐に面を上げる。両の眼には炎の燃え尽きた、穴の空く程深遠な虚空が広がっている。その奥底に見える一点の星の光は、少女の悲しい決心の光か。整えられた茶眉は歪みから放たれ、今や意思の強そうな伸びやかさすら見せていた。 「残ってやるこの戦国(くに)に。そして…」強い両眼の光が奈落の闇を貫き通す。「あんたを必ず倒してやるわ、奈落!私の弟を殺させはしない」 奈落は久しぶりに視る強い真っ直ぐな光に眼を側めながら、その中の傷ついた色を敏感に察知した。訝しげなその表情に、かごめは止めを刺すかのように言葉を繋げる。 「何のことかなんて、解らなくていいのよ。500年後の事なんて考えなくていいの。あんたは私の手で…殺されるんだから」 吸い込まれそうな濃紺の天蓋は時間と共に一刷毛、二刷毛とその色合いを増し、子の刻を過ぎた今では深海の底を思わせる深さで、己を見上げる少女を包み込んだ。戦国の世に星が多いのは、争いに朽ち果てた魂(たま)が最期の光を放とうと天に昇る所以か。所狭しと犇(ひし)めき合う星屑の中央に鎮座しているのは銀の鏡。その鏡面に白兎が居ると何故太古の人々は信じたのだろう。吾こそはと震えるように身を削って燃える星達を横目に、銀の満月は波一つ立たぬ鏡面で少女の悲しみを吸い上げ、ますます白く輝きを放つ。 ――何て綺麗。 かごめは井戸の上にぽっかりと広がる夜空の下に身を横たえ、仰向けになってその輝きを浴びた。かつての仲間達は今ごろ、楓の家で眠りに落ちているだろう。春の柔らかな夜の帳は、彼らの眠りを何時もより優しく、深いものにしていた。 両の手を夜空に差し伸べてみる。指の間から星が零れた…流れ星。少女の心が何を願ったか、それは少女の顰(ひそ)められた眉根から想像が付いた。 (草太、必ず未来を変えてみせる。) 奈落を500年前の今亡き者にしておけば、きっと500年後に草太が奈落に殺されるという未来は変えられる。その強い思いだけが遥かな時代(とき)を遡って、彼女を此の苦い思い出の地に留まらせていた。 黒々とした木々のシルエットに、一筋の銀糸が煌めいた。視界を遮って揺れる枝をそっとつかみ、金色の眼差しを遠く滑らせる。その先には夜天に白い腕を伸ばす少女… 『四魂の欠片を見つけるために私が必要なだけじゃない』 『私はかごめじゃない』 『私にはもう決めた人がいるの』 自分の右の薬指に光るものを見つけて、かごめは眉根を寄せた。 (嘘ばっかり。) 自分からみんなを突き放すようなことをして…惨めになるだけじゃない。忘れよう忘れようとしてきたけど、結局何も変わってはいなかった、私の中で。 記憶はいつも鮮やかで…。 (変わってしまったのは私だけ) 悲しかった。如何して彼は私でなく桔梗を選んでしまったのか、勝てない理由が解っていてなお空回りする想い…耐え切れなくて憎しみに身を委ねてしまった。 桔梗さえ完全に死んでしまっていたなら。 犬夜叉が私を選んでくれていたなら。 ――違う。ほんとは…。 疑いたくなる気持ちを無理矢理押し込めてきた。でも…。 そばに居たかったくせに。 かごめは起き上がり、脳裏に燻(くすぶ)る灰色の霧をを振り払うように頭(かぶり)を振った。そして思い切ったように立ち上がり、井戸の上に右手を翳(かざ)す。 「あいつ、ちょっと似てたのよね」 井戸に湛(たた)えられた暗闇の中に、小さな光が落ちてゆく。 軽くなった薬指を感じながら、呟く。 「犬夜叉に…」 (何、落としたんだあいつ) 爪月の黒い瞳孔を緩めて目を凝らしてみる。 「銀の輪?」 …と、視線に気付いたのか少女が此方(こちら)を振り返り、犬夜叉は一瞬ぎくっとして身を縮めた。 (…って何やってるんだ俺…あいつはかごめだぞ?桔梗じゃあるまいし、気付くわけな…) 「犬夜叉?」 (い…っ) 「…のわけないよね」 枝から落ちかけた格好で思い切り顔を顰(しか)めた少年は、けれど横を向いた少女の涕(なみだ)に頬を強張らせる。 小さく滑らかな結晶が、白い肌の上を滑り落ちてゆく。 その地上に輝く小さな小さな星に、驚いた銀の月はかたりと揺れてその鏡面を波立たせる。 |
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