逢瀬 ouse 2 |
「かごめ、じゃあ月曜日ね」 おかっぱ頭の少女とカチューシャ頭の少女が、振り返って軽く手を振った。 「うん、じゃあ、またね」 こちらも軽く笑顔で応じて、二人が歩き出すのを見届けたところで、かごめはよいしょと重たい鞄を抱え直した。と、ほぼ同時に、午後6時を告げるチャイムが、長く尾を曳きながら鳴り響く。 下校時間を過ぎても、友達とお喋りに花を咲かせていたせいで、構内に残っている生徒は疎【まば】らだ。ぱらぱらと、残りの生徒たちが最寄りの駅へ向って校門から吐き出されてゆく中、かごめは一人、校舎へと逆戻りして、駐輪場へ向かった。 かごめの通う高校は、自宅から電車で二駅ほど離れたところにあった。友人たちは大方が電車通学をしていたが、かごめは電車には乗らず、毎朝自転車で通学していた。 通勤ラッシュに巻き込まれて人に押し潰されるのに、どうしても慣れそうになかったからでもあるし、自転車での通学に思いの外慣れてしまったせいもある。 (それにしても、こんな荷物の重い日は困るわね) かごめは、手のひらに食い込む取っ手を、引きずり上げるようにしながら、足早に校庭の脇を横切った。 構内の外れにある駐輪場には、西陽が差し込んで、色とりどりの自転車を柔らかく温【ぬく】めている。かごめは、狭いスペースにごちゃっと押し込まれた自転車の中から、ひと際古びた銀色の自転車を見つけ出し、周りを倒さないように細心の注意を払って引き出した。 (さすがにガタが来ちゃったわね) 年頃の女の子には、到底似つかわしくない錆びた自転車。かごめは、戦友のように、自転車のサドルをぽんと叩くと、スタンドをしっかりと立てて、重たい鞄を前籠に押し込んだ。 新しい物を買うことができないわけではなかったが、かごめは中学の頃から、同じ自転車使い続けていた。 三年前――誰にも話せない事情があって、五百年もの昔にタイムスリップしていた彼女は、その時代にはないこの便利な一品を向こうへと持ち込んで、愛用していた。 タイムスリップできたのは、たった一年弱のことで、その短い間の出来事が、真実起きたものなのだと示してくれる、かごめに残された数少ないものの一つがこの自転車だった。古びた自転車を捨てられずにいるのは、そんな理由があった。 かごめは、自転車に飛び乗ると、ぎい、と大仰な音を立ててペダルを踏んだ。 修理を重ねてきたものの、向こうの世界の舗装もされていない野道を、無理に走らせてきたお陰で、あちこちが緩んで変な音を立て始めている。 (もういい加減、捨てないと駄目かな) 色々・・・。 小さく呟くと、かごめは勢いよく自転車をこぎ出した。 春先の夕暮れ。まだ昼間の温かさを含んだなめらかな風が、かごめの頬を撫で、黒髪を巻き上げてゆく。この瞬間の心地よさゆえに、自転車通いはやめられなかった。 だが、それも来週で終わりだ。 かごめの高校は、週末をまたいだ次の月曜日が卒業式だった。前籠に載せたかごめの鞄がぱんぱんに膨らんでいるのは、残った教科書やら何やらを、全部詰め込んでいるせいだ。 ちょうど、高校受験を控えた中学三年生のころ、かごめは、五百年前――すなわち戦国時代――と行き来する生活を送っていた。 偶然引き込まれた、時を隔てた向こうの時代だったが、何やら困っている人を見ると放っておけない性格ゆえに、頼まれるまま、四魂の玉という妖怪が捜し求める宝玉を守る役目を引き受けてしまい、戦国と現代、二つの世界を股にかける壮大な生活をする羽目になってしまったのだ。 当然ながら、現代に生まれ現代人として育ったかごめは、中学生としてするべき受験勉強を乗り切るため、教科書やノートを山ほど戦国時代に持参しては、たき火やかがり火の光で、一人夜更けまで勉強し、どうにか高校合格に漕ぎ着けたのであった。 (まあまあ、楽しかったよね。高校) 自転車を走らせながら、もうこの道を、このルートで、この時刻に通りすぎることはなくなるのだろう、と思うと、かごめの胸を僅かな寂寥感がよぎっていく。 同時に、高校を卒業してからの自分の未来を思い、かごめはため息をついた。 高校に入学する直前に、戦国時代へのタイムスリップはできなくなっていた。それは余りにも突然のことで、かごめはその理由を深く考えることもできないまま、慌ただしく高校に入学した。 その後三年間、現代の高校生が送る、最も当たり前の生活を、かごめも同じように送った。だが、その三年間――傍目にはごく普通に充実していた三年間を、かごめはどうしても心から楽しめていなかった。 通い慣れた道を走りながら、かごめはぼんやりと、過ぎ去った高校生活を思う。 どれ一つとっても楽しかったはずなのに、どこか色褪せて遠い記憶に、かごめの胸の奥が重くなる。 部活に勤しんだ夏。友人と机を並べて受験勉強した冬。 周囲が勧めるような遠方の有名大学は受験しなかったが、地元の、自宅から通える大学を選び、それなりに受験勉強もして早々に合格を決めていた。それなのに、いつまでもかごめの胸は晴れないのだ。 三年前から、ずっと。 (なんで、こんなことになっちゃったんだろう、あたし) 感傷に耽っているうちに、目の前が徐々にひらけ、大きな川のほとりに出た。 あとは、この川沿いを真っすぐ行けば、自宅のある町に着く。学校を出て少ししか経っていないのに、太陽は大分西に傾いていた。蜜柑色の光が、いっそうとろみを増して、建物の影を細長く伸ばしている。 その寂しく美しい光景に、かごめは思わずブレーキを握った。きっと音を立てて、自転車が止まる。 もう自宅では、家族が夕食の支度をして、高校生活最期の授業を終えたばかりの、かごめの帰りを待っていることだろう。 本当は寄り道をする時刻ではないのだが、かごめはなぜかどうしても川原に降りたくなって、自転車を、道路と川を隔てるコンクリート塀に立てかけた。ほんの少しの間のつもりで、どうせもう必要のない教科書が入った鞄も、自転車の陰に置いておくことにした。 川べりを、少し冷たくなった風が、さらさらと撫でてゆく。まだ少し枯色がかった草が、波打つように揺れていた。 かごめは、塀を乗り越えると、雑草に隠れかけた狭い石段を、注意深く平らな川原まで降りた。コンクリートで整備された、川べりの歩道をさらに下り、川の流れがよく見えるほとりで腰をおろす。 そういえば、川原に降りたのはいつぶりだったか。もしかすると、戦国時代にいた頃が最後だったかもしれない。現代の高校生の生活では、町なかに流れている川になど用事はほとんどないのだ。 (川で水浴び、なんてこともしたっけな・・・) 懐かしい自然の香りに触れたせいだろうか。かごめの想いが、途端に遠くへと駆けてゆく。 不便なことばかりの向こうの世界だったが、その生活は何もかもが色鮮やかだった。誰もが必死に生きていて、それが眩しくすらあった。それに比べて、今の自分の生活はどうだろうか。 自分の生きる場所は現代にある。それは揺るがない真実だと思い込んでいたが、その理由は一体何なのだろう。 かごめは現代に生まれた。現代の人間として育った。だが、高校の三年間、純粋な現代人として生きてみた今、それはひどくつまらない理由に思えた。 かごめは、自分の考えに落胆したかのようにどさっと後ろに倒れ、そのまま草の上に仰向けになった。ざらついた感触とともに土の匂いと風の匂いが立ち昇る。 ――犬夜叉――・・・。 小さく頭の中で呟いただけで、色々な思いが溢れるように湧き上がる。かごめは顔を曇らせた。 どれだけ思い出さないようにしても、思い出さない日は一日もない。かごめが――戦国時代で心から愛した人の記憶。 タイムスリップのための通り道であった、かごめの家の祠にある、古びた隠し井戸。三年前に突然閉じてしまったその井戸に、何度通ったことだろう。そのうち、何度通っても無駄なことを知って、今度は一切近づかなくなってしまった。 井戸が通じないということは、犬夜叉にも会えないということ。それを思い知ることが、まだ十五歳だったかごめには、あまりにも辛かった。 だからこそ、彼とのことは素晴らしい思い出だったと割り切る以外に、この時代で、ただの一人の女性として生きていく方法はないのに、かごめの気持ちは三年前から止まったままだった。 こうして目を閉じていると、今にも犬夜叉が現れそうだ。美しい銀髪と勝気な顔立ち、幼くて我儘なのに、時折見せる男らしい優しさ・・・そんな彼の全てが好きだった。いや、今でも好きだった。 友人は皆、かごめは野蛮で乱暴な中学時代の彼氏を、なぜか忘れられずに不幸になっている、なんて思い込んでいる。だから、合コンやら紹介やらも沢山セッティングされたし、かごめも、気が向けばなるべく顔を出すようにしていた。もしかしたら、また誰かを好きになれるのかもしれない、とわずかな可能性を試すような気持だった。だが、その気持ちはいつも裏切られてばかりなのだ。 (犬夜叉、元気かな・・・) 寂しがり屋なくせに素直でない彼は、誰とどうして生きているのだろうか。どんな一生を送ったのだろうか。 ――逢いたい――。 高校生活が終わり、人生のひとつの区切りを迎えた寂寥感が、抑えていたかごめの気持ちを解き放つ。夕暮れ時の風に、想いを放ちながら、かごめはいつしかまどろんでした。 ********* かごめが次に気がついたとき、とっぷりと日は暮れて、辺りは真っ暗になっていた。 がばっと、音が立ちそうな勢いで起き上がると、かごめは冷たい風にぶるりと震えた。一体どれほどの時間眠ってしまったのか。常日頃、時計を着けていないため、置いてきた鞄まで戻らないと時刻は分からない。 辺りは完全に闇に落ちて、ざーっと静かに流れる川音が妙に耳に響く。川べりの外灯が、立ち並ぶ家々を墨色のシルエットに浮かび上がらせて、ほど近いはずの景色をなぜか遠く感じさせた。 すぐにでも立ち上がって家に帰らないといけないのに、かごめの身体は動かなかった。今日は、あまりにも色々なことを思い出し過ぎた。 かごめは膝を小さく曲げて抱え込むと、水が流れているであろう場所にある、吸い込まれそうな黒い闇をにらむように見つめた。 三年間、考えなくてはいけなかったのに、なるべく考えないようにしてきたこと。それを今夜は、とことん考えなければいけない気がした。 「犬夜叉」 小さく声に出しただけで、かごめの顔は悲しく歪んだ。涙をこぼすまいと、かごめはぎゅっと目を閉じる。 暗闇の中で、一人じっと縮こまっていると、身体ごと闇に沈んでゆくような気がする。かごめはその浮遊感に身を委ねながら、ひたすら彼のことを思い出していた。 三年前・・・それはあまりにも若すぎる恋だった。 突如、五百年もの昔にタイムスリップして、初めて出会ったのが犬夜叉だった。四魂の玉と呼ばれる妖しの宝玉を守る使命【さだめ】と告げられ、反駁しながらも止むを得ず犬夜叉と旅を始めた。 魑魅魍魎の蔓延【はびこ】る世界で、命を賭した戦いを繰り広げる、非現実的な日々。 現代人には到底理解しえない出来事に直面しながらも、持ち前の負けん気で真っすぐに突き進むかごめと、それをぶっきらぼうに支える犬夜叉。かごめが恋に落ちるのに、時間はかからなかった。 心を通わせ合い、いつしか、彼といつも共に在【あ】ると誓うようになった。 それでも、かごめはやはり現代の中学生だった。現代を捨てて、戦国時代のみに生きることなど想像もつかなかったし、望んでもいなかった。時に戦国で戦い、時に現代に戻ってどうにか中学生らしい生活と居場所を確保し、ぎりぎりのバランスを保ってしのいできた。しかし――そんな不自然な生活が、いつまでも続くわけはなかったのだ。 四魂の玉をかごめが滅した途端、かごめは現代に戻され、他方犬夜叉は戦国に引き戻された。二人の間を通ずる井戸も、開かなくなってしまった。 (私が、四魂の玉を守る役目を終えたから・・・?) それが一番簡単な答えだ。 もともと、体内に四魂の玉を宿して生まれたがゆえに、彼女は玉があるべき時代へと送りこまれた。玉が消滅すれば、その役割を終え、元の世界へ戻るのが自然の定めかもしれない。 (だけど・・・) 現代に戻る直前、かごめは四魂の玉の内部に取り込まれ、暗闇の中で独り、幻想を見た。寂しく暗く孤独な闇に包まれたとき、かごめは確かに「元の世界に帰りたい」とそう願った。 (やっぱり、私は現代で生きていかなきゃならないのかな。ここが私の居場所だから。私は現代の人間だから) それなのに、どうして、この違和感は何なのだろう。現代に戻ってから三年間ずっと感じ続けていたもの。 戻ってきたときにはまだ同じスタート地点に立っていた友人たちは、三年経った今、皆新たな夢を持って歩き出している。かごめも同じように、普通の高校生活を送り、勉強し、遊び、多くのことを学んで、現代の大人になるための階段を一つずつ登ってきた。何一つ、順調でないことなどなかった。 (なのに・・・私、現代【ここ】での未来が見えない) 面倒見のいい、どちらかとおせっかいなくらいのこの性格なら、きっと学校の先生が合うよ、などと皆に言われ、その気になって地元大学の教育学部への進学を決めた。だが、今一つ進学への希望も喜びも湧いてこない。そんなかごめの態度を、母親も、家族も、友達も、進路指導の教師すらも、どこか見抜いているようだった。 大学へ行って、就職して、結婚して、子供を産んで、育ててゆくのだろうか。この現代で。それでいいのだろうか。 四魂の玉を守る役割を終えたから、現代に戻るのが当たり前と割り切って、何かを・・・犬夜叉を愛した自分を、諦めて生きてゆくのだろうか。 ざあ、と風が鳴り、かごめの黒髪を巻き上げた。川の水を含んだ湿度の高い空気が、かごめの肌をしっとりと冷やしてゆく。 目を開くと、茫々とした闇。川の対岸を、車が一台、ライトを照らしながら走り抜け、尾を引きながらまた消えていった。 そのときだった。 ライトが通りすぎて、再び闇に沈んだ対岸の黒い草むらに、ぼんやりと白い光が宿った。 気付けば、まん丸に満ちた鮮やかな月が、清【さや】かな光を川面に落としていた。その光を浴びるように、誰かが立っている。 かごめが目を見開くと、風が流れて、白い光がそれとともにそよいだ。 途端、かごめの頭の中に、強烈な記憶が流れ込んできた。 (何・・・っ) かごめを呼ぶ声がする。犬夜叉の声だ。その声に導かれるように振り返ると、薄紅色の桜吹雪。その向こうに、銀髪を靡かせる犬夜叉がいる。 かごめはぎゅっと目を閉じて、手で耳を押さえた。 (ありえないわ。あたし、川のほとりにいたのよ) どうしちゃったの、ここはどこなの。 甘い蜜の香りが立ち昇る。同時に、ごう、という桜の渦がかごめを包み込んだ。 怖いはずなのに、どこか懐かしい風景に思えるのはなぜだろうか。 目を開けると、まだ犬夜叉がこちらを見ている。白銀の髪と、緋色の水干が、ばたばたと風にはためいていた。 かごめは、吹雪の向こうにいる彼に手を伸ばした。だが、届かない。 (どうして) あたしはなぜ、彼のそばに行けないの。 気付けば、かごめの頬を涙が伝っていた。視界が霞み、ますます犬夜叉の姿は遠のく。居てもたってもいられないのに、かごめの足は動かない。 (いやよ犬夜叉。あたし、あんたの側にいたい) 「犬夜叉・・・!!」 名を呼んだ。 その瞬間、かごめは気を失い、世界は再び暗転した。
続く・・・。
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