緋の想い hi no omoi 6 |
一羽の鷹が高く大きく弧を描いて天蓋を縫い、風に乗って空【くう】を滑る。哀の漂う空色は、少しくすんだ灰青に沈んでいながら、それでいて軽く広い空気を満たしている。しつこく続いた夏の暑さがやっと遠のいて、日に日に景色は秋の色合いに染まり始めていた。あれほど濃く厚かった木々の緑も、少し冷たさを含む朝夜の風に拭われて葉擦れの音が軽い。楓の村の子供達も、夏の間中離れ無かった水際から徐々に場所を移して山に戯れる。その澄んだ高い幾つもの声が、軽い漣【さざなみ】となって村の道々に広がって行った。楓の音を小さく捉えがちな耳にもそれは届いて、年老いた巫女は己が村の平和さに妙な不安を覚えて立ちすくむ。年輪を経た証の頬の皺が、考え深げにぴくりと動いた。 己【おの】が姉の生まれ変わりに巡り会ってもう随分経つ。 姉とは全く違う世界に生まれついた晴れやかな少女が、転生としてこの時代に生き、姉の代わりを務めている。 そう、姉の玉を守る巫女としての立場も、そして想い人の傍らも。 再びこの時代に戻って来た彼女は、今また緋の半妖とと共に居る。 (私の予感は当たっているのか…) 一見爽やかな初秋の空色に、僅かなくすみがあるのが楓の心を震わせる。並人には感じられない妖気が、老いに圧されて幾分弱まったはいえ未だに霊力を残す楓にはありありと感じられた。左程近くは無いが、橙に染まり始めた西の山の端からの滲み出る様な粘り気のある妖気は明らかに半妖のそれでは在り得ない。 (奈落が…既に半妖では無くなっている) そう言えば前村に戻ってきた時かごめが言っていた。 楓ばあちゃん、残された欠片は多分もうあと一つしか無いみたい……と。 肌を撫でた風に、楓は寒くも無いのに身震いをした。 肩を寄せた楓の後姿が、傾きかけた太陽に照らされて草叢【くさむら】に長い影を伸ばす。 村へと帰りかけた楓は、西日を背に村への道を歩いてくる四人と二匹の影法師を目にして、苦く笑った。 やはり………そうか。 釣瓶【つるべ】の太陽は既に深く地平の奥に沈みこんで、夜の群青帳が空に降りてきた。久しぶりに楓の村に戻って来た一行は、早い夕食を済ませて囲炉裏端を囲んでいる。夜の空気を吸いたいと一人出てきたかごめは、仲間から離れて初めて深々と息をついた。 この世界と関わり始めてからずっと恐れていた事が現実となってしまった。 再びこの世界に戻って来て、やっと自分の想いに素直になれたと思った矢先だ。傍らの半妖が我を忘れてそ血に従う快楽を覚えてしまっていると知った。自分にすら獣爪を振り翳しかねない不完全な妖怪を目の前にし時の胸が締め上げられる不安感と孤独感は未だに忘れようも無い。 それでも今の虚無感と比べれば、その時の方がましだった気がする。 (防げなかった) かごめが去っていた三年の間殆ど捗【はかど】らなかった、いやそれどころか後退しすらした玉集め。かごめが戻って来た時には既に手遅れだったのかもしれない。 (あたしのせいだよね、やっぱり) その罪悪感は拭い切れない。それでも、そう考えた処で皆の関係をぎくしゃくさせるだけだと解っていたかごめは、敢えてその考えを自らに禁じてきた。 しかし、今宵だけはどうしても考えが其処に向かってしまう。 思いが堂々巡りする。 これから自分はどうなってしまうのだろう。これから自分は何をしたらいいのだろう。 気付けばかごめの足は自然と嘗【かつ】て足慣れた古井戸への路を辿っていた。ふと初めて犬夜叉に抱き締められた日を思い出す。あの時頬を撫でた春と夏の境目の涼風の感触が妙に鮮明だった。 木々の黒影の間を縫い往【ゆ】くと、森の切れ目が眼前に広がる。満点の星を重たいのでは無いかと思われる程数多【あまた】吊り下げた夜蓋の下で、骨を喰らう井戸は夜闇より深い闇を湛【たた】えて静かに在る。 吸い寄せられるようにして近付いてゆくと、ふと何処からか酒の匂いが香った気がした。 (そう言えばおじいちゃんにお呪【まじな】いの酒をかけられたことがあったっけ) 帰って来て早々の仕打ちに随分気分を害していた自分を思い出して可笑しくなった。あの後戦国の垢と酒の匂いを風呂で存分に落したのだった。 風呂場の滴る程湿気を含んだ空気に溶けた酒の匂いが、噎【む】せ返る程香り立った。 ふわりと一陣の夜風がかごめを取り込む。 紅の袴が涼を含んで柔らかく身体を包んだ。ふと井戸に目を遣ると妙な懐かしさで心が緩む。数ヶ月前現代で戦国を想った様に、今度は戦国から現代を想っていた。 (どうしてるのかな…じいちゃんもママも) 留学するその日に突然居なくなってしまった娘を、二人とも心配しているに違いない。草太が亡くなって以来特に敏感になっていた母は、三年前と違って娘の急な外出にも不安な顔を見せたものだ。 (大丈夫だといいんだけど) そう思い遣ってかごめは顔を顰【しか】めた。 やっぱり、匂う。 あの日と同じ、酒の香り。 「まさか…ね」 震える声音を敢えて明るく彩ってかごめは自分の考えを笑ってみる。 (あの井戸は私が頼んで埋めてしまった。私は偶々【たまたま】こっちに来てしまったけど、あっちの井戸はまだ塞がれたままの筈) やだなぁ、玉の事がショックで変なこと考えちゃうんだわ。 けれど、考えを逸らせば逸らす程酒の匂いはかごめに纏わりついて噎【む】せ返るように香りを増す。夜闇から匂い立つ酒の香【か】は無言の中【うち】にかごめの考えを打ち消す様に。涼しさと混ざり合って心地良くすら感じさせる。 (きっと酒の香りに酔ったのよ) 打ち消したい気持ちと反比例するかの様な冷たい考えに頭の芯がつんする。 逸らしたくても逸らせない。寒くも無いのに身体が寒さを訴えていた。 (まだ、還りたくない) 解っていた。 この井戸は何かの理由で復【また】現代と繋がっている。 湛える闇を見つめるうちに身体が微かな引力に引き寄せられている気がしてかごめは後退【あとずさ】った。 耳許を呪【まじな】いの言の葉が掠【かす】る。 もう少し待って。 かごめは井戸の闇にくるりと背を向けて歩き出した。少し蒼褪【あおざ】めた少女の顔は闇の中で凛とした表情すら見せて。 まだ、終わってない。 だから、もう少し。 もう少し。 森奥の木々の狭間に薄桃色の淡い柔光が浮かび上がる。光の原【もと】は枝葉を音も無く交わし縫い、人ならぬ速さでするすると泳ぎ進んだ。その軌跡は散じた桃虹色の鱗粉できらきらと輝いている。 死魂虫……死人【しびと】の魂【たま】を枝のように細い虫足で胸に抱き、玉虫色に煌く小さな羽をちりちりと細かく震わせながら彼等は己が主の下へと縫い進む。 虫達の目指す先に古く聳【そび】える大老の樹【じゅ】が姿を現した。いや、正確には彼等が目指す主がそこにいた。 それは清廉な巫女姿の娘。 閉ざされた瞳は濃く長い睫毛に縁取られ、すっと伸びた弓眉も、紅い花弁を思わせる艶やかな唇も、娘の存在が今真実此処に在ると主張するかのように闇目にくっきりとした形を見せる。 しかしそのしっとりととした黒髪だけは黒紫に滑らかで、彼女から漂う死の香を目にも明らかにしていた。 ――死人。 多少霊界に心得の有る者ならば直ぐに見破ることが出来るほど、娘の周りには冷たい帳が揺れている。オーロラという物をこの時代の人間が知っていたとすれば、当【まさ】に彼らの唇を突いて上るのはその言葉であっただろう。 ゆらゆらゆらゆら… 冬の朝の吐息の様な白に変わったかと思えば、次の瞬間には金にも紫にも映る薄布が娘の周りを幻想の額縁で切り取っていた。 微かに、娘の薄い瞼が震えた。オーロラを突き通して一匹の死魂虫がするすると主の巫女に近付く。蒼くぼおっと光る炎に包まれた何処【いずこ】かの村娘の魂が、今此処に居場所を見付けたかのようにすうっと巫女の胸に溶け込んだ。後から追いかけるように絡み合って到着した虫達からも、次々と蒼い魂が放たれる。少しずつ巫女の瞳が艶めきを取り戻していった。 「御苦労」 ぴんと糸を張った様に耳に差し通る声で巫女が虫達を労う。目を開いた主の姿にまるで喜んでいるかの様に死魂虫は巫女の周りとするすると音も無く飛び巡る。きらきらと辺りに散じる鱗粉で眩しそうに瞳を側めた巫女は、少し和らいだ口元で小さく呟きを洩らした。 「お前達、私が目を覚まして嬉しいか」 しかしその言葉に自分で中【あ】てられたかの様に、巫女は直ぐさま鬱【うつ】げな眉を顰【しか】めて嘲笑の言葉を自らに言い聞かせた。 「そう、私がこの世に在って喜ぶのはお前達だけだ………何しろお前達は私が居なくなれば消えてしまうのだから」 それだけだ。 私は誰にも必要とされてはいない。 あの頃の様に…皆から慕われ愛されて必要とされているのは。 私の生まれ変わりと称するあの小娘が私の場所をいとも簡単に奪っていった。 仲間を持って。 愛する人を傍らに、いつも笑みを振り撒いて。 私だって。 私だって… 「馬鹿馬鹿しい」 胸の中の村娘の魂が己の意志を僅かに取り戻して動き出す。巫女は己の心に浮き出た迷いという緩みを引きはらってもう一度自らを言い含める。 「寂しくなどない」 今の私は自由だから。 だから寂しくなど、ない。 この私が、寂しい、などと。 馬鹿馬鹿しい。 蒸す様な熱帯夜の暑さに知らず知らず慣れて仕舞っていたのだろうか。 秋の夜なべのしんとした空気の冷たさに何故か胸の絞られる寝苦しさを感じて、老いた嘗ての妹巫女は夜闇の中に目を覚ます。母屋で独り閨【ねや】を設けていた所以であろうか、自分の掛け布の衣擦れの音ですら波紋を呼ぶような波一つ無い空気の静けさに思わず身体を強張らせて辺りを窺う。何時もより幾分も敏感になった彼女の脳髄が、遠くに蟠【わだかま】る気の乱れを捉えた。恐らく自分を浅い眠りから引き降ろしたのもこやつの所為【せい】であろうと老巫女は気が付いて鬱げに息を吐【つ】く。 蟠【わだかま】り縺【もつ】れ合う――清浄な二つの、魂。 ああ、出会うのはもう直ぐだ。 その気はとても清浄で…とても、清浄で。 お姉様。 慌てる様子も見せず、老いた巫女はゆっくりと身体を起こす。辺りに揺れ拡がる空気の波紋を遮るかのようにしゅっと音を立てて灯心【とうじみ】に灯を燈【とも】す。小屋の八角【やすみ】にまで拡がらんとしていた空気の漣【さざなみ】は、揺れる炎の熱に柔らかくとろりと溶けて元の平面を取り戻した。 ふと、己の傍らに幻影が浮かんだ気がして、楓は思わず息を呑む。しかし、振り向いた先には相も変わらぬいつもの粗敷。その上に再び我が姉の面影が腰を据えた日から幾百日が過ぎたのか。 妹が姉に抱くような柔らかい暖かい甘えの気持ちを抱いた事は一度たりとも無い。 唯その清新な純白さを眩しく眺め、その姉に一番近く居る事が出来る我が立場を誇りにすら思って居たものだ。 けれど思い返せば、姉を姉として見た事は殆ど無かったような気がする。 実の妹の自分ですら。 ましてや村の者達は。 姉の孤独。 それを楓が悟るには、まだその時彼女は幼すぎたのだ。それでも未だに後悔の念が頭を離れぬ。 せめて一度でいいから、姉の頬に手を触れて、姉の首筋に幼い手を廻して。 お姉様、大好き、と。 誰よりも好き、と。 半妖の少年よりも前からずっと。 「年だな私も」 一瞬自分の心のなかを垣間見たように感じて、楓は否【いいや】の形に首【こうべ】を振った。 「さあ、急がねば」 子屋に眠る者達もそろそろ目を覚ます頃だろう。 いや、呟いて楓はまた独り考えを廻【めぐ】らせる。 またあの半妖が先やも知れぬ………何時かのように、また。 からん… 濃群青に深いビロードの夜帳。朔の夜から僅か二日、何処までも深く広く拓ける天蓋に真白【ましろ】な円い天窓が細く細く開き始めている。 秋の爪月……触れればきっと縫い針の様におなごの白指を傷つけて仕舞うだろう。そして今日のそれは何時もにも増して迫り来るように妖しげに耀く。 そのしゃんしゃんと降り注ぐ銀光の元、二人の乙女が隔たる時を飛び越えて今宵再び巡り会う。 からん… かごめ。 桔梗。 一【いつ】の魂を二【ふた】に分つ者達。 けれどその運命は交錯し時に絡み取られて近付きつ、離れつ。 「桔…梗……」 深紫にしんなりと、けれども凛とした美しさがあって。 何処か…寂しげで。 ああ、この人にぴったりの名前だわ、とぼんやりかごめは考える。面影は瓜二つ。けれど全く対照的な二人の娘が冷たい月光の元で対峙する。紅と生白の巫女装束が互いに揺れて、そう、まるで鏡に映る虚像のように。 けれど…けれどならばどちらが実像なのだろうか。 きんと耳鳴りがする程に空気が硬い。さらさらと、白い月の白い耀きより更に白い真珠色。 緋色。 白。 そしてすべてを…銀の夜叉が佇んで、見つめている。琥珀色に揺れる両の眼に、交錯する緋い想いを映している。 すべてが――緋色に燃ゆる。 |
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