緋の想い
hi no omoi

2








 時は流れるように過ぎ去って行った。
 ついこの間まで柔らかなふくらみを持っていた木々の緑も、今では濃緑色の厚みで気温の高さを際立たせている。
 空は抜けるように蒼い。雲ひとつない高い高い天蓋に、蝉の大音声が共鳴して旅人たちの頭上に降りそそぐ。
 気温は朝からとどまることなく上がり続け、太陽が最頂点に達する正午ごろには耐えがたいほどのものとなっていた。そんな状況で、木々の間にせせらぎの音を捉えた一行は、耳だけでなくその肌でも水を感じたいと、途端に歩速を速め、ついに目的物を眼前にしたところだった。
 太陽の光をきらきらと分散させて流れる小川が目に眩しく、その勢いの良い水音は耳朶を心地よく刺激する。平生から一番乗りを好む子狐の小妖怪はもちろんのこと、普段は仏頂面で興味を顕わにしない犬耳の少年までも、思わず頬を緩めて冷たい水に掌を差し入れ、その温度を楽しんでいた。

 そんな一行から少し離れた流れの一段激しいあたりで、頭上に照りつける太陽をぎゅっと見返す者が一人。
 質素な巫女装束を身に着けて右手に弓葉をたずさえ、華奢な肩に矢筒をかけている少女の髪は、太陽の光に照らされて一層明るく映える、鮮やかな栗色をしていた。三年の時を経て再び現代から戦国へとやって来たかごめは、数ヶ月の時が過ぎてなお、かつてはすべてをさらけ出していた仲間達に気を許してはいなかった。
 思いがけずもう一度体験することになった戦国の夏。現代のように冷房も無く、一日中暑さに身を包まれる。
 流石に暑さを感じたのか、かごめは少し流れの緩やかな所へ近寄ろうとしてはたと動きを止め、再び太陽の方に顔を向けた。
 この時代に戻ってきて三ヶ月余り。かごめは現代に帰っていた三年間の事を頑なに何一つ話そうとはしなかった。初めは何とか聞き出そうとしていた仲間たちも、次第にあきらめて今では何も尋ねなくなった。それでも珊瑚や弥勒は何かにつけて話しかけてはかごめの気持ちを解(ほぐ)そうとしていたが、犬夜叉とかごめの距離は離れてゆく一方で、何時も一行の緊張を解き笑顔を誘っていた彼らの口喧嘩も、もはや見ることはできなかった。あらかたの妖怪は倒してしまったのか、時々思い出したように襲ってくるのは奇怪(きっかい)な巫女姿の少女に驚いた精霊程度のもので、何もなく歩き続けるだけの日々が流れた。
(何故なにも仕掛けて来ないの、奈落…)
 単調な日々の中で、かごめは時々自分の目的を忘れかけてしまいそうになった。弥勒が珊瑚にちょっかいを出しては追いかけ回されている様子を見ながら、声を立てて笑いそうになっている自分に気付くたびに、遠くを眺める半妖の無防備な横顔に思わずかけ寄りたくなるたびに、自分を嘲(あざけ)って気持ちを抑えなければならなかった。
 ふとした瞬間に、昔のかごめに戻ってみなに溶け込みたくなる衝動はかごめの気持ちを惨めにさせる。
(バカね、戻れっこないじゃない。私は草太のためだけにここにいるのよ、そうよ、他に何の理由もない)
 弓葉を握る右手に力を込めて、その感触を確かめる。
(草太のためだけに…そのためだけ…だから私は生き延びて奈落を倒さなきゃいけない。仲間なんて作れないよ、私は…)
 目を細めると、ぎらぎら輝く太陽だけが視界の中に広がってゆく。
 だって、見捨てるかもしれない、私は。草太の為にみんなを。
 長くみつめ続けた陽の光が瞳孔を灼く。

 眩暈。

 まだ皆が水との戯れに夢中になっている横で、柄になくはしゃいだ気持ちになっていたことを少し恥ずかしく思ったのか、犬耳の少年が水面を離れた。
 ふと視線を遠くにやる。
 その金色の瞳に映った天を見上げる少女。
 焼けた河原の石から立ち昇る陽炎の向こうに見えるその姿は、夏の空気と溶けあって違う世界のもののように思われ、思わず犬夜叉は目を側(そば)めた。
 川面から跳ねあがる水飛沫が、少女の紅の袴の裾もとに小さな虹を作りながら輝いている。
(かごめ……)



 パチパチパチ…
 鮮やかな橙色の炎が夜の闇をまるく刳りぬいている。
「何を考えているのです、犬夜叉」
 黒い法衣に紫の袈裟掛けをまとった青年。左手だけに黒い腕当てを嵌め、さらに本連の数珠を巻きつけている。弥勒は、三代受け継がれた宿敵の呪を、その左手に封印する有髪の法師である。
 いつでも優柔不断な笑みを絶やさない彼が、そこらの僧など比較にならないほどの強力な法力を持っていると、誰が思っただろうか。
「何でもねえよ」
 答えた犬夜叉は平生の仏頂面をさらに顰(しか)めて、とりつくしまもないといった様相だ。弥勒はその視線の先をたどって苦笑した。
「かごめ様のことでしょう。最近あまり口を利いていないようですな…まぁ大体の理由は分かっているが」

 パチパチパチ……
 真夏の焚き火が静かに眠る二人の少女を照らし出す。
 山の中で野宿する時に焚き火は必須だ。犬夜叉の妖気を感じられない動物たちは、時も構わず人間の匂いに群がってくる。安眠を妨げられてはたまらないと焚いてはおくものの、流石に真夏の夜。弥勒はなるべく火に近寄らぬよう錫杖の先で薪を転がした。
 がらら…
 薪が崩れる音に、栗色の少女が眉を少しひそめる。
(以前はこのくらいの音では動かなかったものだが…)
 弥勒はそう思いながら、音を立てぬように錫杖を手元まで引き戻した。

 パチパチッ…
 勢いを増した炎が威勢良く燃えあがる。
「かごめ様に何があったか知っているか?」
 唐突な質問に、犬夜叉は驚いたように弥勒を見た。
「てめえ、知ってんのか!?」
「いや」
 弥勒は答えて視線を炎の上に泳がせた。互いに絡み合いながら踊る炎を二人はしばし無言で眺める。犬夜叉の金色の
瞳も炎を映し出して燃えたけれど、それはまるで泣いているかのような色に見えた。
「かごめは変わった…」
 徐(おもむろ)に犬夜叉が口を開く。弥勒はその言葉にすこし表情をこわばらせて犬夜叉を見返した。
「お前…心からそう思っているのか?」
「じゃあお前はかごめが昔と何も変わっていないというのかよ!?あいつは…」
「確かに」
 弥勒が皆まで聞かずに口を挟む。その見透かすような黒い瞳はは少し怒ったように犬夜叉を見据えていた。
「かごめ様が昔と全く同じだとは言わない。今のかごめ様は心に深い傷を負っておられる…それは恐らくかごめ様の弟だという少年に関係あること
でしょう。少年と奈落に何かあったのかもしれない。だがそれだけではない…お前も分かっているだろう?」
「俺のせいだってぇのかよ…」
 まるで自分のせいだと言っているかのような犬夜叉の口調にも、弥勒は表情を和らげることなく続けた。
「お前、かごめ様が最近水面を決して見ようとしないのに気付いていたか?流れの緩い川にすら近寄ろうとしない」
「何が言いたいんだよてめえさっきから!」
 いらいらした様子で犬夜叉が声を荒げる。
「かごめが川に近付かないから何だってぇんだ!」
 弥勒はすぐには答えようとせず、犬夜叉をじらすように、わざと左手の腕当てを締め直しなどする。
「おい、弥勒何とか言えよ!」
「桔梗様に…最近のかごめ様はますます桔梗様に似てきた」
「てめぇ!!」
 思わず殴り掛かろうとした犬夜叉は、音もなく差し上げられた弥勒の錫杖で遮られて鼻白む。
「暴力はお控えなさい。おなごたちの眠りを妨げてしまいますよ」
 弥勒の言葉にしぶしぶと犬夜叉も浮かせた腰を下ろした。
「かごめ様は何も変わっていない」
 犬夜叉が不貞腐れて座りこむのを横目にとらえて、弥勒も錫杖を下げる。
「かごめ様は昔と少しも変わらない優しくて明るいおなごだ…ただ、今はためらっている」
 犬夜叉は弥勒の言葉に訝しげな顔をした。
「だから、てめえ何が…」
「分からぬか」
 弥勒の黒く真っ直ぐな視線が犬夜叉の金色の視線とぶつかり合う。
 七宝が子供らしい呟きを漏らして寝返りを打った。

 パチパチパチ…
「お前は今までかごめ様の何を見てきたのだ?」



(何を見つめている、かごめ…)
 二人の間の空気がゆらりと揺れる。
 焼けた石。
 陽炎。
 真夏の太陽……、光。
(何を考えている、かごめ)
 蝉の声。



 ジジ…ジジ………

 がさりと音を立てて、森の下草の間から人の頭が覗いた。中年一歩手前といったその男は、隣国へと商いへ向かう途中の旅商人であった。戦火で自国の市場を失った商人たちが、比較的平和な国へと商いに向かうのは当時良くあることで、この男もそんな者の一人だった。三日前まで滞在していた国は、流入する商人で溢れ返りどんどん売上が見込めなくなってきてしまった。先見の明を自負する男は、早々にそんな国に見切りをつけて更に遠くの国へと足を伸ばそうと考え、山に囲まれて人の出入りが少ない国へと目星をつけたのである。
 しかし、彼の考えは甘かった。山越えに自信があった彼は、前いた国の者たちの言うことに耳を傾けようとはしなかった。
「あの国へゆくのか?」「危険だ、あの国は…」
「なあに、山越えなど慣れておるわ。訪れる人が少なければ尚よい。俺の和紙は一品だぜ、きっと飛ぶように売れる」
「愚か者め、あの国がどういう国か知らずに行ってしもうたわ…あの国は」

 ――一晩にして突如現れた、妖かしの森に囲まれるこの世ならぬ国…治めるのは若い貴人の姿をした男だと聞く……

 いつの間にか人の踏み固めて出来た細い山道が消えていたのに気付き、男はちっと忌々しげに舌打ちをした。
(ったく下らない迷信だぜ。山越えの勇気も無い奴等が俺だけが成功するのを妬んで言ったに決まってる)
 男は視界を遮る背の高い草むらを乱暴に掻き分けながら、ふとすれば頭を擡(もた)げる恐怖を自分の言葉で打ち消した。
 ジジ…ジジ…………
「ったくうるせえなぁ、何なんださっきから!」
 声を荒げて眼の前のひときわ太い羊歯をへし折る。
(あ……?)
 突如眼の前に広がった草の生えない広がりに男は動きを止めた。そこだけは草一本生えず、赤茶けた土が剥き出しになっていた。生温かい風が足許から肌を舐めるように男の体を登って来る。なんの匂いもしないのに、男は腹わたを抉られるような吐き気を覚えて顔を顰(しか)めた。流れ出す風の元へとやった視線が凍りつく。
 左手に狒狒の面と毛皮を持った若い男。
 その上質な錦の着物から身分の高さが伺い知れたが、虚を湛(たた)えた切れ長の両眼には不思議と何も映し出されてはいない。耳障りな音を立てて小さな黒いものが飛び交っていた。
 羽虫………?
(な…何だよ、人間じゃねぇか)
 男は砕けそうになる腰に力を入れた。体中が邪気を感じてぴりぴりと痺れる。
 全身の毛が逆立つとはこういうことなのかと、妙に冷静な頭が納得していた。
 若い男が滑るように首を回し、その視線を男の上にぴたりと合わせる…
「よ、よお兄ちゃん…」
 若い男の朱く薄い唇が刃のように微笑(わら)う。

 枯れ枝のようななにかが、奈落の足許に転がった。
 その中ほどを覆う褪せた色の襤褸(ぼろ)。片方の端に絡みついているものは…一瞬で転じた白い髪。
 それは先程の旅商のなれの果て。

 彼は躊躇(ためら)っていた。
 今しがた迷い込んできた旅の者らしい男を右手の瘴気で一掃した後、奈落は形の良い眉の根を更にぎゅっと寄せた。
 一匹の羽虫が彼の前に飛んで来る。差し上げた長い指先に留まったそれは、一刻ほど前奈落が放った偵察の最猛勝だった。
「河原…か。人間の群れる所は大概決まっている。あそこまでは一里と離れていない筈」
 何を躊躇っているのだ、奈落。奴等は直ぐ手の届く所にいると言うのに。
 数ヶ月前に見た栗色の髪の少女が脳裏を過(よ)ぎる。あの時自分を見返してきた真っ直ぐな瞳。
 恐怖?
 いや違う。
 確かに少女の放つ矢は彼にとって脅威だった。あの女の髪がまだ黒かった頃、いきなりその浄化の矢で片手を吹き飛ばされたことがある。その時は一瞬逃げることも叶わず二度目の矢に身体までも消し飛ばされてしまった。
 あれは我の油断。奴を甘く見ていたから。
 もう二度とあんなことは起こらない。
 ――では、何故?この躊躇いは?
 強く悲しい光。真っ直ぐに彼の闇の眼を射た。昔は多少の恐れ以外感じなかったはずのあの瞳。
 何故だ、なぜ躊躇いを感じる?

 ――桔梗?

 ふ…ふふ…ふはははははははははは!!

 はらわたから込み上げてくるような主人の不気味な笑いに、小さく忠実な家臣たちの作る輪が、一瞬わずかに広がった。
 はは…ははは…はは…
 狂ったように嘲笑(わら)う若い男。
 あふれ出す瘴気にその長い髪が踊り乱れる。
 はははは…はは…は



「どうしたの、法師様?」
 肩の赤い目をした妖猫を撫でながら、少女が尋ねた。端正な顔立ちは凛々しさすら感じさせ、見事に梳(くしけず)られた緑の黒髪が豊かに背中を流れている。その清清しい美しさは、大人への入り口に立った今爽やかな色気すら漂わせていた。ただ、左に掲げた身長より大きな得物がただ人ならぬ彼女の特異な出自を示して人目を引く。
『退治屋の珊瑚』
 かつてはそう呼ばれて畏敬されていたものだった。
「気が付きませんか、珊瑚?」
 話し掛けられた弥勒は振り返って珊瑚を見返した。その目は、微かな緊張の光を帯びている。
「いや…気付いてるよ。ほら、犬夜叉も気付いたみたいだ」
 珊瑚の言葉に目を向けてみると、鉄砕牙の鞘に手を掛けて横手の森の一点を睨む犬夜叉が目に入った。
「とうとう来ましたか…」
 じゃらりと音を立てて傍らの錫杖を手に取り、弥勒は腰を上げた。錫杖を持ったまま左手の本連の数珠を締めなおす。

 仕掛けてきたな……奈落。







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