逢瀬
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「桃色の夢が突如霧散し、かごめは意識を失いながら、川の向こうを見ていた。
(髪・・・?)
 豪奢な白銀の髪が、月光を微細に弾いて、夜闇に浮かび上がっている。
(犬夜叉・・・?)
 いやどこかが違う。
 すらっと高い背、地面まで届きそうな長い髪。切れ長の瞳。
 それは、まるで・・・。
 硬い地面の衝撃が、なぜか軟らかく温かいものに感じられた瞬間、かごめの意識は闇に落ちた。

 意識を失っていたのは、恐らくさほど長い時間ではなかった。
 かごめは、はたと起き上がって辺りを見回したが、そこは最前と何も変わらぬ川の畔【ほとり】だった。黒い川面は滔々【とうとう】と流れ、伸び繁った草は波のようにゆったりと揺れている。
(夢、見てたのかな)
 現実との境がまだ曖昧なまま、かごめはふと手元に目をやって、息を呑んだ。
 白い、一筋の髪。驚くほど長いそれが、かごめの手元の草に引っかかってゆらゆらと揺れ、まだぼんやりと薄い光を放っていたのだ。
「あ・・・っ」
 思わず手に取ろうとした途端、それは風に奪われて、つい、とかごめの指先を離れてしまった。
 白銀の髪。そんなものを持って生きる存在を、かごめはただ一人しか知らない。
「犬・・・夜叉」
 かごめは無我夢中で立ち上がり、風に奪われた一筋の髪を追って川面まで走りだそうとしたが、足を踏み出した瞬間、草と土に足を取られて膝をついた。ぷん、と潰れた草の強い匂いが立ち昇る。
 かごめの身体の奥から、かっと熱いものが込み上げた。湧き出すように、涙が零れ落ちた。
 よろめきながらどうにか再び立ち上がって前を向いたときには、白い光は忽然と姿を消していた。
 川面に駆け寄り、ローファーが脱げるのも気にせず、冷たい水に靴下が半分浸かるまで近寄ったが、もはや一筋の白銀も見出すことはできなかった。それでも、かごめの胸に湧き上がった熱は今にも弾けそうなほど膨れ上がっていた。
 たった一瞬、犬夜叉の幻想を視【み】た。
 ただそれだけで、かごめは何もかもを了解した。
「犬夜叉ーっ…!」
 迸るように名前が喉から突き上げてくる。思いにまかせて、かごめは犬夜叉の名を呼んだ。
(逢いたい――)
 現代に平穏に生きる。そんなことが望みではなかった。かごめの居場所は、もう現代【ここ】にはなかった。
(傍にいたいの――何もかも捨てても、犬夜叉に逢いたい。それが私の本当に気持ちなんだ。もう、ごまかせない)
 再び暗闇に沈んだ川辺で、かごめは顔を覆って泣いた。三年前の別れ以来、ずっと流さずにきた涙が押し寄せてくる。自分の本音に気付く、たったそれだけのことに三年もかかってしまった。

 ひとしきり涙を流した後、かごめはのろのろと立ち上がった。
 あらためて周りを見回すと、夜が相当更けていることが分かる。先ほどまで中天にかかっていた月が、もう傾きかけている。かごめは濡れた靴下を脱いで絞ると、素足のままローファーを履いて、沿道の方を見上げた。外灯の光が闇に慣れた目を刺し、一瞬くらっと視界が歪む。
 帰ろう。家族の待つ家へ。
 何の連絡も寄越さずに帰らないかごめを、家族がどれほど心配しているかは容易に想像がついた。三年前のあの時は、そんな家族の温かさから二度と離れたくないと思った。だが。
 去来した一つの思いが、かごめの胸に灯【とも】っている。それは、徐々に熱を帯び、かごめの中でじわじわと、しかし確実に大きくなってゆく。
 戦国か、現代か、あの頃はどちらにも帰ることができた。かごめが望めばいつでも。それに甘えて、かごめは選択を避け続けていたのだ。
 かごめは、石と草を踏みしめながら、川べりの急な坂を登った。知らず知らず、手の内に力がこもる。
(あたし、決めたわ)
 骨喰いの井戸が、もう二度とつながらないであろう状況に至ってから、今更何を決意したところで無駄かもしれない。それでもかごめは、選択しなければならないと感じていた。
(戦国時代に戻りたい。犬夜叉に逢いたい。たとえ、二度とママや爺ちゃんや草太に会えなくなっても)
 それが自分の本当の気持ちだと噛みしめながら、かごめは川べりと道路を隔てる最後のコンクリートを乗り越えた。自転車の陰に、隠すように置いた鞄から、ブルブルという振動音が聞こえてくる。かごめは慌てて駆け寄ると、白い携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
 途端、草太のまだ声変わりしきっていない高い声が飛び出してきた。
「姉ちゃん!!何やってんだよ、こんな遅くまで。みんな心配してるんだぞ」
 かごめが返事もする間もなく、草太の声が遠くなって、母さん姉ちゃんやっと電話に出た、と離れたところにいる母を呼んだ。すぐに今度は、まあよかった、と嘆息する母の声が近づいてきた。
「かごめ。駄目じゃないの、もう9時よ」
 いつも優しさを崩さない母の声に、わずかに心配そうな色が混ざっていることを、申し訳なく思いながら、かごめはできる限り元気そうな声で答えた。
「ごめん、ママ。ちょっと、懐かしい人に会っちゃって、話し込んでたの。あと十五分くらいで帰るわ」
「そう、ならよかった。ごはん待ってるのよ、早く帰っていらっしゃい」
 分かった、と返しながら、かごめは一瞬沈黙した後、次の言葉をつないだ。
「それとママ」
「なあに」
「あたし、帰ったら、話したいことがあるの」
 その後二つ三つのやり取りを交わして、通話を終了すると、かごめは携帯電話をぱたんと二つに折りたたんだ。その動作と同時に、小さな機械の背がちらちらと細かいイルミネーションで彩られる。その光が綺麗に消えるのを待ってから、かごめは携帯電話を鞄に放り込んで、自転車のペダルに足をかけた。
 川の向こう岸を、最後にもう一度振り返る。  外灯の下にいるせいで、当然ながら対岸は真っ暗な闇の中だ。こんな闇の中に、人一人としている気配はない。
 さっきかごめが視たものは、やはり幻想だったのか。犬夜叉を思うあまり、自分の心が闇に投影されてしまったのか。
(でも、どこか懐かしかった)
 白銀の髪、気の強そうな眉と瞳、何も怖れることのない強靭な身体、緑の上を駆ける足、そして足音。かごめ、と呼ばわる強い声。今はありありと、犬夜叉の姿を思い起こすことができた。
(あたし、帰るわ。あんたのいる世界に)
 卒業式が終わったら、ずっと閉ざしてきた骨喰いの井戸に自分の想いを投げ入れてみよう。そうすれば、もしかすると――いや、きっと――。
 かごめが強くペダルを踏むと、ゆるやかにかごめを取り巻いていた空気が押し流されて、徐々に風が巻き起こっていく。
 かごめは髪をなびかせながら、もう振り返ることなく、自転車を走らせ始めた。







続く・・・。

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