緋の想い hi no omoi 3 |
――暑い。 太陽の容赦ない炎が、少女の虹彩をじりじりと焦がす。ひとたびは躊躇った歩みを、今度はまっすぐ流れのゆるんだところへと進めた。 紅の袴が一足ごとにさらさらと、汗ばむ脚を心地良く撫でる。耳朶を打つ水音が遠ざかり、蝉の声が近付いて来る。 澄んだ川の水を通して、揺ら揺らとゆれる川底だけに意識を集中しながら、するりと水の中に白い手を浸すと、かごめの白い手は、水の中でまるで白魚(しらうお)のように泳いで見えた。 (冷たい…) 手から伝わるひんやりとした感触が、かごめの体とこころの火照りをすっと奪い去った。瞳(め)を閉じて心地よさを堪能する。そのまま両手の中の切り離された小宇宙の重みを感じる。 一掬(すく)いの透水を口元にあてがうと、花弁のようなくちびるは潤いをえてさらに瑞々しさを増し、しっとりとした膨らみを取り戻した。花弁から雫がこぼれ落ちる。仰向けた顔から水滴が首筋を、胸元を飾り、落ちてゆく。 二掬い目はもう喉を通さず、水を含ませるように灼けた肌に振りかけた。小さな桶でもあったら今すぐ紅の袴を解いて白衣のまま行水をしたいところだったがそうもゆくまい。せめて手のひらで作った柔らかな柄杓(ひしゃく)で、ささやかな水浴みを楽しみたかった。 ……と、ぱしりと言う水を打つ小さな音が恍惚するかごめの思考をきゅっと小さく現実にひっぱった。そっと瞳(め)を開いてみる。長い睫毛の露で視界が雨上がりの様に虹色に輝いている。その中を川面から撓(しな)る様に飛び出した銀色の小魚(こうお)が舞った。 飛び散る飛沫【しぶき】。 (何て綺麗…) 小魚がくるりと翻ってぱしゃりと元の世界に戻って行っても、かごめは暫く川面に見入っていた。 幾重にも重なる水紋が少しずつ薄れていって漣(さざなみ)に変わる。 その時。 ふ…と焦点が水の中のもう一人の少女を映し出す。 恍惚で羽根の様に浮いていたかごめの胸がずしりと急に重くなって、頭の奥がきぃんと鳴いた。 真っ直ぐな光をたたえた両目が、川の中からかごめを射抜く。 「お前は…邪魔だ。」 桔梗… かっと冷えた頭に火が昇る。 両手を打ち下ろし視界を乱して、それでもまた浮かび上がってくる姿から眼を逸らそうと横を向いて瞳をぎゅっと閉じる。 蝉の声が遠ざかる。 …ちゃん…!かごめちゃん!! 誰… 今私に話しかけないで。 ぬるりと肌を舐める瘴気。 (ちきしょう、いつものことだけど胸くそ悪い、あいつの気…) 弥勒の斜め後ろに身を構え、飛来骨を握り締めながら珊瑚は眉を顰(しか)めた。今更恐怖を感じている訳でも無いのに、体中の毛が逆立ちするような感覚を覚える。嫌悪感と憎悪感が体中を駆け巡り、珊瑚は思い切り飛来骨を打(ぶ)ち込みたい衝動に駆られて身を震わせた。 思い出す、家族との最期の日。 妖怪退治を恐れていた琥珀。そう、あれが琥珀の初狩りだったのに… 「落ち着きなさい、珊瑚。まだ早い」 (あ…) 前を見据えていた弥勒が、一瞬珊瑚を振り返って微笑んだ。 深遠な黒い瞳に珊瑚が映る。 「大丈夫」 (ったく、何時も見ていない振りをして見ているんだ、この人は…) 珊瑚は、逆流していた自分の血が治まっているのに気付いて苦笑した。不埒なことばっかりしていると思うと、いつもこうなんだ。なんでそんなに優しいの? 仲間の仇を目の前に、緊張と怒りと憎しみで我を忘れかけてしまう私とは全然違う。貴方だって父親をあいつに殺されたはずなのに… 「やばいなあ」 聞き取れないように小さく呟いて、誤魔化すように視線を泳がせてみる。纏わりつく瘴気を除けば、先程と何も変わらぬ辺りの景色。相変わらず鈍感な蝉達は声を張り上げて鳴き、川の水はきらきらと輝きを放ちながら流れている。 しゃらりと錫杖の音がして、弥勒が手に力を入れたのに気付いた珊瑚は、慌てて視線を戻そうとして目に飛び込んできたものに驚いた。 紅の袴に生白(きっぱく)の衣。 (かごめちゃん…?) 真っ青な顔をして、半開きの虚ろな目のままふらふらと川べりから後ずさっている。 (まずい、あそこは奈落と一番近い場所…!!) 危ない、と呼ぼうとして気が付く。 様子が…おかしい? 全力で駆け出しながら、かごめの名前を何度も叫んだ。それでもかごめの目は何かに怯えるように川面の上を彷徨ったままだ。 と、森の木の黒い翳から何かが飛び出した。高く宙に飛び上がったその者の正体に気がついて珊瑚の頭に再び血が昇る。 (奈落…!!) 狒狒の衣から突き出した青白く細い手が、振り翳(かざ)される。 かごめは未だ気がついていない。 鮮烈に蘇るおぞましい記憶。 背中に残るもう癒えた筈の傷が、じくりと疼く。 殺させはしない。 もう二度とあいつの思う通りには。 ぎり、と歯を噛み締めて思い切り地面を蹴る。足に痺れるような衝撃を残して、地が遠ざかった。自分の名を呼ぶ愛しい人の声が耳元を掠(かす)めたような気がした。 (間に合う…!!) そう思って飛来骨を持つ手に力を入れた瞬間。 ――え? 狒狒の衣が剥がれ落ちてゆく。男の姿(かたち)が崩れてゆく。 面の下から覗く下半分の顔が、にたりと冷たく微笑(わら)った。 くぐつ。 やられた、と思った瞬間には体中を痛みが駆け抜けていた。疼いていた傷が悲鳴をあげる。 突き刺さった鎖鎌(くさりがま)。 まだ血の気が引いたまま目を見開いて自分を見るかごめの顔が、視界を掠めた。 誰…? 私の名前はかごめよ、それ以外の何でもないわ。 呼ばないで。 かごめちゃん!!! 脳のまわりに薄い膜が張ったようだ。外を眺めても、何か澄んでいなくて。擦り硝子を通して見ているようにくすんだ色合い。 頭の奥に響く木霊のような声は誰?呼んでいるのは誰の声? 珊瑚ちゃん…? その瞬間擦り硝子が砕け散り、スローモーションで眼の前を濃紅と乳白の小袖、そして豊かな黒髪が通り過ぎてゆく。落ちてゆく少女がその瞳を閉じる前の一瞬、二人の視線がぶつかった。 珊瑚ちゃん………………!!! 「珊瑚ちゃん……珊瑚ちゃん!!」 擦(かす)れた喉から声を絞り出すようにして叫ぶ。 今私は何をしていたの? 駆け寄ろうとした先を一人の少年が阻(はば)んだ。日に焼けていても元が色白だと判るような薄い肌に、小さなそばかすが踊っている。気が弱そうに優しげな曲線を描く眉は、実の姉をその得物で突き刺してなお、皺の一つすらも寄せていない。 無表情。それだけが彼を生身の人間と隔てているものだった。小柄な体躯をまるで生き物のようにするすると這う鎖が巡る。 右の手には珊瑚の血が滴る大きな鎌。 「琥珀くん…」 全てを悟ったかごめの目に又紫の炎が揺らりと点(とも)る。 「奈落…又琥珀くんを使ったの……!!」 語尾を震わせながら、四魂の玉の気配を感じて右手の森の闇をしっかと見据える。玉が薄桃色に放つ光は、どこか灰色にくすんでいた。球形に一筋の割れ目が走っているのが視える。 もう残りの欠片は只一つとなってしまっていることが、かごめの透明な瞳には確(しっか)りと解った。悔しさが込み上げる。 「姿を現しなさいよ!いつもいつもこそこそと…意気地無し!恐いんでしょう私の弓が!!私の顔が!!判ってんのよ、仕掛けてこなかったのは私が前より桔梗に似てるからでしょ?いいわよ、出て来なくたって串刺しにしてやる。弓道部ホープの腕をなめないでね、三年前とは違うんだから!」 一気にまくし立てるなりさっと抜き取った矢を弓葉に滑らせて番(つが)える。だがかごめが引き絞ろうと矢番(やつが)えの型のまま両手をかかげかけた瞬間、足の下の地面がびしびしと軋(きし)んで手許が緩んだ。 琥珀が軽々と横に跳ぶ。駆けつけてきた犬夜叉も、その向こうでまた駆けて来ている弥勒も、裂けゆく地面に足を取られまいと軽く飛び上がって身をかわす。その間にも裂け目は今度は膨れ上がり、その中に在る黒い瘴気が隙間から溢れ出し始めた。瓦礫で細かく裂かれることに焦れた瘴気の蛇は、身動きせずに横たわる少女に的を決めたか、ざわざわと地を這ってその肢体に絡みつきはじめる。珊瑚の身体が押し寄せる瘴気の蛇に持ち上げられ、もみくちゃに飲み込まれてゆく。珊瑚の頭が、左手が、瘴気の竜巻に取り込まれそうになった瞬間…… 激しく波打っていた竜巻はすっと回転を止め、一番天高く昇って居た絡蛇達がするすると解けた。 中から何者かが現れる。 「奈落………」 「娘…この死に損なった退治屋たった一匹で頭に血が昇ったか」 ずぶりと手を蛇の束の隙間に差し込んで、絡めとらわれている珊瑚の身体を引きあげる。ばらばらと解け落ちた瘴気は、奈落の指に梳(す)かれて更に細かい蛇へと転じてゆく。瘴気に体中を蝕まれた珊瑚の身体は力無く、頭はがくりと仰向けに垂れ下がって白い喉を陽に晒(さら)している。その煤(すす)けた頬を涙が伝って滑り落ち、弟と同じ薄く白い肌の上で筋を引く。 「この、悪魔…」 そう呟いた少女の頬にも透明な熱い雫が一つ、すっと音も無く眦(まなじり)から形の良い顎の先まで弧を描いた。それを見て取った奈落の顔に引き攣(つ)った様な微笑いが浮かび上がる。と直ぐにそれを掻き消し、奈落は切れ長の瞳を更に刃のように細めて珊瑚の着物の胸元を掴む手を締め上げた。 「串刺しにすると言ったな、小娘」 ぐいと珊瑚を持ち上げ胸元に引き寄せる。 「ならば、やってみるがいい。この退治屋諸共お前の霊力(ちから)で掻き消してみろ」 さあ、この女の瞳に浮かび上がるのは何だろう。 憎しみか、怒りか、それとも苦渋の色か。 頭に描いた目の前で起こるであろうさも面白い情景に、奈落は顔を歪めて微笑った。 だが、かごめの瞳の中の炎はゆらりと揺れて……………消える。 草太。 あんたを死なせはしない。 沸騰して波立っていた思考がすっと凪ぐ。 ばかね… 「何だって出来るわ。」 もう一度手にした矢羽を弓葉に滑らせる。 しんと静まった矢場の様子が、鏡面のように凪いだ心にありありと浮かび上がった。 えいやあ――っ 弓葉と床の触れ合う音。 かしり。矢を引き抜いて……矢番(つが)え。 弓構(ゆがま)え。 そのまま両手を高く挙げて…物見(ものみ)。 的の中黒をしっかりと見つめる。 きりきりと力を入れながら弓を引き絞る。 そう、矢は地面と平行に。 後は右手を後ろに振り払って―― 振り払って。 きり…… 今にも弾けそうに緊張した弦。 珊瑚の身体の向こうに在る奈落の心の臓を、ぴたりと狙って外さない矢先。 でも。 微動だにしなくなったかごめの身体。 右手を振り払えばみんな終わる。 戦国の旅も。 戦国の絆も。 戦国の恋も。 でも。 矢羽が吸いついて離れない。 (何を途惑うことがあるのよ) 不安げに、何かを訴えるように自分を見送っていたドアの向こうの草太。 蝋人形のように固まったまま私の名前を呼んで事切れた草太。 ああ、あの時私が買い物にさえ出掛けなかったなら。 もっと草太の様子を気にかけていてさえあげたなら。 草太は死なずに済んだ。 私の…せい? ばしりと弓葉が撓(しな)る。 震える弦。 からん。からからから…。 転げ落ちた矢羽が、紅の袴の裾元で、焼けた河原の熱さに驚いたように小さく踊った。 (人間なぞ所詮こんなものだ) 思いもしなかったかごめの行動に心臓が鷲掴みにされるような恐怖を覚え、焦りを訴える鼓動とは裏腹に金縛りに遭った身体を微動だにすることも出来なかった奈落は、からからとかごめの足許に落ちた矢羽を認めて初めて止めていた呼吸を再開した。 退治屋の身体を通して正確で、まだ弓葉を離れてもいないのにまるでもう自分の心の臓を射抜いているかのような銀の点。夏の日光を弾いてすらりと白光りした時の脳天を貫く冷たい針のような感覚。薄笑いを形作ったつもりの唇の中はからからに乾燥して、舌が口蓋に貼りついて離れなかった。 それだけではない。あの時の、あの少女の…瞳(め)。虚ろに、唯自らを打ち抜くことのみにしか拘(こだわ)らぬ瞳。……恐ろしかった。 まだ頭の周りにぴたりと貼りついている恐怖をむりやり引き剥がし、必死に乾燥した舌に潤いを戻す。 (人間なんて所詮こんなものだ) そう言い聞かせる。恐ろしいことは何もない。 弓葉を握り締めていたかごめの手がゆるゆると下がって行くのに気付いて、奈落の思考がやっと正常に機能し始めた。 「他愛ないものよ。小娘、今この退治屋を救ったとて所詮我の手で殺されるのだ、躊躇わずに我を討てば良かったではないか?我が身可愛さに友を裏切る罪を負いきれず、全ての仲間の命を我に手渡したのだ、ふふふ…嬲(なぶり)がいがあるというもの」 平静を装って紡いだ言葉に、少女は意外なほど敏感に反応した。ぴくりと身体を震わせ、一言も何も発しない。その瞳に浮かぶ物は憎しみ?恐怖?いや違う。 ――驚愕。 『右手を振り払う』 矢羽を手から自由にして、その反動を利用し右手を後ろに流す。そして大文字。 頭では解っていたのに。 草太を殺す筈の相手を、今この手で討ち果たす又と無い好機だったのに。 なのにどうして出来なかったの? 友情など、仲間など今の自分にはもう無い筈だったのに? なのに如何して。 頭の中を答えのない虫達が飛び回る。まるでチャンネルの合わないラジオから流れ出すような騒音が、かごめに取り憑いて離れなかった。 奈落の手に吊り下げられた珊瑚の身体がゆっくりと傾ぐ。 「お前にはもう一つ面白い茶番を演じて貰おう」 奈落の頭の奥に、緑色の光りが点った。愉快な気持ちが腹から込み上げてくる。先程まで死の恐怖を感じていたせいだろうか。異常な程の可笑しさに頭が冒されてしまったようだ。笑いに頭を支配されそうになりながら、かたわらにかしづく琥珀を呼び寄せる。 珊瑚の身体をゆっくりと手放しながら呟いた。 くくっ… 「殺せ」 鎖鎌が鈍く光る。 珊瑚…!! 声にならない声で叫んだ弥勒の身体が宙に飛び上がった。珊瑚の身体にするすると蛇が這うのが見える。一気に飛び掛かろうとする弥勒に再びざわざわと絡蛇が擦り寄って来た。煤の集まったような実態の無い細い胴の先端に、赤橙色の点が二つ。口も何もなく唯小さな点だけが何十何百と絡み合って、弥勒めがけておしよせてきた。肌をちりちりと焦がすような熱い痛みが襲う。目の中にも耳の中にも瘴気の灰が入り込む。 錫杖は何処だ?いや俺の右手は何処だ? もう瘴気に喰い千切られて仕舞ったのか? 爪先から頭の頂まで瘴気に飲み込まれる。髪の毛の中にも、喉にも、思考の中にすら灰が入り込んで来る。 記憶が遠ざかる。 珊瑚。 珊瑚。 飲み込まれて行く紅白の小袖が脳裏を過(よ)ぎった。 白い腕が、豊かな髪が瘴気に取りこまれてゆく。 どれほどの時が過ぎたのか。 冒されかけてボロボロになっていた神経の糸にぴりりと緊張が走る。眼を開けば網膜を瘴気が冒す。息をすれば肺まで風化される。――それでも。 ぎり、と奥歯を噛み締めて風前の灯火のように儚くなってしまっていた気を集める。瘴気の中でどこにあるかわからなくなってしまった手足を、どうにか胴に引き戻す。錫杖の柄が額に触れた。 体内に気を満たしてゆく。ぎりぎりまで。 いやまだだ、もっと限界まで。 全身の神経を集中する。身体の表面の神経まで掻き集めたのか、もう痛みは感じない。 もっと限界まで。そう。 頭の芯が白く閃光(ひか)る。 今だ。 眼の前を灰の霧が晴れて行く。刹那に瘴気が紛散する。 瘴気に傷められた両眼を更に突然の陽射しが焼き、傷口に塩を擦り込むようなざらついた痛みに耐えながら、かっと目を見開く。 その霞む両眼に飛び込んで来たものは。 紅の袴の少女の手から矢羽が落ちてゆく。 何事か囁いてくく…と微笑う邪な男。 空を這う鎖鎌。 奈落の手を放れ鎖鎌の凶暴なひらめきへと真っ直ぐに落ちてゆく珊瑚の身体。 珊瑚!! 紅白の小袖の娘の両眼は固く閉じられたままだ。 地を蹴ろうとして全身を激痛が貫く。両の腕(かいな)は己の意思とは裏腹に身体の両脇に垂れ下がったまま動こうとしない。 嫌だ、嫌だ…!! 眼の前で愛する者が果てて行く。自分は又届かない。 これだけ願っても、頭だけはもうあの人の身体を庇っているのに。なのに身体が追いつかない。 珊瑚、目を開けろ…!! 眼を開けるんだ。 珊瑚!!! 法師様…? うっすらと開けた瞳に光の波が押し寄せてくる。眩しい。 浮遊感と引力に吸い寄せられる感覚。 恐い…!! 身を捩(よじ)るんだ。 言われるがままに少し身体を動かせる。首筋の左側にちり、と微かな痛みを覚える。 そして衝撃。 地に叩き付けられた衝撃で脳が震盪(しんとう)する。 霞みゆく意識の中で何故か感じる安堵感。 私の名を呼ぶ声。 間一髪で鎖鎌を避けた珊瑚にほっとして全身がぴりりと痺れたのも束の間、それでもまだ執拗に珊瑚の身体を狙う鎖鎌に気付いて口の中が酸っぱくなる。身体は動かない。念を送る気の欠片もない。 (もう駄目なのか?また救えなかったのか?) また俺の目の前で? 黒い吐き気が腹わたを駆け上る。 耐えられなくなって瞳をぎゅっと閉じる。 とす…。 くくく…くく… 頭の中を冒していた笑いの蛆虫が腹の中からも湧きあがって来る。 眼の前の光景が何故だか愉快で堪らない。 ふ…ふふ…ふはははははは…はは… 腹が攀(よ)じれる。 紅白の小袖を覆い、かばうように、重なる紅の袴。 生白の衣が朱【あけ】に染まってゆく。 |
<<2 へ | 4 へ>> |