逢瀬
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 囲炉裏端に、ぱちぱちと薪の爆【は】ぜる音がひびく。しんしんと冷える冬の夜を、燃え上がる炎が、その場だけを暖かく溶かしている。
「寒くねエかよ」
 滝のような銀髪の男が言った。獣の耳と獣の爪、緋色の衣。明らかに異形の者だが、その琥珀色の眼は、人のように優しく哀しい色で、何かを見つめていた。
 視線の先には、白い肌衣を着た女が横たわっている。歳は男より一回りほど上だろうか。それでも、どこかあどけなさを残した美しい顔立ちをしている。病床に臥して長いことが窺われる青白い肌に、伏せられた長い睫毛が、ちらちらと揺れる影を落としていた。
「かごめ・・・」
 問いかけに、ほんの僅かに、瞼が震える。しかし、反応はそれきり止まってしまった。
最期の時が近いのだ。
 かごめ、と呼ばれた女と、この男――その名を犬夜叉という――は、人間と妖【あやか】しという間柄でありながら、夫婦【めおと】となった二人であった。
 添い遂げて二十余年。二人の間に子は授からなかった。
 その、二人だけで歩んできた時が、今終わろうとしている。
 半刻ほど、時折爆ぜた薪が小さく崩れ落ちる以外は、何もかもが微動だにしないまま、時が過ぎた。
「いぬ・・・や・・・」
 唇がかすかに動いて、かごめの瞼がようやくうっすらと開いた。
 犬夜叉は、すぐさまかごめのそばに顔を寄せた。銀髪が、かごめを包むようにざっと流れ落ちる。
「喋らなくていい」
 そう言いながらも、犬夜叉の声は悲壮だ。終わりの時を感じて、その重く暗い現実に今にも押し潰されそうになっている声色であった。
「あいしてる、いぬやしゃ」
 か細い、震えるような声が、小さく、しかし確かにそう言った。犬夜叉の琥珀色の瞳が翳り、伏せた瞼から涙が一筋流れ落ちた。
「・・・俺もだ」
 かごめの白く細い手を、無骨な手が握り締めた。かごめは、こんな時にまで愛しているとは言えない男の不器用さに、少し微笑んだようだった。そしてふと、何かを思い出したように言った。
「つらい・・・旅を・・・」
 しかし、その声は虫のため息のように細く、最後までは聞き取れなかった。
「え?」
 尋ね返したが、かごめは問いかけには答えずに、ただ真っすぐに犬夜叉を見た。残った命を燃やし尽くすように強い光が、かごめの瞳【め】に一瞬ともる。
「かごめ」
「いぬやしゃ」
 最後にかごめは男の名を呼んだ。瞳【め】から光が消え、瞼がゆっくりと落ちる。深い息を一つついて、それきり止まった。
 命の炎が尽きた。かごめの中に灯っていた生命の気配が消えた。
 突然、しんとした静寂が部屋に満ちる。
 犬夜叉の身体が震えた。
「・・・かごめ」
 犬夜叉の口から、知らず、かごめの名がこぼれ落ちる。しかし、確かめるまでもなく、彼女の身体がもはや抜け殻となってしまったことは、彼には明白だった。愛するかごめの、柔らかな匂いが、薄っすらと死人【しびと】のそれに変わったからだ。
 犬夜叉の喉を、叫び声が突いて出る。
「・・・・・・かごめええェ!!」
 その悲痛な叫びを聞いて、戸を一枚隔てた隣室にもざわめきが広がる。二人の古くからの知己も、かごめの死を知ったのだ。泣き声が湧き上がった。
 吹き荒れる悲しみの中で、人々の泣き声に紛れ、男はもはや力の入らない白い手を握り締めて、ただ号泣した。

 翌朝、泣き腫らした目をした小袖の女が、かごめの亡骸【なきがら】を清めていた。傍には、やはり沈うつな表情をした、夫と思われる法師がいる。
「犬夜叉はどこに行ったの」
 法師は、清めのためにむき出しになった、かごめの肌から目を背けたまま、ため息をついて応えた。
「あやつは、しばらく姿を現さないでしょうな。悲しみに暮れる姿を人に見せたくないのでしょう」
「かごめちゃんが・・・独りきりじゃないか」
「仕方がないですよ。それに、かごめ様の魂はもうここにはない」
「そうだけど」
 女はぐっと唇をかみ締めて、切れ長の目尻に浮かんだ涙を拭いた。
 村外れの丘に建った、簡素な藁葺きの家。
 いつもこの家に二人はいた。喧嘩をしながらも仲睦まじく生きていた。稀代の霊力を持った巫女と、大妖怪の子である半分妖しの男。一見ちぐはぐな二人は、夫婦として、そして村の守り手として確かにこの地に根付いていた。
 しかしその姿は、かごめの死によって忽【たちま】ち消えてしまった。
 かごめだけではなく、犬夜叉までも。
「寂しくなるな」
「うん・・・」
 犬夜叉は、もうこの村には留まるまい。それは分かっていたことだった。かごめが亡くなった今、犬夜叉をこの村に引きとめるものは何もない。もともと、妖しである彼にとって、家など必要ないのだ。
 それに、もしこの村にいれば、かごめだけではない。もっと沢山の知己の死を、彼は目撃しなければならないのだ。それは余りにも酷な現実であった。
「早すぎたよ」
 目に沁みるような線香の香りが、かごめの亡骸を寂しく包む。
 かごめは、数えにして四十二歳であった。元来の美しさと、快活明朗な性格から、もっと若くすら見えた。歳を取るのが遅い犬夜叉と比べても、決して見劣りしない、似合いの夫婦であった。
 それでも、五百年も先の豊かな時代に生まれ、犬夜叉と生きるためだけに戦国の世に飛び込んで来たかごめにとっては、当たり前の日々の生活すら厳しいものだった。見た目は若くても、数々の苦労は、徐々にかごめの身体を蝕んでいた。病に気づいたときには、時すでに遅く、床に臥してからたったの一月足らずで還らぬ人となってしまった。
「それでも、かごめ様は幸せだっただろう。犬夜叉を心から愛していたから。だから、残った者が悲しんではいけないよ、珊瑚」
「そうだね・・・」
 唇を噛んで、珊瑚は美しい亡骸のほつれた前髪を撫でた。
「あたしたちが、ちゃんと送り出してあげなきゃ」

 そして二人の予想どおり、その日以来犬夜叉は姿を消した。
 かごめの命日には毎年、墓に野花が添えられ、村人の誰かが、目の端に翻る緋色の水干を見かけることはあったが、それも徐々に減っていった。



**********



 五百年の時が流れた。
 東京の片田舎。まだ僅かに山や森が残るある町に、男は立っていた。艶やかな黒髪。男にしては長すぎるそれを、無造作に一つ括りにしてなびかせている。――犬夜叉である。
 妖しの者が生きながらえるには、余りにも困難な時代を、犬夜叉は生き抜いていた。
 夜の闇が、明るい電灯に照らされ、闇に生きる者たちの住まう場所は格段に減っていた。力の弱い妖したちは、淘汰されてしまった。僅かに、人の姿に化け、太陽の下に生きる術を身に着けた者だけが、人間に紛れて、ひっそりと生きている。
 犬夜叉とて例外ではなかった。白銀の髪を、朔【さく】ではなくても黒髪に変え、獣の耳や爪、牙までも隠す術を身に着けた。もともと、半分は人の血が流れる半端な妖怪だったことも、今となっては幸いとなったのかもしれない。
 誰が見ても、彼は、背が高く、少しきつい眼をした美しい顔の一人の男だ。
 それでも、人間より遥かに長い年月を生きる彼は、ひとところに留まることができなかった。見た目に殆ど歳をとらないことは、二十年もすれば気づかれることだし、彼とて、下手に人との繋がりを持って、またその繋がりを死によって分かたれる辛さを味わいたくはなかった。各地を、そして各国までも、彷徨わざるをえなかった。
 トウキョウ、と呼ばれる現代の武蔵の国に、戻ってきたのはもう十八年ぶりのことだった。
その町は、訪れるたび、少しずつ、少しずつ、思い出の懐かしい風景に近づいてきていた。十八年前、ふとここを訪れたとき、犬夜叉は、懐かしい風景とともに、余りにも懐かしい匂いがするのに気がついた。
 かごめが、産まれたのだ。
 それを知ったときに迸った、身悶えするような激しく熱く、そして苦しい気持ちは、何とも説明しようがない。まさか自分が、全てを賭けて愛した女に、五百年も経って再び出会う可能性が残っていたとは、理屈ではあり得ても、思いもよらなかったからだ。
 それから十八年。犬夜叉は一切この町に近づかなかった。初めて、日本という国を出て、外国【とつくに】に渡ったのは、その頃のことだった。そうでもしなければ、まだ幼いかごめに――そして若かりし頃の犬夜叉に恋しているであろうかごめに、懐かしい頃のかごめに、ひと目逢いたいという気持ちを抑えきれるはずがなかった。

 十八年経って戻ってきたこの町は、五百年前に、井戸を通ってやってきたあの町と、全く同じだった。何もかも覚えている。神社、わずかばかりの森、通学路、学校。
 そして――甘い・・・甘いかごめの匂い。
 彼の足で一跳びすれば、数分も経たないうちに抱きしめられる。そんな距離にかごめがいるのを、犬夜叉は痛いほど感じていた。
 彼の立つ、町外れの丘からは、かごめが通っていた中学校が見えた。比較的頑丈な木を選んで、大振りな枝の股に腰を下ろすと、犬夜叉はぼんやりと、学生たちの様子を眺めた。
 人の姿をしている今、敢えてこんな木の陰に身を隠す必要はないのだが、これはもはや彼の習性だった。
 つい、と、犬夜叉の鼻先を薄桃色のものがよぎった。
 ひらひらと舞い落ちたそれは、犬夜叉が伸ばした掌をするりとよけて、地面の方へ、さらにひらひらと落ちて行ってしまった。
(桜か・・・)
 彼の生まれた時分は、ただの春の風物詩だったが、最近では出会いと別れの季節を表すものだなどというらしい。そんな感傷に満ちた表現は下らないが、犬夜叉も、桜は嫌いではなかった。
 春になるたび、「お花見」をしようとはしゃぐかごめを、その年一番美しく咲いた桜を探しては連れて行っていたのが、遠い夢のようだ。薄桃色にうずまく花弁の嵐と、それにもてあそばれて快活に笑う彼女の姿を思い出し、犬夜叉の唇にわずかな笑みが浮かんだ。
 本当に彼女は素晴らしい女であり、妻だった。
今でも、ことあるごとにこうして彼女を思い出してばかりいる自分は、何とも情けなく、執拗な気さえしてくる。
(すとーかーってやつだな)
 軽くため息をつくと、犬夜叉は再び遠くを眺めた。また、そよ風がいくつかの花弁を運んでくる。その間から、かごめと同い年くらいの、苔色のプリーツスカートをはいた学生の一群が見えた。
 奈落を追う旅をしていたころの、かごめと同じ制服だ。だが、その中にかごめがいるはずはなかった。彼女は、中学校を卒業して、すでに希望の高校に進学しているはずだからだ。それがどんな制服なのか、あえてこの町を離れていた犬夜叉には分からなかった。
 なぜ、今になってこの町に戻ってきたのか、犬夜叉にも容易には説明できない。この時代のかごめに会うことはできないし、会うつもりもなかった。いくら懐かしい彼女の匂いであっても、そこにいるのは、昔の自分を愛しているかごめであって、二十年以上添い遂げ、何もかも許し合った妻ではない。
 それでも・・・。
 犬夜叉は、再びふうとため息をつく。
(かごめの匂いの近くに居たい。それ位、いいだろう?)
 桜を運んできた風に、さらさらと頬を撫ぜられながら、犬夜叉は瞼を閉じて、木の幹に身を預けた。少しまどろむとしよう。今日は、久しぶりに、鮮やかな妻の夢を見られる気がした。






蓮奈、9年ぶりの新作です。
全部書きあげてからUPしようなんて思っていると、いつまでもUPできないので(汗)
完成部分からの連載形式にしました。絶対完成させるぞ!!

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