緋の想い
hi no omoi

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 夏の陽に包まれる静寂。蝉の声もいつの間にかぴたりと止んで、耳朶を微かに擽(くすぐる)川音以外は何も聞こえない。
 と、向こう見ずな幼い微風が静寂に舞い込んで来た。
 破壊の痕にさぁ…と広がって行く薄緑色の夏風が、銀白の髪と絡まりあって戯れる。

 朱(あか)く朱(あか)く染め流された生白の衣。その下で紅白の小袖が散る。
 ――重なり合う二人の少女。



 狂ったように笑い続けた奈落は、結局二人に止めを刺しはしなかった。笑いと共に瘴気は膨れ上がり、地獄の毒虫達は踊り狂い、そして掻き消すように………消えた。
 俺が妖刀を一振りもする間もなく。
 いや、それとも只、己の時が止まっていただけか。
 灰色に抉られた夏の森。けれどそれだけだ。川の水の色も、夏の貫き通す様な陽射しも、つい先刻までと何も変わらない。
 ぱしゃり……
 銀の鱗が虹に輝く。

 きりきりと弓を引く巫女姿。
 的を見据えるあの眼光。
 桔梗に見えたのか?…いや違う。
 俺は確かに………かごめを見ていた。珊瑚を射抜こうとする、かごめを。
 あの悲しそうな眼を。
 矢羽を取り落とした瞬間の張り裂けんばかりの瞳の色を。

『お前は今までかごめ様の何を見てきたんだ?』

 流動体の暑く重たげな空気を、響く錫杖の音がじゃらりと揺らす。
 犬耳の少年はびくりと身体を震わせ、肩に置かれた手の主を振り返った。



 ふぅ………と年老いた巫女が鬱げな吐息をつく。辺りに立ち込める薬草の煎じ湯の匂いが小さな小屋を満たし、高く昇っていった。
「大した傷では無い、命に障る事は無かろう。だが、当分は動けまい。特にかごめは……身体は普通のおなごじゃからな」
 手を伸ばして囲炉裏の上の鍋に手を伸ばし、濃茶(こいちゃ)色の湯をゆったりと掻き混ぜた。鉄の鍋と匙が擦れ合って、がりり、と音を立てる。楓は傍らの編篭の中から数種類の草を選び出し、葉を丁寧に摘み取った。楓がそれを手で少し揉むと、濃い緑の香りがふわりと二人の男の鼻先を撫で、頭蓋の中のぴりぴりした神経までも落ち着けてくれるかの様だった。柔らかく繊維をこなされた葉が楓の固くて皺だらけの手を離れ、乳白色の擂り鉢を彩る。緑と白の対照が、目に沁みる程鮮やかだ。
 楓はさりさりと音を立てて暫く擦り棒を動かしていたが、ふとその手を止めて壁にぐったりと寄り掛かる男達を見た。有髪の法師はあまりにずたずたになって仕舞った袈裟を脱いで、今は黒衣だけになって居る。体中を瘴気に蝕まれてはいたが、法力の強さと楓の薬が効いたのだろう、今は普段通りの穏やかな表情を見せていた。とはいえ、もともと人前では穏やかな表情しか見せた事は無かったが。そしてその横に座り込む緋の衣。ゆったりとした水干が少年を柔らかく包み込んでいる。緋の色が炎の色に映えて濃淡を織り成しながら揺れていた。
(娘二人は鎌傷を受け、法師も瘴気で体中をやられているというのに…いくら犬夜叉であるからとはいえ、ここまで全く無傷であるというのは只事ではない。やはり、何かあったな)
 楓のあからさまな視線に気付いている筈の犬夜叉は何も言わない。代わりに口を開いたのは弥勒だった。左の手に握っていた錫杖をしゃらりと床に下ろしながら楓の方を振り返る。
「楓様、おなご二人の面倒は私達が見ましょう、もう牛の刻、お体に触ります」
 楓は、いいや、と口を開きかけて弥勒の目の言葉に気付き笑って答えた。
「老体に無理をして早死にしてはかなわんな」
 滑らかに擂られた濃緑色を鍋の中に溶き入れる。
「御主らも無理をするな」
 楓は手の中の乳白の鉢をかたりと脇に置き、腰を上げた。
 犬夜叉は視線を揺らさない。

「私ももうそろそろ寝るとしましょうか」
 楓が小屋の戸を閉めて母屋の方へ去っていく足音を確かめながら、弥勒が独り言を言うように呟いた。無反応の犬夜叉を尻目に、まだ意識の戻らない珊瑚を掛け布ごとそっと抱き起こす。主人の肩が急に床を離れたのに驚いて、妖猫がきぃぃ、と小さく鳴いた。
「おい」
「何です?」
 ここにきてやっと犬夜叉の顔に表情が戻った。眉間に軽く皺を寄せ、顔だけを動かして珊瑚を担ぎ上げた弥勒を見上げる。
「何やってんだよ」
 囲炉裏の火に照らされた左瞳の琥珀色に、いつも怒っている時程の勢いがないことを弥勒は敏感に感じた。
「見れば解るでしょう。意識の無いおなごほどそそるものは無い…」
 微笑しながら自分の肩口に凭(もた)れ掛かる珊瑚の、熱で仄(ほの)かに頬を紅くした顔をくいと自分の方に向ける。弥勒は足許からいつもの怒声が上がらぬかと少し期待する気持ちになったが、やはり耳に聞こえてくるのは炭化した薪のぱちぱちと爆ぜる音と薬湯の戯れだけで、ちらと眦(まなじり)に捕らえた犬夜叉の視線は、既に弥勒から燃え上がる炎に戻されていた。少々気抜けした弥勒は、やれやれと溜め息をついて珊瑚の頭を元通り自分の肩に凭せ掛けた。
「母屋の七宝が起きた時、側に居るのが楓さまだけでは寂しがりますからね。それに…かごめ様がそろそろ目を覚ましそうだ」
 弥勒の言葉にはっとした犬夜叉は、囲炉裏の炎のの向こう側に目を走らせた。かごめの濃く長い睫毛が炎に照らされて、白い頬に細かく揺れる影を落としている。先程まで薄っすらと滲んでいた汗も楓が拭ってやってからは引いたままのようで、沈黙を守っていると薪の音の間に小さな寝息が聞こえる。何時もより朱みを増した花弁の唇がふっくらとまだ少し苦しげな息の塊を紡ぎだす。ふと薬湯の匂いに混じって何時かの優しい匂いが犬夜叉の鼻先を擽った。

『犬夜叉』
 犬夜叉、もう今は独りじゃ無いんだから。

 薄茶の麻の掛け布の下から覗く細い指が、犬夜叉の視線に気付いたのかぴくんと震えて少し縮められた。びくりと肩を震わせて犬夜叉が身体を固くしたのと同時に、とん、と音を立てて戸が閉まった。



 薪の爆ぜる音。炎に照らされて揺ら揺らと明暗の模様を織り成す天井の木目。鼻に香る濃い薬湯の匂い。
(背中、痛い…)
 床と触れる背に、鎖鎌の残した傷の痛みを覚えて、かごめは何があったのかを思い出した。
 私、珊瑚ちゃんを庇ったんだった…。
 何故か心の奥の黒い塊が無くなっているのを感じる。まるで背中の傷から血の朱と共に流れ出してしまったかのように重石を外された心は、逆に今ぽっかりと空いた空洞に途惑って、それでもどこか心地良くて。
(草太、これで良かったよね)
 私は仲間を見捨てられない。
 仲間を守りたい。
 もう一度仲間を仲間と呼びたい。

 …そばに居たい。
 大好きな、あの人の。

 きし、と脇の床が音を立てた。
「犬夜叉」
 少し傾けた視界に、恐る恐る覗き込む琥珀色が映る。
 優しい、優しい匂い。
 身体をゆっくり起こして、そっと白い小さな手を銀の絹糸に滑り込ませる。
 少年の頬の柔らかい温もり。
「そばに居る」

「ずっとそう言いたかった」
 そう、三年前のあの日から、ずっと。



 引き戸の表で黒い法衣の影が揺れる。
 その口元に小さな微笑が浮かぶ。
 そしてその肩口で寝息を立てる娘も、また。







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