緋の想い
hi no omoi

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 邪気【ちから】が――満つる。
 我が瘴気の衆体に、黒灰の翳煙が渦巻く。
 黒き邪まなる者共が邪力を増し膨れ上がってゆく。きしきしと音立てて犇【ひしめ】き、さんざめくように可笑う、彼奴等。

 それでも。
 灼熱の地獄火のように我を焦がす、朱い火。
 邪【あやかし】と邪の狭間に圧し砕こうとしても、消えぬ、消えぬ、消えぬ……。

 それは内から鋳鉄をも溶かさんばかりの獄熱で、我を蝕む。
 鬼の……鬼の…焔【ひ】?
 鬼焔【おにび】……。

 嗚呼、これは……蜘蛛を象る鬼の痕。
 人間【ひと】の、痕。
 消えぬ、消えぬ、消えぬ…………………………。



 陽光【ひかり】が、見える。
 浅緑色の肉薄な木々の葉を透かして、春の温かな陽差しがちろちろと野鼠の舌先の様に頬を擽る。大木のずっしりした幹元の窪みに蹲【うずくま】って身を預けたまま、一人の稚児がそのふっくらとした己が掌で冬の名残の枯草を玩【もてあそ】んで居る。茶色く褪せた枯草は、朝の露を吸い取ってしっとりとした感触を彼の掌に齎【もたら】す。否、朝露のもっと奥には殊更に寒さの厳しかった先冬の雪水までも蓄えているかの様に、妙に冷たい重みが感じられた。
 腐葉土の、爽やかな匂い。掻き分けた草下から黒く柔らかな土が覗いて、触れた彼の幼い獣爪にさくんと音を立てる。まだ丸みを帯びた指先に子犬の様な可愛らしい尖爪が付いていて、其の髪色と共に彼を人から遠ざけていた。春光を浴びて真珠色に柔らかく光る肩口ほどの髪が、少し傾けた顔に振り掛かってほんのりと桃色の差した頬を滑っている。彼を包むふわりと膨らんだ緋の水干は、不思議の邪力【ちから】を纏【まと】って汚【けが】れなく何処までも緋【あか】い。枯色と葉蔭と光のみの世界に、稚児の緋【あか】が鮮烈に映えていた。

 ざく……っ
 凭【もた】れ掛かった躯をそのままに、右片腕を持ち上げて空を掻く。振り下ろされた獣爪が空気を含んだ湿土に埋もれて、瞬間、軽い音と共に一段と清【すが】しい香りが鼻先に散じた。柔らかに、宥【なだ】める様に穏やかな朝露の湿り気。けれどその優しい感触に応ずることもなく、幼い彼は双眼を虚ろに見開いたまま感情の光すら宿さずに、又、動きを止める。その眦【まなじり】から一粒の雫が音もなく、すぅ、と滑り落ちて水干の胸元に濡れ染みを付けた。日に透けると黄金色に輝く薄茶色の睫毛に涙の名残の細かな水が光る。
 その涙痕の乾かぬ頬に、既に固まって枯血色に変じた血飛沫の、跡。
 腐葉土の香りに混ざって、一日が過ぎた今も尚、鮮やかに記憶を蘇らせる。

 ぶつりと肌を破って肉に爪が喰い込む。鉤型に伸びた己が爪は情け容赦なく人の肉塊を裂き、骨の髄まで抉り出す。生温かい血潮が勢い良く噴出して、視界一杯に拡がった――そんな、記憶。
 断末魔の叫びも、柔らかい喉元の感触も、温かさも、恐怖に見開かれた双眼の生を篭【こ】めた光も。幼い稚児の脳裏に焼き鏝【ごて】で捺したかの様に焦臭く焼き付いて、消えはしない。初めて、懐かしかった人の温もりをこの手の、この爪の餌食にした。木の根を齧【かじ】って甘苦い汁を吸った事も、雨で溜まった黄土色に濁る泥水を飲んだ事も、草中に跳ねる油臭い蟋蟀【こおろぎ】を丸ごと飲み込んだ事も、あったけれど。そんな物で鈍っていた舌先だからこそ感じられただけだと否定するには余りにも甘美な、人血の味、殺しの芳香。劈【つんざ】く様に全身を貫いた戦慄が、鳥肌が立つ程の快楽を与えた等【など】と…如何して認められよう。我が母に通ずるあの温もりを、あの人間独特の乳臭い匂いを、自分自身で肉塊に変えてしまった等と、どうして。幼すぎる彼にはその答えが解る筈も無く、只管【ひたすら】に、ただ只管に自分が今ここで露のように土に沁み込んでしまえたらと願う。

 さく……
 再び持ち上げた手を、今度は重力に任せて落としてみると、先程より軽い衝撃がだるくしな垂れた肩に伝わってきた。けれどその掌の下に何か違和感を覚えて彼はゆらりと揺らした瞳に僅かな光を湛【たた】えて、地に食い込んだ爪の先に目を向けてみる。見ると無造作に振り下ろした掌の下で、何かがしきりにじたばたと身体を捩【よじ】って逃げようと試みていた。一寸程しか無い稚児の小指の隙間からちょろりと草緑色の尻尾が覗いてぱしぱしと地面を打った。
 守宮【やもり】だ。
 母上が未だ生きていた頃、未だ自分が温かく包み守られていた頃、彼はよく守宮を捕まえては遊んでいた。持ち帰った小さな爬虫類に、大妖怪の一睨みも効かぬ豪気な母がきゃぁきゃぁと騒いだ事が昨日の出来事のように幼い犬夜叉の脳裏に浮かぶ。器用に指の腹で胴体を抓【つま】み、そっと力加減に気を使いながら目の前までを近付けてみた。
 小さな命。
 白い腹に親指を宛がったまま動きを止めていると、指の腹を伝って小さな小さな脈打つ鼓動が伝わってきた。

 とくとく……
 人間の数倍は早いであろうその振動が、ひんやりした薄い鱗肌の向こう側で、確実にその命の証を刻んでいる。
 ふと、守宮の黒目がちな瞳が稚児の黄金色の虹彩に映った自らの姿に動きを止めた。瞳と瞳が絡みあう。まるで黒い硝子細工のようだ、と鈍った頭のどこかが小さな瞳の耀きに打たれて微かに揺れる。小さくて小さくて、今押し当てている親指の先をくいと僅かに傾けさえすれば消してしまえそうな脆い光。けれどその艶々【つやつや】とした黒彩に、今にも吸い込まれそうな抗いようもない引力を感ずるのは何故なのだろう。爬虫の瞳がこれほどに愛らしくきらきらと、命を訴えるなどと気づくことすらなかった。
 否【いや】。
 唯の幻想だ。
 ぷす、と間の抜けた音がして浅緑色に透明な魂が春光の中に溶けて行く。
 幼い稚児の手の中でぐんにゃりとした物体が四肢を拡げて横たわったまま……もう動く事も、逃げる事も。
 その瞳を黒く耀かせる事も。
 確かに、生きていた。
 黒い耀きが、眼裏【まうら】に浮かび上がる。
 確かに、生きていた、と。
 春光が柔らかく、温かく、包み込むように朝の露を蒸気に変えて行く。ざあ…と酔風が森の下草を撫でて細かな水滴を空中に散じた。
 その遠く、どこか遠くの大木の下で、幼き稚児の泣き声が木霊のように木々に共鳴している。

(――如何して、思い出してしまったのだろう……)

 陽光【ひかり】が、見える。
 幼い頃の陽光【ひかり】が。
 けれどそれは直ぐ様掻き消えて噴き上がる血潮の妖気に呑まれて行った。ちら、と掠めた黒い耀き。それももう今は見ること叶わずに……。
 妖怪に成ってしまえたら。今ここで心を喪【うしな】ってしまえたら。
 ざわり、と真珠色の髪が夜気に揺れる。頬が熱く熱く、何かが浮き上がってくる。

 妖怪に成ってしまえたら。
 ――今此処で心を喪【うしな】ってしまえたら。

 只哀れな妖【あやかし】が、一匹。



 朱い火が、消えない。
 銀月を頬に受けて、直垂姿に舞い上がる男が苦々しげな鬱の皺をその額に鋭く刻む。眦の切れ上がった敏な瞳を緑に燃やしながら男は唇を歪めた。頭の奥のぎしぎしと煩【うるさ】く軋【きし】む様な感覚がわずらわしい程に彼を苦しめる。
 彼を造る妖かし達は、四魂の力を夫々【それぞれ】に受けて互いを絡め獲りながら壱つに混ざり合い溶け合っていた。
 それでも、頭の何処かで熱い何かが邪魔をする。
 熱く熱く焦げて妖かしの繋がりを妨げる。
「如何して、消えぬ……!!」
 男は忌々しげに言葉を吐き、ぎろりと瞳を燻【くゆ】らせて地を睨【ね】めた。その先に清く流れる気の耀きを認めて男はより一層苦々しく顔を歪める。その気の源である一人の女がこの全ての因であるだなどと、この我が。
(まだ残っているのか…?四魂の邪気を受けても、それでも尚残っているというのか?)
 男が朱の火に問い掛ける。けれど彼はその答えを知っていた。背に浮かび上がる紋様がじりじりと痒みを訴えて厭が応にも彼に答えを知らしめるのだ。
 まだお前は人間だ、と。

(けれど…)
 彼の瞳に緑の炎が燃え上がる。
(けれど、否、だからこそ)
 もう一度巫女を睨めつけて呟いた。

「真っ先にお前を殺してやる………」

 汚したかった魂。
 手に入れたかった魂。
 共に、何時も自分の側に置いておきたかった…けれど女の魂は汚れを知らぬ。
 憎しみに塗【まみ】れて悲しみに支配されて、その身体を死の香りで満たしても尚…清【すが】しく流れて光る魂。
『桔梗……』
 男の薄い唇が、声に成らぬ呟きを形作って震えた。
 愛しい女……だからこの手で汚してやりたい。

 地を舐める生温かな風が突如として勢いを増し、急激な螺旋を描き出した。銀月に、豊かな髪の象【シルエット】が揺らりと浮かび上がった。
 男は目を見開く。その眼【まなこ】が緑に燃える。

 だからこの手で……真っ先に殺してやる。
 ――汚してやる、その魂。

 螺旋の鋭利な切っ先が男目掛けて上昇する。赤煙が巻き立てられて地の者達の視界を乱した。其れに混じって彼の羽虫たちが一斉に飛び立ち、じゃあじゃあと一層耳障りな音を響かせて主の元へと集約する。その様はまるで黒い竜巻と赤い竜巻が絡み合って大きな龍を成すかのようだ。
 我は唯手を貸すのみ…。
 堕ちて来い、桔梗。何処までも何処までも、奈落の底までも……我は腕【かいな】を広げて待とう。
『桔梗……』
 そして男は直垂【ひたたれ】を翻し、最後の呟きを瘴気に散じてその姿を闇に窶【やつ】した。



(消えた……?)
 螺旋に絡め獲られまいと身を低くして夜天を振り仰いで居たかごめは、視界を奪っていた赤煙が去った後の銀月が曇りなく照るさまを見て目を凝らす。先程まで確かに其処に浮かんで居た男の姿は翳【かす】みほどにも残って居らず、未だ僅かに煙る土埃以外には音を立てる物もない。耳朶に嫌な振動を及ぼして止まなかった羽虫すら、その姿を何処【いずこ】かに消してしまった。
 けれど……おかしい。
 姿は消えても濁って溶けた四魂の気配が漂っている。大体あの男が四魂の力を得た今、何もせずに去って行く筈がないではないか。
 それに――。
 かごめがふるっ、と身を震わす。
(感じる)
 奈落じゃ、ない。あんなに汚【けが】れていない。……それでも感じるのだ…これは。
「これは、妖気」
 気を捉えようと伏せていた睫毛をゆるりと上げる。

 これは……犬夜叉。

 見上げた視界に、目の前でやはり佇む巫女が映る。儚げな気を纏【まと】った彼女の視線は明らかに自分ではない、どこか遠くを凝視していた。その視線を辿る様にかごめが振り返る。
 ざぁ………、と四魂の香りを含んだ風が巫女達の目の前をすり抜けた。



 妖怪に成ってしまえたら。
 ……今此処で心を喪【うしな】ってしまえたら――。



 銀の細月がしゃらん、とひときわ澄みやかに照りわたる。
 その更紗の光が、心を喪った妖かしを一匹、夜の闇から鮮やかに浮き彫りにした。







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