緋の想い
hi no omoi

10







 朱い燈【ひ】が。
 朱い燈【ひ】が。

 何故だ……桔梗……。
 螺子曲【ねじま】がる空間がこすれあって迸【ほとばし】る閃光を放ち、濃紫の直垂【ひたたれ】をまとった男が呟きを洩らす。
 何故だ……桔梗!!
 身体【いれもの】を充たしていた妖力【ちから】が、突如として暴発するように逆流して神経を叫ばせる。奈落を造って居た妖怪達……射抜く様な光に貫き通されて思考が四散した瞬間、枷【かせ】を外された彼奴等が自由を得て我を破る。
 解って居た筈だ………こうなる、ことなど。
『塵屑【くず】妖怪の集まりに過ぎぬ』………解っていた筈だ。生来の鬼である犬夜叉と望んで鬼になった己では成り立ちが違う……同じ半妖であっても、違うのだと。個の集まりでしかない自分が四魂の妖力【ちから】を得た時に如何なるのか、解っていても、否、解っていたからこそそうしたかったのか。
 脳髄の奥底で何時も疼いて居た朱い燈。どれだけ黒い瘴気に侵そうとしても、決してくすむことなく、決して途絶えることなく。
 気付かぬ振りをして足掻く己を、冷たく見据えるもう一つの自分が何処かに在って、我は狂気に蝕まれて行ったのかも知れない。
 四魂の妖力を得ることは即ち、己自身の崩壊を意味する。
 きっと寄せ集めのこの身体は……弾け飛んでしまう。
 珠を得た者は必ず、その淡い光に満たされて己の真の望みを一つ叶えることが出来た。それは己の妖力を高めることであったり、戦を統べる力であったり、永遠の齢【よわい】であったり……。
 知っていた。
 自分の身体を、個の妖怪を統べる力は、結局汚らわしいヒトの心の中に在るのだと。鬼蜘蛛の卑しい心が、否定しても消そうとしても、最後には己の存在理由となっているのだと。
 野盗の末期の妄執が、繋ぎの全てだった…其れを無くして数多の妖怪が一を成す理由などない。
 四魂の珠を得れば完全な妖怪に成れる…?
 鬼蜘蛛の心を完全に消し去って尚、一の妖怪として在り続けられる?
 いや、違う。
 きっと四魂の妖力は――「鬼蜘蛛の心に反応する」。

 解っていたはずだ。

 そして我は………きっとそれを、望んでいた。
 それでも足掻いて足掻いて、外れんとする箍【たが】にしがみ付いて居たけれど……嗚呼、やはり。
 これは賭けだったのかもしれない。
 もし、桔梗が堕ちて来たのなら。犬夜叉をその手で射抜いて奈落の底へと堕ちて来たのなら。その時こそ共に鬼と成ってしまえただろう。鬼蜘蛛の望みと我の望みが重なって、我は鬼に成れただろう…本当の鬼に。
 けれど、やはり。
 いや、解っていたのだろう。

 桔梗は犬夜叉を愛した。
 鬼蜘蛛は桔梗を愛した。

 堕ちては来なかったのだな……桔梗。
 鬼に成って奪うより人としての想いを択んだ…。
 ならば、我も。
 もう一度、ヒトに戻ってお前を愛したい。

 願いに珠が反応する。



『いい、匂いだ…』
 その言葉を吐【つ】いた相手は誰だっただろう………。それは、かごめ?
 そうだ、かごめだ……でも、もっと昔。
 俺が永い永い眠りに堕ちる前にも一度…………そんな言葉を吐【つ】いたことが有った気がする。
 光、光、光の渦。
 鮮烈な耀き――けれどそれは何処か懐かしくて、犬夜叉は幾度も幾度も頭【かぶり】を振る。眩【まばゆ】い程に白く、激しく、優しくて…己がずっと求め続けて居たもの。

 かごめ……?
 瞬【しばたた】く視界に、ぼやりと淡い輪郭が視えて来る。巫女装束がよく似合う、似合いすぎて恐ろしい程だと思った。清廉で美しくて……まるで夢の中の様だ、と。
 目の前の巫女が、ふわりと微笑う――。
 けれど其れは一瞬の幻の様に儚く潰【つい】えて、次に両の腕【かいな】に凭せ掛かった己には軽すぎる程の重みだけが、妙な現実感と共に犬夜叉の思考を煽った。瞬間にして収縮する光渦。しゅるん、と音を立てて、あっと言う間も無くまた、辺りは闇に呑まれてゆく。
 忌々しい、と思う。こんなにも受け入れたく無い事実が目の前に…この腕の中に在ると云うのに、この獣眸は何時にも増してくっきりと真実を悟らせてくれる。まだ温かい娘の身体。衣擦れを通して伝わり来るこの体温は紛れも無く生を証して呉れるものだと信じたいのに。
 ぬるり、と背に回した手が捉える感触。生温かい筈、でも心凍るほど冷たい。指が辿る血脈は、確実に己が切り裂いた傷痕だ。
「かご…め…?」
 やっと廻らぬ舌が言の葉を紡ぎ出せた。けれど其れは虚しく宙に舞ってゆくだけで…もう答える声も無く。
 俺が……やったの、か…?
 何か、思い出していた気がする。幼い記憶の一枚を、ひらりと翻る一瞬に垣間見ていた気が、する。
 それから?
 それから、俺は如何した…?
「息…してねぇ…」
 云いたい事は山程残っている。匂いでも、笑顔でも、そんな物では無くて…もっと大事な。まだ如何しても伝え切れなかった言葉が、残っているのに。
 かごめにも。
 ――桔梗にも。

 こんな、形で。
 また、終るのか。

 これが慟哭と言うものなら、まだまだ足りぬ。突然込み上げてくる塊に押し上げられる様に胸が切り刻まれる。眩暈、吐気、耳鳴……消してしあ¥まいたい、今度こそ。此れが己の生の結末だと言うのなら、今度こそ幼き望み通りに露と成って消え去りたい。人と妖かしが愛し合った事への罰だと云うのなら…あの時に、露にと願ったあの時に自らの喉を喰い破ってしまえば良かった。
 忌々しい!!
 忌々しい!!
 この強躯も、この裂爪も、この金眸も……全て。
 あの時かごめは微笑っていたんだ。俺を許すと云わんばかりに優しく、微笑っていたんだ。
 でも。
 消えて…しまうのなら。
 俺の傍らにいなくなってしまうのなら。未だ憎悪の瞳で俺を射抜いてくれた方がましだった……!!
「かご……」
『犬夜叉』

『犬夜叉…』

 自らの咆哮に窶【やつ】されて仕舞いたいと叫んだ喉が、突如温かいものに潤されて行く。痛い様な心地良い様な、じんわりとした温もりが胸に拡がるのを感じて、犬夜叉は深く鎖【とざ】していた双眸を僅かに開く。途端、ずきりと脳芯が軋んで思わず眉を顰めたが、其れでも呼び掛けるものが何であるか知って居る様な気がして今度こそしっかりと金瞳を上げた。
 ふわりと柔かい何かが両頬に触れる。
『犬夜叉』

「き…きょう…」

 其れは紛れもなく自分の命を求めていた巫女の姿だった。けれどその表情【かお】は…優しくて。
(笑っている…?)
 五十年前のあの頃、こんな桔梗の表情【かお】を見たいと思ったおとが有る。あの頃の桔梗は、子供等に向けても、己に向けてさえも、何処か憂いの在る笑みしか見せることは無かった。其れはきっと本人すら意識することのないものだったろう。ただ、其の心の底に静かに沈殿した哀しみが自分のそれと共鳴するかのようで、目にする度に嬉しいような哀しいような想いが胸を僅かに灼いた。
 けれど今目の前に微笑む巫女は……否、一人の娘は、柔かく温かく全てが拭われたたおやかさで笑む。犬夜叉は、掻き抱くかごめの躯をそっと地に滑らせて横たえ、ゆっくりと立ち上がって巫女の目線へと自らを持ち上げた。
「逝く、のか…?」
 ようやっと、ひりひり痺れる喉から擦れた声が絞り出される。その言葉を捕らえた桔梗が、ゆっくりと肯んじた。
『ああ』
「桔梗……!お前が逝くなら俺も…」
『…本当に、そう願うのか?』
 思わず身を僅かに前に出して言った犬夜叉の言をやんわりと包んで、桔梗はふわりと地から足を離した。死魂虫が淡く散光しながら桔梗の躯にするすると這う。
『その娘を、残して?』
 犬夜叉の顔がく、と強張る。それを認めた桔梗は、その表情を嫉妬も覚えることなく見返せる自分が何故だか可笑しくて、心の中でくすりと笑いを洩らした。心が凪いでいるのだろうか。今まで感じたこともない程に穏やかな…。
 犬夜叉が何かを言いかけるのを遮って、彼の唇をやんわりと掌で被【おお】う。少し驚いた犬夜叉の吐息が擽ったく感じるのはきっとまだ魂が此の世に在ることの証だ。
『もう…お前が私と共に逝く必要はない』
 やっと解った。
 愛しているという想いに、私の心が震えた時。
 紛い物に宿る心が転生した心と共鳴し、かごめと一つに成った時。
 憎しみが愛に変った時。
 やっと解った。

 あの時…五十年前の、あの時。
 四魂の玉と共に己の躯が灼かれて行くのを感じながら、私は何処かで願っていた。
 裏切られた悲しみと、それにも増して自分を蝕んだ運命という名の枷【かせ】への憎しみに塗【まみ】れながらも、何処かで。憎しみも、悲しみも、寂しさも、迷いも。全てを捨ててもう一度――お前と廻り逢いたい。
 悲しみが重過ぎて、憎しみが深すぎて、己の心が余りに寂しさに浸蝕されて居たから、邪まな妖かしの陶焼きに与えられた紛い物に縋【すが】って仕舞ったけれど、本当はあのまま。
 お前と廻り逢った少女のままでいたかった。

 唇を塞いだ掌に熱い何かが沁み込むのを感じて、桔梗はそ…と手を離す。
『泣いているのか?』
 金の双眸が、永い間忘れていた結晶を熱く溶かして零し出す。その眼【まなこ】の中に、桔梗は確かに自分の姿を認めた。もう一度すっと手を伸ばして涙に触れる。
 癒したかった彼の心に在った最後のしこりが、今ゆっくりと溢【あふ】れ出して行く…。
『泣くな』
 私は、そう、死ぬのではないから。
 此の世から永遠に消え去ってしまうのでは無いのだから。
 かごめ…………転生した私。私の望んだ姿。

『お前のために。
お前のためだけに』

 ――私はもう一度、生まれ変わって来よう――。

「桔梗…っ」
『今は』
 今は何も言わずに。
 只、その溶け行く涙を流してくれただけで充分だから。
『もう一度お前と廻り逢った其の時に……』

 愛している、とそう、云って。







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