勿忘草に烟る雨 wasurenagusa ni keburu ame 2 |
ぱちぱちっ、と音を立てて燃え盛る薪が爆ぜる。小さく舞った火の粉が、炎の熱気に煽られて軽く立ち昇った。もう、時は亥の刻ばかりであろうか。静まり返った小屋の中に、爆ぜる薪の音が鮮やかに響く。その音と織り成すように、健やかな少女の寝息が奏でられるが、よくよく耳を清ませればどうやら寝ているのはかごめ一人だけのようだ。 「…で、どういう事なのですか、犬夜叉」 音を立てぬよう錫杖を脇の床に置いたまま、平生にない渋面をした法師が腕を組んで口を開く。弥勒はゆらりと顔を傾けて、視線を囲炉裏火から半妖へと滑らせた。炎の揺らめきに照らされた弥勒の表情は、犬夜叉の位置からは読み取ることが出来ない。 「どういうことって…そりゃぁこっちの科白だ」 ぶすっとした声音に、珊瑚がちらりと犬夜叉を見たが、直ぐに視線を落として脇で眠る猫又の背を撫でただけで、何も言わない。雲母の乳黄色の柔らかい毛流れが、珊瑚の細い指に弄【まさぐ】られて少し乱れた。二に分たれた尻の尾が、ぱたん、と小さく床を打って、また丸まる。 静かな一時。けれどそれは今日という一日の喧騒に裏打ちされたものだ。犬夜叉を追って出て行ったまま数半刻、帰ってきてみたら突如様子がおかしくなっていたかごめ。風邪を引いたのだろうか、熱でもあるのだろうか、それとも何かの弾みに軽い記憶喪失にでもなってしまったのだろうかと、様々思い巡らしたことはあれど、そのうちのどれに当て嵌めてみるにも、かごめの状態は異常過ぎた。弥勒も珊瑚も七宝も、雲母のことすらはっきりと認識しているというのに、かごめは何故か犬夜叉の事を全く覚えていない。それが意識しての事なのか、そうでないのかすら一行は掴みかねていた。その小さな記憶障害を除けば、かごめはいつもと全く変りはしなかったのだ。 「雨が止んで…見つけた時にはもうああだったんだ。俺は…何も知らねぇ」 ふと炎の向こう、明後日の方に目を向けながら、犬夜叉がぼつりと言う。炎を映して今は金朱に彩られた両眼は、彼の不安を、語らずとも無言のうちに示していた。 (やはり、犬夜叉は何も知らないか…) うろたえる彼の様子から大体は解っていたのだが、やはりこうなってしまうと質【たち】が悪い。脇に置いた錫杖を何とはなしに見遣りながら、弥勒は心中で独りごちた。実際、彼が何も知らないとなると、後はかごめの記憶に頼るしかないのだろうが…それは望めないだろう。かごめは犬夜叉の事以外、四魂の事も、奈落の事も覚えている訳で、無論このまま旅を続ける事もあるいは出来無くは無いかもしれぬが…いや、やはり無理だ。隣で水干に身を沈める半妖は、何時もの鼻っ柱の強い気概も何処へやら、無言で黙りこくって何かを考え込んでいる。 (まぁ、無理も無い) 何しろ彼は、かごめが居なければまともに戦う気力すら起きない輩なのだ。そのかごめに記憶を、しかも自分に関してのみ失われてしまったとなれば、その心中も慮【おもんぱか】られると言うものだ。彼にこれ以上問い詰めるのは酷かもしれない。 ふぅ、と小さく溜息を吐いて、弥勒はぼんやりと囲炉裏火の炎を見上げた。火の粉を舞い上げる熱気は、ゆらゆらと揺れる日中の陽炎の様に、夜の空気を揺らしながら天井の梁へと立ち昇っている。がら…っと少し大きな音を立てて、爆ぜる薪が焼けて崩れた。それに合わせて夜の陽炎もまた少し歪む。 「……」 何か、小袖の娘が呟いた。犬夜叉が突如獣耳をぴくりと動かせて顔を上げる。 「今、何て言った?」 その縋【すが】るとも脅すともつかぬ金の双眸が、黒い月爪を僅かに細めて珊瑚を見詰めた。けれどその視線からわざと目を外すように宙を見遣った珊瑚は、もう一度、今度はもう少し大きく呟きを口にする。 「……魂縛鬼【こんばっき】」 その聞きなれぬ言葉に、半妖も法師も一瞬訝しげな顔になる。それをちらりと横目に止めた珊瑚は、今度はしっかりと視線を二人に向けて言った。 「知らないの、二人とも。…法師様も?」 少し驚いた、といった口振りだ。 「魂縛鬼…ですか。いや、聞いたことはあるが…私も実際に遭ったことはない。けれど話には聞きます。魂縛鬼はその名の通り魂を縛る鬼、それを喰【くろ】うて生きていると。…しかし珊瑚、かごめ様は記憶を失っているのですよ。魂縛鬼は見境もなく魂を縛り、喰い殺してしまう鬼だ。もしこれが魂縛鬼のしわざなら、もうとっくにかごめ様の魂は喰われてしまっている筈ではないですか」 「確かにね。でも…」 そこまで言って珊瑚は一度口を噤【つぐ】む。言ってもいいものか暫し案じているようだ。睫毛を伏せて、もう一度優しく猫又の毛流れを整えてやる。彼女の脇に何時も携えられた骨の飛び道具に、炎の揺らめきが映し出されて軟らかな色彩を醸【かも】し出していた。 「でも何だよ珊瑚!」 その様子に、犬夜叉は苛々と声を上げる。だん、と床に掌を突いて、今度は身体ごと珊瑚の方に向き直った。 金眸が珊瑚をぎっと見詰めているのを見て、珊瑚はそれでも肩で小さく溜息を吐く。 「さっき法師様も言っただろ、魂縛鬼は魂を縛る鬼だって」 「そんな事ぁ聞いてた!俺が言ってるのは…」 ぱし、とこちらも強く床を叩いて、珊瑚が突っ掛かる犬夜叉を制した。 「そう急くんじゃないよ、最後まで聞きな」 珊瑚の鋭い切れ長の瞳に睨まれて犬夜叉もぐ、と咽喉元まで出かけた言葉を呑みこむ。 「魂縛鬼は、確かに魂を縛る。…そして喰らう。だけどね、そういう奴らだけとは限らないんだよ。魂を喰らうことを目的とはしない鬼もいるんだ。そういう鬼は人の魂を…時として黄泉の世界の片隅に永久に縛り付けてしまう」 「ですが…」 「聞いたんだ」 たたみかけて疑問を投げようとする弥勒の声を、珊瑚が皆まで聞かずに遮った。普段は凛と冷静な珊瑚が、今はどことはなしに苛ついているように見えた。 「村の奴らの話を……聞いたんだよ」 漆黒に塗られた闇夜の中、水蒸気煙【けむ】る山間にぼんやりとした白い輪郭が滑ってゆく。夜目には定かでなくとも確かに一面を満たす白い霧を、何かが淡い霊火で浮かび上がらせているのだ。身体全体を靄【もや】に烟【けぶ】らせながら、女は音も立てずに露濡れた草の上を驚くような速さで進んでいった。彼女の市女笠から流れる玉虫【むし】の垂衣【たれきぬ】が、彼女の動きを追う様にその軌跡を蛇行する。そして、速さの反動に空気を微動させる事も無く、女は突然ぴた、と一点に静止した。 ――新しい花…。 女は真っ直ぐ前に向けていた面【おもて】を、ゆっくりと傾ぐように俯かせた。その濃く長い睫毛が、女の頬を僅かな影で飾る。白い、勿忘草だ。 濃葡萄色【こきえびいろ】の単【ひとえ】の袖から無気力な程に垂らされた手首は、薄い肌から透ける血脈もないかのように白く、つるりとした白磁のごとくまるで生気を感じさせなかった。 ――おかしいわ。 女の柳眉がぴく、と何かに反応した様に寄せられる。垂衣【たれきぬ】が、彼女の唇に引かれた鮮やかな紅を雨間にぼんやりと透かし上げていた。それをゆるりと片手で絡【から】げて、女はその勿忘草に顔を近付ける。 ――だって未だ、蕾【つぼみ】のまま。 ――未だ、全てを忘れることができぬまま。 いいわ、と呟く声は、女の唇から洩れたものではない。ゆうらりと空気をうねらせるような思念が、波紋を描いて雨煙の中拡がっていった。けれどその波紋も、勿忘草の広がる原の縁【ふち】までゆくと、急にすっと落ち込んで消えてしまう。 『お前の様な遊び女【あそびめ】、吾【あ】が妻となろうなどと。あな浅ましい。――去【い】ねよ』 その時男の前に泣き縋った女は、もう現世【うつしよ】に許されぬ存在と成り果てた。想い人に忘れられてなお募る恋情は、次第に女の中で燃えさかる地獄の灼火となって臓を焼き、彼女を鬼へと変えてゆく。待てど暮らせど二度と帰っては来ないと、分っていてもなお待ち侘びる孤独が、女の臓腑を冒しきってしまった。恋に狂ってゆく女を怖れた仲間の遊女達が炊いた芥子の香が、未だ消えずに女の衣から立ち昇っている。 ――お前も忘れてお仕舞い、愚かな男のことなど…忘れてお仕舞い。 女の白く透ける腕が、音もなく白い蕾に伸ばされた。けれど触れはせず、ただするりと花の上の空間を一撫でして、女はふっと霧に掻き消える。露を湛えた勿忘草の蕾は、さっきより僅かに、綻【ほころ】びかけているように思われた。 「……では、その遊女が、鬼に成ったのかもしれぬと…?」 珊瑚の話の間中ずっと何かを考え込んでいた弥勒が、口を開いた。ばちばちっ、と一際大きな音を立てて、薪から盛大な火の粉が舞う。風が強くなってきたのだろう、固く閉めていてもどこからか忍び込む夜半の風が、まるで蛇のようなうねりを床板に描いて、またどこかに消えていった。 「…うん。…女が亡くなった日と同じ霧雨が降ると、この村の近くに突然勿忘草の原が現れるって、そう言ってた。囚われて想う心を喪う者はみな女だ、とも」 心持ち俯いた姿勢で、珊瑚は少し怒ったような口調で言う。彼女のきめ細かい肌が茜色に染まって見えるのは、燃え盛る炎に照らされているからだろうか。なるほどと小さく呟いた弥勒もそれきり黙り込んで、三人の空間は暫し薪の音だけに支配される。 軽い気持ちで遊女を玩【もてあそ】んだ優男【やさおとこ】と、そんな男に本気の恋をしてしまった憐【あわ】れな女。いずれ自分の存在など無かった事の様に忘れ去ってしまうであろう男を、それでも忘れられずに、女の柔らかい胸はどれほど深く抉られていたのだろう。自分の淡い恋心にすらまだ疎【うと】い退治屋の娘は、それでもどこか胸の奥の疼きに違和感を感じて考え込む。何故か眦に熱いものが込み上げて来て、珊瑚は軽く唇を噛んだ。きっと、忘れられない、忘れてしまえたらという女の悲しい願いが、こんな形で彼女を、女達の恋心を喰らう妄執の鬼へと変えてしまったのだろう…そう思うと、どうしても珊瑚はやり切れなかった。 (かごめちゃんも、忘れてしまいたかったの?) それとも、やっと自分でも少しずつ勘付き始めた甘い思いが、自分をこんなにも感傷的にさせているだけなのだろうか。単なる乙女の杞憂なのだろうか。 がちゃりと無骨な金属音が響いて、暫し物思いに沈み込んでいた珊瑚ははっと我に返る。見れば立ち上がった犬夜叉が、腰紐に己が牙を挿し通しているところだった。ちき、と刀の鍔が鳴る。 「どこへ行くつもりだ、犬夜叉」 言葉を投げた素早さとは裏腹に、弥勒が前を見据える視線をちらとも動かさずに問い掛けた。脇に抱える鈍金【にぶきん】の錫杖が、彼の頬に一筋の揺らめく影を描いている。それに答えを返した犬夜叉もまた、戸口を向いたまま振り返りもしない。 「…決ってるだろ。その女を引き摺り出しに行く」 「今降っているのはもう普通の雨だ。遅すぎる、今更行っても鬼には遭えん」 「五月蝿え!!」 だん、と床を鳴らしながら犬夜叉が大きく振り返る。炎で朱色に染まった彼の豊髪が、ばさりと小さく撓ってまた柔らかく水干に舞い落ちた。琥珀の双眸が、瞳だけで此方を見遣る弥勒を苛々した様子で睨【ね】めつける。 「だからってこんな所でじっとして居ても、何も解決しねぇじゃねーか!動き回ってりゃぁ、その内に雨も霧に変らあ!」 「とことん、」弥勒が短く溜息を吐く。「気の短い男ですな」 けれどそんな法師の諭しに、犬夜叉は鼻を鳴らしただけで何も答えなかった。また豊髪を揺らして戸口に体を向け、今度こそ引き戸に手を掛け外に出ようとする。そこに、先程まで黙っていた娘が鋭く牽制を刺した。 「待ちな」 低く、険のある一声に、犬夜叉は一瞬身構えて背中を固くする。それでもそれを振り切るようにして、犬夜叉はがらっと荒く戸を引いた。ざぁ…と降り敷く雨音が耳朶に飛び込んでくる。 「あたしが言ってることが聞こえないのかい。待ちな、犬夜叉!」 声と共にぎし、と軋んだ音を耳に捉えて、犬夜叉は苦々しく舌打ちを一つすると振り返った。珊瑚が先程と同じ姿勢のまま、飛来骨に手を掛けている。けれどその研ぎ澄まされた神経が、射抜く程に自分に向けられているのを感じて、犬夜叉は思わず少し顎を引いた。 「…ぁんだよ…お前ぇ、かごめがこのままでも良いってぇのか!?」 珊瑚の頑なな態度に、犬夜叉も僅か声に怒りを孕ませる。体ごと振り向くと、今度は黙り込んでしまった娘に犬夜叉は苛々と足を踏み鳴らした。 「おい、何とかいいやがれ珊瑚!」 その声に、じっとまた炎を見詰めていた珊瑚の眉がぴくりと動く。 「あんた、分ってないね」 「…ぁあ?」 低く投げ返された一言を、解せず犬夜叉は訝しげに眉を顰めた。ゆるりと頭【かぶり】を向けた珊瑚は、その様子を鋭い視線で見据える。 「女なら、誰もかも皆鬼に囚【とら】われる訳じゃない。つけ込まれるような気持ちが女の側に在るから、囚われてしまうんだろ?」 「…何が、言いたい」 もう一度僅かな沈黙が二人の間に降りる。座したまま二人の様子をを見守る弥勒もまた、何も言わずに沈黙していた。先程から少し寝汗をかいていたかごめが、何かに魘【うな】されているのだろうか、う…ん、と小さく呟きを洩らす。 「かごめちゃんが鬼に囚われたのは」飛来骨の紐を掴んでいた珊瑚の指が、はらりと解けて滑り落ちた。「…あんたを忘れてしまいたいと願う気持ちが、ほんの少しでもかごめちゃんの中にあったからだろ」 もし、と続けながら、珊瑚は苦しげな瞳をかごめの上に滑らせる。かごめがひゅっと小さく息を吸う音が、三人の耳にはっきりと聞こえた。 「もし、かごめちゃんがそう願っていたのなら、本当に思い出させてあげることが正しいと言えるの」 犬夜叉の頬がぴくりと引き攣る。 「……あたしには、分らない…」 そう、それはかごめちゃんが、決めることだ――。 珊瑚の彫りの深い顔が、苦しげにぎゅ、と歪められた。 太陽がもう随分と高い。梅雨の休閑は、刻々と近付く夏を感じさせるように暑かった。肌を僅かに灼く陽光を気にしながら、かごめは細い腕を伸びやかに広げて爽やかな緑の呼気を胸一杯に吸い込んでみる。まだ五月だとはいえ侮れない程に気温が上がるのは承知していたが、何しろ三日程前までは青空すら長く拝んでいなかったのだ、この貴重な日光を直肌に感じるのも悪くないと、かごめは朝餉も早々に小屋から出てきてしまった。 それにしても、とかごめは小さく心中で呟く。 (ここのところみんな、少しおかしいわよね) 折角晴天が続いているのだ。ずっと足止めを食らっていた分を取り返すべく、朝早くから旅路につくのが常の筈なのに、今回は様子が違った。四魂の玉の情報もなく、無碍【むげ】に進むのは体力の浪費だと言って、弥勒も珊瑚も一向に進む気配を見せない。それどころか、情報収集に託【かこつ】けてはしょっちゅう人通りの多い市場へと出掛けてしまうことが多かった。反物や調度を売っているような類いの市ならまだしも、青果や雑貨しか売っていない小さな村市に出掛けてどうするというのか、かごめには解せない。 ――これというのも、あの変な人が現れてからだ。 ええと何て名前だったっけと、歩きながらかごめはここ数日の風景に思考を飛ばす。「あの人」がかごめの前に現れたのは、妙に鬱陶しい霧雨の降る日だった。 会ったこともない自分の名を馴れ馴れしく呼ぶ、半分だけの妖怪だという彼。いつも顔に貼り付けている仏頂面は、どうも近寄り難い雰囲気をかごめに与えていた。その割には前々からそうしていたかの様に、弥勒や珊瑚と会話を交わし、相変わらず自分の名を呼び捨てにするあの男は、一体どういう人物なのか。かごめにはさっぱり解らなかった。今日も朝餉には口もつけず、ぶらりとどこかへ出て行ったまま顔を見ていない。 (何かあの人のこと、弥勒様に色々聞かされた気がするけど、よく覚えてないのよねー) そういえば弥勒も珊瑚も、最近やたら自分に気を使っているように思われる。確かに、少年に関して色々聞かされてもすぐ忘れてしまうけれど、かごめに言わせれば、それはただ単に興味が無いから、爺ちゃんの由来話が右から左に通り抜けてしまうのと同じだ。それなのに、二人はやたらとその事を気にしているらしい。 (折角こんなに天気がいいのに、みんな余裕がないったら) そこまで考えて、かごめは悟ったように小さく溜息を吐く。この動作、長い事寝食を共にする法師とそっくりだと、我ながらおかしくなって、かごめは直ぐにくすりと笑った。 それにしても、今日は天気がいい。青空にところどころ浮かぶ雲は真っ白で、輪郭がはっきりしている。曇った、ぼやけた様な曇天の雲とは随分な違いだ。山間の村だけあって、少し歩けばすぐ森の入り口にぶつかる。かごめは暫く考え事をしているうちに、森の縁に沿って随分と歩いてきてしまった様だった。左手を見上げればこんもりと盛った緑深き山々、右手を見下ろせばきらきらと陽光を反射して流れる細い清流。なんとも贅沢な風流ではないか。 そして清んだ水の流れの向こうには、もう一かたまりの緑が繁っている。 ――もうひとかたまり? (やばっ) はたと気付いてかごめはぴたりと足を止める。森の縁を辿っているつもりが、いつの間にやら小川沿いに森の中まで入り込んでしまっていたのだ。改めて自分の向かっている先を眺めれば、川は段々と幅を狭めながら森の深部までずっと続いていっている。 (でもまあ、川伝いに降りて行けば元の道に戻れるわよね) そう思い直して、かごめはゆっくりと川下を振り返る。随分と小さくだが、煙の立ち昇る村の家々が遠くに確かに確認できた。 (…ちょっとだけ) 踵を返して元来た道を帰ろうとしたかごめは、けれどそこで思い直して道を逸れ、川原への僅かな茂みに足を入れる。流石に暑さもきつくなってきたから、冷たそうな清水に触れたくなったのだ。 がさがさと背丈もある川草を掻き分けながら、かごめはやっと茎群の隙間から川水の輝きを目にして、最後の一掴みをぐいと右に手折る。その瞬間開【ひら】けた視界の中に鮮やかな赫色が飛び込んできて、かごめはぴたりと踏み出した足を止めた。 ――そうだ、犬夜叉って名前だった。 さっきからずっと思い出せなかった彼の名前が、やっとかごめの頭に浮かんで来た。 少年は、砕け損ねたような少し大きめの岩に、片脚を立て、立てた脚の膝に片腕を預ける恰好でじっと座ったまま川面を眺めていた。何か深く考えこんでいるようで、あれほど気も使わず音を立てていたのに、かごめが近くに来ていることすら気付いていない風だった。長い白銀が川風に煽られてそよそよと揺れ、陽差しを浴びながらも彼の姿は涼しそうだ。鮮紅の水干はゆったりと流れ、自分のやや汗を含んだ制服を見下ろしたかごめは首を捻り、けれど直ぐ納得した様に頷く。彼が半妖だった事を思い出したのだ。妖怪なら、この位の暑さで汗なんてかかないだろう。 暫く躊躇っていたが、かごめは思い切ったように足を踏み出した。じゃり、と粗い川砂が靴の下で乾いた音を立てる。その音に漸くかごめの存在に気付いた犬夜叉が、はっと振り返った。 「かごめ…」 また馴れ馴れしくも呼び捨てだったが、この際それは気にしない事にして、かごめは返事をせずそのまま犬夜叉の近くまで足を進めた。その様子を少年が固まった様に凝視しているのに気付いても、敢えて視線を外したまま散歩をする様な足取りで近付いてゆく。 岩の脇までたどり着いて、漸くかごめは犬夜叉の方を見上げた。かごめの背丈程もある岩から自分を見下ろす少年は、驚いた様にまだこちらをじっと見詰めている。 「…ねぇ」 「な、なんだよっ」 慌てたように顔を赤くする少年を、かごめは面白そうに眺めながら答えた。 「別にー。何でもないわよ」 なっ、と言葉を詰まらせる少年に、思わずくすくすと笑いを洩らしながら、かごめはふと頭の中で考える。 (この人の、この顔…前から知ってたような気がする) けれどそんな事がある訳はないし、草太が拗ねた時の表情に似ているのだろうか。それも少し違う気がして、かごめは犬夜叉の顔を見つめたまま暫しじっと考え込む。 「あなた、前にどこかで会ったこと、あった?」 これは数日前からずっと抱いたまま聞き損ねていた質問だ。少年の表情に見覚えを感じたとかいう以前に、彼と自分以外の仲間達の慣れ親しんだ様子は、かごめには解らないことだった。初めて会った時から自分の名前を知っていたのも気にかかる。自分は数日前に、初めてこの少年に会ったばかりだというのに、まるでそう思っているのはかごめだけだとでも言わんばかりだ。 けれど、少女が投げ掛けた疑問に、今度黙り込んだのは犬夜叉の方だった。ふっと眉間を翳らせたかと思うと、少年は黙ったままいきなり岩の上で体を浮かせた。たん、と軽い音が響かせて体を捻【ひね】り、少年はいとも簡単にかごめの目の前に降り立つ。急に自分と同じ目線に近付いた琥珀色の双眸に、かごめは驚いて少しどぎまぎした。 「…な、何よ?」 少し戸惑いが声に表れてしまっただろうか。けれど少年はそれを気にも留めずに、尚もじっと探るようにかごめの瞳を覗き込んでくる。さっき、真っ赤になっておたおたと慌てていた彼とは、随分な違いだ。 「――まだ、何も思い出してねぇのか…?」 「はあ?」 そういえば昨日の夜、弥勒にも変なことを聞かれた。『かごめ様、最近頭が痛むことはないですか』、と。珊瑚こそ何も言わないものの、七宝も何か言いたそうで言い出せずにいるようなもどかしい感じだ。 (一体何だって言うの) 何だか自分が馬鹿にされているような気になって、かごめの心の中にふつふつと憤懣【ふんまん】が込み上げて来る。何らかの理由で自分に気を使っているのは分るが、それにしても自分だけに隠し事をされるのは気に食わない。 それでも、時に自分が知らなくてもいいことがあるのかもしれないと我慢していたものの、どうやら新参者のこの少年すら、事情を知っている様子ではないか。 かごめはむっとした様子で目の前の少年を見据えると、ふんと一つ鼻を鳴らして少年の脇をすり抜けた。いつまでもこんな下らないことに関わっていたくはなかったのだ。気付けばもう日も随分と高みを過ぎている。いい加減帰らなければ、留守番に残してきた雲母と七宝が心配しだすかもしれなかった。 鬱蒼と高く繁る緑の樹木。靴越しにもころころとした質感を伝えてくる、川原の丸みを帯びた小石。村中を歩いていた時よりも随分と涼しい風が、日に灼かれた肌の火照りを、通り様に絡め取るように攫っていってくれる。けれどその心地よさを堪能する心の余裕もなく、かごめはただずんずんと小川の脇を突き進んでゆく。おい、待てよ、と途惑うような声を挙げた少年が、さっきからずっと、自分の後ろについて来ているのを感じながら、かごめは苛々と歩速を速めた。それにあわせて少年の足音も心なし間隔が狭くなる。 (も〜〜〜っ、鬱陶しいっ!) かごめは突然ぴたりと足を止め、少年が立ち止まる間もない速さで振り返った。 「ちょっと!なぁんでずっとついて来るわけ!?」 さっきからずっと苛々したオーラを放っていることには気付いていたものの、突然噛みつかれて犬夜叉は驚いたように身構える。何か言いたそうに二・三度唇を動かしたが、結局諦めたようにそっぽを向いて無愛想に一言だけ答えた。 「お、お前ぇが何か、怒ってるからだろっ」 そう言って窺う様な顔をもう一度かごめの方に向ける。 「何、怒ってンだよ?」 その機嫌を壊した子供のような彼の態度に、かごめは少し心を落ち着けて表情を和らげた。怒っていても仕様がない、大体悪いのはこの少年ではないのだ。 (ま、いいか) 納得したように心の中で頷くかごめを、さぁぁ…と吹いた山風が包んで、また解【ほど】けてゆく。瞬間、かごめはくしゅ、と小さくくしゃみをした。先程からの風が、汗ばんだ肌から体温を奪って行ったのだろうか。見上げれば、雲間に太陽こそ照っているものの、青かった空が随分と透明度を失って色を薄くしている。まだ夕立というほどの時刻ではないが、通り雨でも来るのかもしれない。太陽の表面を薄雲が覆えば、この季節相応の肌寒さが急に戻ってくる。 (まだ、半袖は早かったかな…) 風に晒された両腕を軽く抱えて、かごめは少し日の翳った辺りを見回す。先程より少し川幅を広くした清流は、まだ薄光を反射してきらきらと輝いていた。 と、何かにふわりと頭から覆われる。一瞬ひんやりと肌に触れたそれは、かごめの体温に触れて直ぐさま温もり、熱を奪われた身体を優しく包んだ。少しもがいて布端を引くと、鮮やかな緋色が視界から滑り落ちる。慌てて振り向くと、上半身だけ白い肌着姿になった少年が、銀髪をさらりと靡かせながら少し先を歩いていた。 (…貸してくれたんだ) ありがと、と思わず小さく呟くと、聞こえないだろうと思っていた少年は、意外にも間を置かずすぐ言葉を投げ返して来た。 「てめぇが性懲りもなくそんな薄っぺらい着物着てるからだろ。見てらんねーや」 その言葉にふっと綻【ほころ】びたかごめの唇が、自然と心に浮かんだ科白を零す。 「何よ、あんたが着てろって言ったんじゃないの」 瞬間、少年の背中が固まる。そよそよと流れていた筈の空気が、凍ったように固まって沈殿した。 (あたし、今、何て……?) 思わず口を突いて出た科白に、覚えは無い。けれど、自分が決して脈絡のない言い間違いをしたのでないことだけは、かごめの頭のどこかが解っていた。 『あのヘンな着物着ろっつってんだっっ』 『桔梗に似てるから!?』 『へっ、関係ねえだろ』 (桔梗…?) 真っ直ぐに凪いだ泉に、湧き上がる様な記憶の水泡がぽくぽくと浮かび上がって弾けた。鮮明な会話が、くぐもった音に響いて耳元の空気を揺らす。かごめは、何かを思い出しそうになって軽く耳を押さえた。 (何だった…?あたし何かを、忘れてる――?) けれど、手繰ろうと必死に掴みかけた記憶の糸端は、襲ってくる頭の痛みに飲み込まれて最早見えなくなっていた。脳の芯を鍼【はり】で刺されるような激しい痛みに、かごめは膝の力を失ってその場にへたりこむ。高く天蓋に伸びていた緑の木々のシルエットが、ゆらりと速度を増しながらぐるぐると回り始める気がした。 (思いださなきゃ…。でも) ――ワスレテシマイタイ…。 頭の隅で響いた、自分であって自分のものでない声。それを僅かに聞き取りながら、かごめはすぅっと全身の力を奪われてゆく。どこかで、誰かが自分の名前を呼んでいる。 ええと、あの人の名前は…、確か…。 月のない夜空。薄い雲が、日がとうに深く沈みこんでなお、天蓋全体を淡い膜で覆っている。雲間から辛うじて覗く幾つかの星も、弱弱しく光を搾り出すだけで夜道を照らしだすには遠く及ばなかった。芯の重い漆黒の帳が、山に、原に、沈殿するように降りている。 と、雲縁に一際儚げに震えていた星が、ちかりと一瞬耀いてすぅっと音も無く天蓋に弧を描き、そのまま弓形【ゆみなり】に滑って北西の山間に落ちて行った。山端に消える一瞬、もう一度だけ強く最後の光を放つ。 (星が落ちやがった……縁起でもねぇ) かさかさと草が擦れ合う音に紛れて、明らかに人の存在を窺わせる短い舌打ちの音が響いた。続いて、柔らかいシルエットを描いていた草原から、蟠【わだかま】る黒い影がむくりと起き上がる。夜に一段と輝きを増す半妖の獣目が、漆黒の中で麗々と光を弾くが、その光も今はどこか物憂げな色を孕んでいて鋭利さを失って見えた。 (…ちくしょう) もう一度ちっと舌を打って、犬夜叉はぎろりと夜蓋を睨み上げる。低く垂れ込めた濃紺がしっとりと彼を包み込んだ。けれどそんな柔らかな空気の抱擁すら疎ましく感じられて、犬夜叉は眉間に刻んだ皺を一層強く寄せる。 こういう夜には、えてして楽しくもない考えばかりが頭を過【よぎ】るものだ。 ばすっと音を立てて再び柔らかな下草に身を沈めた犬夜叉は、ぼんやりとそれでも夜天を睨み上げながら、先まで付き添っていた少女に想いを飛ばしていた。 川原で急に意識を失ったかごめは、急いで小屋に連れ帰ってなお、未だ目を覚ましてはいない。魘【うな】されているかのように時々何事かを呟いては、掛け布の端をぎゅっと握り締める。その様は見た目にも酷く辛そうで、珊瑚と弥勒が帰って来るまでの数刻間、犬夜叉はただひたすら悲鳴を挙げる心臓と独り格闘せねばならなかった。 『何よ、あんたが着てろって言ったんじゃないの』 あの時、かごめは確かに、昔の記憶を取り戻しかけていた。思わず振り返った彼女の顔から、落とした様に血の気が引いていく様が頭を離れない。まるで己の禁忌に触れてしまったかのように狼狽し、我を失っていったかごめ。 考えたくはない珊瑚の言が、耳に残って消えなかった。 ――本当に思い出させてあげる事が正しいと言えるの。 (解らねぇ…) いや、本当は解っているのかもしれない。 桔梗に犯してしまった己の罪業に囚【とら】われたまま、何時かそれをほんの僅かでも滅罪出来るのならばと、彼女の願いに応じる決意をした。…それは本当だ。末期の瞬間にすら彼女を信じてやる事が出来なかった愚かな自分が、桔梗を今だ怨念としてこの浮世に拘縛し続け、彼女が得ていい筈の安らかな眠りさえも奪っている。だからこそ、自分は楽しい思いも甘い恋も、してはならない。 それでも、俺は捨て切れなかった。 五十年の眠りから覚めて、初めて嗅いだ匂い、初めて見た笑顔。思えばきっと、出逢った瞬間から解っていたのだろう。幼さの残る独りの少女に、此処までも深く、魅せられてしまう事は。…忘れられやしないと、疾うに解っていたのだ。それでも彼女を己から殺【そ】ぎ落とそうとした。かごめを傷つけた。 ぎり、と唇を噛むと、僅か唇に血が滲む。その味は深く、残酷な己の性を知らしめるように苦くて、犬夜叉は顔を歪める。 思い出して欲しいなどと、何たる浅ましい利己。それでも共に居てくれるというかごめの言葉に、如何して自分は甘えてしまったりなどしたのだろう。それすらも、許され難い利己心だというのに、今己が望んでいる事は何だ? 忘れたいと望んでしまうほどに苦しむ彼女を見てなお、思い出して欲しいと願うというのか。 抱き留めた彼女の細い身体を、晒された白い咽喉笛を、思い出す。胸に掻き抱【いだ】けば、細く早い脈が薄い肌越しに感じられた。己の爪を僅かに立てさえすれば、一瞬で消え去ってしまうだろう程に弱々しい命。何て儚い、人という温もり。それを喰い潰してまで、安穏【あんのん】を手に入れる価値など己にはない。 思い出してくれなどと、言って良い訳がない。言える筈もない。 頭を押さえて苦しむかごめの視線が、意識を手離す瞬間に一瞬己の瞳と絡まった時の、あの哀しげな瞳の色。 今からでも遅くはない、もう二度とあんな顔をさせなくて済むのなら。 こんなにも大切で…こんなにも脆くて。こんなにも求めていて。 こんなにも――……。 だからかごめ、俺は。 闇に染められた水干が血色に昏く耀いて滑る。流れる様に絡【から】げられたそれは、夜の風音に棚引きながら漆黒の奥へと――消えてゆく。 残された、風音と草擦れの音だけが寂然【せきぜん】と響く黒原に、幽【かす】か涼やかな錫の音が、響いたように思われた。 |
<<1 へ | 3 へ>> |