緋の想い hi no omoi 7 |
それはまるで失われし時の夢。 交錯した時の琴糸が、天蓋にぽっかりとあいた白い覗き窓のような月に照らされて、しゃらしゃら、しゃらしゃら……音もなく目に響く。 予想していた通りの光景に、老いた巫女はまた、苦い笑いを胸に抱いた。既に二つの魂【たま】に引かれて佇んでいる緋の夜叉に羨望ともつかぬ曖昧な視線を滑らせる。遠くから眺めても金色【こんじき】に耀く犬夜叉の獣の目は、戸惑う想いに蟠【わだかま】り、眉間【まゆま】に皺を刻んだ平生の仏頂面からは思いもちらぬほど、悲しみに満ちていた。 何かを言いたげな形に凝固したままの唇は、どちらの名前を呼べばいいのか解らずに。 どちらの名前を呼びたいのか解らずに。 「何故、まだ、此処に居る」 桔梗と呼ばれた濡れ羽髪の巫女は、躊躇【ためら】いもせずに刀をするりと差しのべるような、切っ先の鋭い問いを投げかける。 自分の源【もと】であるはずの巫女と、今は真実【ほんとう】であるはずの娘。自分の前世と言われたところで、かごめにとってはまだ理解に難い。 自分は自分よ。 だって…私は、私じゃない。 草太も、ママも、じいちゃんも、皆【みんな】私の中の人。 皆【みんな】? じゃあ… (じゃあ、犬夜叉…は) 「ききょ…」 「私が居なければ」言葉を遮るように、桔梗が朱唇【しゅしん】を開く。「私がいなければ、お前も、いなかった」 漆黒の闇のように深く、それでいて鳥のような輝きを持った瞳が、かごめの柔らかな胸をびしりと貫く。 何故だろう……深い悲しみが、かごめの中にしんと空気を伝わって感じられる。 これは、私の中の、桔梗の、悲しみ。魂の波動が共鳴する。 「私の身体は紛い物だ……けれどお前は、お前の魂は、私の魂の紛い物だ」 「…っ違うわ!!」 ふと、身体の中の冷たい重みが震えたような気がする。金属に頬を押し当てた時のような滑らかな冷たさはしんしんと内側からかごめを、冷やす。それでも、頭の芯の熱は煌々【こうこう】と照るように燃えていた。 「あなたは、あなた……私は私。生まれ変わりでも、転生でも何でも、私とあなたは別の人間よ。別の生き方をして別の考え方をして、別の恋を……したんだわ。だから…」 「だからこそ」 桔梗の瞳の闇が一層深く、磨き上げられた瑪瑙のようにかごめの視線を惹きつける。 「だからこそ、お前の魂は紛い物だというのだ。私は今、私の魂の陰の気だけで満たされてこの世に在る……そして陽の気は転生してお前の中に在る。けれどどちらも本来私の物。お前は私の魂を借りているだけだ。私が望めば……」 ふわり、と、しと濡れたような桔梗の黒髪が、風にたゆたう。その黒い瞳がすっと滑って、白月【はくげつ】の向こうを掠め見た。 (もうすぐだ) もうすぐ私の願いが満つる。 この細月の夜に…私の願いが満つる。 「私が望めば、いつでもお前の中の魂は私の元に還ってくる」 それはもうすぐ。 (え…?) 脅しの色もなく、ただ真っ直ぐにかごめを射し抜く瞳。その肩越しに浮かぶ細い月は、闇の中に本来の球体を浮かび上がらせて激しく迫り来るように、鈍く耀く。 何を、言っているの桔梗…?何を… 視界が、否、世界の輪郭が一瞬、ぐん、と歪んで翳【かす】みを増す。 山の端の夜紺が灰色の煙【けぶり】を立てて、地と天蓋の境界が互いに溶け合うかの様な錆色に濁った。かごめは眼をぴりぴりと突き刺すような痛みを感じて、己が胸の白袷【しろあわせ】をきゅっと掴んだ。 ――瘴気だ。 爪【つま】の先から頭皮まで、痺れるような感覚に取りこまれる。それでも目の前の魂から、匂い立つような艶やかな巫女姿から、決して眼を逸らしてはいけないと感じてかごめはふくよかな唇を噛んだ。 ゆる、と動き出した辺りの空気が、徐々に速度を速めて渦を形作る。羊歯【しだ】がばさばさと揺れ、下草の奥の黒土までも湿度を奪われてざあ…と巻き上がった。かごめの白い肌を細かい微塵が掠り、紅袴がはたはたと音をたてて翻った。 不思議と心は波立たない。 来る。 来るべき時が。 感覚が、神経が、感じることを拒否してしまったのだろうか。只、目の前で、成長した自らと瓜二つな顔でこちらを見据える桔梗の黒髪が、しとやかにはためいて夜空と絡み合い、月影を微粒子にして散じるさまだけが目裏【まなうら】に焼きついた。 けれどそうするかごめの鮮黒の虹彩も、時間と共に元の色合いを取り戻した豊かな黒髪髪の踊る中で、しっかと桔梗の視線を受け止めていた。 (何が…何が起きてる?) 円を描きながら拡がっていった風の渦巻が下草を地に薙ぎ倒しながら足首を舐める。緋袴が、ばた、と音を立てて風に反応し始めた。闇色にも染まる事を知らぬ鮮やかな緋色が、瘴気の臭いにちり、と音を立てて焦臭く匂う。 二人の巫女が対峙するさまを、息を吐【つ】くことも忘れ、金縛りに遭ったかのような硬さに身を包んだまま見詰めていた犬夜叉は、突如起こったゆるゆると巻き上がる風の螺旋にはたと我にかえった。先程まできんと凍っていた空気が、風の含む細かい砂塵で掻き回されて動き出し、山端の瘴気を伝えて今や生温かい粘り気すら帯びている。 原因はすんなりと頭から導き出される。否、余りに知りすぎた答えで今更もう頭を働かせてまで考える必要もないほどだった。 忌々しい名前はは頭に過【よぎ】らせることすら疎ましい。 畜生。 もう、やって来やがった。 今は考えている場合ではない、と咄嗟に本能が告げる。半妖であることを打ち消さんが為に桔梗の魂を抜き取ろうとしたことすらある輩だ。完全なる妖を手にした今、一番にその手に掛けようと思うであろうのは昔の想い。野党鬼蜘蛛の想いの名残をこの世に留めておこうなどとは思わないだろう。 今は目の前に交錯する二つの魂を、この手で守らなければ。 咄嗟に躯【からだ】を撓【しな】らせて漆黒に緋を投げ出す。その指先の獣爪を鋭く立てて夜闇を切り裂くように、一振り。そして左脇の得物に獣爪の先がつんと触れようとした――その時。 勢いをつけて振り下ろした右手が水干の左袖を裂いて空を掻く。宙に飛び上がったまま己が左脇を顧【かえりみ】た犬夜叉は、その瞳に映し出される筈の錆付いた柄を捉えることが出来ずに思わず喘【あえ】いだ。 鉄砕牙が――ない。 驚愕する頭を瞬時に瘴気が絡め取る。 銀白に耀いて撓【しな】りのある髪が、夜闇にたゆとうてざわりと鳴いた。 鉄砕牙が――ない――。 大気が揺れる。 動きの緩い竜巻のように、瘴気が螺旋を描いて地から天蓋へと駆け昇って行く。 その吸い込まれ往く先は――細い月…いや、細月の方角に蟠【わだかま】る黒い真淵の邪気の原【もと】。 砂塵に翳【かす】む視界の中で、白い光を背に受けた邪気の主だけがくっきりと浮かび上がった。 闇に紛れる濃紺の直垂【ひたたれ】。豪奢【ごうしゃ】に織り込まれた錦糸の艶めきが、男の周りを取り巻く瘴気と絡まり合っててらてらと目に障る。 その腰に差された太刀が、すらりとしたシルエットを細月と同じ弧角で描き出していた……… (……鉄砕牙…!!) 瘴気の吸い込まれてゆく方角に、今や玉の容【かたち】を止めぬ濁った桃色の気配を感じたかごめは、はたと顔を揚げて驚愕した。…奈落が、いる。いやそれは先程からの鳥肌が立つような瘴気で解っていた。かごめの心臓を潰れてしまうのではないかと思わせるほど締めつけたのは、その腰の得物。常日頃自分の傍らを歩く者の腰に結わっていたのだから間違いようもない。 (あれは、鉄砕牙だ…!!!) 犬夜叉は……? ひゅうぅ…と耳の奥に隙間風の哀音【あいね】が聞こえてきた。何かが弾けんばかりに身体の中【うち】で膨れあがる。押さえ切れないほどの圧力に喉が逼迫【ひっぱく】されて息が詰まった。 犬夜叉ッ………!!!! (愚かな…愚かな、小さい者) 自分の背後高くに舞いあがる妖に早々から気づいていた桔梗は、目の前で自分に瓜二つな少女が晒すうろたえを横目ですらりと流して白月に向き直る。しかしその桔梗の涼やかな顔すらもまた、奈落の腰の一物を目にした瞬間に喘ぐような色に包まれた。この取り澄ました巫女の顔色を変えることといったら、恐らく今も昔もたった一人の少年に関することしかなかったろう。 それが犬夜叉の得物であることはすぐに判る。喩え共にいることが叶わなくとも、彼女の隠した心の奥はいつも自らの在る理由を求めて彼のもとへと彷徨っていた。 耳鳴りがする。 切ないのだろうか? 焦がれているのだろうか? こんなにも辛い程、あの男に魅せられているのだろうか…… 愛しているなどと認めたくもない。 もう私の心は穢れきった。 今は自由に愛せても、それはもう穢れ切った愛。 私の手で奴を殺める為だけに、その為だけにいつも見張っているだけだ。 寂しくなど。 ない。 何処にいる……………? 魂が乱れ、揺れる。 転生してまでも、あの魂はこれほどまでに。 (愛しているのですか?お姉様) 突如として乱れ始めた二つの魂【たま】の錯乱を、年老いた妹が哀然とした皺を眉間【まゆま】に寄せながら、眺めていた。桃虹色に輝く幾筋もの魂の軌跡が、乱舞するようにぶつかり合い、重なり合い、絡まってまた輝く。 途惑っているのですか? 年老いた巫女は止【とど】める術【すべ】もなく妖風に耐えながら佇んだ。乱れ飛ぶ叫びが彼女には年老いて今漸【ようや】く解り得た気がする。ざざ、ざざ、と辺りの土が崩れて吸い込まれるように落ちて行った。見れば二人の巫女が立つ所を柱【ちゅう】とした大きな土の擂り鉢が出来あがっている。その土肌を瘴気が回転しながらその触手で撫ぜていった。螺旋に巻き昇る流れに動きを撹乱【みだ】されることもなく、細龍のように光を放った魂の帯が演舞する。常人には見えぬ魂の流れが、楓の目には確【しっか】りと捉えられた。 その魂の触れ合う音すらも、耳朶を叩くように聞こえてくる。 ここまでに、これほどまでに、姉は心を蝕まれていたのだ。寂しさという、不治の病。 血の繋がった妹である自分ですら癒すこと叶わなかった。 そして、彼が現れた。 それは、突然の出来事で……まるで迷い込んだ一陣の春風のように姉の心を奪っていった。 (一度だけ、目にしたことがある) 姉が半妖に向けたその表情【かお】を。ふうわりと、ああこれは自分の姉だろうかと思われるほどに、優しくて柔らかくて。 笑顔では無かった。唯、半妖の方を垣間見たその一瞬の表情【かお】。 思わず、お姉様、と声をかけて振り返った瞬間にはもう消えていた。 『なんだ?楓』 それはいつもどおりの姉の声。凛として、涼やかで、それでいて私を寄せつけない。 いや、彼女は私を愛していた。それは解っていた。けれどそれでも見せたことのない表情【かお】が、見も知らぬ一介の半の妖に向けられているのはいた堪れなくもあって、また嫉【ねた】ましくもあって、幼かった楓は途惑ったのだ。 (愛しているのですか?お姉様) 「…さま。楓さま!」 背後からの呼ぶ声に、吹き倒されまいと地に着けた足を踏ん張りながら楓は振り返った。地から舞い上がる風に、結った白髪【しらかみ】が少し乱れて顔に吹きかかる。黒い法衣に、先程繕いあがりを手渡してやったばかりの袈裟を掛けた法師が、心配そうに声を上げる。 「楓さま、近づきすぎては危険です、もう少しこちらにお寄り下さい」 じゃら、と本連の数珠を鳴らして楓の背中を支えた。 「口惜しいが、もはや私たちの手に負えるものではない……せめて彼らの闘いを餓鬼共が邪魔することのないよう、結界を張っておいてやるのがせいぜいというところ…それでもやらぬよりは幾らか足しになるでしょう。さあ、早くこちらへ」 楓は法師の言葉にゆっくりと頷くと、老いて少々曲がり始めた腰に軽く拳を当て、支えは要らぬと歩き出す。 横を歩く法師をちら、と一瞥しながら、弥勒がなぜ今すぐ飛び込んで奈落に闘いを挑まぬのか、すぐに解った自分を面白く顧みる。 守りたいのだ、この男も。 法師が少し歩みを速めた先に、一人の娘が手を振りながら何事か声を上げている。 その瘴気の中ですら尚生き生きとした鮮やかさに、楓は暫し目を細めて思う。 人間【ひと】は、変わる。 これほどまでに、強く。 これほどまでに――脆く。 |
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