逢瀬
ouse

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「犬夜叉ー!こっち来て!桜が一番きれいに見えるわよ」
 山間【やまあい】に広がる、薄紅色の森。降りしきる桜の花弁の向こう側から、かごめがこちらを振り返って呼んでいる。
 顔にかかった艶やかな黒髪を掻きあげながら、興奮した笑顔を弾けさせる様子に、犬夜叉は眩しげに目を細めた。
 芳醇な桜の蜜の香りと、かごめの柔らかな匂いが混ざり合って、犬夜叉を包み込む。掻き立てられた気持ちを抑えるように、犬夜叉は、かごめの姿を見つめながら、わざとゆっくりと歩を進めた。
 かごめは、早く、と唇を尖らせ、すぐにまた笑顔に戻って嬉しそうに桜に目を遣っていた。
 この笑顔見たさに、毎年山をいくつも越えて駆け回ったり、時には死ぬほど恥を忍んで、通りすがりの見知らぬ人間に桜の見所を尋ねたりなどしていることを、彼女はきっと知らない。
 例年は、彼の思惑【おもわく】を裏切るかのように、仲間の夫婦やその子供たち、果ては狐の子妖怪までが花見についてきて、まるでお祭り騒ぎのようだったが、今年は誰が気を利かせたのか、花見への同行を言い出す者はいなかった。
 二人だけの甘やかな時間――。
 しびれを切らしたように、かごめがこちらに駆けてきた。丸くて滑らかな頬が、興奮したかのようにわずかに紅潮している。
 犬夜叉は、ゆっくりと笑みを刻んで、かごめを胸に抱きとめた。

(ああ、しまった)
 まどろみからゆっくりと浮上する。蜜柑色の光が頬を照らすのを感じて、犬夜叉はまだ眠気で重たい頭をぶるりと振った。
 桜色の夢が、霧散していく。
(まったく・・・)
 望んだとおりに、かごめの夢を見てしまった。あれは、犬夜叉とかごめが、初めて二人だけで花見に行ったときの記憶だ。今まで何度となく見た夢だが、今日は一段と鮮烈だった。まだ、柔らかくて華奢なかごめの身体の感触が、両腕の中に残っているような気がして、犬夜叉は苦笑した。
(何年経っても消えねえな)
 ましてや、今は本当にかごめのごく近くにいるのだ。鮮やかに思い出が蘇っても不思議ではなかった。
 日中の太陽の熱が、徐々に薄闇に吸い取られて、涼しい風が吹き始めている。西の空の夕焼けも、もう刷毛で軽く刷【は】いたほど僅かにしか残っていない。
(今晩は、どうするかな)
 そう考えをめぐらせながら、犬夜叉は伸びをした。
 人間と交わりながら生活するうちに、野宿ではなく、きちんとした宿で、布団の中で眠ることも覚えていた。特に、一つの土地に定住するときは、そうせざるを得ないことも多かった。
 金を払って宿を借りる。金を払って物を買い、食事をする。
 着物ではなく洋服を着る。その俊足で走り抜けるのではなく、乗り物に乗る。
 彼の獣としての半分の本性を、彼は持て余していた。自分の当たり前の生活を捻じ曲げる場面が増えるにつけ、彼は思った。
 もう長くはないかもしれない、と。
 それは肉体の老化はなく、存在の老化だった。彼の存在は、この世に居場所をなくしつつあった。
 衣服に木の葉がつかないよう気を払いながら、犬夜叉は近くの道路まで出た。街灯が点きはじめ、広がり始めた薄闇を、人工的な光で白く照らし出している。
 この道をまっすぐ抜けた先に、ある程度の幅のある川が流れていたはずだ。今晩は川のほとりで寝ると決め、犬夜叉はぶらぶらと、誰が見ても人たる速度で歩き出した。が、途端すぐに、川の匂いに紛れているはずのない匂いがあることに気がついた。
(かごめ・・・?)
 甘い匂いがほのかに混じっている。嗅ぎ間違うはずもなかった。
(なんで、こんな時間に)
 犬夜叉は思わず大きく足を踏み出そうとして思いとどまり、反対方向へ歩き出そうとして、また逡巡した。
 血の匂いも妖怪のにおいも、争いの匂いもしない。かごめが、何かに巻き込まれていることはない。分かっているのに、犬夜叉の鼓動がどくどくと高鳴った。
(行っちゃいけねえ)
 行ってしまえば、この目で彼女をひと目見ずにはいられない。――分かっているのに。
「くそっ!!」
 犬夜叉は声に出して歯ぎしりすると、思い切ったように両脚に力を込めた。一瞬重力を感じて、その後浮力を感じる。身体が大きく跳躍した。
 街路樹の枝を踏みつけてたわみをつけ、さらに大きく跳ぶと、さほど遠くはない先に堤防が見えた。その向こうに、制服姿のかごめが見えたような気がして、犬夜叉はもう何も考えずに、闇の中を駆けぬけ始めた。



*********



 かごめは、対岸の草むらで膝を抱えて、まだぽつんと座っていた。
 もう辺りは闇に沈んでいる。
 犬夜叉が到着したころ、川辺で心地よさそうに眠っていたかごめは、つい先ほどがばっと起き上がったかと思うと、今度は突然ひどく思いつめたような顔になって川面を睨みつけ始めた。
 犬夜叉は犬夜叉で、かごめに気取られぬよう草陰にしゃがみこんだまま、こちらもひどく思いつめた顔で、かごめを見つめていた。
突然、五百年の時代【とき】が逆戻りしてしまったかのようだった。
 ひと目、生きているかごめを目にしてしまえば、二度と視線を離せなくなることは分かっていたはずだった。
 決してかごめに気付かれてはならない。今かごめに気付かれてしまえば、かごめは何も知らぬ無垢な彼女のまま、五百年前の自分に逢いにきてはくれないかもしれないのだ。
 五百年という永遠にも思える時間を、一跳びで飛び越えた彼女の最後の決断を、迷わせてはいけない。
 二人の間を、夜の川が闇を湛【たた】えてしんしんと流れてゆく。
(来るべきじゃなかった)
 くそ、と小さく呟いて、犬夜叉は愚かな自分を呪った。
 かごめが死んでから、もう五百年。それは永遠とも思えるほど長い時間だった。かごめが死んだ後、弥勒が死に、珊瑚も死んだ。一番最後まで生きていたのは妖怪である七宝だったが、彼すらも、二百年ほど前から杳【よう】として行方が知れない。
 その間、他の女から懸想されることがなかったわけではないが、犬夜叉はかごめ以外の女を娶ることはしなかった。
 視線の先にぽつねんと座る、小さな少女。いかにもか弱い人間である彼女からは、人の目には見えぬ清廉な精気が、惜しげもなく立ち昇っている。
(お前みたいな女には二度と逢えなかった)
 永い時の旅を、何故自分だけが生き残ってしまったのか、犬夜叉には分からなかった。若い頃、まだ妖怪がこの世に多くいた頃は、かごめがそうしたように、妖怪や闇に染まった人間共に苛められるか弱い者たちを助け、それを生業【なりわい】とすることもあった。しかし、妖怪も徐々に姿を消し、人間の生きる力がどんどんと強まって、この世は人間だらけになってしまった。今や、彼の助けなどだれも必要とはしていない。
 ただ惰性のように生きているだけなのに、彼の命の炎は尽きようとはしなかった。人の世界に馴染めず潰【つい】えていく者たちをしり目に、犬夜叉の身体は自然と人の生活になじんでいった。銀髪が消え、獣の耳や手の爪が隠れ、牙も隠れた。
(何のために生きているんだ)
 ふと違和感を覚えて頬に手をやると、一筋の涙が零れ落ちているのに気付き、犬夜叉は唇を噛んだ。
 かごめの匂いが切ないほど濃厚に、犬夜叉を包み込む。

 そうして、また半刻も過ぎた頃だろうか。
 背後の道路で、ぶおん、という濁った音が響き、一台の車が走り抜けた。
 ヘッドライトが、犬夜叉の座る川辺を、拡散するうっすらとした光で撫でてゆく。
 これ以上、かごめの傍にいても仕方がないのだと、ようよう犬夜叉が立ち上がろうとしたところで、突如、対岸にいたかごめがすっくと立ち上がったのである。
 びくりと身体を震わせて犬夜叉が見やると、はたして、かごめが瞠目して犬夜叉を見つめ返していた。
(・・・!!)
 犬夜叉の背筋を、焦げ付くような電流が流れた。
 まさか、かごめがこちらに気付くはずはないのに。
 そう思った瞬間、犬夜叉は同時に、しまった、と思った。
 川風に流された髪が、幾筋も満月の光を受けて光っている。それは黒く沈んだ草むらの中で、浮きあがるように微細な光を放っていた。
(今日は、満月かっ)
 犬夜叉は、まだ若かったころ、新月の夜だけ人間に戻って、人間の黒髪と人間の耳を手にしていた。
 その後、新しい時代を生きるようになり、妖しの力を抑えることを覚えるにつれ、少しずつ人間でいられる時間が長くなった。月の影響の少ない新月前後の数日間、それが数週間になり、ほぼ一か月になり、しまいには満月の日にすら黒髪を保てるようになった。
 しかし、満月の光に照らされたときだけは別だった。隠し切れぬ彼の妖気が、解放されてしまうのだ。だからこそ、満月の日には、人知れぬ山に入るか、はたまた月の光の届かぬ屋内で過ごすことにしていたのに、よりによって今日という日に限って犬夜叉はそれを失念していたのだ。
 犬夜叉は身を硬くして、かごめを見つめた。
 獣の目を持つ彼に、かごめの表情ははっきりと読み取れた。視線が犬夜叉の付近をさ迷い、そして、確かに一瞬、犬夜叉と視線が絡んだ。
 途端に、かごめの甘い匂いが、嵐のように湧き上がった。
 視界が白く開け、川が消滅した。
 五百年前の姿で、犬夜叉とかごめは見つめ合った。嵐は治まらず、果てはさっきの夢のように、芳醇な香りを放つ桃色の花弁が、ざあ、という音と共に二人を包んだ。
(いけねえ!)
 犬夜叉は慌てて意識を呼び戻した。
 白い夢が急速に縮んで、ぱんと弾け、その向こうで対岸にいるかごめの身体が、ぐらりと傾【かし】ぐ。
 五百年の時は、彼を力のある妖怪にしていた。かごめと目が合った瞬間、犬夜叉は自分の鮮やかな記憶を、そうとは知らず、大量にかごめに流し込んでしまったのだ。それも、さっき視たばかりの、花見での二人の甘い記憶を。
「かごめ・・・!」
 数百年ぶりにその懐かしい名を呼んで、犬夜叉は高く跳躍した。






続く・・・。

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