勿忘草に烟る雨 wasurenagusa ni keburu ame 1 |
霧のように、細かな水滴が立ち込める。深く沈みこんだ曇雲のもと、噎【む】せ返るほどの濃緑が迫る山間【や まあい】に、蟠【わだかま】るように群生した白い勿忘草が、あちらこちらと項垂【うなだ】れている。 草葉の微耗【びもう】に、僅【わず】かに附着する粉のような水滴は、霧に紛れた烟雨【けぶりあめ】――。 (中途半端な天気……) 小さな木枠に切り取られた空は、今日も灰白色に濁っていて快くない。かごめはそのくすんだ色合いに、鬱屈し た気分を更に押し下げられるような気がして、慌てて窓から目を逸らした。 季節は丁度春と夏の境目。妙に蒸し暑いようでいて、けれど湿り気を含んだ空気は、すっと身体を撫でる度に 冷たく肌に貼りついてくる。長雨が続く日本特有のこの季節――けれど戦国の梅雨は、現代のそれより随分と 沈んだもののように感じられた。それは戦国の世に、雨の暇を楽しむ娯楽など存在しなかったことも原因のひとつであ るだろう。兎に角も、降ったり止んだりのここ数日の天気では遠出の旅路も憚られて、かごめの退屈はより一層 深まるばかりだった。 ふぅ…、と溜息を吐いて、かごめは今にも降りだしそうな雨孕【あめはら】む空を、今度は横目にちらりと眺めやっ た。もう一度戻そうと滑る視線が、鬱陶しそうに雨を見上げる金眸の半妖に引っ掛かって止まる。彼の水干の 緋色もまた、陰鬱な空気に湿って心なしか鮮やかさを失って見えた。 天気の悪さに阻【はば】まれて、ここのところ玉探しの旅は一向に進んでいない。今も、通り掛った村の隅のあば ら屋で、一行は朝からずっと長過ぎる休息をとっている。そろそろ昼餉の刻だというのに、薄く差し込む外光は曖 昧に翳っていて、ぼんやりしていると昼だか夕だかすら分らなくなりそうだ。時間の感覚が微妙に鈍ったまま、一応 の支度を整えた旅人達のうち腰を上げる者は誰一人としていなかった。 薄く霧雨が降り出したようだ。細かな雨粒が音もなく、それでも確実な湿り気を持って、路傍を、藁葺屋 根【わらぶきやね】を、一段暗い色へと染めてゆく。 「やっぱり、今日も止【よ】した方が良いみたいだね」 膝上に蟠【わだかま】る猫又を撫でながら、珊瑚がぽつりと呟いた。その言葉に、かごめも諦めたように頷く。スカートのプリーツを軽く手で抑え、かごめは少し後退【あとず さ】って壁に背を凭【もた】せた。きしっ、と音を立てた木の壁は、湿気を吸っている所為もあろう、制服越しの背 中に意外な程の冷たさを伝えて来る。胸に結われた赤いスカーフも、今日は何処となく萎【しお】れていつもの軽や かさがなかった。 「この雨も、まだまだ強くなるかも知れませんしな」 仕方有るまい、と言った風に肩に掛けていた錫杖を下ろしながら弥勒も言う。じゃん、という金属音が、沈殿した 空気を一瞬僅【わず】かに掻き立てたが、それもまたすぐ元通りに沈んでいった。そんな凝【こご】った空気に気分 まで影響を受けてしまうのか――それともはたまたその逆か。どちらであるにしろ、この小屋の中に浮いた気分の者 など一人もいない。 突然、ぎぃっ、と音を立てて床板が僅かに軋む。続いてしゅるりと衣擦れの音がして、緋色が視界の端を下から 上に流れた。 「犬夜叉」 かごめが慌てて声をかける。鉄砕牙の鍔【つば】がかちゃりと鳴いたが、犬夜叉が振り返る気配はなかった。無 言で戸口まで歩いてゆき、出て来る、と一言だけ低く呟いてがらりと戸を引く。ふわっと湿気った空気が流れ込 み、ひんやりとした雨の匂いが小屋中に拡がった。七宝が寒気を覚えたのか、くしゅっ、と小さく鼻を鳴らした。 すたん、と引き戸が閉められる。 「雨で発てないのが、そんなに気に食わんのかのぅ」 後姿を追うようにしばし皆が沈黙する中、七宝が腑に落ちない様子で声をあげる。愛らしい茶色の眉をきゅっと顰めて、 暫く彼なりに最大限の大人びた顔で考え込んでいたが、ふと何かに気がついて不信そうな目でかごめを辿る。 「かごめ、追わんでいいのか?」 (あ、そっか…) 七宝に言われて、かごめは引き込まれかけていた思念からふと戻された。 (いけない。暗くなっちゃってる、あたし) かごめはふるふる、と心の中で頭を振って、思い立ったように立ち上がる。かごめのスカートを掴んでいた七宝が、 おわっ、と声を上げてひっくり返った。 「かごめぇ〜っ」 恨みがましそうな目で頭を摩【さす】る七宝の声に、かごめは慌てて、ご、ごめん、と膝をつく。 (駄目だわ、あたしどうかしてる) 七宝の頭を撫でてやりながらも、かごめは気付かぬうちに再度思念の淵に引きこまれてゆく。またもぼーっとして いるかごめに、七宝は頭を押さえ付けられる恰好になってじたばたした。それでも、かごめは手に力を込めてしまっ ていることにも気づかず、ぼんやりと宙に視線を漂わせていた。 と、すっと頭の重荷がなくなって、七宝はきょとんと目を上げた。 「あたし、犬夜叉を捜してくる」 いきなり一言、ため息のように言葉を吐くと、かごめはすっと立ち上がって戸口へ向かった。辛うじて隠されていた白い太腿が、 突き出るように露【あら】わになって湿気た空気を軽く弾く。 「捜すって…外は雨」 思わず引き止めようとした珊瑚は、意味ありげな弥勒の視線と打【ぶ】つかって言葉途中に口を噤【つぐ】んだ。 「…」 とんと頭に手を置かれ、珊瑚の膝の猫又がみぃ、と小さく身動【みじろ】ぎする。 「かごめ様、表の唐傘をお持ちになって下さいね。皐雨【さつきあめ】は存外身体に沁みます故」 軽い口調で掛けられた弥勒の言葉に、かごめは「うん」と小さく返事をして、がたり、と引戸に手を掛けた。表はま だ、止みもせず強まりもしない霧雨に噎【む】せ返っている。 霧雨が、空の端から段々と白く煙【けむ】ってゆく。雨粒はもう地の引力を受けないほどに細かくなって、辺りをふ やふやと浮遊するだけになった。――霧に変ったのだ。 (あーあ、これじゃ、折角持ってきた傘も意味無いわね) しっとりと身体に貼りつく制服が素肌に気持ち悪く、かごめは溜息をついて唐傘を近くの巌【いわお】に立て掛け た。ずっしりと水分を含んだ岩肌に、浅緑色の苔が薄っすらと生えている。畳まれた傘の塗りの朱が、先に出て 行ってしまった半妖の緋衣を思い出させて、かごめは軽く柳眉を曇らせた。 ああやって彼が黙り込む時は、何を考えているか直ぐに解ってしまう。それは間違いなく、失ってしまった女の面 影。追うような眼差し、軽く顰められた吊眉、微動だにしない衣のしわ。その全てが、「今は桔梗の事で頭が一杯 だ」、とかごめに思い知らせる。 (解ってはいる積りなんだけど) 下草の露がソックスに沁み込むのを感じながら、かごめはその場に暫し俯いてみる。水気でくせを戻した自分の 髪が、ぱさ、と肩口から落ちてきた。 そう、解ってはいる積りなのだ。つい先日、そのことは頭で理解したはずだった。戻るか残るかの選択肢は確かにかご めの手に在って、後者を選び取ったのもまた自分自身だったはずだ。犬夜叉の側にいたい、笑っていて欲しい――。 その為だけの存在であっても、それが自分にとっては決定的な理由であると、かごめはちゃんと理解している積り だ。 それでもやはり、頭の理解に心が追いつかない時はある。 (何か、梅雨の雨に思い出でもあるのかな…) 悔しいからといって、犬夜叉の中の思いを止めることなど出来はしない。あたしの前ではそんな顔を見せないでと、 心の中でどれだけ叫んでいようとも、それは言葉にしてはならぬ言葉だ。彼の思い出の中で、桔梗が一体どんな 顔をしているのか、それすらも自分は知り得ない。 切なそうな目、まさにその言葉がぴったりだった。金色の双眸を少し琥珀に翳らせて、犬夜叉は何処か遠くに想 いを馳せているように見えた。 (あいつがあたしをあんな目で見たことなんて、一度もないわ) やっぱり敵【かな】わないのだろうか、と思う。自分がこの浮世【うつしよ】に身を置く限り、彼は決してあんな切な い瞳で自分を見つめることはないだろう。それは果たして幸せなことなのだろうか。かごめは未だに答えが出 せないでいた。 ざり、と軽く岩を擦【こす】る音がして、かごめはふと我に返った。続いてつしゃんと下草に身を埋めた唐傘は、それ でも艶【つや】やかにひかれた油で気持ち良く水粒を弾く。それをよいしょと腰を屈めながら拾い上げると、かごめ は視界の端を掠めた色に、はっと顔を上げた。傘の水滴を叩【はた】くのも忘れて、じっと霧の向こうを凝視する。 (あれは、白い……花?) 見れば、空【くう】に蟠【わだかま】る霧の下方に、ぼんやりと白い塊りが幾つか透けて見える。霧の乳白色に溶け こんではいるが、確かに霧のそれとは別の色だ。雪のように白い、という訳ではない。どちらかと言えば控えめな、 哀しげな感じの白。 ――勿忘草。 種を撒くこともなく、水をやることもなく、それでも思い出したかのようにこの時期一斉に咲き乱れる小さな花。どこ にでも見かける質素な草花は、言ってみれば只の雑草に過ぎない。それでも、毎年毎年必ずのように小さな蕾 を擡【もた】げてくるその健気な様子が、自分の小さな存在を忘れないでと訴えているようで…いつしか人々はこ の花を「勿忘草」と呼ぶようになった。 楽しい、嬉しいという印象からは程遠いその白花は、今烟【けぶ】るような霧の中、より一層哀しげな姿でかごめ の目の前に繁っている。 霧が少し薄らいだようだ。さっきまではぼんやりと霞んで見えた勿忘草が、少しだけはっきりとその姿を現した。一枚 一枚の葉の微耗にまでびっしりと水の粒子を湛【たた】えながら、小さな花々はそれでもちらとも揺れることなく静か に佇んでいる。その儚げな様子は、先までの感傷的な気分も手伝って、少女の心をより一層締めつけた。か ごめは思わずきゅっと胸元を掴み、唇を噛む。 (あたし、こんな所で何してるんだろう…) 思えば今は昼餉時だ。自分の制服を見下ろしながら、かごめは昔在った自分の生活を思い出す。学校では、皆 が机を並べて弁当を広げている頃だろう。ぱっと教室中に満たされる食べ物の匂いは、どこか鄙【ひな】びていて 懐かしいものだ。食欲をそそるとはまた違う、暖かくて安心する匂い。 (違った…今日は土曜日だったっけ) 三日前に帰ったのが水曜日だったことを思い出して、かごめは苦笑した。そしてすぐにまた、気付いたように暗く沈ん でしまう。 (今日が何曜日なのかまで、忘れちゃってる…) そんな小さな物忘れが、今は酷く重大なことに感じられて、かごめは目の端に涙を滲ませた。普段よくある出来事 までもが、自分が皆と遠く離れているのだという事実を思い知らせるかのようで、少女の胸は押しつぶされるのだ。 (ほんと、あたしこんな所で何してるんだろ…) 馬鹿みたいだとどこかで言う自分がいたが、それでも一度零れはじめた涙は止まらない。奥歯をぎゅっと噛み締め ながら、かごめは節操のない自分の涙腺を罵った。 今日の自分は感傷的になり過ぎている。分かってはいても、自然と捌【は】け口を求めていた心の悲しみが溢れてき て、かごめは途惑った。もう泣き止むのは絶望的だ。ぼろぼろぼろっ…と流れ出す涙の塩味を唇に感じながら、か ごめはその場に蹲【うずくま】った。スカートの濃緑だけに意識を集中しながら、両腕を強く抱き込んでせめて肩の 震えを抑えようとする。 こんな惨めな自分をいつまでも感じていたくなかった。自嘲的だと感じながらも、向こうで生活していた頃の自分と 今の自分を重ね合わせてしまう。昔の自分は、こんなにも涙脆くはなかった。バスケットボールの試合で負けて大 泣きする事はあっても、下らない感傷に浸って涙することなどなかった。勿論あの頃は本当の辛さなど知らなかった からこそいつも笑っていられただけで、決して今の自分が弱くなってしまっている訳ではないけれど…。それでもこう して一人蹲【うずくま】って泣く不甲斐無さは、どうしようもなく小さな少女の心を突き刺して止まない。 (どうして……) どうして、戦国【ここ】へ来てしまったんだろう。 氾濫する胸の思いが、心の土に埋【うず】めてしまったはずの問いを引き摺りだした。思っちゃいけない、考えちゃいけない、 だってこれは答えのない問いなのに――。 口の中が苦い。思考は既に取り返しがつかない程に遠く飛んでいた。何のことはない、自分の世界の日常を何故 か今になって思い出す。 昨日の夜のドラマだとか、今流行っている歌だとか、明日観に行く映画の予定だとか。家に帰ったら直ぐ宿題をして、 次の日先生に当てられても途惑うことなどなかった。放課後は、当たり前のように友達と連れ立って帰る。早くもな い、寧ろ遅すぎるような歩調で、ゆっくりと他愛ないお喋りを楽しんでいた、あの頃。そんな小さな日常すら、今の 自分には許されていない。勿論、今でも学校には通っているし、次々と病名を変えて休む自分を心から心配して くれる友達もいる。赤点もたまには取ってしまうけれど、まだまだ取り返しはつくかもしれない。…でもそれは一体何 時まで続く夢なのだろう。 いずれはきっと、誰も自分の事など思い出さなくなってしまう。高校受験が始まるまでに、奈落を斃【たお】せる勝 算は極めて希薄だ。これからどんどんと激しさを増してゆくであろう戦いの中で、いつか自分の世界との両立が出 来なくなってしまうのは目に見えている。でも、それでも戦国【ここ】にいたいと思った…それは事実だ。後悔もして いない。 でも。 (…でも) もしもこの世に「もしも」の世界があるのなら――あなたのことを、忘れられたなら。 あたしはきっと、迷わず井戸の向こうへ戻ってゆける。 きっと――何の躊躇いもなく、元の世界へ。 (犬夜叉…) ふっ、と頭の何処かでたなびく緋色の水干を思い出した。あれは…誰だったかしら。 けれどその答えを導き出す暇【いとま】もなく、そこでかごめの意識は遮断される。カメラのシャッターを切るように、一 瞬だけかごめの視界が暗転した。 静止する頭上、白い霧がゆっくりと流れて沈んでくる。水滴が心なしか透けてきたようだ。さぁ…と微かに聞き取れる 雨粒の囁き。 それは…本格的な雨の前触れ。 ちゅん、ちゅん、と愛らしく囀【さえず】る雀の声。徒然な物思いに耽【ふけ】ったまま、もう一刻半程は過ぎたろうか。 囀【さえず】りと共に青葉を透かして差し込んできた陽光に、犬夜叉はゆらりとまどろみの淵から浮かび上がった。南中 を過ぎて傾いた太陽が、覗く青空から暖かい光で世界を満たし始めている。木の葉に千々に散らされた日光が、 幹でだらりと四肢を垂らす犬夜叉に降りかかってきた。濡れそぼった水干が、薄っすらと湯気を立てるように表面か ら乾かされてゆくのが感じられる。犬夜叉は肌と髪に滴【したた】る水を振り払うべく、一度大きく身震いをした。ざ ん、という音と共に木の葉が揺れ、驚いた雀たちがぱたぱたぱたと飛び立ってゆく。 (随分と長くこうしてたな…) そう言えば、霧のように細かかった雨が、一度本格的に降り出したような気もするが、覚えていない。けれど大粒の 水滴を湛【たた】えて重たげな木々を見れば、どうやらそれは事実のようだ。一度ぐっと身動【みじろ】ぎして、犬夜叉 はゆっくりと幹に手を掛け地に降り立った。裸の足裏【あうら】に、たっぷりと水を含んだ腐葉土がじゅくりと小気味良 い音を立てて吸いついてくる。 見上げれば、空はもう随分と明るい青になってきていた。 (戻るか…) 数日振りの晴れやかな空の色が、心の中にまで映されるのだろうか。犬夜叉は、先まで耽っていた思い出をもう一 度軽く振り返ってみる。随分と悲しい思い出だった。けれど、あれほど心に凝っていた重い気分は、昼過ぎの太陽 に当てられて昇華したかのように、もう随分と薄らいでいる。 かごめは、突然出て行った自分のことを心配しているだろうか。思えば彼女が自分を引き止めなかったのも、自分 の心の中を見透かしていたからに違いない。今は桔梗と同じ気持ちだと、犬夜叉の側にいたいと、そう言って微笑 【わら】った愛しい少女。自分はまた、彼女の笑顔を曇らせてしまった。 (泣いてねぇといいがよ…) 出掛【でが】けに背中で感じたかごめの悲しげな視線を思い出し、犬夜叉は罪悪感にちくりと胸を疼かせて、道を ゆく歩みを少し速める。 少しの勾配を急いで登り切ると、さっと目の前に景色が広がった。思わず足を止めて見遣る風景の中に、ぽつりと 佇む小さな人影を見つけて、思わず犬夜叉はびくっと肩を揺らす。浅緑の苔が薄っすらと生えた大きな岩に、軽 く体重を預けて空を見上げる少女。白いセーラーの胸元に揺れる赤は、まるで新緑を愛でる一輪の花のようだ。 かごめは、濃い緑のスカートから出た脚を軽く片足曲げ、後ろ手に朱塗りの唐傘を持ったままゆったりと岩に背を 凭せかけている。その翠【みどり】の黒髪を、まだ少し湿り気の残った遅春の風が巻き上げていった。微かな優しい 匂いが、離れた犬夜叉の鼻先を柔らかく擽【くすぐ】る。 (…かごめ) 良かった、泣いていなかった。犬夜叉は一瞬の驚きの後、ほっと胸を撫で下ろしてゆっくりと止まった歩みを再開す る。ちゅんちゅん、と、さっきは飛び去ってしまった雀が犬夜叉の近くにまで舞い降りてきた。 「かごめ」 少し離れたところから小さく呼び掛けたが、少女は気付く風がない。ぼんやりと、何処か遠くに思いを馳せているか のように、所々白を滲【にじ】ませた薄青の空を見遣【みや】っている。いや、もしかしたら、舞い降りた小鳥の唄に 耳を傾けているのかもしれない。 「かごめ!」 ぽんという擬音で表現するには少し無骨過ぎる動作で、犬夜叉がかごめの肩に手をかけて、引く。一瞬触れた白い綿布 は、陽光に晒されてなおしっとりと水気を含んで湿っていた。傘がある筈なのに如何してだろう、とちらりと思ったが、 ぱっと気付いたようにかごめが顔を振りむかせて、そんな疑問もどこか遠くに追いやられてしまった。 「なにこんなとこで突っ立ってんだよ、お前ぇ。風邪引くぞ」 振り向いて見詰めるかごめの鳶色の瞳が、揺【ゆ】らりと揺れて犬夜叉を映し出す。 『…なんだー、犬夜叉』 そんな、あっさりとした返事が脳裏を過【よぎ】る。この娘はいつだって、自分に甘すぎる言葉を掛けたりしない…少 なくとも、その甘すぎる笑顔以上には。 けれど。 「あなた…誰?」 ぱたぱたぱたっ、と存外に大きな羽音【はね】を立てて、暖かい岩上に寛【くつろ】いでいた雀たちが飛び立って行く。 (かごめ――?) ぱたっ、ぱたぱたっ、と軒先から雨の残り滓が振り落とされた。その意外に大きな音に、薄闇の中しばし微睡んでい た珊瑚が、濃い睫毛をぱちりと開ける。どれくらいうとうととしていたのだろうか。激しかった雨音は消えて、柔らかな 静寂が小屋中を満たしていた。少し室温が上がっているのは、外に光が差してきている所為だろう。目の前で錫 杖を肩にかけたまま座る法師も、どことなくぼんやりと寛【くつろ】いでいるように見えた。 「ねぇ法師様、雨はもう止んだの」 静寂を壊すのが勿体なくて、珊瑚が少し潜【ひそ】めた声を法師にむけて滑らせる。 「ええ、もう幾分も前に。珊瑚は、随分と良く眠っていましたな」 ふっと柔らかい微笑を湛えながら、有髪の法師が振り返った。弾みで肩の錫杖がちゃらりと微かに金属音を立てる。 けれどそれすらも今は、丸みのある音に響いて聞こえた。 「…そうかな。雨の音は…嫌いじゃないからさ」 正確に言えば、少し違う、と珊瑚は心の中で考える。雨の音…こうして小屋の中で、気の置けない者達と共に聞 く雨音が、珊瑚は昔から好きだった。外の激しい雨風が、逆に自分達を守っていてくれるかのようで、何処となく暖 かい気持ちになれる。 「では、止んでしまって残念でしたかな?」 少し面白そうな目をして、弥勒が尋ねてきた。珊瑚はそれを聞いて少し考え込むようにしたが、すぐにきっぱりと首を 振る。また、軒先の雨滓が零れた。 「雨が止んだ後の…こういう静かな時間も好き」 そう言って、珊瑚はつっと小さな木窓に目を遣った。ほんのりと温かい光線が、真っ直ぐに床へと流れ込んできてい る。その光の中で、小さな埃屑が無数に煌【きら】めいていた。そうですな、と小さく呟いた弥勒も、珊瑚と同じように 埃屑の反射を眺めた。 と、軽やかな足音が近付いてくるのを耳に捉えて、珊瑚がふっと顔を上げる。きっと異国の友人だろうと検討をつけ て、一瞬視線を絡み合わせた珊瑚と法師は微笑みを交わした。 きっとこれで、暫しの静かな休息はお終いになるのだろう――少し残念なような、けれど暖かい気持ちが珊瑚の胸を通 り過ぎる。 きっとこれで、いつもの――。 「ただいまっ、良かったね、雨止んだみたいよ!」 明るい声と共にかごめが飛び込んで来た。数刻前が嘘のような、清んだ光が部屋に差し込んで、珊瑚は眩しさに 僅か双眸を眇【すが】める。かごめ様は日の光が良く似合う娘御【むすめご】だと、いつか法師が言っていたが、ま ことその通りだ。 「遅かったね、かごめちゃん。心配してたんだよ」 まだ少し靄が繋【かか】った気分を振り払うように、珊瑚はゆっくりと腰を上げた。 (そう言えば、犬夜叉はどうしたんだろう) こういう場合、いつも仲良く連れ立って帰ってくる二人だ、今日だって二 人は共に帰って来たに違いない。つつっと視線をかごめの背後にずらしてみたところ、やはり。 「犬夜…」 「ちょっと、あんた!!」 半妖にも声を掛けようとした珊瑚は、いつもの自分と逆転したようなかごめの突声に思わず半ばで言葉を飲み込 んだ。傍らで肩をいからせて犬夜叉を睨みつけるかごめを見て、珊瑚は小さく肩を竦【すく】めた。どうやら、自分が 思っていた以上に、二人の雲行きは怪しいらしい。 かごめの大きな声を聞きつけて、弥勒も立ち上がってやって来た。 「なんです、二人はまだ仲直りしていないのですか?」 ひそひそと話し掛ける弥勒の方に、珊瑚も少し身を寄せな がらもう一度肩を竦めてみせる。 「…そうみたいだよ」 「あんた、まだついて来てたの?もう、あたしあんたなんか知らないってば、ついて来ないでよ馬鹿!」 きりきりと柳眉を吊り上げたかごめは、二人のそんな様子にも気付かずびしりと犬夜叉に人さし指を突き立ててい た。その潔癖な態度に、犬夜叉は思いきり困り顔だ。 (どうやら、助け舟が必要みたいですな…) 左の手でぽりりと頬を掻いた弥勒が、音もなく錫杖を二人の間に挟み入れる。突っ掛かろうと構えていたかごめは、 制されて少し不満そうにぷっと唇を尖らせたが、犬夜叉の方に向かって小さく舌を出すだけで珊瑚の側に下がった。 「で、犬夜叉。お前まだかごめ様に謝っていないのですか」 「いや、そーじゃなくってよ…」 「そうでなければ、かごめ様がこんなに怒っている訳がないでしょうが?」 「いや、だから」 何時もならここら辺りで逆切れしだす筈の犬夜叉が、今日は珍しく必死に弁解を続けている。本当に何かあったの かと、ちらりと思った時、弥勒は後ろでかごめが恐る恐る袖を引くのを感じた。振り返れば、こちらも少し困り顔の少 女がひそひそと声を潜めて何やら言いたそうにしている。 「ねぇ…」 「何です、かごめ様」 穏やかな顔で答えられて、かごめは余計に困った顔になった。その後ろでこちらを見る珊瑚の顔が、何故か少し強 張っているように見えたのは気の所為だろうか。 「あの」 「はい?」 「この人って、弥勒様の知り合い?」 ぴしりと音を立てて弥勒の顔が強張る。その様子を渋面で眺めていた半妖が、ほら言ったろ、と言わんばかりに白銀 の頭を掻き回した。先に同じ質問を投げかけられていたのだろう、既に固まっていた珊瑚が、「うそ…」と小さく呟く その声が、ぽつねんとその場に沈んで消えた。 穏やかな雨上がりの午後。一所【ひとところ】だけ凍りついた村隅の小屋に、雨に洗われた太陽が燦々【さんさん】と 静かな陽光を振り掛けている。 |
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