緋の想い
hi no omoi

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「まずいな…」
(変化したのか……犬夜叉)
 奈落の、ねっとりとした粘気のある瘴とはまた違う。燃える様に熱くて、心が痺れる程に哀しくて、けれどその中に柔らかな傷つき易い光を感じる。幾百度と寝食を共にするうちに側にある事が当たり前に成って仕舞った妖気。激しさが増したとて間違いようがない。小さく呟いて、弥勒はちっ、と軽く舌を打った。
 辺りでは奈落の四魂の香を含んだ邪に引かれたか、魑魅魍魎の夜行を示す蒼い鬼火が彼方ら此方【あちらこちら】に浮かんでは消えている。今更雑魚が奈落に吸い落とされたとて大した違いが出る訳も無いが、それでもかごめ達が晒されている状態が少しでも悪くなる事は絶対に避けねばならなかった。濃い瘴気の間近で錫杖の表塗はざらざらと波立ち、封印された右の手に握る護符までもが瘴に中【あ】てられて僅かに黄色く乾いていた。
「…法師様」
 さく、と軽い足音が背後に上がり、続いて闇夜にしん、と響く声が弥勒に小さく呼び掛けた。弥勒も応ずる様に、強張った顔を和らげて振り返る。
「何ですか、珊瑚」
 目に映る娘の眉根は憂げに寄せられて、彼女もまた弥勒と同じ事実に気が付いていると言葉無く弥勒に告げる。
 珊瑚だとて弥勒と同じ。むしろ退治屋の娘である彼女が半妖の妖気に慣れるには弥勒以上に随分と時間が掛かった。夜半、ぱちぱちと音立てて燃ゆる薪の暖かな香りの中に僅かな妖気を嗅ぎ取っては、思わず闘気を身体に走らせて目覚めたことが何度となくある。父上の…琥珀の夢を見た時等は殊更に、再び眠りに落ちる事も叶わず一晩中物思いに耽らざるを得なかった。それに犬夜叉も気付いていたのだろう、彼は今でも時々、珊瑚の寝付きが悪いと思って夜気の中に眠る事を選ぶ。
(不器用な奴だね……あたしはもう慣れちゃってるっていうのに、さ)
 彼の背中をちら、と見遣りながら珊瑚は苦笑する。それでも彼の子供っぽい優しさを受け入れてやることに決めていた。『大体多少離れたって変わんないよ…馬鹿な奴』、と掛け布の中で声にならない呟きを含む事も忘れずに。
(あいつの妖気を間違う筈ない)
 珊瑚は奈落の瘴に混ざって膨大する強い妖気に神経を集めてみて唇を噛む。やっぱり此れは犬夜叉の気だ。
「珊瑚…」
 急に黙り込んで仕舞った珊瑚の肩に軽く手を置いて弥勒が言う。けれど珊瑚は頭【かぶり】を振って弥勒の言葉を遮った。
「分かってるよ、法師様…分かってる」
 肩に感じる優しい重みを手に取ってきゅ、と感触を確かめる。手甲に包まれた右手の指が少し冷たかった。
「犬夜叉の気は変わってない…凄く強まってはいるけど、犬夜叉の気だ、変わってない。あいつは変わってない。だけど…」
 そこまで言った珊瑚は、何か熱いものが眦に浮かぶのを感じて慌てて俯【うつむ】いた。言葉の続きはきゅっと結んだ唇の中で気付かれないように小さく綴る。
『だけど…不安なんだよ』
 みんなが、みんなが消えて仕舞いそうで……………恐いんだ。
 ふわ…と俯く視界を黒が覆って、身体を柔らかく包まれる。少し熱っぽくなった鼻先を、穏やかな抹香の香りが撫でた。
「ほ、法師様っ…?」
 思わず身を引いて逃げようとする珊瑚に、畳み掛ける様な優しく強い声が降る。
「…信じなさい、珊瑚」

 ―――信じなさい。

 ねえ、犬夜叉。
 あんたのお蔭かもしれないね。
 素晴らしい仲間と。――愛する人と。
 きっとあんたのお蔭で手に入れられた。
 仲間を一度失って、何も信じられなくなって、心が狂いそうになって……………でもあんたのお蔭で浮き上がって来られた。
 奈落の、底から。
 だから。
 カタ、つけといで。あんたの想いに。這い上がって。
 あんたなら。
 奈落の底から。

『ありがと』

「珊瑚?」
 抵抗するどころか逆に吸い付くように身体を埋めた珊瑚に、弥勒は少し驚いて小さく問い掛ける。けれど其処に返事は無くて…。代わりに、強い強い眼差しと、吐き出した最後の悲しみの残り滓と……………そして信じることを知った者の微笑が、ただ、あった。



 ざく……。
(何時もの変化と……違う)
 渦巻く風に乗って触れた犬夜叉の妖気に、何時もと違う何かを感じてかごめは眉を顰める。
 初めて変化した頃は…泣き叫んで命を乞うる人間を唯の快楽の為だけに裂いた時の犬夜叉の妖気は、とても冷たくて、そのことが彼の恐ろしい容貌以上にかごめを不安にさせたものだった。
 でも何だか今は…。
 ――哀しい。
 闇を背景に馴染む筈の無い緋と黒が溶け合ってゆく。煽られる水干が揺ら揺らゆれて、まるで陽炎の向こうの様に輪郭が不正確だ。両手を唯無造作に両脇に垂らし、襲い掛かる積りなのかそうでないのか……それでも其の瞳は何かを映し出して哀しげに前を見据えていた。

 ああ、そうか。

 その朱い瞳の先にあるものを悟って、かごめはすっと睫毛を翳らせる。犬夜叉は操られてる、それは解って居た。鉄砕牙を奪った者が奈落である以上奴の目的は犬夜叉の変化だった筈。だから今犬夜叉が桔梗に向かおうとしている事、それは彼の本意【ほい】では無いのかも知れない。奈落はまたもう一度、桔梗に犬夜叉を殺めさせる図りなのかも知れない。
 けれど、それでも。何故だか今、彼を止めてはいけない気がして……
 言霊の念珠を使えば彼を止められるかも知れない。いつかの様に、貼り付けられた地面から悪態を付きながら飛び起きるかも知れない。そして仏頂面で呼ぶのだろう…………………『かごめ』。

 でも、止められない。
 止めてはいけない。

 もう一度睫毛をゆるりと起こした瞳に映った。
 変化した半妖と。
 半妖の心を定める桔梗の矢――。



『母さん、如何してあの子と遊んではいけないの?』
『其れはね、お前。桔梗様は神様にお仕えしているからだよ』
『あたしとおんなじ歳なのに。あたしみたいにみんなと遊んではいけないの?楽しいことしちゃ、いけないの』
『それは神様がお決めになったからだよ。生まれた時から、桔梗様は巫女様になると、決まっていたの』
『……ふぅん』
 納得したような、しないような。
 それでも皆段々慣れて、私を「桔梗様」と呼ぶ様に成った。村一番の年長者のおばば様も、大好きだった向かい家の子供達も。
 そして私を崇拝の目で、見上げる。
 崇拝?
『あんた聞いたか、隣村の話…』
『ああ聞いた……可哀相なもんだ、まだ物も解らぬ幼い巫女様だったそうじゃねぇか』
『仕方ねぇよ、俺んたの村でもここんとこ日照り続きで参っちまってんだからよぉ…どうせ物が解らねぇ巫女さんだから余計良かったんじゃねぇのか?生き供えにして雨を乞うにゃぁ、何も解らず逝っちまった方が楽ってモンだ』
『おい、大層な事言うんじゃねぇって』
 家の蔭で男達の会話を聞きながら脚が竦んで動けなかった。隣村の巫女なら一度会ったことがある。丸い瞳がきらきら輝いて、頬を桃色に染めた柔らかい感じの、其れでも何処か清新な空気を漂わせた少女。自分と大して年変わらぬ幼い巫女だった。
 生き供え――雨を、乞う?

 ――何も解らず逝っちまった方が楽ってモンだ』……

 生まれて初めて運命を呪った。口惜しくて、憎くて、目の前に香る小さなフグリの花すらも疎ましくて…。ざらざらと毛羽立った壁板にかたん、と身体を凭せて、まだ幼い少女だった私は固く瞳を閉じたまま其の場にずるずると崩おれる。その時目裏に滲み出た涙が、熱くて熱くて、まるで頭の中迄蝕むように熱くて……がさがさした背中の壁の感触と袷を握る自分の手と、熱くて激しい息遣いだけの世界に身を沈めながら、私は止め処なく伝い落ちる雫を拭おうともせず何時までも何時までも動けなかった。
 それでも……何時しか自分の運命を受け入れるようになっていた。私より年の幼い子供達が生まれて来て、私の名前を親しげに呼びながら戯れて来るのは、嫌ではなかった。私は愛されることは許されて居なかったけれど、「愛す」ことは許されていたから。彼らを姉のような気持ちで愛し、戯れ、時として守り、育て…………私は許された「愛」に身を埋【うず】めた。
 けれど其れは結局限られた「愛」でしかなくて。
 私の一番欲しかった「愛」ではなくて――。

 だから今でも瞳を閉じれば鮮明に浮かぶ。

 仇桜――それはつい数日前に満開を向かえたばかりの桜の散落。
 堅い蕾は長い冬の中で厚く厚く身を守り、ようやっとほんのり射して来た暖かい空気の中で薄桃色の口を開く。そして三寒四温に差し掛かった頃、一斉に、そんなに一時に咲かなくても良いものをと思いたくなる程に音立てて花開かせるのだ。
 だのに如何して桜は、こんなにも早く散り急いで逝くのだろう。
 申し合わせたかのように或る日突然、冷たい花弁の荘厳な吹雪を降らせる…。所々ごつ、とした瘤が有って、其れが益々稜線を和らげる太い幹。暖かみが有る幹の上からひんやりと、音も無くさらさらさらと零れ落ちる桜吹雪が視界を埋め尽くす。
(桜雪…)
 頬を撫でて飛び去って行く花弁達に誘われて、普段人前では決して解【ほど】く事の無い結い紐を解【と】くと、はらはらと桜風に煽られた黒髪が桃色に溶けて行った。
 さらさらさら――
 身体全体を吹雪に攫【さら】われて、まるで桃色の雲の中を歩くように足許が見えない。
(溶けて居たい、この桜に)
 この桜林を通り抜けたら、私の身体も桜と共に風に溶けてしまっていればいいのに。
 けれど、其の時私が溶けずに済んだのは……否、溶けることが出来なかったのは。
 見付けて、しまったから。

 ――許されぬ愛を。

 桜の世界に一筋走る緋の衣。
 真珠色の髪が桜に流れて、静かに耀く。
 妖かし……?
 その妖気はひんやりと冷たくて、桜よりも冷たくて、その緋【あか】が燃える様に熱くって……私は胸を灼かれてしまったのだ。



 それが西国に巣食う化け犬の人腹への落とし児だと知ったのは、それから幾日も経たぬ頃だった。半の妖と言う存在を目の当たりにしたのは其の時が初めてだった。其れは噂から想像するよりずっと綺麗な顔立ちをしていた、と思わず洩らしそうになって慌てて胸中に呑みこむ。ああ、あれが半の妖というものか…。
 その妖かしが、私の胸の珠を狙っていると言うことを知ったのも其の時だ。そして其の話通り、数日の中に私はその半妖を幾度幾度【いくたびいくたび】見掛けるように、なる…………。
『今日と言う今日は覚悟しやがれっ、桔梗!!』
『ああ、幾度やっても無駄だ、お前に私の珠は奪えない』
『てめぇ、何故止めを差さねぇっ』
『私のまわりをうろちょろするな、矢が勿体無い』
『けっ…愚痴なんて、お前らしくもねぇ…』
『桔梗、浮かねぇ顔してんじゃねぇか?』
『桔梗』

 桔梗…。

 ――桔梗。

『桔梗……俺はお前と共に生きる』
 信じていた、のだろうか。
 愛されたいと言う欲望だけが充たされれば良かったのだろうか。信じ合い、求め合い、燃えて、燃えて、燃えて………。
 この男を救えるのは私しかいないと、私が寄り添って救いたいと、思っていたけれど。
 本当に救われたいと望んでいたのは、私だった。
 流砂の様に私を引き摺り込もうとする運命等、とうに諦めて仕舞った筈だったのに。其れでも私は足掻いてい居たのだ。信じているという言葉は只の甘い誘惑で、其れは「信じて欲しい」と言う欲望の叛逆【はんぎゃく】でしか無くて。
 似ているからこそ救えるなんて………己惚れに過ぎなかった。
 あの侭の……求めるばかりの私では、決して救えはしなかったのだろう。
 それを己惚れの沼に足を浸けて仕舞ったから、私は罪を負う。そして彼も………同じ様に罪を負う。

 救いたいのだ、彼を。
 救いたい。
 時を隔てて、死線を隔てて、心すら隔てて仕舞った今でさえ。私はお前を救いたい。
 この気持ちは……きっと今も変らない。
 そう、其れが本当の、私の望み――。

 今度こそ信じよう、お前を。
 喩え此の紛い物が壊れて仕舞おうとも。お前の爪に切り裂かれて、魂絶えて、其れでもお前が歓んでいても、それでも。
 今度こそ信じよう。

 愛している――



 からりと音を立てて、粘気の有る黒い空気が浄化される。
 弓の撓りを解いた桔梗は、ゆっくりと降ろした右手から、目的を果たす事の無い白矢羽をゆっくりと手離【たばな】した…。
 からん、からからから…………
 其の時、くにゃりと空間がねじれて……闇が弾き飛ばされる。

 舞う妖かし。
 描く曲線。
 迸【ほとばし】る光。…そして血の朱が光に飛沫を懸ける。

「犬夜叉……」
 ――愛している。

 其の声は、かごめ?
 其の声は、桔梗?

 残されたのは爪を濡らした半妖と、胸を裂かれた巫女が、「一人」。






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