Love・・・missing each other.





“ My Girl ! ”
2







「叔父さんが倒れたあ!?」

電気の点いていないダイニングキッチンは、昼間だというのに少し薄暗い。一気に石段を駆け上って家に走りこんだかごめは、テーブルの上にひらりと置かれた一枚のメモを前に、まだ少し息を切らしていた。
青いチェック柄のナイロン製のテーブルクロス。その真ん中辺りに15センチ四方の白い紙がひとつ、そして家族の気配はどこにもない。

『九州の叔父さんが急に倒れたので、様子を見に行って来ます。多分いつもの発作だと思うけど、一応念のため、ね。
 かごめは今忙しいだろうから家にいてちょうだい。
 草太とお爺ちゃんは心配だから連れて行きます。明後日までには帰りますから、それまで戸締りには気をつけて。
     ママ』

(九州の…心臓の持病だっけ、大丈夫かな)
 手に取ってきっかり二度、読み返した後、かごめは溜息を吐きながらメモを元の位置に戻した。
 九州に住む叔父は、かごめもよく知っている。死んだ父親の弟で、今は釣り具専門店を営んでいるとか。いかがわしげな口元の髭を取ると父親そっくりで、かごめを小さい頃から可愛がってくれた。
 見かけはまさにスポーツマン、といった日焼け肌、実際運動もよく嗜んでいたようだったが、残念ながら生来の心臓疾患のせいで、時折入院沙汰の発作を起こしてしまう。彼の奥さんが亡くなってから、何かある度にかごめの母親が面倒を見に行くのはもう恒例のようになっていた。
(しょうがないな)
 今日は一人…か。そう小さく呟いて、まだ左手にぶら提げたままだった鞄を傍らの椅子にぽんと置く。滅多に人気の絶えない家は、一人になってみると急に広く感じられた。自分が動きを止めると、家全体がしんと静まり返り、なんの音も聞こえない。普段からなにかと賑やかな集団の中にいるだけに、たまに感じる静けさはかごめにとって耐え難かった。
 出かける前に家族が家中の電気を消していったためだろう、いつもなら明るい家の中がしんみり冷えたグレーに包まれている。落ち込む気分を助長されそうになって、かごめは慌ててライトの紐を引いた。途端、ぱっとテーブル周りが明るく照らし出されてかごめはほうっと息をつく。そしておもむろに顔を上げると、鞄を掴み取り、次々と家中の電気をつけはじめた。
 廊下、階段、居間、玄関。ポーチライトと洗面所、そして風呂まで。
 それでも、電気をつける度に後ろから薄い闇が追いかけてくる気がして、かごめは逃げるように二階へと駆け上がった。自分の部屋へ飛び込み後ろ手にドアを勢いよく閉め、ようやく長い息を吐く。それでもまだ人心地ついたというにはほど遠く、かごめは心臓がやや高鳴っているのを感じて、拳をリボンの胸に押し当てた。
(へんな気分)
 今日に限って誰もいない。
 ママも草太もじいちゃんも――。
「犬夜叉、も」
 言葉にして泣きそうになり、かごめはぶんと頭を振る。
 犬夜叉は迎えに来ていなかった。なるべく辺りを気にしないように境内を走り抜けたけれど――分かってしまった。もし彼がいたのなら、かごめが玄関に到着する前に一言二言憎まれ口でも叩くのが普通。いやそれより、口で何か言う前にかごめの前に立ちはだかっている方が常だろう。
(もう)
 泣きたい気分だった。
 思い切り泣いて、何もかも流してしまいたい気分だった。
 家に誰もいないという非日常感が、かごめの現実味薄い生活と重なって、気分を高揚させたのかもしれない。ぽつねんと独り自分の部屋に立っていて、家には物音一つしない。お帰りなさい、なんて母親の声でもすれば、一気に元の自分に戻れるんだろうに…だのに、今日はそれすらもないのだ。
(もー…)
 何故か少し隙間の開いた窓から、温かいような涼しいような風が吹き込んでくる。不本意に流れた涙の一筋が、熱を奪われてひんやりと冷えた。緑と太陽の匂いが、部屋を満たす。淡いピンクのカーテンが、風と戯れてさらさらと音を立てている。
ぼんやりとしたままベッドに歩み寄り、腰を掛けると、かごめは急にさっきから頭が重かったのに気が付いて嘆息した。
「寝よう」
 呟いた声が消えて、瞼を閉じる。
 どうやら、本当に少し、熱が出てきたようだった。もう昼下がりだろうか。

 差し込む日の光が円【まろ】やかに、眠りに落ちた少女の頬を濡らす。



 それはさておき、五百年前――。こちらも朝から蒸し暑く、太陽は高い。
 新月を明日にひかえた、陽炎【かげろう】の昼過ぎ。

「隣村…?なんでえ、また急な話だな」
「済まんな犬夜叉…相手は長物【ながもの】の妖怪だと聞く。わたしと楓さまだけでも難くはないと思うが、ひょっとすると珊瑚の 詳しい方面やも知れんのだ。帰って来るまでに二日ほどかかる」
 涼しげな木陰を落とす常緑樹の上と下、二人の若い男の話し声が聞こえる。素気ない声音の割に飛び交うテンポは妙に息が合っていて、互いの親しい間柄を感じさせた。

「明晩お前を一人にせぬほうが良いのは分かっている。どうする、ついて来るか?七宝が残ると言っておるが、さすがにそれでは心許なかろう」
「…たりめえだ阿呆。いらねえよ、あいつがいちゃいざって時に足手纏【あしでまと】いだ。連れてけ。俺は残る」

 大樹の幹に寄りかかるようにして腕を組んでいるのは、墨流しの緇衣を纏った若い有髪僧である。なぜか片腕だけに数珠を捲いた手甲をはめていて、彼が身動【みじろ】ぎする度に、琳琅【りんろう】の音をちゃりちゃりと響かせていた。
 半眼に目を細めた彼は、一見一人で何事か呟いているようにも見える…が、よく目を遣ればやはり、話し合い手が近くにいるのだとわかった。彼の肩口二尺ほど上に、真っ赤な水干の袖と少年の素足が片方、覗いている。
「そう言うと思ってましたがね…」
 溜息と共にふうと言葉を吐くと、法衣姿の青年は徐【おもむろ】に組んでいた腕を解いた。脇の錫杖についと手を伸ばし、そのまま持ち上げて木の葉の茂みの一箇所を突く。ごつん、とかたい音がして、少年の声が叫びをあげた。
「痛ってえな、何しやがる!」
 見えていた足が引込んで、枝の間ががさがさと揺れる。続いて顔をのぞかせたのは、犬形の耳に銀色の髪、唇から覗く白い牙――一目で妖怪の血を引く出自と知れる容貌の少年。金色の目を炯炯とさせながら、すました表情で瞼を閉じる青年に、噛み付かんばかりの形相を向けた。
「いい加減にしろよてめえ…おいコラ聞ーてんのか弥勒!」
 その言葉に、弥勒と呼ばれた青年は小さく一つ首を振る。
 そしてぱかと目を開いたかと思うと、こちらもぎろっと少年の顔を睨【ね】めあげた。途端、さっきまで軟らかだった口調が一変する。
「いい加減にするのはてめーだ、この虚【うつ】け者が。いつまでも拗ねてねえでとっとと降りて来んか!」
 ――降りて来いとは口ばかり。
 言うが早いか、青年は錫杖を更に高く掲げて、大樹の葉翳に身を埋めていた少年の頭を、今度は強【したた】か殴りつけた。おかげで、少年は振り下ろされた錫杖ごと、地面に叩【はた】き落される格好になってしまった。
「野郎…」
 頭を押さえてうめく少年を青年が、やかましい、と一喝する。ついでに冷たい一瞥をくれて、弥勒は錫杖の先をびしりと少年の鼻面に突き付け、眉をそびやかした。
「…ガキっぽい我侭も大概にしやがれ」



(そんなこたあ、言われなくたって…)
 言われなくたって、と少年は呟く。

『かごめさまが帰ってしまって寂しいのはよおおーっくわかった。だがな、いい加減お前の甘えは度が過ぎる』

 五百年後――現代の日本。
 もうとっくに陽は傾き始めていた。
 宵が近付き、緑に囲まれた境内は随分と涼しかった。見上げた空には混じり合った水色とオレンジ色が拡がっていて、何ともいえず美しい。ほんのりと太陽を呑み込んだ雲と、それを横切って渡ってゆく鴉の群れが、夕暮れの空と程好【ほどよ】い色彩を保っていた。
 敷き詰められた四角い石畳に沓【くつ】を履かない素足をつけると、心地良い冷たさが染みる。
祠【ほこら】の戸をがらりと引き開けたまま、まるで異国の香りに身をなじませるように、犬夜叉はしばしの間その場に佇んだ。
(何をやってるんだ、俺は)
 ようやく目の前に一歩を踏み出しながら、心の中で問い掛ける。背後から差した夕日に自分の影が長く長く、正面へ向かって伸びていた。
(俺は――)
 別に、かごめの帰省に怒りを覚えたわけではない。
 …別に、かごめの言葉が癇に障ったわけではない。
 それなのにどうしてか、犬夜叉は彼女の前に素直な自分をさらけ出せないでいた。それは、かの巫女と真っ直ぐに対峙できなかったあの頃の気持ちとも、少し違うような気がする。
 不安――。
 彼女を、かごめを、手に入れたいと思ったことは一度や二度ではない。このまま自分のものにしてしまいたいと――思わず手を伸ばしかけて、そしてそんな自分に恐れを抱いた。
 だからこそ、二人きりで過ごす時、彼はわざと不機嫌な顔をしてみせる。彼女が自分に触れる時、照れたふりをしてみせる。
何百年も生きてきて、決して色事【いろごと】に初心【うぶ】なわけではないのだ。見るものは見てきたし、経験するものは経験してきた。それでも。
 かごめの前で苛ついた声を上げるのは、我侭を言ってみるのは、己の甘えといえば甘えだ。けれど本当は、どことなく感じる不安を心の裡【うち】に押し隠すためでもあった。

『もう少し、かごめさまが安心できるように努力したらどうだ――』
『うるせえ、分かってらあ!』

 風に攫われた白髪が、視界の縁【ふち】をさらさらとなびいていた。辿り着いた玄関前で犬夜叉はふと立ち止まり、考える。…何だか今日は妙に家の中が静かだ。いつもなら、ここまで来ただけで誰かがこちらに気付く筈なのに。
(誰もいねえのか?)
 いや、そんな筈はない。レースのカーテン越しに見えるリビングに、白っぽい明りがついている。それに、風に含まれてどこからともなくやってくる、この柔らかな匂い…。
(かごめがいる)
 けれど、思い切ってどんどんと叩いた玄関のドアは、しばらく待っても一向に開く気配をみせなかった。ドアの向こうがしんとしているのを確かめて、もう一度…今度は少し強く叩いてみたが、やはり誰も出て来ない。
「なんだよ」
 まだ怒ってんのか?それとも――。
 諦めたように踵を返し、そのままドアに背を預けてずるずると座り込む。
 正面で夕焼け空に溶けている、眩しい太陽。オレンジ色に染まった前髪が、光に透けて少年の頬に影を落とした。風はまだそよそよと吹いている。
(もっと、近くなれたら)
 かごめと近くなれたら、どんなにか…。



 舞い込んだ風に撫でられて、サーモンピンクのカーテンがしゃらりと揺れる。その音に静かな眠りの泉を乱されて、かごめはふっと目を開けた。
(あれ…もう、夜?)
 カーテンの隙間から覗く空は、すでに闇色だった。かごめは肩を覆っていた毛布をするりと落とすと、一つ身震いしてから開いた窓をうらめしげに小さく睨む。まだ頭が少し、ぼんやりとして重い。
(部屋の電気だけ点【つ】け忘れたんだ)
 やだなあ暗いじゃない、とつぶやいてベットから起き上がり、電気のスイッチへ向かおうとして――そこで、気付いた。
 ――毛布、自分では掛けなかったはずだ。
(犬夜叉が来た?)
 疑問形を頭に浮かべるが、答えはとうに決っている。母親もじいちゃんも、草太すらいない今、他にそんな事をしてくれる人はいない。ベットのうえに起き上がったまま、かごめは腰から下だけを滑らせて足を床に落とした。外した毛布をもう一度肩まで持ち上げ、その体勢でしばし動きを止める。
 …薄暗い部屋は、いつもと全く違って見える。夜中に目を覚ました時ともまた違う、まだ夜に入ったばかりの薄暗い闇。空に瞬くわずかな星のせいか、はたまた境内を照らす電灯のせいか、窓から差し込む空気だけがワントーン明るい。赤いはずの勉強机用のイス、それが闇色の中でぼんやりと青く浮かんでいる。
 犬夜叉――今はどこで、どうしているのだろう。
 夜の闇って、薄めると青くなるのね…そんな意味もない事を考えながら、かごめはよいしょと立ち上がった。一瞬立ち眩んだが、それだけであとは平気みたいだ。毛布のお蔭で冷えずに済んだし、何より熱っぽかった分ぐっすりと眠れた。一振りしたら、頭のぼんやりも一緒に落ちる。
(うん、もうへーき)
 犬夜叉と顔を合わせても大丈夫。ちゃんと笑って、軽口も叩けそうだ。
 彼の前ではシリアスになっちゃいけない――一番辛いのは、やっぱり自分じゃなくて彼なのだから。…そんないつもの大人びた気持ちが戻る。
 感触を確かめるようにもう一度だけ毛布を引寄せ頬に押し当てたあと、かごめは今度こそきっちりとそれをベッドの上に戻した。律儀にたたんで隅の方に重ね、ついでにシーツの皺まできれいに伸ばして、それからようやく屈めた腰を伸ばす。
 犬夜叉、探しに行かなきゃ。
 まだこっちにいるはずだと、どこか確信に似た考えを頭に浮かべ、ドアのノブを引く。

 廊下の明かりが一気に流れ込んで、床を明るく照らし出した。







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