初ごころ
Ui  Gokoro

3


(ちくしょう…夜が長い)
 疵に倒れて、女に襲われて…そして助けられて、感覚ではもう随分と時が過ぎたように思われる。それなのに闇は深まる一方で、恐らく実際のところ、この忌々しい夜は半分すらも終わっていないのだろう。眠るまいと思うのに、時々抗いようもない睡魔が少年を襲う。彼はそれと必死に戦いながら、本当に焦れったく気の長い時間をじりじりと耐え忍んでいた。
 薄っすらと目を開けて女の様子を見てみれば、こちらはお気楽な事に、かすかな寝息まで立てて既にうつらうつらと微睡【まどろ】みの中。こんな月もない真の闇夜によくもまあ臆面もなく眠れたものだと、少年は半ば呆れながら目の前の娘を探り見る。
別段に、これといった見目麗しいところのある娘ではなかった。造作の一つ一つをなぞってみれば、そのどれもが美人の鑑に届くものではない。それでも不思議な事に、全体としての彼女が与える印象は、愛嬌のある、可愛らしさだ。
 小さくはないけれど形の良い唇、透き通った声。毛先まで迷う事なく真っ直ぐに落ちたぬばたまの髪は、彼女が身動きする度にさらさらと零れて、小川のせせらぎのように光を弾く。抜ける程に白い肌が、行燈の光を受けて薄っすらと暖かな茜色に染まっていた。
 思えば…自分と歳の近しい女と、彼がこんなにも近くで言葉を交わしたのは、よもや生まれて初めてのことであったかも知れない。もっとずっと幼い頃、まだ温かな愛情を知っていた頃に、母方の遠い親戚であるという童女【わらわめ】と一言二言言葉を交わした事はあったかも知れないが…そんな小さな記憶はもう遥か彼方に過ぎ去ってしまっていて、今となっては夢か現【うつつ】かすらも判然としなくなっている。あれは一体何時のことだったかと、思いを馳せる少年の胸が、小さく痛んだ。
 ――思い出したくもない過去だ。
 過ぎ去った…遠い昔。あの時の幼子の、さらりと揺れる尼削【あまそ】ぎの髪は、確かこんな風に真っ黒だった。彼女の着ていた紅梅の唐衣【からごろも】が、織り込まれた金糸できらきらと輝いて、本当に目映くて綺麗で…幼い彼は息を呑んだものだった。母の目の届かぬ所でどれだけ罵詈【ばり】を浴びせられても、それでも何処かに温かい救いがあった、思い出の中だけの初春【はつはる】。
(くそ…っ)
 ――忌々しい。
 我に返って、少年は胸の中で舌を打つ。
 下らない懐古趣味など、軟【やわ】な人間のすることではないか。今更思い出したって、何も変わらない。いやそれどころか、ますます辛くなるばかりだ。世を儚むなどという殊勝な心持ちなぞ、枯れ枝のように草臥【くたび】れた爺【じじ】いが持っていればそれでいい。…例えばあの、巫山戯【ふざけ】た大きさの蚤妖怪みたいに。
(大体)
 俺はこんな所で、一体何をしている。
頭の上に張り出された枝々は、照らされた部分だけが白く浮かんで、まるで何もないところから生えた幾千の腕【かいな】のよう。その垣を通してずっと遠く、墨を湛【たた】えた朔の夜天【やてん】は、やはり一点の光明をも宿す事なく、どこまでも高かった。
 …ひょっとしたら、あの向こうには空なんて無いのかもしれない。ただ無限に続く闇だけが漠々と在【あ】って、自分は知らない間にそこへ吸い込まれてしまったのかもしれない。そしてあのぎらぎらと嗤う五月蝿い太陽は、もう永遠に昇らない――そんな気が、する。
(――こんな所にいちゃいけねえ)
 幸い、しつこかった毒の残滓【ざんし】は形【なり】を顰めている。さっきまでは天を振り仰ぐだけでも、余りの酷い頭痛で頭だけ地に吸い落とされそうな感じがしたが、それも今はもう完全に消え失せた。そうでなくとも、そろそろ妖かしから逃れるための塒【ねぐら】を探さねば、朝まで無事には過ごせまい。
 すっと少年が立ち上がっても、娘が目を覚ます気配はなかった。本格的に落ちたらしい眠りの世界から、健やかな規則正しい寝息だけを紡ぎ出している。折った膝に載せた、小さな頭。項【うなじ】の後ろから流れ落ちる、細い黒の小川。睫毛の影が落ちる頬には、ほんのりと柔らかい赤味。か弱い人間の、中でもとりわけ脆い女人【にょにん】の、愚かな程に安らかな寝顔だ。
(莫迦な女だ)
 ――父の仇を、探している。
 その割りにどうして、そんな穏やかな顔が出来る。どうして、眠ったりなど出来る。お前の憎む仇は、殺したいと願う相手は、今目の前で、こうしてお前を眺め下ろしているというのに…。
(莫迦な女だ)






「寒…」
 子の刻はもう回ったのだろうか。迫る闇に変わりはないが、とにかくひどく肌寒かった。飛白は思わず身震いして二の腕を抱き込み、ようやく霞懸かった眠気から現実へと引き戻された。行燈の中の蝋燭は、そろそろ燃え尽きかけているらしい。今にも消えそうなか弱い光が、ちらちらと揺らめいて飛白の頬を照らす。
「火、足さなきゃ」
 すっと伸ばしかけた腕が、けれどその途中でぴたりと止まった。飛白は目の前で虚ろに断たずむ大樹を見詰め、驚きに目を見開く。
「え…」
 ――闇だけがぽかりと溜まる空間。さっきまで目にする事の出来た水干の緋【あけ】が、どこにもない。空になった竹枡だけが、僅かに薬汁の名残を残したまま、取り残されたように転がっている。
(やだ)
「どこ…っ」
 振り返っても、やはりそこには闇が在るだけだった。ぞくりと背筋に恐怖が走る。
 屋敷を忍び出た時も一人、此処まで歩いて来たのも一人、その時は、別に恐くなどない死んでも構わないのだと思っていた筈なのに――今改めて、傍に居た筈の人気を取り去られてみると、思いも寄らなかった恐ろしさが飛白の胸をぎしぎしと掴み始めた。
ごくりと唾を飲み込んだ音が、やたらと大きく耳に響く。自分の立てた衣擦れの音すら、はっきりと聞いて取れる。遠くで鳴いた梟の声が、まるで地の底から響く嗤い声の様に聞こえて、飛白は蒼白に血の気を失った。
(こわい)
 さっきまでは何とも感じなかった木の枝も、炎の揺らめきも…果ては自分が落とした影法師までもが、何故だか見知らぬ異界のものに思えてくる。振り向いても振り向いても、自分の背中にぴったりと恐怖が貼り付いていて、離れてくれない。
 ――葛篭【つづら】の蓋は、一体いつから開いていた…
 ――わたしの影は、どうしてこんなに長いの
 行燈の光の揺らめき方も、草鞋の下で擦れる砂の音も、転がっている竹枡の位置も…みんなおかしい。
だけどそれより…そんなことより。
 冷たい汗がすっとこめかみを滑り落ちる。見開いた目がどうしても離せず、歯の根が噛みあわない。かたかたと奥歯がぶつかり合う、神経質な音だけが闇に響いた。
(あの、樹の翳の)
 ――あの樹の翳の…白いものは。
(…手)
 ――手…
「いやあああああああああっっ!!」
 手だ。真っ白で細い、女の手だ。それが樹の後ろからするすると伸びている。音もなく、段々と。
 明らかに人間の手ではない。幹を廻る部分が、まるで骨が無いかのようにきれいな曲線を描いている。手はそのまま幹を伝いながら這い下り、今度は指を蜘蛛の足のように使って、さかさかと砂を掻きながら飛白の方へ近付いて来た。そのうち肩が現れるのではないかと思ったが、腕はどこまで伸びても腕のままだ。異様に長い。
(に、逃げなきゃ…)
 けれど、情けない事に飛白は腰を抜かしてしまっていた。痙攣するように震えた足は、立てようとしても立ち様子がない。飛白はその場にへたり込んだまま、女の手が竹枡を転がし行燈を倒し、葛篭の上を越えながら自分の方へと徐々に近付いてくるのを、ただがたがたと震えながら見詰めるしか出来なかった。
 ふと、手が、転がっていた飛白の市女笠に掛かる。手はそのまま暫しくるくると笠の回りを回っていたが、やがて首紐に指先が触れるなり、徐【おもむろ】ににゅうと伸び上がって、笠に向かって突進しそれを呑み込み始めた。いや、正確には、掌の真ん中に開いていた口から、笠を腕の中へと送り込み始めた。
(く、喰ってる…!)
 ばりばりむしゃむしゃという異質な音を立てる手の中の口は、けれど驚く程に優美な形をしている。その美しい唇を歪めて、白い歯も剥き出しに笠を喰らっているのは、不気味だという言葉では言い表しきれぬ程に恐怖を煽った。そして喰らいながらも痙攣したようにわらわらと動く五本の指、それはまるで嗤っているかのようにも見える。いや、喜んでいるのか。
 ――わたしも、喰われる。
 最早諦めにも近い感情が飛白の脳裏を支配していた。笠を平らげた手の妖怪は、とうとう飛白の存在に気がついたらしい。またもさかさかと嫌な音を立てながら、指をしなやかにくねらせて飛白の足許へと這い寄って来る。
(誰か来て)
 必死に引寄せた足首に、その指先がするりと絡まった。――氷のように冷たい。
(誰か来て)
 死にたくない、まだ死にたくなんてない。父さまにも母さまにも、このままじゃ顔向けが出来ない。仇を…仇を討ちたいのに、憎い奴をこの手で成敗してやりたいのに、今死んでしまったら一体何が残ると言うの?
(誰か)
「たす…」
「動くな」
 …見上げたのは、紅の色。そして漆黒。引き倒された弾みで燃え上がった行燈の、そのめらめらと滾【たぎ】る炎に照らされて、少年の瞳は――金色に見えた。
「じっとしてろ」
 言うが早いか、少年が手に持っていた短刀をひらりと高く翳す。そのまま双眸をすっと半眼に眇め、飛白の足許に蠢く女の手指をしっかりと見据えた。手は、今は飛白の足首を離れ、その小袖の裾を嬉しそうにするすると辿っている。その手と腕の境目…妖怪の手首を、少年の振り下ろした切っ先が正確に貫いた。
 ――ぎゃああああっ
 腕がいきなりびくんとのたうつ。そのまま力任せに身(腕)を捩【よじ】って振り切ろうとする化け物を、少年の突き立てた短刀が許さなかった。伸び上がる動きに併せて、短刀の刃が化け物を腕ごと真っ二つに裂いてゆく。腕は、真ん中くらいまで裂かれた辺りで一瞬ぴたりと動きを止め、血を落としたかのような蒼色に変わるともう一度だけぐねりと震えた。
 ――悔しや…
 そしてぱっと砕け、塵【ちり】になる。
「あ…」
(助かっ…)
 余りの安堵に、気が抜けた。まだ心臓がごとごとと跳ねている。両手で袷をしっかりと握り締め、剥れて残っていた女の皮がかさかさと乾いてゆくのを呆然と眺めながら、飛白は思わず泣いた。礼の言葉を言わなければと心の中で思ったが、とてもそんな余裕は残っていないらしい。そうでなくとも、喩え余裕が残っていたところで飛白は口を利くことままならなかったろう。何しろ咽喉がからからに渇いていたから。
 まだ蒼褪めたまま震えている飛白の様子を、少年は素っ気なく一瞥しただけだった。手を差し伸べるでもなく、まだ顰め面のまま、さっき女の手が生えてきた辺りを睨みつけている。
 そしてあろうことか、振り返った少年は、飛白に更に一層追い討ちを掛けるような言葉を吐いた。
「…おいお前。まさかこんな雑魚だけ、全部終わったと思ってんじゃあねえだろうな?」
 その言葉に弾かれるように顔を上げた飛白は、驚愕に瞠目【どうもく】したまま、少年のうんざりしたような表情をまじまじと見詰める。けれど彼の顔には、決してただの脅しなどではないという色が見て取れた。また一瞬、少年の瞳が金色に光って見える。
「じゃあ……まだ居る、の?」
 ――莫迦げてる。
 冗談ではないと思った。こんな恐怖をこれ以上味わうのは真っ平だ。今の化け物だけだって、飛白にとっては舌を噛みたくなる程の恐怖だったと言うのに、この少年はそんなものまだ序の口だとでも言いたげではないか。
(そんな)
「へっ。あんな屑みたいな野郎だけでそんなにびびってるんじゃあ、救いようがねえな。いいか、この森は魔窟【まくつ】だ。そんなことてめえだって承知の上だろ」
 魔窟。魑魅魍魎が其処此処となく跋扈【ばっこ】する、鬼の住処【すみか】。邪気渦巻く西方のこの地では、森という森の殆どが、そんな魔窟と成り果てていた。一足踏み込めば魔界への路へと迷い込み、一生涯彷徨い続けるか、果ては自分までも妖怪と堕ちてしまうか、どちらかしかない。人を躊躇いもなく斬り捨てるような極悪の盗人【ぬすっと】でも、この森へ踏み込む位なら捕えられる方を選ぼうと言うほどに、この森が百鬼夜行する異界の地であることは常識だった。だが。
「し、知らないわ、そんなこと…っ」
 屋敷の中にある意味拘束されがちだった、傍目には幸せすぎる飛白の生活。しかしそれは、彼女から誰でも知っている筈の世間の常識というものを、すっぽりと奪い去っていた。
 気絶しそうだと、飛白はぼんやりと考える。しかしその方がまだましかもしれない。意識を手離している間に喰われてしまうのなら、そう恐怖も感じずに済む。そして本当に気を失ってしまいそうに、ふらふらとしている飛白を見ても、少年はただ面倒くさそうぎゅっと眉を顰めただけだった。
「呆れたな。お前そんな事も知らずに出てきたのかよ。悪いがな、此処にいるのは手の化けもんだけじゃねえぞ。足だって首だって、人間そのものだって妖怪になるんだ。…おい、立て」
 飛白はその言葉に一層恐怖する。確かに…自分の住まう地域の治安が最悪であるのは知っていた。けれど自分の父が治める一帯だけは平和だと、信じて疑わなかったのだ。父親はいつも笑っていたし、そんな憂いがあるなんてお首にも出さなかったではないか。それなのにまさか、自分の屋敷から一番近いこの森すらも魔窟と化していただなんて…。自分がいかに無知であったかを思い知らされて、飛白はぎゅっと下唇を噛む。
(けれど、こんなところで死ぬわけにはいかないわ)
 どうせ死ぬなら、憎い奴の首を討ち取ってからでなければ駄目だ。それに、もしかしたらこの少年なら自分の手助けをしてくれるかも知れない。何しろ、さっき妖怪を一太刀で斬り臥せた為様【しざま】は、まるでその手の状況には慣れっこだと言わんばかりだった。
 こっくりと頷いて、今だ震えを湛【たた】える足に力を入れたが、やはり身体の方がまだ言う事を聞かない。それでも必死に立ち上がろうとする飛白の肩に、少年の手が触れた。そのまま、強い力で引っ張り上げられる。飛白はその腕に寄りかかって足を立て直しながら、ぼんやりと少年の掌の温かさを感じていた。








 霧が流れ始めたらしい。湿っぽい匂いが鼻をつき、頬に触れる空気が冷たい重みを増してきた。相変わらずの月明かりのない世界、けれど淡白の薄幕【うすまく】のせいで、景色はぼんやりと明るく浮かび上がって視える。森の下部に垂れ込めた靄から幾つもの木々が林立している様子は、まるで影絵のように黒々と幻惑的だった。
(ちっ、余計鼻が利かなくなってきやがった)
 背後に響く、ぜえぜえと途切れがちな荒い息。その音だけで娘の無事を確認しながら、少年は袖でふわりと鼻を覆う。
娘を助け出してから――既に一刻ほどは過ぎたろうか。絶対声を立てるなとだけ言い聞かせ、とにかくひたすら森の出口を探して歩き続けた。だが、どうやら方向を大幅に間違ってしまったようだ。格段に強まってゆく妖気は、今の人間の身体すらもちりちりと粟立たせる程に、くっきりと存在を現してきている。
(早まったかも知れねえな)
 初めは、なるべく妖気の薄い方を選んで歩いていた筈だった。それが今は妖気の渦に巻き込まれているなんて、どう考えても何かある。ようやっとそれに気付いて少年は眉を寄せた。
 大体、さっきから雑魚の一匹にすら遭遇していない自体が、異常だ。かさこそと何者かが蠢く気配は感じるのに、その気配は決して近付いてこようとしない。
 ――嵌められたか。
 態と妖気の薄い道をつくり、目的の地まで誘導する。恐らくその犯人は、この森の主たる化生だ。
 白い霧が、まるで二人を嘲笑【あざわらう】うかのようにゆるゆると湧く。
(…莫迦にしやがって)
「きゃ…」
 ぴたりと動きを止めた少年に打【ぶ】つかって、娘が小さく声を上げる。そして慌てて口を抑える様を振り返りながら、少年はふうと小さく息を吐いた。
「もう黙ってなくてもいい……囲まれた」
「…っ」
 泣き出すかと思ったが、娘はそうはしなかった。顔だけをこちらに向けた少年を見て、一瞬目を見開いた後、少し蒼褪めただけだ。小さく口を引き結んで俯いた様子からして、覚悟は決まっていたのかも知れない。
 そのまま、やたら大仰に飛び出た木の根に腰掛けた娘を眺めながら、少年は袖に忍ばせていた娘の刀を取り出した。
「持っとけ」
 だが、娘はそれを見て小さく頭を振る。視線を落とし、声の震えを押えて言葉を返したその横顔が、薄明かりに照らされて妙に蒼白く映っていた。
「いいの…わたしが持っていても役に立ちはしないもの。……そんなことより。ねえ、どうして助けてくれたの?」
 ――どうして、だと?
 娘の言葉を聞きながら、けれど少年は答えを返す事が出来なかった。所在無げに短刀を下げたまま、ふいと顔を背け霧の向こうへ目をやる。
 もやもやと烟【けむ】る景色には、まだ妖かしの襲って来る気配は感じられなかった。薄絹【うすぎぬ】のような霧が水の中をたゆたうように揺れ、黒い木々の枝は嫋嫋【じょうじょう】と靡いている。まるで夢寐【むび】の中に彷徨い入ってしまったかのような、曖昧さだ。
(どうしてだと?)
 ――そんなこと、こっちが聞きたい。
 もう一度、娘の問い掛けを繰り返す。闇を視る少年の心にぷかりと浮かんだは、忘れえぬ禍【まが】の光景だ。
 白い札を目にした瞬間――その時の慄然とした感覚。爪に喰い込む柔らかい肉の弾力も、視界を横切った血の筋も、まだありありと感覚に残っている。それは残酷な程に鮮明で、だのに色合いだけが暗い褐色に灼【や】けていた。
(まさかこいつの父親だったとはな)
 皮肉な廻り合わせとは、こういう事を言うのだろうか。あの時誤って首を断ってしまった、頬髯の濃い武士風の男…まだ爪の間に残る赤い香りは、彼のものだ。そして、目の前にその娘がいる。
 決して、罪滅ぼしのつもりなどではない。肩に太刀を突き立てられたままのあの状況で、逃れるためには残った片手を振り払うしかなかったのだ。それが運悪く首筋を掠って、運悪く斬り落とされてしまった。運悪く、だ。それを一体どうして気に病む必要がある。娘を助けたのはただの気紛れでそれ以上でも以下でもない、今だって、別に自分だけとっとと姿を消したって構わないのだ。女の遅い歩速に合わせさえしなければ、まだまだ敵から身を隠す事だって出来るだろう。
(別に理由なんてねえ)
 だのにどうしてそうはしないのか…そんな事は深く考えたくもなかった。
「名前、教えてくれない?」
 背中に掛かる声が、耳朶の中で反響する。それを敢えて無視しながら、少年はふんと小さく鼻を鳴らした。
「…答えては、くれないの」
「姦しい奴だな。俺は黙ってなくても良いと言っただけだ、べらべら喋れとはいってねえ」
 またしてもずきりと小さく痛む少年の胸。思わず手を伸ばして袷を掴んだが、別に傷なんてありはしない。それは当たり前のことなのに、まるでこの世ならぬ怪異のようにも感じられた。じくじくと疼く胸の棘は、肩に穿たれた傷よりもさらに痛い。
 名前…名前、俺の名を知られたら、一体どうなる。
 嫌な気分だった。さっきから、自分はおかしい。たかが人間の小娘を助けた挙句、自分までそいつと道を共にし、そして今名前を聞かれて……答えてしまえば良いと思っているのに、答えられないでいる。
 人間だ、この女は人間だ。
 憎くて堪らない、己をいつも莫迦にする、能の無い輩達だ。
 弱くて脆くて小狡くて、だのに蛆虫の如くあちらにもこちらにもしつこく湧いてくる。怖気【おぞけ】がする程に憎い。奴らは自分の頭で考えなどしない…ただ海に浮かぶ小舟のように、ふらふらと流れに乗せられているだけだ。この娘だってそう、目の前にいたから、俺を助けた。子供が傷付いた小鳥を助けるのと何も変わらない。
 時として妖怪の心より――人の心は冷たく、そして残酷だ。
 笑って、嬉しそうに笑って、幼い忌み子を斬り捨てた。まるで襤褸屑みたいに捨てた。真冬の氷雪よりも、なお冷たい…だのに、その肌だけはまるで温石【おんじゃく】のようにぬくぬくとしていて。
 …懐かしかった。縋りたいと思う自分がすぐ其処にいる。細い腕も、白い手指も、流れる黒い髪も、その高すぎる声さえも――まだ失いたくない。
 もう少し…もう少しでいいから。たとえこの忌々しい一夜限りであってもいいから。
 人の温もりをこの身の傍【そば】に、感じていたい――。

(下らねえっ…)

 知らぬ間に淡白い霧は、森全体を天辺近くまで満たしてしまっていた。ふと生臭い匂いが鼻面を撫で、少年は弾かれたように顔を上げる。
 …途端、辺りの空気が一変した。







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