初ごころ
Ui  Gokoro

2


 少年が初めて、自分の顔をまともに見ている。その顔を、こちらもまじまじと眺め返しながら、飛白はどことない違和感を感じていた。
 上等な紅生絹【べにすずし】で拵【こしら】えた、水干。斑【むら】の無い鮮やかな染め上がりは、見事であると言って差し支えないほどだ。行燈の光だけではよくはわからないものの、きっと日の当たるところで見たなら、目に沁みるほどに赤いだろう。どこからどう見ても、貴族の出自であるとしか思えない少年は、けれどこんなにも傷だらけで、しかも裸足のままだ。長い髪は黒く艶【つや】やかで美しいけれど、括【くく】りもせずに流しているというのはやはり少しおかしい。
 一体どういう身の上なのか、さっぱり見当がつかなかった。
「父の仇を、探している」
 そう答えながら、飛白は昼間見たばかりの、憎い仇の姿を頭に思い浮かべてみる。一瞬眦【まなじり】に捉えただけだったが…真っ赤な衣を着ていたような気がした。血のような色だと、そう思った覚えがかすかにある。だが余りに一瞬の事過ぎて、それが水干だったかどうかは定かでなかった。去って行く奴を追う前に、落馬して地に臥した父に駆け寄るのが精一杯だったからだ。
(だけど、ありえないわ)
 そう自分の考えを否定して、飛白は心中にて小さく頭を振る。
 外見が定かではなくとも、あれは確かに妖怪だった。髪の毛は長かったけれど真っ白だったし、鋭い鉤爪も持っていた。そう言えば、ちらと垣間見た双眸が、獣のような金色だったようにも思う。そして何よりも、奴の頭の天辺には、異形の証である犬の耳がついている筈だ。
 それと比べ、目の前の少年は明らかに人間の男の子。少し瞳の色が薄いような気はするものの、人間である事に間違いはない。
(わたしってば、失礼よ)
 大体出会い頭【がしら】からして、飛白は彼に刃を振り下ろしてしまっている。彼が何とか避【よ】けてくれたから良かったものの、もし命中していたらと思うと背筋がぞっと寒くなった。間違いで人殺しだなんて、とんでもない。彼にこれ以上の傷を負わせずに済んだことは、本当に感謝せねばならないというのに――それでもまだ彼を疑っているなんて、自分の方こそどうかしてしまったのだろうか。
「で、でもね、もう諦めようかと思っていたの。夜道は暗いし、森は恐いわ。わたしは旅に慣れていないから…所詮女一人で妖怪の後を追うなんて、無理だったのね」
 嘘だ、と頭のどこかに声が響く。そうだ、嘘だ――今自分が言っていることは、舌が真っ黒になりそうなほど、嘘。
(諦めてなんていない)
 父【とう】さまは、優しい人だった。いつも笑って、わたしの頭を優しく撫でてくれた。飛白、お前はよい子だ、きっと幸せになれるよと…そう言って、嬉しそうに。そんな父さまが、わたしは大好きだった。
(あいつさえ、わたし達の前に現れなければ)
 きっとまだああして、何も知らずに笑っていられた筈だ。こんなどろどろとした憎しみに、胸を冒される事なんてなかったに違いない。



『奴の血はね、飛白【かすり】。母さんの病を治すのに、本当に良く効くんだそうだ』
 そう言った時の、父の笑顔が、飛白の脳裏に焼き付いて離れなかった。
 飛白が幼い頃から、ずっと床に臥していた母親。それを一番心配し、気にしていたのは、父だった。父が母へ注いでいる愛情の深さは、娘である飛白なればこそ、痛いほどに知っている。
 …だからこそ、止められなかった。
『凶暴だとは聞くが、所詮童【わっぱ】に過ぎん。数で圧【お】せば、決して怖れるような相手ではあるまいよ。飛白、そう心配するな』
 それでも飛白は心配だった。確かに子供の妖怪かも知れないが――それでも妖怪は妖怪、どんな恐ろしい妖術を使うかも知れないし、そうでなくとも奴は鉄の爪を持つと言うではないか。
『大事【だいじ】無い、大事無い。後ろには術師を多く控えさせておる。奴が少【すこ】うし暴れても、父は決して死なんぞ』
母さんを守る為だもの、な、とそう言われて、飛白にはもう言い縋るすべがなかった。そしてその結果が――。



『お嬢さま、お父上が…!』
 転【まろ】ぶようにして侍女が飛び込んできた時、やはり、と思った。その瞬間だけで、飛白は自分の杞憂が杞憂に終わらなかったことを悟っていた。一瞬で、心が氷のように冷えてゆくのを感じる。
『落ち着きなさい、花女【はなめ】。今、父さまはどこにいらっしゃるの』
 出てきた声は、自分でも驚くほどに冷静だ。早鐘のように高鳴る心臓とは裏腹に、頭の中は妙な静けさで満たされる。おろおろと蒼褪めるばかりの花女【はなめ】を宥めすかして、飛白はようやく聞き出した父の居場所へと駆け出していた。お嬢さまそんな恰好でと、うろたえきった花女の、声だけが飛白の背を追い掛けて来る。が、そんな体面を気遣っている余裕などなかった。
『父さま。父さま…!』
 それは――今で言う、まるでスローモーションのよう。
 薄曇【うすぐもり】の空の隙間から、やけに明るい日の光が差し込んでいた。
 鬨【とき】の声と、馬が蹴立てた砂埃。きらきらと陽光を弾いて、金粉を撒いた錦絵の中みたいにも思える。
 だのに、がちゃがちゃと打【ぶ】つかりあう鎧の音だけがうるさくて、頭がおかしくなりそうだった。飛び交う矢の中を、それでも必死に目を凝らして、父の姿を見つけ出す。
 妖怪に引き裂かれたのだろうか。堅固な筈の父の胸当ては無残に割れ、血が滲み出していた。頬にも、腕にも、生々しい掻き傷が走っている。それでも必死に獲物へと追い縋る父の表情は、余りにも痛々しくて、飛白に無意識の小さな叫び声を上げさせた。
『父さま!』
 その声が自分の耳に響いたのと、父が右腕を掲げたのは――ほぼ同時。
 白い御札が舞って、飛び跳ねる赤い影がぴたりと動きを止めて。勝鬨【かちどき】の叫びが一斉に上がったけれど、それは虚しすぎる結末に終わった。妖怪が静止したのは一瞬のことで、次の瞬間には、飛び掛って妖怪に太刀を突き立てた、その父の首の方が切り落とされていた。首は、毬のようにぽうんと跳ねて、手綱を引き損ねた郎党の馬に踏み潰され――そして全てが終わる。



 入り乱れる人の群れと、その間をぴょんぴょんとすり抜けて逃げる、赤い影。白い髪。獣の―耳。
(あれが)
 あの異形が。
 全てを、奪った――!
 憎い、と呟いたのは、頭の中だったか、それとも声に出していたのか。とにかくそこで、もう何もかもが――分からなくなった。



『母君【ははぎみ】さまが…お亡くなりになられました』
 ――どうして。
『飛白さま。お父上の代【しろ】は、この陶沖【すえおき】めが務めさせていただきます』
 ――どうして。
『つきましては、飛白さま。明日【みょうにち】のうちに祖母【おおはは】さまの御屋敷へ、お移り頂きたく』
 ――どうしてなの…!
 屋敷の中は慌【あわただ】しい。一日にして主【あるじ】もその妻も身罷ってしまったのだから、それも寧ろ当然だろう。よよと泣き崩れる花女の声が、障子を隔ててすぐ傍に聞こえてくる。
 火を足す事も忘れ、途絶えた灯心【とうじみ】が、細い煙を曳いていた。閉めきった部屋は、淡い闇が隅から隅まで満ちている。その中で、まだ白い畳表だけが、薄く発光するようにどこまでも平坦だった。
 膝を揃えて小さく坐ったまま、飛白はその長い睫毛の下から、目の前にしっとりと添えられたものを見詰めていた。白い薄様【うすよう】に包まれたそれは、父と母の――頭髪。腕を伸ばしてその一端を摘み上げれば、黒い筋は力なくしな垂れて、飛白の手首に流れ落ちる。それをまじまじと見詰めていても、まだ何が起きたのかが分からない。分かりたくもなかった。
 …御免【ごめん】、という低い声と共に障子戸が引かれ、一枚の光明が畳の上に線を描く。
「陶沖…」
「お呼びに与【あずか】りましたか」
 後ろ手に障子を閉めて入ってきた男は、父の乳兄弟【ちきょうだい】である陶沖だ。つやつやとした白い肌、ぽったりと厚い瞼に薄く血色の悪い唇。小作りな造作の割りに、やたらと顔の輪郭だけが大きい。身体つきもそれと同様だ。手指は妙に白く細くつややかで、だのに手首も腹もずんぐりと太く、まるで栄養過多の雛人形みたいだと、飛白はいつも陰で笑っていたものだ。嫌味な程に慇懃無礼な態度も、その揶揄【やゆ】にぴったりと適【かな】っている。
「飛白さま」
 薄暗い部屋の中で、畳の淡い反射を受けた陶沖の白い顔が、浮かび上がっているように見えた。刀の先でちょいと裂いてこさえたような、細い目。本当に、細い目。おまけに充血したようにいつも赤い。
「奴の名は…あの異形の名は、何と言うのです」
 飛白の胸の内に、小さな黒い炎が、ぼっと音を立てて点【とも】る。そうだ、あの憎い異形の名。わたしから全てを奪った、奴の名を。
「あやつの名は――犬夜叉。犬夜叉、と申します」
「犬夜叉…」
 ――黒い火が、盛【さか】る。
 わかりました、お下がりなさいと呟くと、陶沖は黙って一礼し、出て行った。
 ――犬夜叉…犬の、夜叉。
 出て行きざま、ちらりと振り返った陶沖の瞳が小狡【こずる】い喜色【きしょく】に光ったのに、飛白は全く気付かなかった。再び訪れた薄闇の中、響く喧騒をどこか遠くに聞きながら、飛白はただ、憎き異形の名前だけをひたすら心の中に繰り返す。
 ――犬夜叉。犬夜叉。奴の名は…犬夜叉。
 ――必ずや、この手で。






 「おい女」
 闇は一層深くなっていた。墨汁【ぼくじゅう】をそのまま流し込んだような、黒。森の中では風もなく、時折梟【ふくろう】だか木菟【みみずく】だかが哀しげな声で鳴くだけで、それ以外には何の音も聞こえない。ただ行燈に照らされた二人の周りだけが、曖昧に浮かび上がっていて、まるでその空間自体が一つの光源であるかのようだった。下から照らされた大樹は、夜天へ向かってどん どんと暗く、無数の柱のように寡黙な佇【たたず】まいで、向かい合う娘と少年を見守っている。
気付けば、飛白【かすり】は指が白くなる程強く、膝の上の拳を握り締めていたらしい。それを見咎めた少年が、低く擦【かす】れたような声で飛白の注意を引き戻した。
「お前、震えてるぞ」
「え…、あ」
 持ち上げて恐る恐る開いた掌は、確かにかたかたと震えている。飛白はその手をもう一度くっと握り締め、いや、と言うように小さく頭【かぶり】を振った。
(いけない。この人には何の関係もないのだわ)
「…御免なさい、何でもないの」
 今更何でもないはないだろうと自分でも思ったが、やはりそう言わずにはいられなかった。諦めようかと思っていたとそう言った言葉も、今の言葉も、それで言い表したかったのは、一度命を狙ってしまった少年への詫びの気持ちだ。けれど飛白のそんな思いも虚しく、少年はさっきからずっと頑なな口調と態度を崩そうとしない。それどころか、今の言葉だって聞いてはいなかったかもしれなかった。少年は飛白の答えが届く間もなく、またしても瞳を閉ざしてしまった。飛白は、せめてもの気休めにと持ってきた薬草を、手持ち無沙汰に意味もなくあれこれ仕分けたりなどしながら、瞳だけでちらりと少年の顔を盗み見た。
(本当に、変なひと)
 むっつりと眉を顰【まゆ】めたまま、腕を組み目を閉じて、彼は一体何を考えているのだろうか。行燈の中で頼りなく揺れる蝋燭にあわせて、彼の頬に落ちた睫毛の影も、細かくちらちらと揺れている。
(でも、綺麗だわ)
 勝気そうな眉だが、その下で伏せられている瞼は驚く程に繊細だ。すっと通った鼻梁、円【まろ】やかな頬の輪郭、引き結ばれた形の良い唇――そしてその全てを縁取って流れ落ちる、黒い滝のような髪。それは朱紅の水干を豊かに滑って、腰を覆い隠してしまう程に長い。飛白自慢の髪は細くて毛先まで真っ直ぐだが、彼のそれはもう少し張りがあって、描いているのも柔らかな弓形だ。当たった光の弾き方も、彼の髪の方が少し強いような気がした。照らされた部分に、白い艶【つや】の筋が出来ている。
(綺麗…本当に綺麗)
 ――だけど、どこか昏い。
 目で辿った彼の造作の、その全てに宿る隠しようもない昏い影。それは、屋敷の中に居たことが多く、余り人を知らない飛白にですら、漠然と感じ取る事が出来る程に、色濃い。
(もう少し、笑ってくれたら)
 あの顔でもう少し、笑ってくれたら、きっともっと魅力的なんだろうに。…何だか勿体無いような気がして、飛白は彼の顔をまじまじと見詰める。そして一生懸命少年の笑顔を想像してみようとしたが、どうしても浮かばなかった。あの大嫌いな陶沖の笑う顔だって思い出せるというのに、どうしてだろうと、首を捻る。
「…なに見てる」
 突然、少年がぱかと目を開いて、その視線が飛白のそれとぶつかった。いきなりの事に思わずどぎまぎする飛白を、寄せた眉の下から睨み、少年はふんと鼻を鳴らす。そしてまた目を固く閉じようとする少年に、飛白は思わず声を掛けていた。
「ねえ…っ」
「…んだようるせえ」
 間髪入れずに返ってきた素気ない声。
 益々鬱陶しそうなその視線に、飛白は一瞬息を呑む。が、それでも思い切って恐る恐る言葉を続けた。
「あのー…少し、笑ってみてくれない?」
「…は」
 少年の顰め面は、みるみるうちに驚きのそれへと変わっていった。少し細めていた目を大仰な程に開いて、飛白の顔をまじまじと眺める。けれど、少年自身も自分の表情に気付いたのだろう、はっとしたように唇を結ぶと、今度は一転、睨みつけるような目付きで飛白を見すえた。
「おめえ、莫迦【ばか】か」
 その言葉と低く唸るような声に、飛白は思わず縮こまって肩を竦める。確かに、突拍子もなく不躾【ぶしつけ】な事を言ってしまった。でもそれにしたって、いきなり莫迦はないだろうと思ったが、少年の妙な迫力にはとても太刀打ち出来そうになかった。そのまま、今度こそ完全に自分の殻に閉じ篭ってしまった少年を見遣りながら、飛白はこっそりと情けなげな溜息をついた。







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