初ごころ
Ui  Gokoro

1


…囲む妖気が増した気がする。やはり踏み入【い】るべきではなかった。

 薄闇の滲み出てきた森の中――忌々しげに顔を歪めた少年が独り、黒く聳える大樹の下で、隠れる様に腰を埋めている。
 近くに戦でもあったのか、それとも元々この地には鬼気が満ちていたのか、迫る墨色の中にはどこか鼻馴染みの悪い腐気が染み込んでいた。まだ冬の名残が消えない春先の宵、段々と気温を下げる空気は重く湿っていて酷く冷たい。昼間から天気が悪かった所為で、幾ら夜色【よるいろ】が勝【まさ】ってきても空にはたった一つの星すらも見つけられなかった。…そして月すらも。
 森の中では、世闇の暗さも気温の低さもより一層度合いを増している。その中に敢えて身を潜ませる少年の、横顔だけが奇妙に白く浮き上がっていた。
 年の頃は、十五か、十六か…その位のように見える。眉に刻んだ皺が至極深いことを除けば、整った綺麗な顔立ちをした少年だ。その顔を機嫌悪くむっつりと歪めてしまっているのが、傍【はた】から見れば勿体無い事この上もなかった。
「畜生め…」
 少年がそう苦々しく呟いて、肩口の辺りをぐっと押える。と、彼のその、目に焼きつく紅赫の水干に、その赤より一段色調の暗い赫が滲み出した。むしゃくしゃしたように乱暴に疵を掴むと、彼の掌にぬめりと嫌な感触が伝わる。それに伴って、普段にない激しい痛みが肩から脇腹にかけて走り、少年はますます忌々しげに唇を歪めて、頭【かしら】を伏せた。
 ――よりにもよって、こんな時に。
 その疵は、不覚にも彼が人の太刀で穿たれたものだった。

 彼には生来、妖かしの血が雑じっている。それは、彼が人の母と妖怪の父を持つ「半妖」、であるからだ。それ故に命を存【ながら】えた事も多々有れば、逆にその血の所為で命を堕としそうになった事も数え切れない程有った。そしてこの肩の疵は、後者の典型的な例とその在【あ】り来たりな結末。また今日も、そして今も、彼はその生い立ちゆえに命を狙われている。無論それももうずっと長く続いた日常で、今の彼には、今更生まれを不甲斐無く思う心も痛む胸も残ってはいない。
 …が、それにしてもやはり、今回の相手は彼にとって始末の悪い相手だった。
(たかが人間の分際で…)
 俺の血を吸おうなんざ百年早え、そう小さく吐き捨てた、少年の言葉はどこか痛々しい。

 化け物どもに血肉を狙われる事など大して珍しい事でも無いし、その汚れた欲望の報復に奴らの命を散らしてやったとて、大した罪悪感も生まれては来なかった。命を奪い合うのはお互い様で、しかも彼にしてみれば、やられた分をやり返しただけに過ぎないからだ。始めに仕掛けてきたのは相手の方、だから灰に変えてやった、思い知らせてやった。だが「人間」に命を狙われるのは――その命を奪い返すのは、妖怪相手のそれと全く話が違う。
(くそ、いつまでもいつまでもしつこい…!)
 肩の痛みと――そして纏わり付く人血の香り。
 自分の命を存【ながら】える為に…人の温かな返り血を浴びた。
 爪の間にこびり付いた生臭い匂いは、もう何刻も過ぎた今でも一向に薄れていない。いやそれどころか、逢魔が時が近付くにつれ、より一層強まっているようにすら感じられて、少年は僅かに身震いした。
 彼は、欲望だけに翻弄される下衆妖怪が大嫌いだ。凡【およ】そ見境もへったくれも無い奴らの様に、ただ食欲だけの人狩りなど少年は決してしない。彼の中にも一端【いっぱし】に人間を見下げる気持ちはあったけれど、だからと言ってそれを理由に人を殺めたりするのはどうしても嫌だった。半分だけであろうが何であろうが、やはり流れる妖怪の血は高貴なのだと、心の何処かでは誇っていたのかもしれない。
 その彼が、人を己の爪にかけたのだ。
 …でも。
 ――殺すつもりなんて、なかった。


 風の噂は聞いていたのだ。
 更に西に下った国では、もう長いこと終わりの見えない戦が続いている。はじめは下らない覇権争いが発端であったそれも、際限なく繰り返される流血の果てに、今では最早本来の目的を見失っていた。火種を点けた義兄弟達はとうの昔に、押え切れぬ暴走に恐れを成して、夫々【それぞれ】どこか遠国へと逃亡してしまった。残されたのは、主人を失って手綱を引く者がいなくなった郎党【ろうとう】たちと、その餌食となって喰われてゆく諸々の民たちだけ。殺しの目的も、その理由すらも、もう誰にも思い出せない。今はただ無意味に人の血が流れ、大地を黒く染めている。
(近付かねえ方がいい)
 人の怨念は妖かしを生む。生まずとも呼び寄せる。只でさえ戦の地には質の悪い物の怪が蔓延【はびこ】るというのに、そんな泥沼に陥った地では一体どんな状態になっているかなど、易く想像がついた。妖かしだけでは済まないだろう――今この世に生きている筈の人間達すらも、もう生きながらにして心が亡者と成り下がっている可能性は高かった。
 そして、そういう者たちは得てして「力」を求めたがる。
 半妖の血を求めるのは、何も妖怪ばかりではないのだ。
 人が彼を襲う場合、大抵彼らは恐怖に駆られている。つまり、「殺さねば殺される」、と思って少年を襲う。だがこういう相手は、多少姿を眩ませてやればそれ以上追おうとはしないし、下手な貪欲さに塗【まみ】れていない分、追われる彼もそう腹立ちを感じはしない。人間という卑小で脆弱な生き物であれば、そういう自己防衛本能を持っていて然るべきであるし、彼もそれはよく解っていた。
 しかし…稀に、そうではない場合もある。人間が、彼の血を求める事がある。
 それは戦の中で正気を失った者達に、特に多く見られた。殆ど正常な神経を抜き取られてしまった彼らは、ただ本能的に「力」を求めている。その事が自分にとってどれ程危険であるかも全く念頭には無く、ただ「力」が欲しい、とそれだけを浅ましく願っている輩。
 勿論、彼にとって人間の襲撃など、大した脅威にはなり得ないものだ。野党あたりの荒くれどもならいざ知らず、只の村人の手にする武器など、喩え少し掠っても、火鼠の衣に弾き返されるだけで、肌を傷つけはしない。
 だが直接的な持ち手が全て脆い分、人は時として、少年にこれ以上はない脅威を齎【もたら】す「術【わざ】」を、操る事があった。それが本当のところ何であるのかは、少年にも分からない――が、聞きかじった所によれば恐らくは「呪【まじな】い」とか「破魔」とかいった類いのものだろう。人が撒き散らす白い紙札や粉末、それを目にした瞬間言い知れない寒気が全身を走る。ひとたび触れれば、恐らくは彼自身が――灰と化すに違いない。そんな呪術こそが妖かしの血を持つ彼にとって、恐らくは最も、恐ろしいものなのだ。
 ――もし狙われたら、きっと相手を傷つけなければならなくなるだろう。そうしなければ止められないし、逃れられない。奴らはどこまでも執拗に彼を追ってくるに違いないのだ…やらなければ、やられる。
(近付かねえ方がいい)
 そんなことは分かり切っていた。小耳に挟んだ噂だけで、西方の様子がいかに酷いものであるかは手に取るように窺い知れる。別に襲われるのを恐がる訳では無いけれど、何も態々此方から進んで襲われてやらねばならぬ理由もない。それに、只でさえ命の危険に曝される事の人一倍多い彼の事。偶々人に追われている所を、物の怪に付け狙われぬとも限らないのだ。やはり一時に二手は分が悪い…だから、そういう事態が起こりそうな場所には、敢えて近付かぬ方が得策だと。――分かり切っていたのだ。

 彼がそれでも西方へ足を向けたのには、しかしこれと言って理由がある訳ではなかった。若者特有の向こう見ずさ、という訳でもない。ただ強いて理由を挙げるとすれば、敢えて危険を避け続けるのに嫌気が差したか――自分の生き様にほとほと胸を悪くし、危険の中に自らを落とし込んでしまえと刹那の退廃的な思いに捉われたからか。
 そのどちらであったにしろ、兎に角それが主たる理由だとは言えない。正に「魔が差した」、そんな感じだった。黒い連山に深く被【かぶ】さるような、これまた墨で描いた様に黒い雲。ぴりぴりと頬に妖気を感じながら、それでも彼は真っ直ぐに西へ向かう。その先に待ち受けるものが、けれど彼の予想以上に酷いものだとは、全く脳裏に浮かべもしないまま。暗澹【あんたん】への一歩だった。






 鉄錆に混じる毒が、回り始めたらしい。忌々しい事に、打ち込まれた刀には御丁寧にも毒薬まで仕込んであったのだ。くらくらと頭が浮き、まるで酩酊状態のように目が据わらない。熱までも出てきたのだろうか、やたらと身体の芯がじんじん疼いた。お蔭で血流は早く廻り、肩の疵が一層脈を打つ。少し塞がりかけていた疵口から、また新しい赫が滲み出してきて、白い襦袢越しに水干を染めた。
(こんな疵、いつもなら)
 いつもなら、大したことはない。
 苦々しい気持ちで痛みに耐えながら、少年は心内【こころうち】で己の間の悪さに悪態を吐いた。
 今日の夜天には…月が無い。日が翳れば草木の造作も、只の墨流しの文様にぐらいにしか区別がつかなくなくなる――新月の…朔の、夜。
 月に一度の「この」夜に、よりにもよって少年は酷い手負いとなってしまった。
 薄墨【うすずみ】がやがて濃い漆黒と変わる刻、昼間から少しずつ強まっていた人間の血が、完全に彼の全てを支配し、それに伴って彼に宿っていた全ての妖印が消える。僅かに残るものといえば…縦に鋭く裂けた、獣の瞳孔だけ。白銀の滝髪も、鉄のように硬い獣爪も、そして頭の上で風を受ける犬形の耳までもが、まるで跡形も無く失せてしまう。そして勿論、妖怪に与えられた並外れた能力すらが、何の役にも立たなくなってしまうのだ。今夜の彼は…彼を生み落とした母と寸分違わぬ、柔肌【やわはだ】の人間に他ならない。
「…っつ」
 人間の身体とは、どうしてこうも弱々しいのだろう。襲う脅威は、高まる痛みと痺れだけではない。辛うじて感じていられた、背を預けている大樹の――その呼気。夜気が染み込んで表面は冷えているものの、身体を凭【もた】せ掛けて瞑目すれば、確かに穏やかで静かな樹の鼓動が…呼吸が、衣布を通して感じられる筈だった。少なくともいつもは感じているし、それは彼の数少ない「好きなもの」の一つですらあるというのに…それが今はもう、末期を迎えた虫の痙攣のようにしか、感じられない。そしてもうじき、完全に彼の感覚範囲から消えてしまうだろう。
 要するに、邪気、人気、呼気、瑞気――あらゆるものの発する「気」というものを、彼は知覚出来なくなってきているのだ。今の彼が人なればそれもある意味当然ではあるのだが、けれどそれこそが今の彼にはとっては最も痛い事実なのである。「気」を感じられないという事、それは即ち人の気配も、物の怪の妖気も感じ取れないという事。せめて襲ってくる相手の距離や存在に気付く事さえ出来たなら、事が起こる前に身を隠す事も叶おうものを…このままでは、喩え襲ってくるのが下衆な野党であったとしても、身が危険に曝されてしまう。多勢に無勢では、幾ら人並み外れた運動能力を備えている彼であれ、躱しきることが出来るとは言い切れないのだ。況【ま】してや今の彼は、手負いの身体。
(まずいな)
 とうとう、何も感じられなくなる。世界が、完全に黒い水底【みなぞこ】へと沈み込み、最後まで残っていた毛先の白が鴉色に変わって闇に溶けた。
 けれど、そのふっつりと途切れた樹木の呼気と、そしてその最後の瞬間に、彼は微かな人の気配を捉えて思わず息を詰める。
(近くに居る)
 瞬刻ののちに、愚鈍な人間の感覚に成り代わられて感じられなくなってしまった、人気。それは恐らくは追っ手のそれだ。
(若い―女?)
 けれど先に感じた気配には、明らかな殺気が滲んでいた。ざらつく樹の表面に殆ど縋りつくようにして立ち上がりながら、少年は重い頭の中を必死に研ぎ澄ませようとする。女だからと言って、決して油断は出来まい。こんな夜更けに、しかも朔の夜に、連れの一人もなく妖怪の跋扈【ばっこ】する森を歩くよう女だ。罷り間違えば、巫女だという事も有り得る。それでは今は人の格好をしている自分の正体など簡単に見暴【みあば】かれてしまう――ますますもってまずい。
 ふらふらと二三歩歩き出してみたものの、やはり身体は思うように動いてはくれなかった。元々物の怪を殺める為と濃く配合された毒だ、普通の人間なら一発で命を落としている筈のところを、彼はその並外れた体力だけでどうにか保っている。積み重なる枯葉を臥所【ふしど】に、朝までじっと耐えるくらいならまだなんとかなるかも知れないが、その上身体を動かして歩こうなどと、どう考えても無理な相談だ。
 夜目もきかないからよくは分からないが、どうやら視界までぼんやりと霞んできたらしい。じっとりとした嫌な汗が、全身から噴き出してくるのが分かる。絡まった裾に足許を捉われて傾いた身体が、一瞬一体上を向いているのか下を向いているのかすら分からなくなって、少年は力なくその場に膝を折った。
(駄目だ)
 人の気配は、もう今の彼でも感じられるほど間近に来ている。逃げなければと必死に足掻く本能と、それを死ぬ程悔しく思う心。その間に挟まれて、少年は堪らずに唇を噛んだ。どうしようもなく情けなくて、息が詰りそうになる。
 急に闇から差し出された行燈が、少年の視界をさっと照らした。
「妖怪!」
 そう叫ぶ高い声と、振り下ろされる金物が風を切る音。どうにか残った意識の隅に冷たい死を覚悟しながら、それでも少年は最後の力を振り絞って、翳される脅威から身を捩【よじ】らせた。






 ひんやりとしたものが咽喉を通り、心地良く身体を満たしてゆく。気付けば薄っすらと目を開いていた少年は、自分の唇に竹筒を宛がっている誰かの手を、意識の向こうにぼんやりと眺めていた。
 細い手。僅かな星明りを滑らせて仄白い、女の…。
「……!!」
 思わず勢い良く身体を起こす。手の持ち主がきゃ、と小さな声を上げ、弾みで取り落とされた竹筒が軽い音を立てて地面に転がった。起き上がった動きにも肩の疵が鋭く痛み、少年は呻き声を洩らす。が、それでもどうやら、さっきほどの酷い痛みはもう去っているようだった。
「ねえ…大丈夫?」
 はっと声のした方を振り向くと、眉を曇らせた少女の顔が心配そうに少年の方を覗き込んでいた。それは他ならぬ、先に自分を刺し殺そうとした女の顔だ。少年は、もう一度自分に伸ばされた手を乱暴に振り払うと、出来る限り娘から距離をとり、その顔をぎろりと睨みつけた。
「てめえ…何のつもりだ」
 けれど少女はその邪険な様子に腹を立てる風もなく、逆に困ったように身動【みじろ】ぎして、拾った竹筒をやたらと強く握り締めながら、威嚇の視線を避けて顔を俯かせた。
「ご、御免なさい。さっきは…人違いをしてしまったの。だって、こんな所に一人で居るなんて」
 首を竦めて詫びる娘は、見かけだけで言えば、少年と然程【さほど】変わらない年頃だ。腰ほどまで届く黒い髪を首の後ろで一つに結び、質のよい木綿【ゆう】織りの小袖を褄折りの壺装束【つぼそうぞく】にしている。姫と言うには届かぬが、それでもかなり裕福な家の出ではあると思われた。申し訳なさに少し震える柔らかな指先は、どう見ても家事に汚れたそれとは考えられない。
 とにもかくにも、決してこんな所でこんな時刻、一人歩いているのが適【そぐ】うような娘でないのだけは、明らかだった。
「本当に、あなただと思ったの」
 そう言ってやっと上げた瞳は、鴉のように艶【つや】やかな黒だ。目の前の少年を真っ直ぐに映して、まるで彼の本心を探っているかのようだった。本当のところ、娘の中にはまだ疑いが残っていたのかも知れない。押し黙ったままの少年と、娘の視線が、暫く無言でぶつかり合う。
 けれど娘は、彼のだんまりを体調の悪さの所為だと思ったのだろう。徐【おもむろ】にすっと膝を寄せると、少年の熱【ほて】る額に掌を当ててきた。
「あなた、何か毒気に中【あた】っているのじゃない」
 ひやりとした感触に少年は一瞬固く身を強張らせたが、次の瞬間にはその手を避けるように首を背け、乱暴に娘の手を払った。
「いた…」
「気安く、触るな」
 そう言いながらも、少年の息は荒く苦しげだ。それを自分でも如実に感じ取って、少年はぐっと掌を握り込む。
(冗談じゃねえ)
 こんな所で…よもや自分が人間などに助けられる事になろうとは。この肩疵をつけたのはあの憎い人間の筈なのに、それをまた助けようとしているのが人間だなんて、皮肉に過ぎる。
 気付けば傷ついた肩には、乾いた白晒しがしっかりと捲かれていた。少しつんと鼻を刺す匂いは、きっと貼られた薬草のものだろう。その中で今だ生々しく残る疵口の痛みが、けれどさっきよりずっと楽になっている事を悟って、少年はますます眉間の皺を深くした。
「でも、ひどい熱があるじゃないの。肩の疵だって凄く深かったわ。わたし、丁度毒消しの薬を持っているから…」
 人間の情けに縋るのだけは、絶対に嫌だった。特にその優しさが、人間の姿である自分に向けられているものであるならば、尚更だ。こうして憂【うれ】いぽく自分を眺めているこの女ですら、日が昇って彼が本来の姿を現せば、必ずや異形を見る目付きで己を蔑むに違いない。外面【そとづら】にしか興味の無い者たちなど、彼にとっては反吐が出るほどの嫌悪の対象にしか、なり得なかった。
「失せろ。手前の勝手で俺に関わるな。迷惑だ」
「そんな。わたしは」
「やかましい!」
 耳鳴りがしていた。肩の痛みが凪いだ分、朦朧とくすみだす意識に抗う力が、弱まっているのかもしれない。その纏わりつく意識の霧を、頭を振って無理矢理に引き払いながら、少年はようやっと少し動かせるようになったからだで立ち上がろうと試みた。が、やはり脚に上手く力が入らない。
 ふらついた少年のからだを、慌てて立ち上がった娘の腕が支えた。
「やっぱりあなた、薬を飲まなくては駄目。このままじゃ、身体がもたないじゃないの。」
 ――そんなことは分かっている。
 涼しい筈の夜に大量の汗をかいているからだは、水分不足と疵から入った毒の所為で、必要以上に激しい衰えを見せていた。このままでは危険なことくらい、少年にだって分かる。けれどそれでも、少年は自分を支える華奢な腕を、頑なに受け容れようとはしなかった。
「触るな。何度言ったら分かる」
 しかし、今度は娘のほうも素直に引き下がる気は無いらしい。睨み上げてくる灰色の瞳を、困ったように見返しながら、少年を少し強引に押えて座らせた。
「駄目。そうやって意地を張っていたら、本当に死んでしまう。大人しく座っていて」
「てめ…」
 やんわりとした娘の命令に何か言い返そうとしたが、もう体力は限界を迎えていた。心では冗談じゃないと抵抗しているのに、からだの方は娘の誘導するまま、先の大樹の元へと座らされてしまっている。それでも、額に当てようとする掌だけはどうにか避けて、少年はむっつりと押し黙ったまま、探るように娘の顔を睨みつけていた。



 優しさに触れるのは辛い。そんなもの所詮長続きはしないと、わかっている。
「わたしは飛白【かすり】っていうの。」
 あなたは?と聞いてくる娘の視線から目を逸らし、少年は組んだ腕を一層深く掻き合わせた。無理矢理飲まされたとんでもなく苦い薬も、効果だけは確かだった様だ。身体中が熱【ほて】るような感じが今はほとんど無くなっている。が、その分、しんしんと冷えてきた夜の空気が、汗をかいた肌の熱を容赦無く奪っていった。少年は身震いを覚えるのを堪【こら】えながら、ゆったりとした水干の中に身体を埋【うず】め、瞑目した。
 行燈に照らされた片頬だけが、少し温かい。
「ねえ。あなたはどうして、こんな所にいたの?」
 目を閉じたままで聞こえてくる娘の問いに、余計なお世話だと、少年は内心悪態を吐いた。どちらかと言えば頼りない感じの若い娘は、瞳だけは真摯に少年の手当てに勤【いそ】しんでいる。けれど一度は自分の命を狙った女、今更どんな態度をとられようと、そうそう簡単に口を利いてやる気になる筈がなかった。
「誰かに追われているの?」
 しかも意外によく喋るのが、この上もなく鬱陶しくて仕方ない。
「ごちゃごちゃと五月蝿え。俺が何をしていようが、てめえに関係ねえだろ」
 けれど娘はといえば、彼の言葉に滲む険に、全く気付いていないらしい。小さな葛篭【つづら】の中を掻き回す手を止め、少し小首を傾げて彼を見詰めるだけだった。その様子にはいかにも邪気が無くて、少年の神経は余計逆撫でされる。
「大体てめえこそ何なんだ。こんな夜更けに独りでほっつき歩いて、胡散臭いったらありゃしねえ。」
「わたしは…」
 娘の瞳が、初めて少し翳った。いや、少しではないかもしれない。娘は少年から目を外すと、ぼんやりと前へ視線を漂わせながら、呟くように答えた。
「わたしは…探しているの。」
「…ああ?」
 少年の胡乱な声に、娘が振り返る。そしてやはり少年の瞳を真っ直ぐに見詰めながら、もう一度小さく呟いた。
「父の仇を、探している。」

 ――嫌な予感がした。







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