彩、まじわれば sai majiwareba 2 |
薪が幾度か爆ぜる音を立て、温められた空気が揺ら揺らと立ち昇り始めた。それを火掻きでそっと掻き崩すと、火は一瞬弱まった後ぱちぱちと勢い良く燃え上がる。その様子を確かめると、かごめはふう、と吐息を洩らした。 古びた庵は、幽棲【ゆうせい】を好んだ世流れ人のものだったろうか。山奥に佇む静かな古屋は、粗末な造りの割に小奇麗に整えられていた。部屋の隅にはきっちりと乾いた薪が積まれ、質素な麻布も少しある。迫り来る冬を避けて住人は下山したのか、けれどつい最近まで人が生活を営んでいた跡は確かに窺い知れた。 「犬夜叉」 遠慮がちに掛けた声に、返事は返ってこない。かごめは少し眉を顰めると、つっと立ち上がって彼の傍へ歩み寄った。傷付いた犬夜叉をここまで運ぶのは本当に一苦労だった。挙句月の無い今宵に限って夜天は曇り、足許すら覚束【おぼつか】ない。 蛇の躯に含まれていた毒に中てられたのだろうか、犬夜叉は自分の体重を支える事がままならなかった。それを細い肩で支えながら、かごめはようやくこの庵に辿り着いたのだ。 (大丈夫かな…) 犬夜叉は深く瞳を閉じ、額に薄っすらと汗を浮かべている。意外な程に長い睫毛が、焚き火の炎に照らされて少し蒼褪めた少年の頬に揺れる影を落とした。いつもは白銀に輝いている犬夜叉の髪も、今宵一夜は、まるで月の無い夜天に染められたような深く艶やかな漆黒。それは滝のように惜し気もなく粗末な床を流れ、炎を映して時折色を変える。 かごめは睫毛を伏せると、きゅっと下唇を噛んだ。 (あたしが――いけなかったんだ) 只でさえいつも足手纏いになってばかりいる自分が、例え感傷的になっていたとはいえ犬夜叉の傍を離れるべきではなかった。迫ってきた蛇の牙と、それを被い庇うかの様に視界を遮った紅赫の色が、記憶の中で入り混じる。あの時聞こえた犬夜叉の声が、今でも耳許を離れなかった。 (バカだ、あたし) 犬夜叉の斑気【むらき】はいつものことで、ふらふら何処かへ消えてしまうのもよくある事だった。それをどうして今回に限ってあそこまで思い詰めてしまったのだろう。ただどうしても――初めて出会った頃の彼と自分の関係が、今でも大して変ってはいないのだと思い知って、辛かった。 (結局、己惚れてただけじゃない) 変えてあげられると思っていた。彼が何か一つ自分のことを語ってくれた時、無防備な寝顔を見せてくれた時……強く抱き締められた時。自分なら彼を救えると、少しだけ思った。彼に纏わりつく悲しい過去も、忌々しい想い出も、絡み合う運命すらも、ひょっとしたら、と。 祖父からも母親からも、いつも愛情を一杯に注がれて育ってきた自分。少し小憎たらしい弟も本音ではきっとかごめを愛慕しているし、かごめだって彼を可愛らしく思っている。幼い頃に逝ってしまった父にすらも、愛されていた実感はあった。柔らかく、温かい思い出しか自分にはない。有り余る程、溢れるほど、だから彼にもそれを教えたかった。 桜華の円舞が美しいこと、夏の高い天蓋に蝉の声が五月蝿いほどに響くこと、秋の紅葉はまるで友禅の様に心を染めること。冬の朝の清涼な空気も、透明な風も、散りゆく草葉も、こんなに美しくて目映い。こんなにも艶やかに…生きている。 そんな四季の移ろいを、自分の数倍もの回数眺めてきた筈の混血の少年。だのに彼の心は編み籠の様に、一点の色彩も捉えることなく全てを流し去ってしまう。それは余りにも、悲しすぎた。 笑うことも、愛でることも、泣くことすらも知らない彼の心に、自分は何か一つでも残せるだろうか。そんな気持ちで今まで彼の傍にいた。 けれどそれが、その気持ちが―犬夜叉には鬱陶しかったのかもしれない。邪魔だったのかも…しれない。 桔梗とは違うのだ――かごめには彼と共有できるものが何一つ無い。 (あたしには、何も解ってあげられない) そうだ、自分は彼の心を何も知らない。彼の記憶の一つ、思い出の一つを知ったところで、それを本当の体験として反映するだけの悲しい思い出が、かごめには無いのだ。その痛みを自分のものとして実感することが叶わない。 ――だから解って貰えないし、解ってあげる事もできないのだ。 「…ごめんね」 (何も出来なくて――ごめんね) 俯いていると涙が零れそうになって、かごめは慌てて顔を上げる。こんな事くらいで泣いている様では、ますます救いがたいではないか、と自嘲した。かごめは悲しい気持ちを断ち切るように唇を引き結ぶと、ぎゅっと目を閉じて熱い波が去るのを待った。 (せめて笑っていなきゃ) 「…かごめ」 不意に微かな声が掛かり、かごめははっと瞼を上げた。 「犬夜叉…っ」 犬夜叉がかごめを見ていた。吊り眉を少し寄せて、不審そうな色を瞳に浮かべながら。 その、今では薄墨色の虹彩の真ん中が、月型に鋭く裂けて彼の人ならぬ出生をまだ留めている。その澄んだ瞳の上に、背後で上がる炎がちらちらと映って見えた。 「もう、大丈夫なの!?痛くない?平気?」 かごめは思わず身を乗り出して、ゆらりと身体を起しかけた犬夜叉の腕に手を添えた。それをちらりと横目で見た犬夜叉が、ああ、と低く答えを返す。その声が存外に確【しっか】りしていて、かごめの中に安堵の気持ちがさっと広がった。今まで泣きかけていた感情の高まりと重なって、ぽろぽろっと幾滴か涙が零れ落ちたが、かごめはそれを慌てて拭って一生懸命笑顔を繕う。 「ご、ごめん、何か飲み物でも持ってくるね。きっと冷えちゃってるけど…横になっててよ」 そう言って目を逸らし、立ち上がろうと床に突いたかごめ手を…冷えた腕がきゅ、と押さえた。 (え…?) 中途半端に腰を上げた体勢のまま動きを止めたかごめが、思わず犬夜叉の顔を見ると、犬夜叉は自分でも驚いた様に急いで手を離し、ふいと顔を背けてしまった。 そのまま大儀そうに身体を傾け、また床に横たわる。硬い木板に背が触れる一瞬、犬夜叉の首筋に緊張が走ったのは、やはり傷がまだ痛む所為だろう。長い髪がゆったりと床に広がり、彼の動きと共に黒くしっとりと蟠【わだかま】ってゆく。それが、まるで湧き出した漆黒の泉のように見えた。 「要らねぇよ、お前の国の飲み物は口に合わねえ」 「え……あ、う、うん」 調子外れに届いた犬夜叉の答えに、一瞬戸惑ってからかごめも返事を返す。そのまま、気まずい沈黙が二人の間に降りていった。 かごめはなおも、背を向けてしまった犬夜叉の後姿を困ったように眺めていたが、暫くすると諦めて自分の飲み物を取ろうと立ち上がった。ぎぃ、と硬く冷えた床が軋み、暖かくたゆたう空気の流れがほわんと優しくかごめの頬に触れる。 ぷしゅ。 蓋を開けられたアルミの缶が、気の抜けた音を上げた。中の空気が少しだけ溢れ、仄甘いコーヒーの香りが鼻先に立ち昇る。 犬夜叉は相変わらず背を向けたまま、口を利かない。壁際に凭れて座った恰好のまま、かごめは少し膝を引き寄せて冷えたコーヒーを一口飲んだ。冷たさが咽喉を通り、身体の中を沈んでゆく。寒気を覚えてふるりと身を震わせたかごめは、さっき一瞬だけ触れた犬夜叉の手の感触を思い出した。 (随分…冷たかった) 熱があった筈なのに、どうしてだろう。 木の壁に触れた背中が、コート越しにも硬質な冷感を伝えてくる。その割に火へ向けた身体の前面だけは暖かくて、妙な感じだった。温度の差に晒された手が、少しずつ温められて痺れたような感覚をもっている。指先が少し、赤くなっていた。 手元から少し目を外したかごめは、白く襦袢が肌蹴【はだけ】た犬夜叉の背を視界に捉えて、思わずどきりする。けれどその心臓の動きとは矛盾して、頭の中を妙に現実的な考えが過った。 (犬夜叉…もしかして寒いんじゃないのかな) そう言えばいつも彼が寒暖に疎いのは、半分妖怪だからだ。今の彼は人間。コートを着ても尚凍える初冬の夜に、寒さを感じない筈がない。さっき掌が冷たかったのも、きっと身体が冷えているからだ。 (もう、言えばいいのに) かごめは何時もながらの彼の強情と、それを見抜けなかった己との両方に苦笑しながら、コートから腕を外して犬夜叉の方へ歩み寄った。赤い血が裏まで滲んだお気に入りのコートは、きっともう使い物にならないだろう――そんな事を考えつつ、尚も自分の気配に気付かぬ振りをする犬夜叉の脇に腰を屈め、ふわりとコートを掛けてやる。 「…おい」 やっと振り返った犬夜叉が、不機嫌そうに声をあげた。見るからに不満気な瞳でかごめの顔を見上げる。 「…んだよコレは」 そう言ってコートを引き払い、かごめの方に突き返そうとする。その頑なな態度に、かごめは少し形の良い眉を顰めた。一度コートを受け取ってから、今度は少し強引に犬夜叉の頭に放り掛けてやる。 「…ってえな」 「何よ強がっちゃって。寒いんでしょ?…早く言えばいいじゃないの。それ、貸してあげるから」 「要らねえよ」 「強情っ張り」 「うるせえ」 「貸してあげるんだってば」 「要らねぇって言ってるだろ!だから…」 「…バカ!」 ――ぱしっ。 かごめの細い手が、犬夜叉の頬を思い切り打った。っつ…、と頬を押さえた犬夜叉は、振り仰いだかごめの顔が蒼褪めているのを見て、思わず息を呑む。 「犬夜叉のバカ…どうして」 言いながらまた泣き出しそうになって、かごめは奥歯を噛み締めた。泣いちゃいけない、ここで泣いちゃいけない。今は目の前の気の利かない少年を、あたしが叱ってやらなければいけないんだから。 「どうして」 かごめは二人の間に落ちたコートを膝元まで引き寄せ、ぐっと強く握る。 「言いたい事、ちゃんと言わないの?寒いなら寒いって言えばいい、欲しいなら欲しいって、そう言えばいいじゃない。何よ、寒くない訳ないでしょう?痛くない訳ないでしょう?そんなの我慢してたって、ちっとも恰好良くなんかないってのに!」 涙を堪えた目で睨まれて、犬夜叉が軽く顎を引く。その双眸が驚いたような、悲しんでいるような色に翳って、かごめは胸が苦しくなるのを感じた。 『――結局、己惚れてただけじゃない』 さっき自答した声が、頭のどこかに響く。確かに、自分にだけでもいいから心を許してくれたらなんて、己惚れだ。だけど…。 「言ってよ…痛いとか悲しいとか、寒いとかお腹が空いたとか何でもいいから、言いたい事があるならあたしに言ってよ。黙って一人で抱えたりしないで。見てて…辛いよ」 ぐいと握っていたコートが引かれて、かごめははっと顔を上げる。その隙に緩んだ手元から、白いコートがするりと抜き取られた。 「…犬夜叉」 けれどその声を聞いているのかいないのか、犬夜叉はそれを腕に絡めたまま、羽織る訳でもなく、かと言って手離す訳でもなく、ただじっと瞳を落とし弄んでいる。爪の無い筋張った指が、コートについた赤い血の染みを辿る様になぞっていった。 「犬夜叉…」 「分かってねぇよ、お前は」 聞いてるの、と続けようとしたかごめの言葉が、犬夜叉の低い声に掻き消された。犬夜叉の裂けた虹彩が、ひた、と真っ直ぐにかごめを見詰める。…いや、寧ろ怒りの篭ったような睨視、だろうか。かごめの頭の中が、さっと冷える。彼の瞳が怖いと思ったことは、今までに一度もなかった。初めて彼の金眸を見た時ですら、綺麗な色だとしか思わなかった。 それなのに今は…人間の瞳の色なのに、それでも何故か、怖く感じる。 「…ごめん」 何でそんな言葉を自分が言わなければならないのか、けれどそんな事を感じる間もなく唇が勝手に謝罪の言葉を紡いだ。彼の瞳から目を逸らせずに、かごめは少し身体を引く。まるで対峙するように、二人の視線が静かに絡み合った。 ――先にその無言劇に終止符を打ったのはかごめだった。…絶えられなかったのだ。 ふっと瞳を犬夜叉から外し、返してと小さく呟いて犬夜叉の手に奪われたコートを引き寄せる。意外な程あっさりとそれはかごめの手に戻り、かごめは睫毛を伏せたまま立ち上がろうとして――倒れこんだ。 「きゃ…」 立ち上がりかけて床から離れた彼女の腰を、犬夜叉が軽く掬い取ったのだ。ぱふん、と軽い音がして、かごめの身体が水干に柔らかく埋【うず】もれる。傷付いていない方の犬夜叉の右腕が、かごめの腰を抑え、そのままするりと背中を抱え込んだ。包帯を捲いた肩口に顎を押さえつけられる恰好になって、かごめは思わず身体を捩って身を起そうとする。 「い、犬夜叉、傷が…っ」 けれどそれを聞こうともせず、犬夜叉は逆に抱き込める腕に力を入れた。 「犬夜叉っ、傷が開いちゃうってば!」 かごめは彼の勝手な行動に、恥かしさよりも腹立たしくなってきて声を荒げる。いつも彼は自分の言っている事など聞いてくれもしない。 「…ってえな。動くな、傷に響く」 「な…動くなってあんたねえ、じゃあ放し…、っっ!」 尚も身動【みじろ】ぎしようとしたかごめは、次の瞬間の犬夜叉の動きに言葉と動きを封じられた。頬に押し付けられていた犬夜叉のこめかみが、すっとかごめの方へ傾く。温かい唇の感触が頬から首へと滑り落ち、そして―止まった。 とくん…。 そんなかごめの心音が、静かな庵の空気に見えない波紋をひろげてゆく。 風の音は、いつの間にか止んでいる。たどたどしく積まれただけの薪がくしゃんと崩れて、火の勢いが急に落ちた。古屋全体の彩度がさっと沈み、続いて冷たい空気が降りてくる。 かごめの視界に入ってきた作り付けの木窓越しの空は、やはり月の光を失ったひどく暗い濃紺だ。けれど、漆黒…というには少し違う。清【さや】かに瞬く星屑は現代のそれよりずっと細かくて数も多く、その淡い寂光に照らし出された世界はまるで幻想のように、輪郭を消して浮かび上がっていた。その広い夜蓋すらも、藍を幾度も幾度も塗り重ねたような色の中に、僅かな光を孕【はら】んでいる。 炎が途絶えかけた庵の中に、しんとした星の唄声が、響くようだった。 背に回された腕にもう一度力が込められ、首筋の感覚が僅かに増して、かごめは身体を少し強張らせる。水干の袷から零れ落ちた硬質な念珠が、かごめの細い鎖骨に強く押し当てられた。抵抗しなければいけないのに…それでも身体が言う事を聞かないのは、彼の負った傷を意識のどこかで気遣っているからだろうか。 そうではないだろうと、心の何処かが答えた。 バランスの悪い体勢を強いられていた身体から、ふっと力を抜く。犬夜叉の支える腕に体重を預けても、身体はずり落ちはしなかった。妖力を失った今でも、彼は自分と違う―男という別種の人間。細く筋張った、けれど力のある指も、腕も。 自分とは――違う。 さっきまで冷たかった筈の犬夜叉の掌が…今はひどく温かかった。 一瞬のようで、長い――けれどやはりほんの刹那に過ぎなかった、触れ合い。名残を惜しむように犬夜叉の唇が離れると、其処には小さな桜華が咲いていた。 密接していた二人の間が僅かに緩み、空かさずその隙間を冷気が満たしてゆく。 「…悪い」 回されていた腕がすっと緩み、かごめの浮きかけていた膝がすとんと床に着いた。二人の間で所在なげに挟まれていた乳白のコートが、ぱさりと落ちて拡がる。 「やっぱり俺…熱、あるかもな」 そう呟いた犬夜叉の俯き気味の表情が、読み取れなかった。彼の肩に預けていたかごめの両腕が、水干の胸前を滑ってすとんと落ちる。 「…嘘吐き」 その言葉に犬夜叉がぴく、と動いて顔を上げた。訝しげに寄せられた眉根が、泣き出しそうな風にも見えてかごめは少し物悲しくなる。彼の薄く開いた唇が、さっきまで自分に何かを残していたのだと思うと、無性にくすぐったい恥かしさを感じた。 かごめはわざと怒ったように、顔を顰【しか】めて犬夜叉を軽く睨む。 「熱のせいにしないでよ。またそうやって誤魔化すの?」 犬夜叉が軽く顎を引いた。半眼に睫毛を伏せた不貞腐れている様に見えるその表情は、彼が思い切り困っている時に見せる顔だ。 (すぐ、顔に出るんだから) わかり易いったらない…そう思って、ふとかごめは考える。 そう言えば全く矛盾した事を、さっき感じていたような気がした。 (要するに) 伝えなければならない事は、伝えられない。表現したい事は、表現できない。 ――でも、自分が人に知られるまいとしていることは、何故か周りの者に易々と悟られてしまう、傷付いた少年。彼にとって己を表現するという事は、自分が考えている以上に非常の労を要するのかもしれない。 (…不器用って、ことだよね) ふっとかごめの頬が和らぐ。もう許してあげようか…そんな気にもなった。火も消えて、コートも着ていなくて、身体は芯から冷えてしまっているのに、首筋に残された跡だけが熱く疼く。知らず知らずのうちに手を伸ばし、自分では分からない口付けの印をなぞる。 「…かごめ、俺は」 「いいよもう」 完全に拒絶されたと思ったのか、犬夜叉がはっと目を上げた。何かを言いたげに唇を二三度震わせるが、言葉にはならない。見ている方がもどかしくな逡巡。 けれどそんな彼の様子も、今は苛立ちを誘いはしなかった。それは、解ったと思えたから。 (あれが、答えだよね) 背に回された腕が、本当は少し震えていた事。込められた力が、まるで縋り付いてくる子供のようだった事。それはきっと…彼なりの精一杯の返事だったのだ。 自己表現が不得手な彼。沢山の想いを抱えて、闇を孕んで、水底に独り蟠るように生きてきた半生は、どれほど色のない枯れたものだったのだろう。何度も廻る春も、夏も、秋も、冬も――独りになった彼には訪れないに違いない。 そんな犬夜叉が今…一番、求めているもの。 『――言いたいことがあるならあたしに言って』 その答えをはっきり聞き出す勇気は、まだちょっと湧いてこない。きっと犬夜叉もそうだったのだろう。だけど…。 (己惚れじゃないと、思ってもいい?) 彼が今、失いたくないもの――それはきっと、自分なんだと。 そう、思わせてね。 かごめの手がすっと伸びて、犬夜叉の襦袢の袖を引く。やっぱりまた冷たくなってしまった彼の手を、自分の指で緩く絡めた。温まってくれるだろうか。 「あたしはここに居るよ」 そんなに怖がらなくたって、あたしは消えてしまったりなんてしやしない。絶対。死んだりも…しないから。 「…ね?」 朔の夜は嫌いだ。 鼻が利かないし、肌も弱る。得手の太刀も手に馴染まないし、爪だって無い。 (だけど…) 妖蛇の毒が、まだ躯を回っているのだろうか。首に回されかごめの細腕が、心地良い。肩の疵も、もう痛まなかった。こんな気持ちをどう表現したらいいのか、孤独に慣れた少年には解らない。けれど、それは生まれて初めて感じる感情で…身を任せてもいいのだと思えるだけで、ほっとする、というのだろうか。 (いや、違う) かごめの唇が、軽く耳朶に落ちた。犬夜叉は軽く瞼を閉じ、そのまま漂うような浮遊感に身を委ねる。 (ああ…) これは――安堵。 抱き続けていた澱【おり】が、やわらかく融けてゆく。 深々【しんしん】と更ける朔の夜。 生まれて初めて、この静けさを呪わなかった――今は人の姿をした少年が、少女の細い腕【かいな】の中でただ、眠る…。
「いぬ漬」が閉鎖されてしまっても、この「よいゆめ」が犬世界に籍をおくかぎり、蓮奈の感謝の気持ちは消えません。
あず様に、深い愛と感謝をこめて。 |
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