I need to be with you. Call me, please・・・ “ My Girl ! ” 1 |
「だーかーら!何度言ったら分かるのよ!?明日は数学の試験なの。その次は英語と社会なの。その次の土曜日は志望校の特別補習なの!!その次は…」 「だーもうごちゃごちゃやかましい!んなこと言われたって俺に解る筈がねえだろ。大体何なんだよその『すーがく』だの『しゃかい』だのってえのは。食えんのか?」 「食えないわよ莫迦。兎に角!あたしは忙しいんだってそう言ってんの。ずっとこっちにばっかりいる訳にはいかないって言ってんの。いくらなんでもこんな切羽詰ってる時に四魂の玉なんか捜す気分になれないわよ。さーーもう犬夜叉、そこ退【ど】いてっ!来週にはちゃんと帰ってくるから…」 晩夏の宵である。 長月も半ば近くにさしかかり、夜も然程更けやらぬこの時刻から、既に辺りは涼やかな空気に満ち始めていた。ところどころからは虫の音が響き、ともすれば秋の始まりをも感じさせるような風情だ。ゆるやかに輝きだした偃月【えんげつ】は蒼白く空を切り、東【ひんがし】の夜天から清【さや】かな光を投げかける。木々の影が濃紺に徐々に長く伸び、さわさわと揺れる草叢の上に幾筋もの墨絵を描き出していた。 鎮守の森はこんもりと繁り、どこまでも物静かだ。古びた井戸にも静謐な枯れ木の芳酵が満ちている。 「四魂の玉、な・ん・か、だあ!?てめえ、俺たちが必死に探してるものをそーゆう…」 「またそうやって上げ足を取る!別にそんなつもりで言ったんじゃない事くらい知ってるでしょ。どうしてあたしが帰るとなると、いっつもあんたはそうなのよ?ったく……おすわり」 「ん゛な…っ」 盛大な震動音と、それに続く悔しそうな少年の声。井戸の向こうへ去っていった娘を追いかけるように、かごめまたてめえ、と暫く続いていたそれは、しかし数回繰り返されたのち諦めたようにふつりと途切れた。 あとにはまた、取り戻された静寂のみ。風だけがひょうひょうと、取り残された少年の上を吹く。 それがちょうど、五百年と三日前の出来事―― 無機質な学校の廊下に、がやがやとざわめく生徒達の声が響く。コンクリートの床に跳ね返るそれは、何だか妙に現実感の薄い波紋を拡げる。皆が試験後の解放感に浸る放課後の学校を、窓から差し込んだ午後の光がぼんやりした暖かさの中に包み込んでいた。 ここ三日続いていた実力考査は、夏休みの成果を試す大切な試験だ。結果は高校受験に直接響くというのに、一学期の学期末考査と比べて相当に難しくなっていたと、あちらこちらで皆の不満と不安の呟きが上がる。 中学三年生夏休み明け、その試練の真っ只中にいる日暮かごめもまた、人影の少なくなった教室で一人鬱げに溜息を吐いていた。 (気が重い…) ――溜息の原因はやはり彼女も皆と同じ、さっき終わったばかりの試験にある。ホームルームが終わった後、疎【まば】らになった話し声を耳の隅に聞きながら、かごめは数学の教科書をひっくり返して眉を顰めた。 (やっぱり、あの公式間違って覚えてたんだ…。えーと、問いの一から五までがつながってたから、一で間違ったらその後もだめよね。…てことは合計で約20点マイナス、か) 我ながらせせこましい事態だと思う。つい今年の始めまでは、幾ら数学で大きい間違いをしたと言っても計算ミス程度だったというのに、今では基本的な計算公式すら意味が解らなくなってきていた。試験の度にこうやって間違ったところを探してばかりいるのは、一応学年の秀才組に名を連ねていたかごめとしてはやるせなくて仕方がない。どれだけ自信がなくても85点以上はかたかった時代は、一体どこへいってしまったのだろう。 (これと言うのもみんな、あの分からず屋のせいだわ) 数日前に喧嘩別れしたまま顔を見ていない時の向こうの恋人に、かごめはいまだ腹を立てていた。どーいうつもりだ、いつまで待たせる、と繰り返す彼の顔を思い出す度にむかむかと怒りが湧き…そして悲しくなる。 (あたしだって苦労してんのにさ…ちっともわかっちゃくれないんだから) まだしつこく数学の教科書を捲【めく】りながら、シャーペンの尻を顎に当てたかごめの視線はもうインク臭い紙を通り越している。ぼんやりとぼやけた数字の羅列が、五百年昔の見慣れた風景へと変わっていった。 現代【ここ】とは違ってどこまでも緑が広がる世界――夜は暗くて昼は明るい、何もかもが明瞭に輪郭を現している世界だ。法衣が翻り飛来骨が横切って、そして紅い衣に包まれた彼が飛び上がる。妖かしたちの叫び声も、戦慄を煽【あお】る土煙も、何もかもが見慣れた光景。 分かってはいるのだ。彼は性根では本当に優しくて、自分の事をいつも気遣ってくれているのだと。風が吹けば風上に立ち、雨が降れば袖を翳し、まるで壊れ物を守るかのように自分を大切にしてくれる。――分かってはいるのだ。 (だけどね…) 角張った図形の向こうに浮かんでいた犬夜叉の顔が、突然カチューシャをしたおかっぱ頭の少女に変わる。 『ごめんね、今日はちょっと…彼と約束があるから。先帰るねー』 『あーごめんっ、今日はユカと図書館で勉強するって約束してるんだ』 次々と浮かんでくる友人達の顔は、皆揃ってかごめに向かって同じ様な事を言った。 『あたしタカオと付き合い始めたの…って、知らなかった?とにかくそういう訳だから、ごめんねっ』 (みんなして、ごめんごめんってさあ…) あたしはどうなるの、あたしは。そう言いたかったが、それは咽喉に引っ掛かったまま未遂に終わった。この一ヶ月というもの、戦国【むこう】の世界の方が何かと忙しく、こちらの友達付き合いを避けがちだったのを思い出したからだ。よく考えてみれば、何やら深刻そうな顔をして持ちかけてきた相談を、忙しさにかまけて断った事が何度かあった気がする。無論彼女達と自分が疎遠になったとは思わないものの、何だか自分の居場所が狭まったような感は拭えなかった。 (彼…か。女の友情なんて所詮そんなもんよね) 悟ったような顔をして頷く。が、ふと思い出したように、かごめの表情はまた暗くなった。 『かごめも今は彼とうまくいってるんじゃないの?』 さらっと友達が口にした言葉――今考えただけでも、ずきん、と胸が痛む。 ――彼。 うまくいっている…果たしてそう言っていいのだろうか。 いや、そもそも犬夜叉と自分はつきあっていない。彼イコール犬夜叉だなんてどうして言える。告白した事もなければ告白された事もない、弥勒や珊瑚は、犬夜叉に向かってかごめのことを「惚れた女」と称するけれど…決して本人の口から洩れた言葉ではないし、からかい半分というのも多いにあるだろう。 自分と犬夜叉の関係。考えれば考えるほど頭がごちゃごちゃして考えがまとまらなくなる。要するに恋人でも友人でもない関係、友達以上恋人未満、というやつだ。傍から見てもかごめ本人からしてみても、彼が自分を好いているのは確かであったが、だが結局はそれだけに過ぎない。 躊躇いがちな抱擁が幾度か。もどかしい言葉が幾度か。煮え切らない、はっきりしない…。 「やだやだ、あーもーやめ!」 大体あたしは悩み事なんてガラじゃないんだから、とやたら大きく自分に向かって宣言しながら、かごめは椅子をがたがたと鳴かせて立ち上がった。はずみで、彼女お気に入りのピンクのシャーペンが机の端から滑り落ちる。軽い音を立てて床に落ちたそれば、くるくると回転しながらリノリウムの床を机を幾つも挟んだ遠くにまで転がっていった。 (どーーおでもいいのよあんなヤツ、そんな事より明日の予習っ!) 小さな拳を握り締めてもやはりそんな覇気は湧いてこなかったが、かごめはあえてそれを試験疲れのせいだと片付けることにした。机の上の教科書やら消しゴムやらをぱっぱっとカバンの中に放り込み、もう誰もいなくなった教室をぐるりと見回す。 (明日もここで授業よ、頑張らなきゃ) それでも、西日が差した教室は柿色に饐【す】えていて、やはりどうにも切ない雰囲気だった。振り上げたかごめの拳が、段々力を失ってまたプリーツスカートの直ぐ脇におさまってしまう。 水槽で飼っている季節外れな金魚が、少し濁りかけた水の中でぴちゃんと跳ねた。斜めに伸びる無数の机の陰は、開けっ放しのドアを抜けてどこまでも続いてゆく。 放課後の学校は寂しい。後にはただ、少し肩を落としたセーラー服姿の少女が一人、教室のドアをからり、からりと開け閉めした音だけが僅【わず】かに余韻を曳いていた。 ――これが一日前、つまり昨日である。 そして、今日。 「いいかー日暮!次の問いはお前だぞ、難しいからよおっく考えてみろ。三角比を使うんだ」 (ちょっと待って…えっとなに、さんかくひ?) 「早くしろよー。そんな問題でつまづいてるようじゃ、次の範囲は絶望的だからな」 今日は朝からやけに蒸し暑い。夏の再来かと思われる程、空気がじとじとと重くて気温が高かった。蝉の声こそもう響かないものの、開け放した窓から舞い込む風にはまだ、青臭い緑の香りがたっぷりと染み込んでいる。団扇でもあれば、思わず手に取って扇いでしまいそうになる程の暑さであった。 日当たりのいい南向きの教室には、余す所なく白い太陽の光が差し込んでいる。妙に暑苦しい格好の教師と数学の難問を目の前に、補習を受ける十数人の生徒達は汗を薄っすらと浮かべながら、シャーペン片手に白紙のノートと頭を持て余す。みんな妙に真剣で、教師がかごめを急【せ】かす以外には誰も声を上げなかった。 (集中できない…) 静かだと逆に、小さな物音が鼓膜に大きく響いてしまう。シャーペンをかちかち鳴らす音や、教科書を忙【せわ】しなくめくる音、教師が時折ぱしぱしと丸めた教科書を叩く音…下手をすると隣の人の汗が滲み出る音まで聞こえてきそうだ。気ばかり焦って、いい回答例は思い浮かばない。いや、間違っていてもいいから、とりあえずこの場を切り抜けられるだけの、気の利いた公式が思い浮かべば…。 「おい日暮」 「す、済みません先生。暑さで少し頭が…」 こういう時に極度の軟弱体質は便利である。俯いて少し上目遣いに教師の顔を窺いながら、かごめは力無さそうに椅子を引いて立ち上がった。勿論、細い指先でこめかみを押えるのも忘れずに、である。少々ずるい気もするが、それなりにこちらも苦労しているのだからよしとしてもらおう。 案の定、さっきまで眉を吊り上げていた教師はすぐにおろおろとした表情に変わった。あるいはひょっとしたら、余りの暑さにかごめは本当に顔色を少し悪くしていたのかもしれない。 とにかく、教師の声音が優しくなったのを聞いて、かごめはしてやったりと内心で微笑む。 「大丈夫か日暮っ。そ、そうかこの教室は暑いもんな、こんな所でお前に勉強しろという方が無理だったな…」 もともと人の好い教師は、慌てて教科書を教壇に置くと、急ぎ足でかごめの席までやって来た。熱でもあるのかと腰を屈める教師の様子に、かごめは少し冷や冷やしながらも下を向いて表情を隠す。 「――よし!」 …と、しばらくかごめを見詰めていた教師が、いきなり声を上げた。その声が余りに大きくて、思わずかごめも教師の顔を見上げ、目を合わせてしまった。 「もういい日暮、今日は帰りなさい」 (…え?) 「いいんだ。今日はもう帰ってゆっくり体を休めなさい」 「あ、あのー。少し休めばすぐ治りますから…」 「いぃーや無理しちゃいかん。この間それで倒れたばかりじゃないか。いーんだいーんだ補習なんて、気にするな」 「は?あのでも」 ――ちょっと分からない問題を逃れようと思っただけだったのだが、どうやら効き目があり過ぎたようだ。それもその筈、先日始業式早々三日連続で休んだ理由が、『熱中症による極度の貧血と脱水症状』だったのいうのだから、むしろ教師の反応も当然というもの。かごめがそれを知らなかっただけだ。 まだ抗議しようとするかごめの様子を、教師は感心なほどの勉強熱心さゆえと受け取ったのだろうか。労るようにかごめの肩に手を置くと、うんうんと一人で頷きながらなおも言う。 「大丈夫。今日の分は早退をつけないでおいてやるから、な?」 まるで聞き分けのない子供を諭す様な口調である。だがとにかく、かごめにこれ以上の抗議の余地はなさそうだった。周りの友人達に、折角だから帰っときなさいよ、と小さく耳打ちされ、かごめも仕方なく頷いた。要は自分の授業中に倒れて欲しくないのだろう、というのも薄々分かっていたが、元はと言えば自分の嘘のせいなのだから責める訳にもいかない。 「分かりました、じゃあ今日はこれで」 のろのろと教科書を鞄にしまい始める。教師に手渡された藁半紙のプリントは、まだ刷りたてなのかインクの文字が少し湿っていた。隣席の友人が、気を付けて帰んなさいよ、とこっそり囁き、かごめも無言の頷きを返す。 …昨日の、カチューシャの少女であった。 まだ昼までは30分以上ある。太陽が高くて、肌に垂直に突き刺さってくるようだ。密度の濃い光に、アスファルトが白っぽく反射して視える。いつもより少し軽い鞄と、大いに重い気分を抱えながら、かごめはゆっくりと家への路を辿っていた。 (あつー) 翳した手が、灼けている。ブロック塀沿いに庭木が落としている翳も、南中が近付いている所為で今はほんの少ししかなかった。空は雲ひとつなく、良い天気と言えば良い天気なのだが…。 (もう九月の半ばだっていうのに、なんでこんなに暑いのよ) 現代の夏は戦国のそれと随分色合いが違う。冷房のない戦国の夏は勿論暑くて堪らなかったが、剥き出しの路土や取り囲む山々の空気の所為か、もっとからりとしていて爽やかな印象を受けた。小さな木陰に入りさえすれば、驚く程の涼味が得られる。 ――それに比べ、現代のこの蒸し焼きにされそうな暑さは異常だ。気温どうこう以前に、歪みのない直線ばかりの風景だけで気が滅入ってくる。夏といえば姦【かしま】しい蝉の声が、さすがにもう聞こえないのが、せめてもの救いといったところだろうか。 (犬夜叉、来てるだろうな…) 家の前の鳥居をくぐれば、いつもそこに彼はいた。 昔は屋根瓦の上でぼんやりと空を眺めているか、井戸の祠【ほこら】の前で、むっつりと胡座をかいて目を閉じているかだったが…最近では、玄関のドアを開けた途端上がり框【かまち】に腰掛けている犬夜叉に度肝を抜かれたり、部屋で堂々とブヨとじゃれる彼を発見したりしたする事も多々だ。現代と戦国の違いを薄々と知るようになってからは、下校途中のかごめまで迎えにくる事こそなくなったものの、かごめを連れ戻しにこちらにやって来る頻度や待ち時間には寧ろ磨きがかかっているように思える。我が物顔、と言っては言葉が過ぎるかも知れないが。 嬉しくない…それは嘘だ。 気配に敏【さと】い犬夜叉は、自分を見つけた瞬間ふっと頬を緩め緊張を解く。教科書の詰った鞄をさり気無く取り上げて、早くしろよと急かす声が、どこか安堵している。二人が一番近しい存在なのだと分かり合える時、ひとときの幸せと安らぎを感じられる時だ。 ――でも。 頭のどこかが、ちがう、と訴える。あたしの求めているのは、こんなんじゃない、と。 彼に安心と笑顔を、勿論一時【いっとき】はそう思ったこともある。いや、今だってそう思っている。 ――でも。 (それだけの存在?) 恋人と言うよりは寧ろ、姉弟【きょうだい】か母子のような――そんな言葉が一番しっくりくるんじゃないか。そう考えるたび、余りに妥当すぎる答えのような気がして、背筋がすっと寒くなった。 自分の前では無防備で、犬夜叉は、優しいけれどその分幼い顔に戻ってしまう気がする。それが彼の安心だと言われればそれまでだが、やはり納得できないものは残った。桔梗を見詰める時の男らしい彼と、自分の前で拗ねてみせる子供っぽい彼。どちらも一人の彼だと、わかっていても蟠【わだかまり】りが心に積もる。自分と桔梗が違うように、接する彼の態度が違うのも当然だけれど――。 (女として、見られてない…?) いやな問いかけだ。 ただの我儘ではないか。 彼にとっての自分、果たして恋人なのか、それとも母親なのか…わからなくて、そしてそんな事を考えている自分すらも嫌で、辛い。 チリン、と自転車が鳴って、かごめの横を軽い風が横切った。その音に、ふっと現実が戻る。 ペダルを踏む音やスーパーの買い物袋がかさかさいう音が遠ざかっていって、かごめは自分が幾分かの間ぼおっと立ち竦んでいたのだと気が付いた。 ぺし、と鞄を持たない方の手で頬を叩く。 (ばか…) 考えたってしようがないと、わかっていてどうして自分を追い詰めるのだ。そんなこと、なんの足しにもなりはしないし、余計悪い事態を招くばかりだ。自分のガラでもない。比べて、嘆いて、一体何になる。 遠くに神社の鳥居が見える。陽差しを受けた笠木【かさぎ】の端が、白っぽく光っていて眩しい。蒼い空と、鳥居の朱【あか】と、木々の翠……続いてゆく石段は熱く灼けて、今頃ゆらゆらと陽炎を立ち昇らせていることだろう。どれも、かごめが大好きな我家への光景だ。 (早く帰ろう) 戦国【むこう】に行く前に、せめてシャワーを浴びる時間だけは勝ち取ってやるんだと小さく決意を固め、かごめは照り返すアスファルトの道を小走りに駆け始めた。たんたんと響く自分の軽快な足音を聞きながら、その音が心までも軽くしてくれることを望むかのように…路面を蹴立てるローファーのかかとにわざと少し力を込める。 ――いい音がした。 |
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