初ごころ
Ui  Gokoro

5



 少年の身体が急に目の前から消え、空を噛んだ女の首が悔しそうに大きく撓【しな】る。
そのまま勢いよく首を捻って、今度こそと伸び上がったところで、女はふと、地に倒れ臥した少年が先から全く動いていないことに気が付いた。
 不思議そうにくねくねと幾度か揺れる。そのまますうと少年の間近に顔を寄せた女の唇から、ああれまあと呟きが洩れた。
『あんたァ、この女、坊主を殺しちまったよ』
 しばし流れる沈黙。ざわざわという葉擦れの音が聞こえたが、その中に彼女が期待した夫の返事はなかった。
『ねえあんた』
 もう一度少し大きく言ってくいと首を上げる。すると意外にも、夫は彼女のすぐ側にいた。――が、どうも返事を出来る状態ではなかったらしい。
 夫の頭が三つほど、絡まり合って解けなくなったまま、奇妙なうねり方をして必死に互いを引き離そうともがいている。その脇では、まだ再生途中の首が、びきびきと揺れながらそれでもなんとか返事をしようと、まだ肉に半分埋もれたままの口をぱくぱくと動かしていた。他も枝に串刺しにされていたり、目を潰されてふらふらしていたりと、同じ様なものだ。
 女はそれを一瞥してちっと舌を打つと、乱れきった丸髷【まるまげ】をひょいと揺らし、もう一度少年の肩口に顔を近付けた。残りの女の頭も、合わせたようにするすると寄ってくる。
 鼻先でついと少年の顔を押したその中の一つが、驚いた様に目を開いた。
『駄目だね。こいつ、死んじまってる』
『おいおい、そりゃあ、本当か』
 ようやっと再生を終えた男の頭が、まだ少し見えにくい目を瞬【しばた】かせつつ、女のそばに寄ってくる。そして同じ様に少年の顔を覗き込み、目を見開いた。
『何てえこった、こいつあただの屍【かばね】だ。殺しちまっちゃあ意味がねエじゃねえか。…おいお前。殺したのはお前か』
 そう言って男は自分の妻の顔をぎろっと見る。が、もっと鋭い目で睨み返されて、すぐにたじたじと後ろに引き下がってしまった。
『あんた。あたしゃさっきちゃんと言ったよ』
 女が目を眇める。そしてそのまますっと視線を横に滑らせ、刀を握り締めた格好のまま腰を抜かして座り込んでいる娘を睨みつけた。
『殺しちまったのはこいつだえ。人間の女…あのまま逃げちまえば、見逃してやろうと思ってたのにさ』
『ありゃま、本当だ。こいつの刀ぁ、坊主の血で真っ赤じゃねえか。…へえ』
 目尻が紅色に切れ上がった女の目。魚のようにぎょろぎょろと飛び出した男の目。数多の目に一気に曝され、哀れな娘はひっと息を呑みこんだ。が、握り締めている短刀と少年を交互に眺めると、覚悟を決めたように細い声を絞り出す。
「お、お前たち…っ。殺したければ、わたしを殺すがいい。死んでも構わないと思って、ここに来たのだから」
 飛白の小袖は、血紅に染まっていた。藍と白の大きな格子柄に、赫い飛沫【ひまつ】が散る。これは仇をとった証だと――父と母に明かすための。
『お前、莫迦言うんじゃないよ!』
 女の首がかっと目を見開かれる。その眦が紅く燃えて、木の葉がざわりと揺れた。唇を醜く歪めずるずると空を這って、女は飛白に向かって噛み付かんばかりに顔を寄せた。
『いいかい。あたしたちゃあねえ、この坊主の肉が、喰らいたかったんだ。生きたままの血肉をだよ!それをお前、こんな屍にしちまって。これじゃあ只の塵【ごみ】と同じだ、何の役にも立ちゃあしない。まったく、小娘が…こんな事をしてくれるぐらいなら、とっとと食い殺しちまっとけば良かった』
 唾を撒き散らさんばかりの剣幕である。どうやら、半妖の稀なる肉も鮮度が大切なようだった。死んで骸【むくろ】になってしまえば、自分たちにとって人のそれも半妖のそれも変わらない、と女は怒り狂う。きいきいと叫びを上げながら、目の前で震える娘を喰らう事も忘れ、悔しそうに身を攀【よ】じっていた。
『まあまあお前。小娘の肉だって、そうそう喰えるものじゃなかろうて。大体、死んじまった物あ仕方ねえ。この女、要らないなら俺が貰うぞ』
『ああ勝手におし!あたしゃ、女の肉なんて嫌いだよ。乳臭いったらないじゃないか。それにしたって、あんな珍物を目の前で逃すなんて、ああ忌々しい!』
 ぎっと女に睨み据えられて、飛白は心底震え上がる。膝の上に握り締めた刀が、かたかたと震えていた。妻の了解を得て嬉しそうな男の顔が、三つ四つ、五つ。にたり、にたりと笑った。
『へーええ、可愛いねえ。震えっちまってるじゃねえか』
 横でふんと顔を鳴らす女を他所【よそ】に、男は焦らすように飛白の上をくるくると回る。そして、ますます蒼褪めてゆく娘の顔をたまらないといった風に眺め、ひっひっと下品に笑った。
『ふん、下らない。あたしゃもう行くよ。あんたはその小娘と好きなだけ遊んでおいで』
 妖怪の心にも、嫉妬の心があるのだろうか。
 するすると縮まって、枝の中へと消えてゆく女を眺めながら、飛白はちらりとそんな事を考えた。歓びと怒りと欲望と…そんな単純なものしか持たないと思っていたけれど、本当は違うのかもしれない。
 だが、もうそんな事はどうでも良かった。
(殺してしまったのだわ)
 怒りと憎しみで熱くなっていた頭の中が、今は氷のように冷たい。乾いた少年の血で、顔の肌が少し攣【つ】れていた。
(殺してしまったのだわ)
 掌に伝わる、ぬめりとした感触。温かかった筈の少年の血が、こんなにも冷えた感覚を呼び起こすだなんて。
 …心が鉛のように重い。しゅうしゅうと音を立てながら、まだ自分を眺めている男の視線を感じながら、飛白は自分の中の恐怖が段々と遠退いてゆくさまをただ視【み】ていた。
(もう、どうでもいい)
 自分はどうなってしまうのだろうか。喰われて、死んで、その後は。父と母に会えるのだろうか。それとも…。
(いえ、きっと地獄に堕ちるのだわ)
 少年の渋面が目に浮かぶ。
 あの時――少年は、確かに自分を助けてくれた。眉を顰めて、さも鬱陶しそうな口振りで…それでも自分を助けてくれたのだ、あの温かい手で。
 憎しみは、もうなかった。数え切れない男の顔の向こうに、力なく横たわる少年が垣間見える。
(もう、いい)
 考えたくない。自分が何をしたのかも…されたのかも。これからどうなるのかも、考えたくなかった。ただ、早く死んでしまえればとそう思う。これ以上こうして何かを考えるのは辛くて、気が狂いそうになるだけだから。

 願ってもいないのに、朝は来ていた。
 ふっと顔を上げると、小さく見える森の天井からゆっくりと白む空が見えた。気付けば肌寒さも消え、しっとりと濡れた下土が心地良くすら感じられる。短刀を握り締めていた掌を解き、枯れた木の葉の幾枚かに指を重ねると、沁み込んでいた露が手にこびり付いた血を静かに漱【すす】いだ。
 ぎぎぎ、という異質な音が響いて、飛白は顔を上げる。
 男の頬が鋭く裂け始めていて、その中にある黒い穴がよく視えた。幾つも、無数に。けれどその背後にすら目映い陽光は差していて、何か…幻の中にでも、いるかのよう。
 全てが夢であったなら、どんなにかいいのに。
『小娘エ、喰わせてもらうぜええ』
 光の影で、向かってくる男の顔全体が黒い。涎のようなものが男の分厚い唇から滴り、落ちた地を擂り鉢状に溶かした。互いに擦【こす】れ合って、男の筋肉質な首が嫌なぎしぎし音を立てる。間近だった。
 飛白の胸に、最期の覚悟が決まる。
「…ごめんなさい」
 もういない少年に、誰か伝えて。きっと彼はわたしの逝く先にはいない。だから、誰か。
 何もかもが、終わる――。

 だが、飛白に、最期の衝撃は訪れなかった。



 走ったのは白雪【はくせつ】。
 ――緋【あけ】の色。
 そして銀色の閃き。
(妖怪…だわ…!)
 それは人ではなかった。森の天井から零れ落ちる金粉を受け、彼の髪は新雪のように白く輝く。いや、生まれたての真珠のようだったかもしれない。
 その片腕を一振り薙いだだけで、男の首の半分は砕け散った。まるで、子供が土塊でも壊すような容易【たやす】さだ。男の首がぐああああ、と絶叫する。
『坊主、てめえ生きて…』
「ふん」
 ぱきり、と鳴らした少年の指先には、まるで鷹のように鋭い爪。それが、敵を前にして一層鋭く尖り始める。軋むような音がした。
「てめえらみてえな雑魚とは」
 ――ぴしっ…
「…端【はな】から出来が違う」
『なんだと…!』
 男の額が怒りと戦慄にびくびくと震える。只でさえ悪い顔色を一層黒ずませ、男の妖怪は残った首全てを極限まで伸び上がらせた。込めた力と共に、首が一回り太くなる。そのまま素早く少年の周りに垣根を作ったのは、恐らく逃げ場を封じてのつもりであろう。籠の鳥を甚振【いたぶ】るように、少年を閉じ込めて食い殺さんと男は狙いを定める。
 思わず駆け寄ろうとした飛白が、その垣根に弾き飛ばされて、近くの木の根に強【したた】か腰を打ち付けた。
「へえ。てめえまだ、俺を諦めちゃいねえのか。尻尾捲いて逃げりゃ、殺されずに済むのによ」
 低い、凛とした少年の声が響く。それは、がしがしと五月蝿い妖怪の歯噛みを抜けて、真っ直ぐに空気を突き通った。
「失せろ。てめえは目障りだ」

 それは、一瞬だった。
 飛白の目の前で、男の身体が粉々に砕ける。破片は舞い上がって細かい塵となり、男は断末魔の叫声もなく消えていった。…掻き消された。
 赫っぽい鈍色【にびいろ】に変じた残り滓だけが、さらさらと空気に溶けて森の奥へと流されてゆく。そこには、さっきまでいた筈の狂猛な男の面影は、皆無だった。ただ虚しいほどにあっさりと、それは失せる。まるで初めから、何もなかったかのように。






 ――どうして妖怪は、みんな悪いひとたちばかりなの?追われるばかりなの?
 ――それはね、飛白…
 幼い時に、母に尋ねた事がある。鬼退治の話を聞いて、ふと感じた疑問だった。昔々の御伽噺【おとぎばなし】の後に「ねえどうして」と尋ねたくなる…子供なら良くあるそんな素朴な。むやみやたらに刀で突かれ、地に這い蹲【つくば】らされている鬼たちの絵巻に、飛白は幼い同情を抱いていた。
 仄暗い室内に、灯台【とうだい】の小さな明りだけが揺れる。油から燃え上がる炎は薄く黄橙に透けていて、時折ひらひらと煽られる様が、まるで踊っているかのようだった。
 照らし出された母の頬は温かく、表情も柔らかい。
 母の膝に頭を載せ、視界の端を零れた自分の削ぎ髪に彩られながら、飛白は目の前に広がる菖蒲色の打掛けを幼い掌でそろそろと撫でる。意外に肌触りのしっかりした絹が、肌をを心地良く刺激した。
 その格好のまま、半ば落ちかけた微睡みから無理矢理瞼を持ち上げ、飛白は母の言葉に耳を傾ける。優しい、母の声。
 …別段答えを期待していた訳ではなかった。ただちょっと聞いてみた、それだけだった。答えて貰えなくても追及する気はなかったし、大体そこまでの思い入れもない。ほんの、気紛れに。
 だのに…何故かその後、その時母が答えた言葉だけが、いつまでも飛白の胸に残る。
 ――鬼には、角がついているでしょう。牙もあるでしょう。人には無いもの、あれは妖怪たちが負っている罪の数なのですよ。昔人だった時に、悪い事をした。だから妖怪たちはあんな風になってしまったの。

 ――本当は、可哀相な者たちなのかも知れないわ…

 その後、自分が何と答えたかは覚えていない。罪の意味が分からない、などと言って母を苦笑させたような気もする。
 ――罪の数
 母はそう言っていた。そして、彼らはそれを贖【あがな】い続けなければならぬ、と。
幼かった自分の声が、頭に響く。
(だとしたら、この少年の罪は何なのだろう)
 彼もまた、何かの罪を負って生きる者なのだろうか。
 それとも、そんなことは全くの出鱈目なのだろうか。…そうであって欲しい。

 朝の光は、零れるほどに清【さや】かな輝きを増していた。森の塵がそれを受け、まるで玻璃の欠片のようにきらきらと煌めく。妖かしの失せた空間はぽっかりと静かで、どこか無気力な感じすら漂い……緩やかな風だけがただ揺ら揺らとたゆとうて、黙然【もくねん】の中に向き合う二人を柔らかく包み込んでいた。
「…悪かったな」
 ぽつりと少年が呟く。独り言のようなその言葉が、そっと地に落ちて枯葉の褥に吸い込まれた。さっき男の化けものに突き飛ばされてから座り込んだままだった飛白が、ぼんやりと樹に背を凭せたまま小さく、うん、と頷く。木漏れ日がその頬の上でころころと転った。言葉は出てこない。
「俺は…」
 少年がゆっくりと振り向けば、絹糸のように、さらりと撓る白銀の髪。光が細かく砕けてゆく。
(金色の目…)
 犬の、耳。
 ――犬夜叉…
 これが彼の罪の具現なら、どうしてこんなにも美しいのだろう。鮮やかな色をしているのだろう。昨日、鎧と刀の合間から見た少年の姿と、どうしても一【いつ】には重ならない。哀しそうな目。
「父さまは…あなたの血が母さまの病に良く効くのだと、言っていたわ」
 乾いた唇から、零れる言葉もまだ乾いている。何を言ったらいいのか、分からなかった。ただ、側めた睫毛の間から、夢絵のように儚い少年の立ち姿を眺める。
「…空言【そらごと】だ」
 少年は、吐き出すようにそう言った。眉間を刻み、くっと歯を噛み締めて。そして逸らされた視線に、飛白の胸をがひどく刺される。
「陶沖が…父さまの家臣が、そう言っていたのだって――。ねえ」
 ゆっくりと立ち上がった飛白の髪に、枝葉からまろげ落ちた光の玉がぱらぱらと降りかかった。気温も暖かい、もうすぐ盛りになる春の日の…凍解【いてどけ】の朝。
「父さまは…騙されていたのかしら」
 陶沖の喜色に満ちた瞳が、今になってようやっと飛白の頭に浮かぶ。奴が父の後釜を狙っているだなんて、只の噂だと思っていた。わざと父を危険な目に曝し、まあ上手く死ねば儲けものだと。それが実に思い通りに運んで、今頃陶沖は笑っているだろうか。
 ――馬鹿な親、馬鹿な娘…そう嘲【あざけ】って、笑っているだろうか。
(父さま…)
 ――母さま。
「…そうだろうな」
 肯【がえ】んずる少年の言葉に、飛白の胸がぴしりと音を立てる。そうか、騙されていたのか――そう分かっても、今の自分にはどうすることも出来ない。ただもう悔しさをも感じないほどに、心が擦り切れ草臥【くたび】れている。
「ごめんなさい」
 涙が頬を伝い落ちる。乾いた自分の一体どこからこんな潤いが滲むのだろうと、飛白は少し驚いた。
「…ごめんなさい」
 はらはらと…零れて、それを振り見た少年の顔もまた、悲しげに歪む。いや、涙の所為でそう見えただけかもしれない。
「気にしてねえよ、別に」
 風が流れて行った。樹のさざめきが、淀みを揺さぶって浄化する。見上げれば高い森の腕【かいな】が、翠の袖を何処までも広げていた。生きているのだと、飛白はふと思う。生きている…生き残っている。ひとりだけ。
 ――ひとり?
「あなたは、これからどうするの」
 歩み寄る足許の葉が、かさ、かさ、と小さく鳴いた。二人の影がついと触れ、お互いの顔を間近に見る。光を後ろにした彼の瞳は、純金というより、鼈甲【べっこう】のような柔らかな金茶だ。一筋流れた白い遊び髪が、朝風に透【す】けて透明に光る。黙って逸らされた少年の横顔にすら、目を囚われて離せなかった。
「俺が何処に行こうと勝手だ。てめえはてめえで好きにしろ、昼間は人の世界なんだから」
 素気なくそう言って、少年は飛白に背を向ける。緋色の袖が翻って、目に灼き付く。後ろから見ればますます、その存在が変化【へんげ】なのだと思い知らされた。真紅と白の彩りが、まるでこの世のものではない。
(でも)
 彼は、人だ。人ならずして、人のそれより繊【せん】な心を持っている、壊れものの如く。
(ひとりなんていや)
 母も父も失って、屋敷も帰るべき所もない。慕うものも、添うものもいない。人の住まう閻浮【えぶ】の世から、遠く切り離されたも同じだ。今更…どこでどうして、生きる宛【あて】もないのだから。
 だから。
「わたしを…」

 連れて…



 だが残酷にも、運命は時として音もなく、命の花を手折る。
 飛白の胸を、突然何かが貫いた。目を見開き、少年に向けて手を差し伸べた格好のまま、飛白の身体がぐらりと横に傾ぐ。その後を追うように、黒い髪が扇を描いた。
『坊主う…お前、よくもあの人を殺したね――』
 二人の間にすると下がってきたのは、女の首。はっと息を呑んだ少年の顔を見て、薄く笑う。
 死ぬがいい、死ぬがいいさとぶつぶつ言って、女は振り乱した髪の隙間から蒼い眼【まなこ】をめらりめらりと燃やした。憔悴し切った女の頬、解【ほつ】れ髪。伴侶を失った悲しみと怒りがこの妖女にも訪れたのかもしれない。もう疾うに失った筈の心が、今より一層狂わされて女の中に燃えている。
 それも…愛の形なのだろうか。歪んではいても。
『死ね…お前も娘も喰【くろ】うてやる、喰うて…!』
「失せろ、化けもの」
 飛白の声が、梢の中に鋭く響いた。
 胸がひどく痛い。生温かいものまで着物の内を濡らしている。それなのに…まるで何かに繰【く】られるようにして、飛白は手にした白刃を振り上げていた。確かな弾力が両の手に伝わり、途端女の首が嬌声を上げる。それは少年を手にかけたときを思い出させたが、飛白はほんの少し眉を顰めただけでその手に込めた力を緩める事はしなかった。
 ――不思議な感覚だった。自分の何処に、それだけの力が残っていたのだろう。ただ、もう二度と目の前の少年を傷つけたくないと…そう思っていた。腕の下で、女の首がびくんと撓る。
『おのれ…』
 けれど、その言葉を最後に女は消えた。粉々に砕けた塵の向こうに少年の顔が視え、次いでくるりと回った視界の中で、飛白はその背に抱きとめられる感覚を感じていた。温かい何か。それに躊躇いもなく身を沈ませ、飛白はようやく力を抜いて……深々と、息を、吐く。
(よかった、連れて行ってくれるのね)
 どこか消えゆく霞の中で、飛白は随分と久方に感じる安堵に、心地良く全てを委ねた。

 そして永遠に――瞼を閉じる。
 


 腕の中に横たわるものは、もう冷たくて動かない。人の身体はどうして…死んだ後にもその形象を留【とど】めるのだろう。まるで意味がない、過ぎ去った現世【うつしよ】に思い出を残しても何も変わりはしないのに。
 妖怪は…死ねば灰と消えるのみ。何も残らない。けれどその方がどんなにかいいと少年は思う。逝く者にとっても、存【ながら】える者にとっても。
(これだから、人なんて生き物は下らねえ)
 自分がいつか死ぬ時には、風に紛れて一瞬のうちに消え去りたい。未練など、残す相手もいないのだから。

 間近に見る娘の顔は、まるで眠っているかのようだった。木の葉に梳かれた光の筋が、軽やかな陰影をその頬に落としている。ちらちら、ちらちら。
 …別に特たる思い入れもない。行きずりに出会った一人の娘が、妖怪の森に迷い込んだ挙句に喰われて命を落とした――それだけのことだ。
(てめえが一番憎んでいた相手じゃねえか)
 その憎き仇の腕に抱かれて、娘は永久【とわ】の眠りに落ちた。それがどうして、こんなにも辛い。
 ――ただ…ただ、この女は俺を真っ直ぐに見ていた。
 真っ直ぐに…異形の姿を、曝した後ですら。
(ちくしょう)
 不甲斐無い。
 結局娘を助け切れなかったことも、そしてその死に動揺していることもだ。こんな事なら初めから、西国へなど足を向けるのではなかった。…出会うのではなかった。

 ――ねえ…

 緩やかに舞う朝の風が、ふと少年の耳に囁いた。擽【くすぐ】るようなその声にはっと目を上げた少年は、目の前にぼんやりと漂う白い影に気付いて眉を顰める。そして顔を逸らし、吐き棄てる様に小さく言った。
「消えろ…お前は死んだんだ」

 ――わかってるわ…ただ

 冷たくなった娘の髪が、さらさらと揺れる。ありがとう、と、その唇が動いたような気がした。白い影が、戯れるように幾度か少年の前を回るそのさまは、若い娘が両手を広げてくるりとこちらを振り向くのに良く似ていた。…いても立ってもいられなくて、少年は深く胸を抉る何かを拳で強く押える。
「逝けよ」
 早く、逝ってくれ。
 ――願っていた。…どうせこの娘は生き返りはしない。解っていながらその影を見詰めるなんて、蛇の生殺しだ。
 思い出したくもない人恋しさと、それを得るすら許されない孤独の生まれ。辿ってゆかねばならぬ道は、決して誰とも交わらない。解っているんだ。
 だから、辛くなる前に…心の奥に埋【うず】めていたものを、思い出してしまう前に。
 もう、消えてくれ。
 頼むから…。

 そして少年の願いどおり、もう娘の声が聞こえる事はなかった。ただ暖かな春風と…金色の光が舞っている。
 固く閉ざされた娘の瞼に、少年の白い髪が一筋落ちた。
「逝けよ…」
 …呟く。






 穏やかな春の日だった。峠を抜けた山間【やまあい】の小径は、瑞々しい若草の草いきれに満ちている。空はどこまでも青く澄み渡り、朝露を含んで濡れた空気の向こうでより一層その透明度を増していた。
 その碧落【へきらく】の空をぼんやりと眺め上げながら、旅の道中である若い男は一人感嘆の吐息を吐く。ここ数日の間に次々と男を襲ってきた喧騒が、こうしているとまるで遠い世に視た作り物の記憶のであったかにすら思えてきた。
(ええ天気だなあ)
 男は昨日、自らの仕事をいきなり失ってしまった。
 僻村の出自である彼が、ようやっと見つけた西国での出奉公。一ヶ月も前に来たばかりだと言うのに、もうこうして行きと同じ道を逆戻りしているのは、それもこれもみな奉公先でのお家騒動が原因だ。一晩の内に家主が替わり、前の家主もその妻と子も、みな掻き消えるように何処かに行ってしまった。家主と妻は死に、娘は気を違えて家を出たのだと聞いたが、実際はどうであったろう。
 何にせよ、元々大して肝の据わった性格ではない男にとって、それは上流の世界の闇をまざまざと垣間見、恐れをなすに十分な事件だった。
 ――こりゃあ堪らねえ。
 男はこっそりとそう呟く。
 彼には、大して美人でもないが、それなりに愛着はある年下の妻がいる。まだまだ鼻っ垂らしでどうにも情けないが、息子もいた。仕事を失えば生活に事欠く事が目に見えてはいても、それでも自分が生きていなければどうしようもない。また村に帰って細々と畑でも耕していた方ががましだと思い、男はその次の朝早々に屋敷を抜け出して来たのだった。
「ええ天気だなあ」
 もう一度、今度は声に出して言う。その声が随分と大きく響き、男は満足げに微笑して腕を組んだままゆったりと辺りを見回した。
 少し横手に茫茫と聳える森は、妖かしに満ちた冥界へのとば口であると聞く。見れば確かに黒々と不気味な形をしていたが、それも明るい日の光の元では大して恐ろしくも見えなかった。幸いに気候も良く、異形が這い出す刻限までには森の端を抜け出すことが出来るだろう。奉公勤めの堅苦しい生活にいくらか鬱屈していた男は、久方振りの爽やかな空気を思う存分楽しんでいた。
 と、山肌を滑っていた男の視線が、何やら春山に似つかわしくない色彩を捉えてぴたりと止まる。
(なんじゃあ、あらあ)
 真っ赤な鳥か。それとも季節を忘れた病葉【わくらば】の樹か。
 兎に角、見上げた山の一点が紅染みでもつけたかのように赤い。…いやそれだけではない、その赤の上半分を、まるで雪狼【ゆきおおかみ】の毛の様な白がさらさらと覆っている。遠目にもそれははっきりと見て取れた。
(ば、化けもんか)
 思わず腰が退けそうになった気弱な男は、しかし振り返って逃げ出そうとした所でふと思い直し、恐る恐る顔を前に向けてもう一度その奇異な赤を見詰め返した。
 ――緋色【あけいろ】の水干だった。
 まだ年若い少年の風体をしていて、背もそれほど高くない。樹の中枝にじっと佇んだまま、ただぼんやりと連山の春を眺めている。銀髪から覗く首筋はまだまだ華奢で頼りなく、纏う水干だけがただゆったりと揺れていて、それが余計に少年らしい痩身を際立たせていた。
(まだ子供だな)
 そう思って、男は少し胸を撫でる。どこか麗しい顔立ちをしているし、ひょっとしたら妖怪ではなく産土【うぶすな】の化身かも知れない。
 少年がふと片腕をあげた。その手には何も持っておらず、ただ空いた片手を目の前にかかげただけだ。ゆっくりとした動作と共に、水干の赤い袖もひらりと広がる。
 翳した手を透かしてもっと遠くを眺めながら、少年は何事かを小さく呟いたようだった。途端、何も持っていないように見えた指先から、絹のように細い黒髪が一房零れ落ちた。それは少年の手を離れるなりぱらぱらと空に散り、風に溶けて直ぐに男の距離からは見えなくなってしまう。
(弔【とむら】か)
 亡くなった者の遺骨や遺髪、それを川に流したり風に飛ばしたりするのは、冥土への旅立ちを見送る生き残った者の最後の仕事だ。自由になった体の一部と共に、空を漂うばかりだった死魂もまた彼【あ】の世へと緩やかに飛び立つ。通常は、生前最も親しい仲だった者がその役を執るのだが、今少年が見送っているのは一体どういう相手なのだろうか。
(おかあが死んだ時にゃ、俺が見送ったっけな)
 その頃はまだ一人身で生活も苦しく、父親の後を追うようにして死んだ母を怨めしくも思ったものだった。自分だってとっとと死んじまいたいものだと、泣き言を呟きながら母の亡き骸を燃して川に流す。そして灰で濁った水が透明に変わる頃、誰も傍らにいない川原で男は初めてさめざめと泣いた。随分と前の事だと、男は暫し感慨に浸る。
 そしてふと気がつくと、少年の姿は消えていた。
 何やら物悲しい気分になって、男はふるっと一つ頭をふる。
 ――まだまだ先は長い。
 もう一度少年の姿を見つけられないかと漂わせていた視線を、今度は真っ直ぐ前に続く道に据え、男はゆっくりとした足取りで歩き出した。
 やはり、穏やかな春の日である。

 どこかで少年もまた、春陽の照る道を歩き始めるだろう。
 たった、独りで――繋がる先の見えない道を、歩き始めるだろう。

いつか笑えるその日を、待ち望みながら。



―――少し、笑って―――






蛇足>>

<<4 完.



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