緋の想い hi no omoi 5 |
東の山稜が白々と明け始めている。夏の浅い夜は西の山端へと追いやられ、日の出を待つ空に東から段々と白橙色が広がってゆく。濃紺の帳に隠れていた幾つかの薄雲がこれまた橙に染められながら姿を現して、ゆるゆるとまだ涼しさの残る空を泳ぎ始めた。半円を描く天蓋の頂点には、夜と昼の繋ぎ目であるかの様な小さな星が、夜の勤めの最後を弱く優しげな光りで彩っている。そんな朝の始まりの儀式の中、一人の巫女姿の少女が質素な村を一望できる丘を歩んでいた。その水干の袷【あわせ】から覗く白い包帯が、少女の手負いを物語っている。まだ痛みが残るのか、一足一足確かめる様にゆっくりと青草の中を歩む。朝の爽やかな風にさわさわと草の海が波立って、少女の質素な緋袴を撫でた。 暗緑の海にさあっと浅緑が広がって行く。日の出だ。鮮やかな朝の光にかごめは少し瞳を側めて、顔に掛かる長い髪を掻き揚げた。その長く繊細な睫毛に縁取られた少女の瞳の端が、行く手に聳【そび】える樹齢を重ねた大木を認める。その幹の一部分だけが、長年陽の光を浴びなかったかの様に他と色を違【たが】えて僅かな窪みを作って居て、少女はやっと辿り着いた大木の下で、愛おしい者に触れる様にそっとその窪みに手を重ねた。 (思い出すなぁ、始めて犬夜叉と会った時の事…) 大木に封印の矢で縫い止められた犬耳の少年は、真珠色の柔らかな髪をそよがせながら、まるですっと眠り込んでしまったかのように気持ち良さそうに目を閉じていた。初めて彼を見た瞬間。そんな安らかな寝顔をしていた少年の中に、あれほど荒削りな性格が隠されていたとは。あれほど辛い…過去が隠されていたとは。まだ中学生だった幼い少女の辛く大切な数ヶ月間は、彼と共に始まり、彼と共に終わった。そして少女は18の歳を迎えた今、又この戦国の地に足を下ろしている。彼との出会いの思い出に暫し浸っていたかごめは、ふと現実に舞い戻ってくすりと微笑んだ。 (なんかここに来るたびに犬夜叉を思い出してるわ、私) 戦国に生活していた頃、犬夜叉と些細な口喧嘩をするたびに現代に戻っていたかごめにまたこの時代に戻る気を起こさせたのがこの神木だった。登校の朝、学校帰りの夕方、勉強の合間の部屋の窓から、この神木が目に入る度にかごめは彼と自分のことを見詰め、泣いて、笑って、また戦国へ戻って行った。そして戦国との繋がりを断とうと心に決めた後も、やはり神木はかごめに犬夜叉を思い出させた。戦国を思い出させた。 (結局忘れられなかったんだなぁ、ここの事。ずっと忘れようとしていたのに) いや、本当は私自身が忘れたくなかったんだ、そう思い直してかごめは苦笑した。辛い思いをして必死に押し込んで居た自分の本当の気持ち。暴れ出しそうになる程強い感情に鍵を掛けて生きていた。思わず珊瑚の身を庇おうと体が動いた瞬間…その鍵がかたりと音を立てて外れた瞬間。今やっと、かごめは自由な気持ちで自分の心に肯(がえ)んじることが出来た。かごめは身を大木に凭せ掛けたままその根元に腰を下ろした。大木と触れていた左肩が幹の表面を擦【こす】って乾いた軽い音を立てる。ゆったりした緋袴が青草を靡【なび】かせる風を含んで、ふわりとかごめの半身を包み込んだ。 立ち並ぶ村の家々に目を遣る。 村の朝は早い。朝餉の支度のために一家の女手達が水を汲み、薪を運びと戸を出入りしている。交わされる挨拶や戸を引く音、そんな村の目覚めの音が朝の風に乗って距離を離れた丘肌迄も届いて来た。 こういうのを平和って言うのかしら、とかごめは思う。その耳に届く心地良さは、母親が料理する時の包丁の音と通じるものがある。 日常の幸せ。そんな簡素なものまで感じられる様になったのは、やはりかごめの心が開けたためだろう。そんな小さな、それでいて大切なものに触れられたのは久しぶりだった。今は心行くまで穏やかな平和に身を浸らせて居たい。 「かごめちゃん、こんな所に居たの?」 後から涼やかな声がして、かごめは知らぬうちに珊瑚が自分の後までやって来て居たことに気が付いた。 「珊瑚ちゃん…吃驚した、もう動いて平気なの?」 戦国に戻って来て以来一度も交わしていなかった普通の会話に、かごめはまだ幾らか戸惑いを覚えながらも身体をずらして隣に珊瑚の座所を空ける。珊瑚がするりと数年ぶりの友の隣に腰を下ろした。 その、まるで今までもいつもそうしていたかの様な自然な動作に、かごめは自分の一瞬の戸惑いを恥じた。やっぱり珊瑚ちゃんはすごく強い、改めてそう思う。 「何言ってんの、あたしは平気だよ、こんな怪我慣れてる」老木の幹にとん、と背を掛けた珊瑚が答えた。「それより…」 なあに、と答えかけたかごめの疑問符が声になることなく喉元につかえる。 ふわりとしなやかな黒髪が頬に触れた。 視界が軽い衝撃で一瞬揺れる。 柔らかい抱擁。 珊瑚の細い両腕がきゅっとかごめの身体を抱き締めていた。 少し身体を強張らせたかごめの耳朶に、少し低い声の囁きが躊躇いがちに触れた。 「ありがとう」 (え…?) 「珊瑚ちゃん?」 かごめの問いに答えず、それでも暫くかごめを抱き締めて居た珊瑚は、やっと身体を離して少し恥ずかしそうな顔をした。 向きを変えてかごめと並んで座り直す。暫しの沈黙が二人を包んだ。 朝餉のいい匂いが漂って来る。 楓の小屋からも細い煙が昇り、戸口から茶色い毛をした子狐が顔を覗かせて何か高い声で喋っていた。 「犬夜叉とは仲直り出来たんだろ?」 突然珊瑚が口を開いて、かごめはその言葉に顔を赤らめて振り向いた。 「聞いてた?」 じゃあ弥勒様も聞いてたのね、二人とも人が悪いと小さく呟く。そんなかごめを見ながら珊瑚は笑って答えた。 「わざとじゃないよ、目が覚めたらたまたま二人が話してる声が聞こえた。でも法師様もそこまで悪趣味じゃないからね、二人が話し始めたのを確かめて直ぐ母屋の方に行ったんだよ。でも仲直り出来たんでしょ?」 面白そうにかごめの方に向けられた視線は、けれどかごめの顔の途惑いに気が付いて固くなる。 「まさか…違うの?」 東の山の端が鮮やかな橙色に輝いた。涼しかった辺りの空気が一瞬ふうわりと暖かみを増す。真珠色の髪が朝日に染められて柔らかく輝き、辺りで一番高い樹の上から遠く村の様子を眺めていた犬耳の少年は、太陽に照らされた頬が少し熱くなるのを感じた。段々とその全貌を浮かび上がらせて来る太陽が眩しくて、琥珀色の両眼を僅かに細める。暫くそのままぼんやりと視線を漂わせて居たが、浅緑の海の中に埋もれそうになりながらさざめく紅色に目を奪われて、犬夜叉は急に身体を固くした。気付かれまいと枝の深みに身体を引きながらも視線は紅を追う。知らぬ間に彼女は随分近くまで来ていて、しかもどうやらこの樹を目指して来る様だ。少女が朝日に顔を向けて眩しそうに前髪を掻き揚げる。真っ白な指と栗色の髪が絡まって、犬夜叉の心臓がきゅっと締め付けられた。 昨夜まで直ぐ近くに、肌に触れる程近くにあったあの優しい手を、自分は自ら拒絶してしまった。 いや、そうしなければならないと思った。 そばに居る………自分がどれほどその言葉を欲していたか。 三年前彼女が井戸の向こうに消えてから、ずっとずっとその声が聞きたくて、彼女の笑顔に触れたくて……あの匂いが愛しくて。 自分で決めた筈だった。桔梗を自分は愛しているのだと、自分は桔梗を選んだのだとそう悟った筈だった。けれど彼女が自分の傍らから消えて初めて彼女への自らの想いが、桔梗へのそれと質を異にしていたのだと知った。 桔梗を愛していた頃…五十年前のあの頃、自分と桔梗は二人で一つなのだと思っていた。似たもの同士の二人。互いの傷を舐め合って支え合って生きて行く事で強くなれる気がして、麻薬の様に彼女に溺れ、激しく求め合う恋をした。けれどそれは、夏の夕立が激しく、短い様に、そして雨上がりの夜に冷え込みを齎【もたら】す様に脆く消え去った…悲しみの閑散だけを心に残して。でも彼女とは…かごめとは違った。彼女は何も自分に求めては居なかった。何の傷も抱える事の無い無垢な彼女に、出会った当時は反感すら覚えて居たけれど、次第にその暖かい光に自分の硬く冷えた心が解けていった。 彼女との愛は、桔梗との恋とは違う、暖かい陽だまりの様な優しい恋。その暖かさに誘われる様に彼女に包まれて行った。守られていた。 だから……守りたかった。 それなのに。 守れない、自分には。 それは自分が妖怪の血を引いているからだと思っていた。 いつか四魂の玉を手に入れれば解決するのだと思っていた。 でも。 桔梗の矢が自分に向けられる。 あの時自分の心を支配したのは何だった? …憎しみと悲しみ。 信じるなどという崇高な気持ちは欠片も無かった。 でもそれは桔梗との恋だったから。 かごめに対しては違う。 そう思って居た。 でも。 あの時俺は如何して動けなかった? かごめがその矢で珊瑚を狙った時、どうして。 あの時俺の頭を支配していたのは何だった? 信じているなんて、嘘だ…… 俺には守れない。 壊したくないのに。 こんなに守りたいのに。 妖怪だからだとずっと己の生まれを呪っていた。でも本当は。 弱いのは俺の心じゃないのか? 俺には、守れない。 あの笑顔を。 「なぁに、それっ!!」 突然足許から飛び掛って来た黄色い声に、犬夜叉は長い物思いから引き摺り戻された。何かと身体をずらして覗いて見ると、苦笑するかごめの横で珊瑚が一人憤慨している。相当腹に据えかねるのだろうか、かごめを見返す瞳にすら怒気が帯びていた。 「で、かごめちゃんは何、あいつが出て行っちゃうのを追わなかったのかい?大体ねぇあいつも馬鹿だ、かごめちゃんが居なかった三年間なんてさぁ、いっつも上の空でぼぉっとしちゃってかごめちゃんのことばっっかり考えてたくせに、今更一緒にはいられないなんてどういう顔して言うのさ!?」 一気に捲くし立てた珊瑚は口を閉じるとはぁっ、と頭を抱えた。あまりに激しい剣幕に、かごめも口を挟みかねて黙り込む。 「気にしちゃ駄目だよ、かごめちゃん、あいつ意地張ってるだけに決まってるんだから」珊瑚が頭に手をやったままかごめを見上げて言った。「今度あいつにびしっと言って…」 「違うの、珊瑚ちゃん」 黙って聞いていたかごめのはっきりした声音に、憤慨していた珊瑚は口を噤【つぐ】んだ。樹上で様子を窺っていた半妖も、身体を幹に押し付けて耳を澄ます。かごめは珊瑚の注目に少し照れた様に微笑んで言葉を繋いだ。 「私はね、満足してるんだ」 珊瑚から視線を外して彼方を見遣る。その少し火照った頬をそよ風が撫でていった。 「犬夜叉に本当のこと言えただけでいい、自分の気持ち伝えられただけでいい。ずっと隠していかなくてよくなったから…隠しているのって私には合わないみたい。ちゃんと伝えてすっきりしちゃった」明るく笑って珊瑚を振り返る。「だから、それでいいの」 そのかごめの笑顔に一瞬眩しそうな表情【かお】をした珊瑚は、暫くの沈黙の後呟くように言った。 「かごめちゃんは強いね…あたしには、真似出来ない。…素直になんてなれないよ」 「珊瑚ちゃん、それどういう…」 かごめが問い返そうとする間も無く珊瑚が立ち上がる。 「朝餉の支度が出来ちゃうね、あたしも手伝わなくちゃ、かごめちゃんはゆっくり降りて来ていいから。先に行ってる。」 口早にそう言った珊瑚は、これ以上のかごめの追求を逃れる様に背を向けて歩き出した。かごめは少し驚いて立ち上がろうとしたが、珊瑚の横顔に少し朱が差しているのを見て取ってくすりと笑うとまた腰を落ち着けた。 (珊瑚ちゃんだって十分恋には不器用よね) いつも強気な珊瑚も、女の子に戻る瞬間があるのだと思うと、それを垣間見ることが出来たことがかごめは少し嬉しかった。 「それに……」 怪我の身である筈なのに、妙に足早に去って行く紅白の衣が青草に紛れて消えたのを確かめてかごめは小さく呟くと、今度は悪戯っぽい瞳になって良く通る声を張りあげる。 「おすわり!!」 (んなっ……) ひゅん、と風音が耳元を掠めたと思うと、次の瞬間には傍らの地面が大きく陥没して緋色の背姿をとじこめていた。かごめはしれっとした顔でそれを一瞥すると、腕を組んで尊大げに嗜(たしな)める。 「盗み聞きしてたでしょ、私が気付いてないとでも思ったの?」 「んっなぁにしやがんでぃ、てめぇっっっ!」 土に顔を埋もれさせていた犬耳の少年ががばっと身体を引き剥がして起き直り、目の前の少女に食いかかる。突然の事でまともに衝撃を喰らってしまったのだろう、今さっきまで浸っていた感傷は何処へやら、目の前で失態を見せてしまった事と勘付かれて居たことの恥ずかしさも相まって何時もより怒気が倍増しているようだ。その剣幕に気圧される事も無くかごめは犬夜叉をしっかと見返すと、ふっと花咲く笑顔になった。 「さっき言った事、本当だから」 犬夜叉が意外なかごめの行動に気を飲まれて呆けた顔を見せるのを面白そうに見遣りながら言葉を続ける。 「それに、私……一度言ったことは撤回しないわよ。犬夜叉が嫌でも側に居るわ」 言葉を切って一つ大きく息をする。 「私が側に居たいから」 ざぁ…と青草が揺れて、緑の香りをたっぷりとその身に沁み込ませた朝風が二人を巻き込んだ。 朝露の湿り気を含んで涼やかに肌を潤し、その腕【かいな】を広げて蒼穹へと散じてゆく、風。 「俺は…」 「いいの、何も言わないで」 はっきりとした声音で口を開きかけた犬夜叉の躊躇いがちな言葉を制する。 「犬夜叉が何で私を止めなかったのか…何で私を択【えら】んでくれなかったのか…三年前。私ずっと考えてた、ううん、やっぱり少し怨【うら】んでたのかもしれない」 かごめの黒い瞳が鳶色の光を受け止めて投げ返す。 「でもね、やっとわかったわ。誰を想ってても…犬夜叉の心の中に誰が居ても、私はここに居る。…邪魔なんじゃないかって、思ってたの今までは」 遠くの村に滑らせた瞳が、先程まで隣に居た少女とそれを迎える黒衣の青年の姿を捉えた。 飛来骨を自在に操る退治屋の娘。 強い法力と呪いの風穴を持つ青年。 そして…今目の前に佇む、銀絹の髪の少年。 其の爪は全てを切り裂き、其の瞳は夜闇を貫き、其の刀は全ての邪なるものを薙ぎ払う。 だのに自分が出来ることは何もない。 戦いの時は木偶【でく】の様に突っ立ち、小妖怪にも命を曝して皆の心配を買い、時に放つ破魔の矢も十【とお】に二、三しか命中しない。元々四魂を散じたのは自分であるという自責の思いと犬夜叉、そして仲間との離れ難い気持ちだけで戦国【ここ】に留まって居たけれど、犬夜叉が自分と一緒に居られないと決めて理由の一つが消えた時、時代と自分を繋ぐ緩やかな糸はぷつりと音を立てて両の端の引力に弾け飛んだ。 邪魔なだけ。 私が居ても邪魔なだけ。 そんなことない、と打ち消す力も残されぬまま現代へ還ってしまった…いや逃げてしまった。 再び戻って来てからもその思いが胸を潰さんばかりにかごめを苦しめ続けた。 草太の為に裏切ってしまうかも知れないという心の軋【きし】みがその重圧に耐えかねて罅【ひび】割れていた。 「それでも私が一緒に居たいの。みんなと一緒に居たい、犬夜叉の側に居たい。それは私の願いだけど…身勝手な願いかもしれないけど、それでも自分の気持ちを押し込めて生きるのは嫌。自分に素直になるしかないって思ったの。だから」 老木の、それでも若々しい緑の葉を透かした浅緑色の朝の光が、ちらちらと揺れながら二人の輪郭を揺り飾る。 「側に居させて」 少年の鼻先を擽る微風【そよかぜ】。 戻って来た。 自分の求めていた優しい匂いが直ぐそこに、目の前に。 触れたい…抱き締めたい、でも。 でも… 「かご…」 「私先に行くね」 それでも口を開こうとする犬夜叉にくるりと背を向けて、瞳だけを後ろに流しながら言う。 「早く来なきゃだめよ、朝御飯、食べないと身体に悪いんだから」 何か言いたげな雰囲気を受け流して目の前の緩坂を覆う浅緑に目を移す。 少し高くなった日が、既に暑い。今日も蒸した一日になるのだろうか。 二人の距離が小さく、けれど確実に開いてゆく。 それは二人の心、擦れ違った想い。 今。 今合わせなければ二度と合わない桜色の合貝【あわせがい】。 海の白砂【しらすな】に紛れて仕舞えば永遠に元には戻れない。 時を掴み損ねたら。 昔の様にまた掴み損ねたら。 もう二度と。 だから。 だから、今。 ――今。 遠く、村の外れの質素な母屋の前で、二人の若い男女が微笑みを交わす。 二人が顔を向けた先に、重なり合って揺れる緋と紅と白。 浅草に紛れて小さく揺れる鮮やかな点。 ふたりの朝餉は抜きだね。 若い娘が、凛とした目元を優しい光で満たして傍らの法師の袖を引いた。 「ほら、野暮なことしないの。朝餉だよ」 止まっていた時間が今、ゆるりと、動き出す。 |
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