彩、まじわれば sai majiwareba 1 |
びょう、と眼下を木枯らしが吹き抜ける。 白にほんの一滴二滴蒼をのばしたような索莫【さくばく】とした空を見上げ、犬夜叉は高い梢の上に佇んでいた。紅葉が終わり、紅黄に埋め尽くされていた山々も段々と枯色に寂びれてくる季節だ。頬を打つ風が幾分硬質で、恐らく人肌には寒いと感じられるのだろう、と犬夜叉はぼんやり考える。 少し顎を下げて足下に広がる景色を眺めるが、一向に気分は晴れなかった。遠くまで連綿と色褪せた木々が続いているだけで、目に映る色彩は至極少ない。枯茶の濃淡に視線を走らせてみても、所々の斑消え【むらぎえ】の紅葉が気紛れ【きまぐれ】な挿し色を添えているだけで、それがまた逆に哀愁を誘う。兎に角、赤も茶も白も皆くすみがかかって、全く鮮やかさに欠ける世界だった。 犬夜叉は一瞬足を浮かせると、立っていた枝にひらりと腰を据えた。鮮烈な緋色が翻って、視界の縁をちらりと明らめる。そのまま片足を立て、幹枝に背を凭せた恰好で、鷹揚に足の下に広がる景色を眺め回すと、今度は枝々の間にちらつく柔らかな白が見えた。 まだ造作に幼さを残す少女だ。辺りをしきりに見回し、何かを叫びながら此方へと駆けて来る様子は、どうやら道行きを共にする半妖を探しているようである。犬夜叉は尋ね人が自分なのだとすぐに解ったものの、身動ぎもせずじっと少女のさまを眺めていた。 乳色のコートの開けた前から、この時代にはそぐわぬ薄っぺらなセーラーがちらちらと覗く。苔色のプリーツが彼女の動きに合わせて軽やかに揺れ、突き出した細い足を幾度も撫でていた。鴉色の髪が首を振る度に扇に拡がり、撓【しな】やかに舞ってまた肩口に戻る様子は、彼女の髪の柔らかい質感を見る者にも伝えてきて、思わず手を伸ばしたくなってしまう。桃色に上気させた頬にふっくらとした紅桃の唇、愛らしく耀く大きな瞳が、誰かを求めるようにあちらこちらを彷徨う――。 (…あ) どうやら此方に気付いたようだ。少女は上を見上げて一瞬ほっとした顔になり、次の瞬間には怒ったように頬を膨らませた。 「犬夜叉!そんなとこに居たの、もう、勝手にあちこち行っちゃわないでよ」 音もなくひらりと舞い降りる水干の動きに合わせて視線を上から下へと動かしながら、かごめは尚も不満気に唇を尖らせた。それでもその両眼に安堵の色が滲み出ているのは、やはり心細かったからなのだろうか。そのまま物も言わず歩き出した犬夜叉の後を、たたっと小走りで追いかける。その白いコートの背中で、白羽を躍らせる空穂【うつぼ】がからからと鳴った。 「ねえってば、聞いてる?心配したんだから、弥勒様も珊瑚ちゃんもまだ見つからないのに…」 「わぁったよ、うるせーな」 何時もながらに語彙の少ないつっけんどんな返事だけを返して、犬夜叉はそのままかごめの置き残していた荷物のところへ軽く跳躍する。急に小さな風を起こされてかごめはきゃ、と声をあげ、続いて「まったく」と呟き腕を組んだ。 ここ数日で気温は随分と下がったように思われる。まだ仏頂面で黙々と歩く犬夜叉を横目に眺めながら、かごめは冷たい空気に向かって腕を広げてみた。二・三日前までは昼間の太陽が爽やかな熱を降らせ、気の早いコートが時に暑くすら感じられたというのに、今ではそれ無しでは風邪の一つでも引いてしまいそうだった。空いた襟元から覗く肌やスカートから出る生脚【きあし】に、風の繊手が触れる度薄っすら鳥肌が立つ。とはいえそれはまだ心地良さを伴った涼しさの延長で、然程【さほど】嫌なものではなかったが、それでも徐々に舞い降りてくる冬の風伯は、確実な脅威をもって森の生き物たちを急き立てているようだった。今も視界の端を団栗に頬を膨らませた栗鼠が横切ったし、時折鷹揚に歩む姿が見られる山狐【やまきつね】も、随分黄金色の毛を厚く豊かにしてきている。木の洞【うろ】にちょろりと蠢く小さな影も、足元の枯葉がかさかさと動くさまも、和やかなようでいてどこか寂しい。 (やっぱり珊瑚ちゃんたちがいないからかなぁ…) 自分のローファーの動きをぼんやりと眺めながら、かごめは辺りが静かな原因を思い出して少し眉根を寄せた。 ――三日ほど前からだったろうか、かごめと犬夜叉は二人きりで行動している。 四魂の気配が二つあることに気付いたのはかごめだった。その前日まで何の当てもなく道行きを楽しんでいた一行に、久方振りの緊張と期待が走る。微かな光に過ぎないが、ふらふらと動き回ったりしないところを見ると妖怪がらみではなさそうだった。微弱さゆえにさしもの奈落も気付かなかったのだろうか。もとより半妖の彼に四魂の光を感じられる訳はなく、見逃した小さな欠片が二つばかりあったとしてもおかしくはない。 そんな思いを廻【めぐ】らせて、互い二手に分かれて捜索に出たまでは良かったのだが…生憎と敵に彼らの動きは筒抜けだった。 やっと辿り着いたかと思いきや、わざわざ目の前に来るまで待っていたのであろう奈落の毒虫が、黒い雲となって飛び出してくる。あっと思う間もなく、手を伸ばせば届いた筈の欠片はあっさり敵の手に落ちてしまった。あるいは、やはり初めから奈落の罠だったのかもしれない。 悔しい思いと一層不機嫌を刺激された半妖を持て余して、兎に角残りの三人と落ち合おうと思ったものの、これがまたなかなか上手く行かなかった。四魂の光があれば兎も角、あちらでも四魂は手に入らなかったと見え何も感じられないし、ましてや今まで集めた欠片はみなかごめが持っている。その上犬夜叉の鼻ですら何の匂いも捉えられないとあっては、最早此方の二人に打つ手は残されていなかった。とりあえず楓の村に戻るにしても雲母はいないし、そもそも二人だけでうろうろと動き回っては、逆に珊瑚たちが此方を見つけ難【にく】いかも知れない。全くもって 行き場に窮し、かといってただ無為に時を過ごす訳にもゆかず、結局二人はは穏やかな初冬の森を、行ったり来たりし続けていた。 (…もう) 無論、常々憎からず思っている相手との二人きりだ。かごめとて多少寂しさを覚えるものの、嬉しい気持ちが全くないといえば嘘になる。折角と言っては何だが、久しぶりに互いだけを意識できる時間なのだ、何か優しい会話の一つや二つ、期待してしまっても仕方ないというもの。それを、目の前の男と来たら――。 奥手だからだとか、女慣れしていないからだとか、そういう理由でぎくしゃくすると言うならまだ解る。可愛らしい少年の我儘だと、温かい気持ちで見守るだけの余裕をかごめ自身も自負していた。寧ろ、それがなければこの少年とはうまくやって来れなかっただろう。 だけど、と心の中で愚痴っぽく呟きながら、かごめは頑なな態度で前をゆく少年の背をじっと見詰める。 相変わらず、話し掛けようとする自分の存在を完全に拒む背中。重たげなリュックを鉤爪の指先に易々と引っ掛け、肩に担いだ恰好で物も言わずに歩いて行く。無論、その幾分ゆったりとした足取りは自分を慮っての事なのだろうが、それでも人間の、しかもさして体力のある訳でない中学生の女の子には、速すぎるといっても過言ではない歩速だった。自然、小走りにならざるをえず、かといって疲れたと引き止めるのも何だか悔しくて、かごめは一人唇を噛んだ。 (思いやりってもんがないのかコイツは) 僅かに動悸が上がり、背中は少し汗ばんでいると言うのに、風に当たる手足はやはり冷えて思うように動いてくれない。置いていかれては堪らないと足先にぐいと力を入れながら、かごめは怨めしそうな目で辺りの木々を見遣った。 ただ前を見据えて歩みゆく彼は、どこか悲しい、とかごめは思う。 枯れた木の濃い茶色の皮も、虚ろにぱかりと開いた洞【うろ】も、その枝々の網籠から覗く白い空も、寂しいけれどこんなにも美しい。少し澄んだ眼で見てみれば、その清浄な空気に心奪われる事も出来ようものを。 ――前行く少年の過去を己は知らない。 ぽつりぽつりと洩らしてくれた彼の昔話は、勿論自分だけに聞かせてくれた話であろうと嬉しくもあったが、同時に哀しさをも心に呼び醒ました。自分より遥か永い年月をたった一人で歩んで来たであろう彼。きっと自分に語ってくれた幾千倍もの苦しみを、未だ彼は独り抱え込んでいるに違いない。この世界の美しさも、きっと彼には色褪せて映る――それ程までに、彼の心は荒んでしまっているのだ。自分がこれまで必死に手探りを続けてきた、彼の心の暗闇、冷え切った砂漠。僅かでも潤えばいいと、精一杯の気持ちを注ぎ込んではみたけれど、それもいつもあっという間に砂の底へと吸い込まれていって、後にはまた潤いを知らぬ砂が残る。 自分の非力な努力など、やはり彼にとってみれば上っ面の同情にしか過ぎぬのだろうか。こうして彼の背中を必死に追い駆けている光景は、彼と出会ったばかりの頃と何ら変ってはいなかった。 ――少しは並んで歩きたい、何か言葉を交わしたい。 そう思ってしまうけれど、それは口には出せない。彼とて好きで無愛想をやっている訳ではないだろうし、それを無理に強制すれば、彼の心を未だに掴みきれないでいる自分を見透かされそうだったから。 (なんか、虚しー…) 目の端に滲んだ涙をぐいと拭い敢えて強気に構えていると、今度は無性に虚無感が込み上げてくる。 こちらはここまで頭を悩ませていると言うのに、彼はとみればどうだ。折角の二人きりだというのに並んで歩く事もせず、さっきだってふらりといなくなってしまった彼を探してどれだけ心細い思いをしたか。やきもきしているのはいつも自分で、それを思うと何だか自分の気持ちが馬鹿らしくすらなってくる。 彼の生い立ちをしてみれば、彼に優しい気遣いを期待出来ないのもよく解る。解っている。けれど自分が今置かれた状況を顧みると、やはりやり切れなく、情けなかった。 (もー、こんな事ばっか考えるのはやめ!) 落ち込みかける気分に無理矢理発破をかけて、かごめはきゅ、と形の良い唇を引き結ぶ。疲れている挙句に人の反応のない背中ばかり追い駆けているから、こんな精神状態にもなるのだ。そう自分に言い聞かせて、かごめはぴたりと足を止めた。今はこれ以上犬夜叉の斑気【むらき】に付き合える気分ではないし、実際脚も痛くなってきている。あっちが振り返るまで絶対に動かないと心に決めて、かごめはふうとその場に溜息を吐いた。 (…変な袋だ) 後ろで不審そうな顔をしているかごめを振り切るように、犬夜叉は彼女の重たい荷物を摘み上げる。今ではもう見慣れたこの代物も、初めて見た時は随分不恰好だと眉を顰めたものだった。小柄なかごめが大荷物を背負【しょ】っていた事も、珍妙さを余計に引き立てていたのかもしれない。何にせよ、未だにその変な形と持ちにくい取っ手には閉口させられる。かごめのように背に背負えばいいのかも知れなかったが、とてもそんな気にはなれなかった。この荷袋だけではない、かごめはいつも見たことのない品々ばかり持ち込んでくる。 不安定過ぎる二輪の車や湯を掛ければたちどころに茹で上がる麺、硝子でもないのに向こう側が透けて見える「ぽりぶくろ」だとかいう布――数え上げれば切りがない程、彼女は色んな物を持ってきた。元々人間の日常生活用品にお世話になることなど殆ど無かった犬夜叉は、余りに馴染みの無い品々にいつも面喰わされている。けれどそれら以上に、帰ってきたばかりの彼女が纏う異国の香りは、犬夜叉にどうしようもない疎外感を与えた。 優しく甘い身体に絡み付く、知らない香り。 草太の食べた菓子の匂いや剥いた蜜柑の香りに雑【ま】じって、どこかに残ってしまう現代の色。 それはただの鉛筆の芯の匂いだったり、教科書のインクの匂いだったり、学校の校庭の砂の匂いだったり。 ――知らない、世界。 井戸をくぐれば直ぐの、それでもどこか遠く離れた彼女の世界。 無論彼は井戸の向こうに行けるのだから、弥勒や珊瑚たちと比べればずっと彼女と近い空間を生きることができるのだろうけれど…それでも。いやそれだからこそ。向こうの世界が本当はどれほどに遠いものなのか、骨に染みるように感じてしまう。彼女の生きる世界の遠さを実感してしまう。 もし自分も井戸を通れなかったのなら、むしろここまで彼女を遠くに感じる事はなかったのかもしれない――そう思うと、自分だけが知ってしまった運命の棘【いばら】が余計怨めしく感じられた。 彼女の世界――「現代」、「未来」と彼女は表現するけれど、実のところ彼にはそれがどういうことだかよく解らない。桔梗の生まれ変わりだと言うくらいだ、もっとずっと年数を経た、その先の世界の事なのだろうか。それともこことは全く質を異にした別世界なのか? 自分の生を呪い続けてきたこれまでの人生は、いつも過去を捨て今を生きるのに必死だった。その先に続くものなどどうでも良かったし、続かなくてもいいとすら思っていた。ふっつりと途切れて闇に掻き消え、全く視えぬ己が道。 だから、いきなり五百年後の世界から来たと言われても、ぴんとくるどころか混乱するばかりなのだ。 未来、未来…まだ来ぬ世界。 ――そしてその世界に、自分はいない。 馬鹿馬鹿しい感傷だとは解っていた。言ったって仕方の無いことをぐじぐじ悩んでいても意味はない。大体、こんな悩みを抱えているのが自分でもなかったら、むしろ嫌悪すら感じるだろう。弥勒の風穴の悩みも、珊瑚の琥珀への悲しみも、わかっていつつ時々もどかしさに苛ついてしまう、発破をかけてしまう…。そんな自分が彼女の事となると、てんで情けなくてもどかしい子供のようになる。とんだお笑い種だ。 (ちっくしょう…) そんな事ばかり考えるのが嫌で、さっきも一人になろうとした。 弥勒も珊瑚もいない、たった二人きりの時間が辛かったからだ。どれほど好きになっても、想いを深めても、決して縮む事のない彼女との距離。それを二人きりだと余計に感じてしまう。彼女を好きになればなる程、離れるのが辛くなる。 (…俺は卑怯だ) 例え結ばれえぬ運命だとしても、想いを貫けばいい。運命などぶち壊してくれればいい。それが彼女を悲しませる結果になってしまっても、それなら己が幸せにしてやればいい…そう思いたいのに、自信がない。だからこそこうして、彼女を突き離して、冷たくあしらって、それで己の心を凪がせようとする。…愚かな行為。 (あいつは俺を嫌いになるかも知れねえな) でもそれもいいのかも知れないと思う自分もどこかにいた。そうすれば自分も彼女を吹っ切る事が出来る筈だと、だからいっそ嫌いになってくれと、どこかで期待している。 だのに一度も、彼女は自に嫌悪の目を向けない。初めて出会った瞬間から、彼女が猜疑の目で己を見た事はあっても、決して厭わしげな視線を向けたことはなかったのだ。この手に掴み取る自信も勇気もなくて、ならば突き放して仕舞えとばかりに冷たい態度に出る自分。そんな卑小な男の為に、彼女はいつも遠い世界から戻って来てくれる。 優しい笑顔と安らぎを連れて、いつも自分の傍に。 そんな純粋な彼女が、疎ましくて…。 ――そして愛しい。 「きゃああっ!」 突然後方で高い悲鳴が上がった。無論それが誰の声であるかなど考える必要もなく、犬夜叉は一瞬にして思考を呼び戻される。凝【こご】っていた世界が急速に展開し、先から吹いていたであろう山風が冷たく肌を撫でた。 「かごめっ。どうした!!」 呼応する様に瞬時に名を呼んで振り向くが、そこにかごめの姿はなかった。半瞬視線を彷徨わせていた犬夜叉は、探していた娘の姿をやっと捉えるなり思わず喘ぐ。 ――遠い!! 気付けば緩かった坂も随分と角度を上げてきていた。疲れも寒さも知らぬこの身体では何ともないこの道も、人間の彼女にとっては少しきつかった筈だ。それにも気付かず、物思いに堕ち込んでいた自分はずかずかと速度を速めてしまった。吹き降ろす風に彼女の匂いも消され、彼女の気配が遠ざかった事に微塵も気付かなかったのだ。 見れば五十間近く向こうで物の怪に食まれそうになっているかごめが、樹々の隙間から確認できる。犬夜叉は荷袋をその場に打ち捨て、枝の高みまで飛び上がった。中枝【なかえだ】が袖に引っ掛かってばしりと折れ、その音と共に目の前の視界が一気に開ける。 ――蛇の化生だ。恐らく元は森の大蛇であったのだろうが、何処【いずこ】かの怨府【えんぷ】を抜けて幽鬼を吸い、物の怪と化したに違いない。双眼は血色に昏く耀き、異常な程に伸びた歯が顎を飛び出して白く光っている。ぬらぬらと妖しい艶【つや】を誇る身体は濃紫に彩られ、尾がある筈の場所には蒼白い鬼火が点っていた。感情を持たぬ筈の蛇の顔が、幽に操られてにたりと笑む。その唇端が裂ける様に頬へ伸び、真っ赫な舌が小さな炎を躍らせた。 「い、犬夜叉っ…」 蒼褪めたかごめの唇から、擦【かす】れた名前が洩れる。その僅かな空気の振動を耳朶に捉え、犬夜叉の思考が憤怒した。 「てめェ…!」 ぎりと唇を噛んで梢から飛躍し、緋赫を描きながら腰の太刀に指を掛ける。蹴り放たれた木の枝が大きく揺れて、枯葉をばらばら円舞させた。襤褸に捲かれた柄の感触を確かめかちゃりと鯉口【こいぐち】を切るなり、滑りに任せて一気に刃を引き抜く。 一瞬閃光が筋を描いた。 ぎいんという耳障りな音と共に、犬夜叉の太刀が変化を遂げる。尋常には有り得ない太刀幅と重みを軽々と振り翳し、犬夜叉は蛇の額から斜めに走り降りる妖気の亀裂へ、ひたと狙いを定めた。 そのまま巻き起こる風の抵抗を圧し切り、一刀のうちに妖蛇【ようじゃ】を斬り臥せる――そのつもりで。 ふっと腕にかかる鉄砕牙の重力が失われた。何が起きたと思う間もなく、振り下ろした刃が跳ね返されて、犬夜叉は後ろなりに弾き飛ばされる。腕の筋肉が衝撃に軋み、ゴムの様に弾性のある皮膚の反動で身体は朽ちた大樹に沈み込まされた。剥がれ落ちた木の皮が細かく割れて落ちかかり、黒い木屑が髪に絡みつく。激痛が背骨を走り、犬夜叉は息を詰らせた。 「犬夜叉ぁっ!」 自分を助けようとした半妖が一瞬で臥せられたのを見て、かごめが悲痛な叫び声を上げる。その高い声に、鎌首を捻って邪魔者を見詰めていた妖蛇が、再びゆるりとかごめを振り返った。滑らかな動きで頭を擡【もた】げると、次いで来る筈の快楽【けらく】の予想に打ち震えてか、辺りの空間に幾つもの鬼火がぼっと点る。舞っていた枯葉の一枚が吸い寄せられ、蒼い火の中できりきりと回って灰と散った。 かごめがひっと息を呑む。 その慄【おのの】きが面白くて堪らないのか、妖蛇は楽しむ様に身体をくねらせながら少女の全身を双眸で嘗め回す。冷たい霊気が足許から這い上がり、かごめは完全に動きを封じられていた。 「くっ…」 犬夜叉は痛みの走る身体を、木の縛【いまし】めから無理矢理引き剥がす。根元を突き崩されて均衡を失った朽ち木が、背後で微塵に崩れ落ちた。それを意識の隅に僅かに感じながら、犬夜叉は唯一の護身である己の太刀柄を握りしめ、再び振り構えようとして…気付く。 鉄砕牙はただの錆刀に、戻ってゆく――。 「……っ」 (しまった…!) 凍り付く、というのはこういう状態を言うのだろうか。遅すぎる事態に気付いて、思考が停止した。まるでぎぎ、と音が聞こえそうな硬い動きで山の頂【いただき】を振り返れば、それは明日へと一夜の旅路につく天道の神――。 ざわり、と闇色に染まり出した木々が揺れる。それは恐怖―訪れ来る光の無い水底、大地の凝る一夜へ奏でる畏怖の音色。白い月の新生する夜は全てが消され全てが始まる、破壊と再生のすれ違う夜だ。 とろんとした陽光が、山の端から世界へと最期の光を投げ掛け、その夜の始まりを告げている。 (時間が…時間が無ぇ…っ!!) ざわざわと粟立ちが駆け巡り、骨の軋みが最早全身に感じられた。風に煽られる白銀の髪が徐々に彩度を落としてゆくのが自分自身でも分かる。それと同時に、辺りを確かに漂っている筈の生臭い匂いが急速にぼんやりと輪郭を失ってゆき、もはや彼が妖かしとしていられる時間が残されていない事を告げていた。 しゃあっ、と蛇の腹擦れの音が響く。若い娘の恐怖は蜜の味、けれどそれ以上に美味いであろう彼女の血を蛇の舌は求めたがっていた。その芳醇な香りと円【まろ】やか予感に、妖蛇は一瞬びりりと身震いする。大きく鎌首を擡げ、裂けた赫い口を更に左右に広げて、物の怪は最後になる筈の少女の美しい肢体を血色の眼で舐め回した。ちろちろと燃える鬼火が一瞬鮮やかな橙色に転じて、幾つも幾つも燃え盛る。その顎から突き出した二本の牙の白い発光は、かごめに死を予感させるに充分だった。 「させるかぁっ!!」 妖蛇が鎌首を打ち下ろすのと紅赫が閃光を描くのとは、ほぼ同時だった。 物の怪の鋭い牙が、かごめを身体で庇った犬夜叉の肩口に深々と突き刺さる。血飛沫がぱっと散って、視界を赫に染められたかごめが悲鳴を上げた。紅の水干は引き抜かれた牙と共にびりびりと裂け、痛々しく傷付けられた犬夜叉の片肌が露わになる。妖蛇の顎下に垂れ下がった水干の切れ端が、じゅうぅと溶けて液体となり、落ちた大地を擂り鉢状に抉【えぐ】った。 「ぐっ…」 かごめに抱きついた恰好のまま、肩の傷を抑えた犬夜叉の身体がずり落ちる。爪の消えた手指から鮮血が筋を描いて流れ落ち、かごめの白いコートを朱色に染めた。 「犬夜叉ぁっ!」 黒い滝がセーラーの胸元を流れ、かごめは必死に彼の身体を両腕に抱き留める。いつもの犬夜叉とは違う、今の彼の身体はかごめ自身と同じ人のそれだ。襦袢の裂け目から覗く肩口に牙の穿った穴が正確に二つ、どくどくと血の泉を吐いている。 かごめは頭からさっと血が引くのを感じた。 けれど、事態は犬夜叉に気を取られてばかりはいられないほどに切迫していた。元々半妖の血は多くの物の怪達が欲してやまない貴重の品。若い娘の血肉と共に二つの得難い宝を手に入れられる喜びに、妖蛇は赤黒い双眸を昏く耀かせる。粘性のある爬虫類の鱗を艶光りさせ、物の怪は躯を柳の様にくねらせて、脇の大木を薙ぎ倒した。黒い樹の影が大きく揺らぎ、大地が揺れて轟音が響く。続いて打ち付けられた枝々から乾いた木の葉が小鳥のように舞い立ち、直ぐに均衡を失って再び地へと注ぎ堕ちた。 暗黒が支配し始める妖鬼の世界に、朱い双眸が星のように浮かび上がって物凄い速さで二人へ迫ってくる。弓を構える間も、矢を番える間も、引き絞る間すらもない。 かごめは無我夢中で空穂から白羽を引き抜き、素手のままに握り締めて胸前で敵へ差し向けた。 (――外せない!!) きいぃぃ、と蛇が鳴く。 破魔の光が迸【ほとばし】る。 (やった…!) 闇を切り裂くような絶叫が辺りの空気を貫いて、森の一点から紫の旋風【つむじかぜ】が巻き起こった。かごめの構えた鏃【やじり】が違【たが】いなく妖蛇の咽喉奥に突き刺さり、物の怪は顎下から真っ二つに切り裂かれてゆく。半身に斬られた蛇の躯に、尾に点っていた鬼火が燃え移った。その炎は蒼白くめらめらと揺れて蛇を灼いて、幽界への送り火を焚く。物の怪は双眸を爛々【らんらん】と見開き、のた打ち回って叫び、触れるもの全てを薙ぎ倒して末期の苦しみに悶えた。 「危ねぇ…っ!」 不意に脱力していた犬夜叉が身体を起した。かごめを身体ごと地に引き倒し、それに覆い被さるようにして犬夜叉の身体も倒れこむ。その半瞬後、蛇の頭蓋がかごめのすぐ頭上を薙ぎ払った。 蛇の、咽喉も割れん嬌声。かごめは地に臥したまま、思わず両手で耳を塞いだ。 ―――そしていともあっさりと、全てが、凪ぐ。 |
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