初ごころ
Ui  Gokoro

4


 けたけたと嗤う声が、弾けたように夜の四十【しじま】の静寂を破る。たゆたうように緩かった風が、いきなりびょうと渦を巻いた。霧は粉々に引き千切られ、その裂け目から滲み溢れた墨色が二人の四肢に纏わりつく。
 ――人間のガキがふたあり。
 ――よぉぉく来たねえぇ。
 飛白がひっと息を呑んだ。少年の背に腕を伸ばそうとしたその足許で、木の根がいきなり膨らみ蠢いているのだ。その黒い影は妙に丸々とした形で、そのままひとりでに動き出しひょこひょこと飛白の方へ近付いて来る。
「や…っ」
 思わず後退【あとずさ】った飛白の背が、とん、と少年の肩に触れる。途端黒絹を撓らせて振り返った少年の刃が、すらりと閃いてその塊をざあと掻き消した。
 次々と飛び出し始めた黒い蠢きをを片足で踏み潰しながら、少年は肩を押して飛白をその場に蹲【うずくま】らせる。
「そうやってじっと身を低くしていろ。でかい声をあげるなよ」
「だ、だけど…」
「ごちゃごちゃ言うな。こいつらは木魚達磨【もくぎょだるま】だ。黙っていりゃお前を取って喰ったりしねえ」
「木…」
 一体なにと聞こうとしたが、次々と押し寄せてくる異形に潰されそうになってそれも叶わなかった。少年が木魚達磨と称したそれは、なるほど確かに寺の木魚に目鼻がついた格好をしている。針金のような足がついていたが、結局それでは身体を支えきれずにごろごろと転がって移動するのだ。そんなものが幾つも幾つも、いる。その一匹に痩せこけた子供のような腕で足首を触られて、飛白は思わず上げそうになった叫び声を、必死に呑み込んだ。
 肩を両手で抱きこみ小さく身体を折って、なるべく触れられる面積を狭めようと努力している飛白の傍らで、少年はと言えば足許から上ってくる塊を振り払おうともせず、平然と前を見据えている。それを半ば呆然と眺めながら、飛白はまたしても身体を這い登ってくる達磨を振り払い、頭を振ってきゅっと唇を噛んだ。
 耳朶に、達磨たちのぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。囁くような、くぐもった独り言が重なり合って、波のように押し寄せた。身の毛が一気に弥立【よだ】ったが、少年の言葉を思い出して、飛白は決して声を立てるまいと両手で耳を塞ぎ、俯く。少年の足手纏いにはなりたくなかった。
 ――ほおお、お前たち。まァだ逆らうつもりかえ。
 ――薄小汚い人間のくせによお。
 哄笑が響き渡り、その嘲りに飛白は一瞬顔を蒼くする。少年はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「うるせえな。その薄汚え人間から、こそこそ姿隠してるのはどこの誰だ」
 ほっほっほと女の声が嗤う。
 げたげたげたと男の声が嗤う。
 それに僅かに眉を顰めながら、少年は肩口に這い上がってき達磨の妖怪を握りつぶし、けっと小さく吐き捨てた。
「下らねえお遊びは沢山だ。とっとと出て来い」
 ――小坊主ぅ。おまえぇ、わたしたちが気付かぬとでもお思いかね。
 女の声にどういう意味だと問い返したかけたが、背後で飛白の押し殺した悲鳴が上がり、少年は仕方なく唇を結んで振り返る。蒼白い鬼火を纏ったたおやかな女が、その繊手で飛白の黒髪を絡め取っていた。それを必死に振り解こうとする飛白に柔らかく微笑みを投げる女…その顔には、口が二つ。
(二口女【ふたくちおんな】…か)
 趣味の悪い奴しか出さねえな、と悪態を吐きながら振るった拳に、女の顔は無残にも陥没した。ぎゃああと上下に開いた口でわめく女の、余りに本物そっくりな胸に、少年は少しだけ眉を寄せながら短刀を深々と突き刺す。女は一瞬で鬼火に呑まれ、消えていった。
 ――流石だなァ、坊主ぅ。
 ――ほんに、ほんに。流石だねえ。でも…。


 ――でもねえ。「今の」お前は、ただの人間だろ――。


「え…」
 飛白の唇から零れた、微かな呟き。けれどそれは、舞い起こった旋風【つむじかぜ】に破れて消えた。
 木立がびりびりと揺れる、地がごうごうと轟【とどろ】く。黒い木々から雨のように降った木葉が、哭【な】き叫ぶ風に狂い舞った。先の女妖【にょよう】に結い紐を断ち切られた飛白の髪が、ばらばらと零れて風と踊る。その眼前にさっと翳された少年の袖も、また風を受けてばたばたとはためいていた。
 まだ地に数多蠢いていた塊たちが、慌てたようにごろごろと二人を離れ、我先に樹の根元へと群【むらが】った。ぼこぼこと土に穴が開き、彼らは細い足の先からにゅうと吸い込まれるようにして、地の中へと還ってゆく。
 さざめくように響いていた妖かしたちの囁きが消え、急にまた――辺りに静寂が降り。
 そして、風も止まる。
「…ふん。勿体つけやがって。やっと出て来る気になったか、轆轤首【ろくろくび】」
 凛とした少年の声が…飛白の耳には、まるで水の中のようにくぐもって聞こえた。






 何もかもが止まっている。そう感じる。
 ――ほおお、気付いていたのかえ。
 ――ぐははぁっ。お前ェ、なかなか勘が良いなァ。
 静まり返った木々の中で、男と女の声が交互に降った。
 一瞬の猛【たけ】りが去った後の森は、深沈【しんちん】として流れのないまるで海の中のようだ。淡い蒼光【そうこう】がどこからともなく流れ込み、間隙【かんげき】を満たし…打って変わった風景は、明【あけ】のごとく明るい。だが、まだ夜明けには早すぎる刻だ。
 しゃがみこんだまま茫洋と目を見開いていた飛白の視界に、つ、と刀の鞘が降りてくる。何を恐れる事があるのか、けれど顔を上げるのがひどく恐ろしい。それでもゆっくりと上向けた瞳が、前を向いたままの少年の背に流れる髪を、一瞬銀糸と見紛【みまご】うた。はっと息を呑んで瞬【まばた】きをする。けれど、もう一度目を開いてみれば、やはり彼の髪は鴉羽だった。ただ少し、蒼い弱光を浴びて色を変えていただけだ。
 突き出された短刀が、もどかしげにぐいと揺れる。斜【はす】後ろから眺める少年は、やはり前を見据えたままで表情が読み取れない。
 拒むか、拒むまいか。僅かな躊躇いが頭を擡【もた】げたが、飛白はすぐに後者を選んだ。ゆっくりと手を伸ばし、包むようにして短刀を受け取る。飛白の冷えた掌に、残っていた少年の体温がふわりと伝わった。
(聞き違いだわ)
 さっき…女の声が言ったこと。覚えている。…でも覚えていない。そうしたいと望んでいるのは自分だと、飛白の中の誰かぽつり、囁く。
(聞き違いだわ)
 何を疑うことがあるというのか。
 初めて少年を見た時…背後から忍んで、振り上げた自分の短刀が奇妙に軽かった。ばっと飛び退いた闇紅色と、閃いた刃。頭の髄まで熱が昇っていたあの瞬間、振り返った彼の瞳と目が合って…思わず腕が固まったのを覚えている。恐怖、怒り、悲しみ…そのどれでもない、深くて複雑で、胸が締め付けられるような色をしていた。箱に満たされた養土の中で育ってきた自分には、決して解き明かせない。細い琴糸【きんし】を、幾重にも幾重にも絡めたような…繊細で哀しい、彼の色。
 ――それだけで十分だ。…疑う方がどうかしている。
 現に今、この手を温【ぬく】めたのは彼だ。温もりも、悲しみも、そして優しさももっている彼の生い立ちが、どうであろうとそんな事は関係がない。信じている。だのに。
 どうして、この手は震えるのだろう。
 鞘を握り締めた手は、もう凍るように冷たくなっている。かたかたと、震えている。
(信じているのに)
「来るぜ」
 少年の低い呟きに、飛白は弾かれた様に顔を上げた。その気配を捉えた少年がふんと小さく鼻を鳴らす。怖気づいたかよと言う声が、聞こえた気がした。
 佇立【ちょりつ】する木々の、森の天井に絡めあう籠のような枝。そこに数多【あまた】取りついているの木の葉の集まりは、まるでその一片ひとひらが黒蝶であるかのようだ。ちらとも動かない。蛇が地をしゅるしゅると這うような耳障りな絹音だけが、段々と大きくなって耳朶を撫でる。
 洩れる光が一際強く浮かび上がった一角【ひとすみ】で、蝶の幾匹かが突然ぱさりと舞い散った。
 そして突き出てきたのは――女の頭【かしら】。そしてその後に続く、蛇のように長く白い項【うなじ】。
 女の顔が、にったりと笑う。
『初だねえ…犬夜叉』


 …聞き違いだわ…。






『へえエ、おいお前よお。半妖は時々ただの人間になっちまうたア、本当だったなあ?』
 言いながら、また少し離れたところにぬっと出てきたのは、今度は男の頭だ。えらが張った凹凸の激しい顔に、ぎょろりと大きな白目がちの目が二つ、皮を強引に引ん剥くようにしてついている。分厚い唇が頬の中ほどまで裂けていて、それは女も同じこと。
 どちらも、笑った唇の間から真っ暗な穴が覗いている。
 …歯は、ない。
『こいつ、人臭え』
 そう言ってぐはあ、と笑った男の口から黄色い煙が噴き溢れた。臭気が途端、鼻を刺す。袖で鼻を押えた少年が、てめえの方がよっぽど臭いぜ、と悪態を吐いた。
『言うなあ。しかも人間の女なんぞ連れちまってよお、流石は合【あい】の子だぜ。薦【こも】でも被って二人で寝たかあ?』
 …下賎【げせん】な揶揄。ひっひっひ、と長い首を揺らして嗤う男の言葉に、少年の肩がぴくりと揺れる。
「その人間の血肉喰らって生きるしかねえお前らは、じゃあ何だ。塵溜【ごみた】めか?へっ、その臭いも似合いだぜ」
 吐き棄てる様に言った少年の言葉に、今度は男の首が怒りを顕わにする番だった。飛び出た双眸を更に見開いて、額の青筋をぴくぴくとさせる。その横で、また新しく飛び出してきた長首の女が、ほっほと馬鹿にしたように笑った。
 別の首。だがさっきからいる女の首と、同じ顔をしている。
 ――言うじゃないの。
 ――言うじゃねえか。
 同じ男の声と同じ女の声、それが幾重にも共鳴して森全体に響き渡った。細波【さざなみ】のように空気が揺れ、またあちらこちらで黒蝶が散る。ざっざっと音を立てて突き出てくる。
 首、首、首――。
 枝々が人の頭の形をした実を生【な】らせる様を、時を縮めて見ているかのようだ。
「…おい女。立てるか」
 けたけたと男女の嗤いが響く中、少年が前を見据えたまま徐【おもむろ】に腰を屈【かが】めた。その動きに合わせて無数の頭も少し顔の角度を下げる。それをぐるりと眺め回しながら睨み付け、少年は低く押し殺した声で飛白に言った。
「こいつらは俺がどうにかする。お前は隙を見て走れ。いいか。左手に走れ――全速力だ。」
 結局この化けものたちの狙いは、少年だったのだ。
 たかが人間二人にここまで回りくどい事をする筈がない…娘の元に戻る前に、どうしてそれに気がつかなかったのかと、少年は自らに舌を打ちたい気分だった。が、今はそんな事をする余裕すら与えられてはいないらしい。敵の頭数【あたまかず】だけがやたらと増えてゆく。
(…いや)
 ――恐らく元は二体…いや、一体。
 嬉々とした表情で次々と現れる男女の首、それを瞳だけで眺め回し、少年はすっと目を眇【すが】める。同じ顔…女の顔はみな同じ、男もそうだ。
 本体を見つけられれば、何とかなるかもしれない。
「分かったな。後ろを振り向くんじゃねえぞ」
『おい坊主ゥ』
 おい坊主ゥ、おい坊主ゥ、おい坊主ゥ、と乾いた声が協和する。笑い声がぴたりと止んだ。
『喰わせろおおおぉ…!』
 数多【あまた】の目がめらっと蒼色に点【とも】る。途端、木の葉が雨のように降り注ぎ、狂騒が沸き起こった。いきなり暴れ出した首の重さに耐えかねて、あちらで、こちらで、太い枝がばきばきと折れる。きいいいいい、と針のように甲高【かんだか】く哭いたのは、誤って仲間に突き飛ばされた女の首だろうか。…ただの夜鷹だろうか。
 ――喰わせろおおおお
 そう口々に叫びながら一斉に伸びる、首。
 唇が大きく裂け、歯のない口から黄色い瘴気を吐き、互いを突き飛ばし合って物の怪は少年の下【もと】へ群【むらが】った。
 微動だにしなかった少年の身体が、構えるようにすっと撓【たわ】む。
(目星はついた)
 轆轤首はもともとが人間だ。それが怨念の余りに首を伸ばし、のみならず人を喰らうようになって妖怪になる。男女共にこうしているのを見るに、恐らくは戦火を逃れて森に入り、結局野党かなにかに殺されて尽きた夫婦のなれの果てだろう。ならば、こうして二人を誘【おび】き寄せたのは…きっと二人を嬲【なぶ】る為だけではない筈だと、少年は頭の中で考える。
 二人に来させたかったのではない。
 ――自分達が、行けなかったのだ。そうだとしたら。
「左だ、早くしろ!」
 叫びながら、目の前に迫った一つを殴り飛ばす。大した妖力のない種族――火鼠の衣で払われた女の顔が、じゅっと音を立てて半分爛【ただ】れ落ちた。
 人の恨みは時として、樹に宿る。人間としての最期を、やつらが木の根の褥【しとね】で迎えたのだとすれば。
 二人の首の本体は…その血を吸い上げた樹。
(この身体でも何とかなる)
 鞭のようにしなって絡まってきた男の首を、素手で二つに引き千切りながら少年はすばやく闇に目を走らせる。怨みを吸った樹…黒ずんで太く、表面が生き物のようにうねった妖木が目に浮かぶようだ。
(どこだ)
 だが今の状態のままでは、それを明かしようもない。いまだ動けないでいるらしい娘の上で庇う様に緋袖を閃かせ、少年は奥歯を噛んだ。か弱く細い命を見棄てることなど、頭では思っても実際に出来る筈がなかったのだ。
 動けるうちに…まだ体力が残っているうちに、ここを抜け出し本体を探して、そこまでやらねば後が続かない。今男の顎を張り飛ばした右腕には、既に鈍い痛みが走り出している。
「邪魔だっ!」
 背後から飛んできた女の首を払い、前に回りこんだ二つを殴り飛ばす。下手な毒や牙を持っていないだけ良かったが、如何せん数が多く…挙句よく見れば、千切れた首の先からはびくびくと新しい頭が生えてきていた。血ではない、何かどろりとしたものを弾かせながら、今まさに、さっき捻【ねじ】り切ったはずの一本が再生しかけている。それに目をとられているうちに、足許を這うようにして襲ってきた男の頭で横殴りにされ、少年はぐっと息を詰らせた。刀で穿たれた傷が、また開きかけている。
(埒【らち】が明かねえ…っ!)
 少年が心で叫びを上げた、その時。
 …飛白がふっと身動ぎし、顔を上げた。
(気付いたか)
 目の前に迫る敵に手をとられたまま、背中に感じた気配だけで辛うじて飛白の動作をなぞる。そして娘がちゃんと立ち上がったのを感覚の隅に感じ取り、少年はよしと内心で安堵した。
 これで飛白が左を向いて走り出せば、負担が軽くなる。首は決して追うまい…何しろやつらの根っこはつながっているのだ、追いたくてもこれ以上は追えないはず。そうでなくとも、目の前に旨い獲物がいるというのに、わざわざ逃げ出した女一人を追って二人とも逃すような真似はしないだろう。
 彼は身を躱【かわ】して駆け抜けるだけでいい、幸いにも敵の動きは大して俊敏でないから、そう難しくはないはずだ。それにさっきから、微量ではあるものの奴らの本体の匂いを感じ始めている。
 ――飛白が立ち上がった。
 それを横目で確認して、脚のばねを縮める。首の隙間を見定める、そして――。

 だが次の瞬間に少年が感じたのは、自分の足が地を蹴る衝撃ではなかった。
 冷たい感触と…そして一瞬後に激痛が走る。
(な…)

 振り返った双眸には、飛白の姿が映っていた。
 飛白が血に赤く濡れた刀を握り締め、もう一度振り翳すさまを、少年は半転する視界の中で呆然と見詰める。
 頬が、血を落としたように真っ青だ。
 …なぜかそんなことを考えていた。







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