勿忘草に烟る雨
wasurenagusa ni keburu ame

3








 目が覚めると、小屋の中は驚く程に冷えていた。夜明け前だろうか。掛け布を胸元に引き寄せていたために外気に触れてしまっていた左足が、ソックスの下で骨の髄から冷え切っているのを感じて、かごめは思わず両膝を引き寄せる。火の絶えてしまった囲炉裏から、燃え残った灰色の薪が微かに細い煙をあげて、焦げた様に鼻につく匂いを流していた。
(ああ、あたし…倒れたんだ)
 堅い床に直寝であったためであろう、背中じゅうがきしきしと痛い。手をついて、音を立てぬ様ゆっくりと身体を起こすと、軽く目を閉じて壁に凭れる珊瑚と弥勒が目に入った。恐らく眠ってはいないのだろう。朱い瞳を煌めかせて身動ぎする雲母を、珊瑚の細い指がゆっくりと撫でていた。
「気が付かれましたか」
 足元の床が小さく一つ軋んだその音を、法師が敏感に捉えて目を開く。労【いたわ】るように優しく側められた両眼がどこか憂いの色を含んでいる事に、かごめは直ぐさま気がついた。
(あの人…)
 記憶がオブラートに包まれた様に曖昧で、はっきりと思い出せない。けれど預けられた水干のひんやりした質感だけが、嫌というほど肌に残っていて離れなかった。
「弥勒さま」
「はい」
 その言葉に僅か首を傾げた法師が、まるで続く言葉を知っているかのように瞳の色で先を促す。
「あの人…きっとあたしを此処まで運んできてくれたはずの人…今、どこ?」
 そう尋ねるかごめも、次に弥勒がどう答えるのか分っているような気がした。それはきっと心が芯から冷えてしまう程に残酷な答えなのだと、五感にはないどこかの感覚が捉えて、思わず身震いが走りそうになる。
「…出てゆきましたよ」

――やっぱり。

「……そう」
 何故だか泣き出したい思いに駆られて、かごめは必死に強く唇を噛んだ。どうしてなのだろう。今まではずっと、この四人だけで旅を続けてきた筈なのに、どうしてほんの数日前に現れただけのあの少年が去ったことが、ここまで強く心を揺さぶるのだろう。
 けれどその答えも、もうかごめには解っているように思われた。
「本当の事を教えて」伏せた睫毛をしっかりと上げて、やはりこちらを見詰める法師と目を合わせる。珊瑚も黙って瞼を開き、こちらを見ているのが感じられた。一瞬の間、空気が張り詰めたように動きを止める。
「あたしは、何を忘れてるの?」
 そう、自分は何かを忘れている。それはきっと、忘れたくて忘れられない…喪ってはいけない記憶。思い出そうとするだけで頭が割れそうに疼くのに、それでも取り戻したくて堪らない。それは――。
「名前…ですよ」
「名前…?」
 法師の言葉に一瞬呆けたかごめは、思わず目を軽く見開いて法師の言葉を鸚鵡【おうむ】返しに繰り返した。
 その言葉に、弥勒はゆるりと頷く。
「名前です。先にかごめ様を連れて帰ってきたあの少年の名を…かごめ様、貴方は…覚えていない筈だ」
 そんな筈は…、と言い掛けて、記憶の糸を手繰ったかごめは息を詰まらせた。
 ――覚えていないのだ。
 そう言えばさっきあの少年を見かけた時も、随分と彼の名を思い出すのに時間がかかった。そして今もまた、彼の名前がどうしても思い出せないでいる。
 物忘れにしては随分ひどいものだと、思っていなかった訳ではない。彼が現れてから何度と無く彼の名前を耳にした筈なのに、どうしてかいつも記憶の淵から零れ落ちてしまう。けれどそれも、自分が彼に興味を持っていないせいだと思おうとしていたけれど…それは結局誤魔化しにしか過ぎなくて、それを自分でも解っていた、どこかで。
(じゃあ…)
「ずっと前から一緒に居た人だった…って、こと?」
 否定の言葉を期待しているのだろうか。それとも肯定を?自分でも解らぬまま、心臓だけが無駄に拍数を刻み上げる。
「ねぇ、答えてよ二人とも!そうなんでしょ?…どうして、どうして早く教えてくれなかったの!?」
 どうしてもっと早く。彼が自分の前から消えてしまう前に、もっと早くに。
 咽喉の奥から熱いものが込み上げてくる。さっきまで冷えていた身体が、己でも当て付けに過ぎぬと解る悲しい怒りで熱を増した。
「…思い出したいの?」
 ずっと黙って様子を見守っていた珊瑚が、今にも泣き出さんばかりに肩を震わせるかごめを見て、初めて口を開く。
 その言葉にぐっと肩を強張らせたかごめが目を上げると、どこか自分を突き離すような色を宿らせた彼女の瞳と視線がぶつかった。
「当たり前でしょ?あたしの記憶よ、どうして思い出さないでいい訳があるの…?」
 けれどかごめの言葉に珊瑚はぎゅっと眉根を寄せて、語気を強める。鳶色の瞳が、今までかごめには向けられたことがない程に厳しかった。
「自分の記憶だから?だから思い出したいだけ?…そんな曖昧な気持ちなら、思い出さない方がいい記憶だってある!」
「なっ…」
 ふいと目を逸らしてしまった珊瑚は、もう目を合わせようともせずにただ吐き出すように言葉を紡ぐ。
「あいつだって…思い悩んで出て行ったんだ。いい加減な気持ちで追うなんて、あたしは許せない」
「…っ!」
 柔らかい語調しか、自分には見せた事がなかった。敵を目の前に見据える時も、後ろ手に庇うかごめには、大丈夫、と安心させる様に言ってくれた。それが今は、まるで責めるかの様な口調で自分を突き放している。
 どうして。何かあたしが悪い事でもしたと言うの…?
 訳が解らぬ怒りを向けられて、悲しい、悔しい思いが込み上げてくる。我慢しようと堰き止めていた涙腺が、隙を突いたように外れかけた箍を壊して熱い涙を溢れさせた。
「あたしだって…あたしだって何も考え無しで言ってる訳じゃないわ!なのにどうしてそんなこと言うの?珊瑚ちゃんっ…ひどいよ、そんな言い方!」
 がたん、と床を蹴立てて戸口に駆ける。戸を引いた瞬間、日の出前の冴え冴えと冷え切った空気が身体を刺したが、躊躇も見せずに思い切り地を蹴った。後ろ手に閉めた引戸が背中で悲鳴を挙げ、震動が空気を伝わって耳朶を打つ。けれどそれすらも血の上がった頭を冷めさせるには不十分だった。
(ひどいよ、珊瑚ちゃん…)
 またもう一度、心の中で抗議を叫ぶ。前も見ずに走り出せば、一足一足に冷たい衝撃が伝わってきた。制服の胸元をぎゅっと掴む。
 けれどそんなかごめを玩【もてあそ】ぶかのように、一際強い冷風がかごめの制服を絡げ上げてまた去って行った。東【ひんがし】の空はまだ、茜を灯【とも】す事なく薄紺色に広がっている。

 びいん、と撓った引戸が鎮まると、小屋の中の空気は急に冷たさを増した。大きく掻き回された空気が、徐々に集まり合って沈んでゆく。まだ木窓から差し込む明りもほの暗く、小屋全体が色彩なく灰色にくすんで見えた。囲炉裏の薪がくしゃんと音を立てて形を崩し、灰滓と散じる。
 暫く続いていた地を蹴る軽い足音も、一度強く吹いた風の音に掻き消されて以来、もう聞こえなかった。呆然、と言った風に身を乗り出した恰好で動きを止めていた珊瑚が、ふ…と小さく息を吐いて浮かせた腰を降ろす。その瞳の鳶色は、最早怒り等というもの微塵も残っておらず、代わりに後悔ともつかぬ悲しみだけが瞳を色濃く染めていた。
「…珊瑚」
 流れの無くなった空気を、揺らす事もない程穏やかな声が珊瑚を呼んだ。けれど直ぐさま答える気力も抜けたまま、珊瑚はゆるりと草臥【くたび】れたように首を上げる。落ち掛かる削ぎ髪が、蒼褪めた頬をより一層白く透けて映した。
「なんで、止めてくれなかったの」
 口が渇いて言葉尻が擦【かす】れたが、それでも搾り出すようにして珊瑚は言葉を吐き出す。
「…どうしてです?」
 法師は、そんな憔悴し切った珊瑚の様子に頓着する様子もなく、ただ全く意外だと言わんばかりの口調で言った。その弥勒の言に自分の愚かさを馬鹿されたように感じて、珊瑚は一瞬きっと瞳を上げる。
「どうしてって…」
 けれど言葉は続かずふつりと切れて、珊瑚はまた顔を俯かせた。その肩が僅かに震えを湛えているのに気付いて、弥勒はふっと柔らかく笑みを浮かべる。
「珊瑚は、正しかったんですよ」
 一瞬びくりと肩を揺らした珊瑚は、いやいやをする子供のように首を振ったまま、胸の袷を握りこむ。力を込めた指先が色を失って白くなるのを見咎め、弥勒はゆっくりと立ち上がって錫杖を手置【たお】き、珊瑚の前に膝をついた。そっと肩に添えた手を拒むように珊瑚が身を引いたが、弥勒はそれを遮る様に腕を動かさない。代わりに、肩を押さえる手を少し緩めるようにして珊瑚の顔を覗き込んだ。珊瑚は、見るな、と掠れた声で小さく叫んで、肩に置かれた手を引き離そうと胸に掻き合わせていた指を弥勒の腕に掛ける。だがその力も直ぐに虚しく緩んで、すとんという力ない音と共に床に滑り落ちた。
「琥珀のことを、思い出してた」
 弥勒の眉が一瞬愁いを帯びて、寄せられる。
「父上のことも、あたしのことも…皆を殺めたことも…みんな琥珀は忘れてる。でも…ねえ法師様、それを誰が責められる?」
 俯いたまま、けれど半ば叫ぶように珊瑚は血を吐くように言葉を紡ぐ。風に煽られた壁が、かたかたと音を立てて震えた。
「奈落に操られて、愛してる仲間を殺した事を思い出せなんて……そんな酷い事、あの子に、言えない」
 だけど、と言い澱【よど】む珊瑚の肩を、弥勒の腕が優しく少し寄せる。肩の力を抜いた珊瑚は、呆気なく弥勒の腕に掻き抱かれた。法師の胸に掛けられた紫の袈裟に、押し付けられた珊瑚の頬に伝わる熱い雫の染みが出来る。
「だけど、あの子は思い出さなきゃいけないの。残酷でも、気が狂っても…あの子は思い出さなきゃいけない。ねえ…法師様、正しいのはあたしの気持ちなの、あの子の気持ちなの?」
 解らない、と繰り返す珊瑚の肩を、弥勒はまるで幼子でもあやすように軽く撫でる。けれど珊瑚は拒絶するように頭【かぶり】を振ると、緇衣【しえ】の袷を強く掴んで身を引き剥がした。強く見開かれた切れ長の瞳が、弧を描く幾筋もの涙をつむぎ出す。
「あたし、押し付けてしまった。犬夜叉にも…かごめちゃんにも、あたしの気持ちを押し付けたんだ。もう……、もう、戻って来ないかも知れない。二人とももう……ねぇ法師様答えてよ、二人が戻って来なかったら、二度と戻って来なかったら、あたしは…あたしは、どうしたらいいの?」
「…珊瑚!」
 弥勒の強い呼び声に、珊瑚は身を固くして面【おもて】を上げた。そこはかとなく吐き出されるかのように思われた独白をきつく噛みしめた唇の奥に無理矢理にも引っこめる。
 呆れられたに違いない。
 愚かな自分に、自分自身で取り乱して愚痴ってしまったのだ。かぁ、と両頬に血が昇る。けれど目の前の法師はそんな自分を馬鹿にした風もなく、真摯な瞳で自分の顔を覗き込んでいて、それがまた子ども扱いされたようで悔しかった。
「…ごめん」
 ぼそっと呟いて、目の前の視線から顔を背ける。頭に昇っていた血は一瞬で引いていた。今は只、恥ずかしさと気まずさからくる後悔の念だけが思考を冷やした。けれど、袈裟から引こうとした両の手はあっさりと弥勒の掌に絡め取られる。
「珊瑚は正しかったと、言ったでしょう」熱を持った珊瑚の耳朶が、法師の柔らかい声音に撫ぜられて、少し火照りを落ち着かせた。まだ小窓から朝の光は差し込んで来ない。けれどほんの僅かだけ、明るさが増したように思われる。切り取られた空は、薄紺から薄蒼へうっすらと色味を変化させていた。
「あの二人はきっと戻ってくる。何時だってそうだったではないですか。だから…」
「もういい」
 今度こそはっきりと拒絶の意を顕わにして、珊瑚は絡め取られた手首をぐいと捻った。弥勒の腕を強引に引き離す。ふと脇の床に視線を滑らせれば、主人の不穏に今にも飛び出そうとする雲母と、それを必死に抱きとめる七宝がいた。あれほど大声で騒いでいたのだ、或いは、かごめが起き出した時から既に目を覚ましていたのかも知れない。七宝は両手で足をばたつかせる猫又をどうにか押さえ込みながら、幼く青い瞳に透明な涙を薄っすらと浮かべて、目の前のものを見るまいとするかのように床を睨みつける。雲母を掻き抱く指が真っ白になるほどに力を込められていて、珊瑚は思わず自分の愚かさを罵った。
(こんな小さな子を泣かせるなんて…)
 弥勒も七宝の様子に愁眉を寄せて腰を浮かせたが、珊瑚がそれを遮って立ち上がる。足裏で小さく軋む板床は、まだしんと冷たかった。膝はつかず、腰だけを屈めて七宝の柔らかな金髪に指を滑り込ませる。瞬間、七宝の小さな指がはらりと解けて雲母が主人の胸に飛び込んだ。それを左の手で軽く往【い】なしながら、珊瑚は滑り込ませた掌をくしゃりと撫ぜて、乱れた金色の細髪を整えてやった。
 まるで見てはいけないものを覗いてしまった子供のように、七宝は小さく項垂れたままだ。
「御免ね七宝。あたしが、取り乱し過ぎたよ。…ごめん」
 小さく呟くと、七宝は涙を溜めた瞳を珊瑚に向けて、伸ばされた掌をきゅうと掴む。
「かごめは、どうなってしまうのじゃ?犬夜叉は戻ってくるのか?弥勒と珊瑚まで喧嘩して、おらは…」
 不安な思いは皆一緒だ。自分だけでは無いのに、取り乱して法師に八つ当たりしてしまった自分が今一層愚かに思われる。こんな小さな子供ですら、必死に涙を堪【こら】えようとしているというのに…。
 珊瑚は細い眉をを憂げに寄せ、七宝を片腕だけで抱き寄せる。後ろで法師が触れた錫杖が、何時になく哀しげな音を立てた。

 ――どうなってしまうのじゃ?

 幼子の問いがしんと静まった小屋に木霊する。囲炉裏から細く伸び上がって棚引く灰煙は、梁に吸い込まれるるようにして天井近くで掻き消えた。まるでそれは、先行き不透明な一行の未来を嘲笑うかのように、何時までも何時までも焦げた匂いを漂わせ続ける――小屋の気温がまた一段と冷えてゆく。



 どのくらい走っていただろう。軒先で飼われている鶏達が、勢い良く走り抜ける足音に驚いて随分と騒いでいた気がする。振り向く事もなくただひたすらに続く道筋を辿ってきたけれど、どうやら足元の道に角度がついているらしい。いい加減頭に血を昇らせたまま無茶に続ける疾走は限界を迎えてきたようだった。坂を蹴る足が絡まってふらつき、それでも二三歩踏み出してから、かごめは漸く傍らの岩に手をついて足を止めた。ぜっぜっと肩で息をすると、酸素不足の肺が痺れるように締め付けられた。身体中が心臓になってしまったかのように激しく鼓動する。身体の内から発せられる熱と周囲の冷気との差で、頬も指先も赤くなってしまっていた。
「珊瑚ちゃんのバカ…」
 もう一度自分が怒っていることを確認するかのように呟いたが、それも溢れ落ちる疲労の中で虚しく萎えていった。少しだけ息が整ってくると、頭の中の思考までしんと静まってくる。
(どうしてあんな言い方しちゃったんだろ)
 怒りが治まると、今度はそこに後悔の思いが流れ込んで来た。背を向けた時に一瞬視界の隅を掠めた珊瑚の顔は、余りにも茫然としていた。後悔している様に、泣いている様にくしゃりと歪められた眉。
(珊瑚ちゃんが悪い訳じゃないんだ)
 本当は自分に腹が立っていただけ。あの少年が自分の前に現れた時から自分は、ずっと解っていた筈だ。何かある、何かあると。それを敢えて無視し続けていたのは――恐かったから。自分の中にある違和感を追及することが、何故かとても自分にとって辛いことだと解ってしまって、恐かったからだ。
『そんな曖昧な気持ちなら、思い出さない方がいい記憶だってある!』
 珊瑚ちゃんは解っていたんだ。あたしが思い出すことが、あたしにとっても…あの少年にとっても、とても辛いことなのだと、解っていたんだ。だから逃げようとしてたあたしを責めて…。
(でも、それは違うんだよ、珊瑚ちゃん)
 自分が倒れた時…固まった様に自分を見詰めたまま一瞬動かなかった少年を思い出す。琥珀色の瞳を一杯に開いて、狼狽とも後悔とも自責ともつかぬ色を湛【たた】えて、彼はあたしを、見ていた。見ているこちらが代わりに泣き叫びたい程に、心の底まで乾かされてしまいそうな寂寞とした悲しみ。
 取り残されて独りぼっちになることを恐がるように、縋りつきたい思いを必死に堪【こら】えた…切ない瞳だった。まるで一陣の巻風にも千々に吹き千切られてしまいそうに、彼は脆くて。
 ―-―あんな切ない瞳であたしを見るなんて。
 嫌なの、どうしても。はにかんだ顔も赤らめた頬も途惑う瞳もきっとあたしは大好きだけど…でも、あんなに切ない彼の瞳が自分に向けられるだなんて、嫌だ。それをどこかで、望んでいたような気がするからこそ、余計に嫌で仕方がなかった。
(あたしの前では笑っていてよ。幸せな顔を、していて)
 ふるりと頭【かぶり】を振って辺りを見回せば、周囲は薄い霧に包まれ始めている。山とも言い難いような小高い丘の小道に、紛れ込んでしまったのだとかごめは初めて気がついた。
「…探さなきゃ」
 今度こそ見つけ出さなければ。あの少年も…自分の記憶も。思い出したように小さく呟く。まだ岩についていた手を離すと、掌に岩のざらつきが刻まれて細かな岩粒がぽろぽろと零れ落ちた。
(探さなきゃ)
 岩粒を払いもせずに掌を握る。
 だから、あの少年の名前を。
 きゅっと力を込めると、指の中の砂粒が僅かに肌を刺激する。そのまま土小道を一歩踏み出すと、霧煙がうねるようにして制服のスカートに絡まりついた。随分と冷たくて、生きた様に質感がある。
 あの少年の名前を――。
 けれど踵を返しかけたかごめを、纏わりつく霧の触手が引き止めた。何かを微妙に感じ取って、かごめはふと、岩肌越しに見える風景に視線を向ける。

――勿忘草。

 白い花の塊が、ぽわりぽわりと乳白色に透けて続いている。それはまるで何かの足跡の様に、立ち尽くすかごめの足を誘【いざな】った。無意識に道を逸れて、一歩下草に足を踏み入れる。かごめの背後で、さっきまでの小径【こみち】が、苔生【こけむ】した岩が、掻き消えるようにばさりと消えた。かごめは背筋にぞくりと粟立ちを感じて振り返ったが、小さく下唇を噛んだだけで視線を前に戻すと、また一歩踏み出す。その視界の、霧を通してぼやけるか否かぎりぎりのところに、何かのシルエットが浮かび上がった。それは始めは朱華色【はねずいろ】に、そして段々と葡萄色【えびいろ】に濃くなりながら、輪郭をはっきりとさせてくる。
(女の人…?)
 頭に載せているように見えるのは市女笠だ。その縁から、薄く透ける垂衣がさらさらと流れて棚引いている。戦国の世に来て随分になるが、そのかごめですら一度も見た事のない衣装だった。でもどこかで見たことがある。
(…思い出した)
 どこかで目にした歴史小説の挿絵。あれは確か源平合戦の最中の…源義経。そうだ、弁慶と初めて出会った義経の衣装がこれと同じだった。
(じゃあ、源平時代の…)
 亡霊。それでさっきから肌を舐めていた霊気も合点がゆく。かごめは今目の前に姿を現した女の操る幻界に、取りこまれてしまったのだ。けれど不思議と心の臓はゆっくりと時を刻む。
 霊気を感じた時から気が付いていた。
(あたしが記憶を落としたのは此処だわ)
 目の前の風景に覚えがあるのかと問われればそうかもしれない。けれどその確信を強固なものにしたものは、今目の前にしている女の…瞳の色。

 ――随分と深く、想っているのね。

 気付けば女は直ぐ目の前に立っていた。顔の造作から、着物の紋まではっきりと見える。墨で引いたたおやかな柳眉に、長く繊細な睫毛。筋の通った鼻梁の下に、小さいが形のよい紅唇。滝のように流れ落ちる髪は艶【つや】やかで、まるで生気を持つもののように鮮やかな黒だった。けれど鼻につく芥子の香りだけが、彼女がもうこの世ならざるものだと残酷なまでに知らしめる。まるで、孵化し損ねて息絶えた、鮮やかなアゲハ蝶のように、儚くて妖艶な。
 随分と優美な美女だが、恐らくは遊び女だろうとかごめは感じる。それは女の勘でもあり、濃く引かれた紅と肌を包む白粉の所為かもしれなかった。
「あなた…」
 ――あれほど忘れさせようとしてあげたのに。どうしてお前は思い出してしまうの。
 すっと伸びてきた白磁の手が、かごめの頬を舐めるように撫ぜた。そのぞっとする冷たさに、かごめは思わず背筋を凍らせる。けれど最早引き返すことは出来なかった。
「どうして、こんなことを…あたしの記憶を奪ったのはあなたなんでしょう?」
 唇は冷え切って、きっと紫色になっているだろう。そう思いながらも、かごめは乾いた咽喉から必死に震えの無い声を絞り出した。絡みつく霧の束縛が、すこし強まる。
「どうして、記憶を奪ったりなんか…っ。あたしは」
 けれど女は、かごめを遮る様にふっと唇を緩めると、掌をかごめの黒髪に滑り込ませた。そのまま、愛しいものに触れるように柔らかく髪を梳く。けれどその哀しい瞳の色が、触れる掌の冷たさが、かごめに身体の芯からの恐怖を覚えさせた。
 ――愚かな子。忘れたいと願ったのは、お前の方なのに。
 そうだ。確かにそうだった…あの時は。少年に自分の事だけを考えて欲しいと思った、叶わぬなら彼への想いなど忘れてしまいたいと願った。
「けど、忘れられなかった。あの人の事…思い出したの。あの人の辛い顔を目にする位なら、あたしは自分がどんな脇役であってもそれでいいの、満足なのよ。彼に笑っていて欲しいの!」
 それが今やっと、解ったから。
「思い出させて、あたしを解放して。彼の所に戻らせて!」
 ――愚かな…。
 女の瞳の色が苦々しく歪んだ。髪を梳く手が突然止まり、かごめの髪を荒く掴む。その細い指が震えて、握り締められた隙間から黒い毛束が流れ落ちた。女の妖気が凍るように揺らめいて、掛けていただけの市女笠が滑り落ち、垂衣で女の頬を舐め取りながら霧となって散じてゆく。その頭の頂きには、銀色に煌【きら】めく人のものならざる二本の角。
 ――男なんて皆同じ。私を捨てたあの男も、一時の戯れで私を抱いた男たちも皆…。傷付くのは何時も女で、忘れるのは何時も男。だから忘れさせてやったのに…!
 足許から氷のような冷気が這い登ってくる。煙る霧に息すら苦しくて、かごめは思わず顔を歪めた。殺されるかもしれない、とっさにそう頭の何処かが警告するけれど、今更引くつもりはなかった。
「だけど…忘れられなかったんでしょう?どれだけ他の女【ひと】の想いを消し続けても、あなたの想いだけは消しされなかったんでしょう?あなたはそうやって…そんな自分も愚かだって決め付けて!」
 間違ってるよ。どんなに辛くても苦しくても、忘れられないのは決して愚かな事じゃない。想って、焦がれて、それでも叶わなくて迷っても、それが「恋」。忘れたくて、忘れられなくて、その狭間で苦しみ続けても、やっぱり忘れられないの、それが本当だわ。

 ――黙れ…!

 女の爪がぎしぎしと伸びる。歪められた赫い唇の端からも、尋常に無い白い閃きが覗いた。かごめの髪を絡ませたまま、女は両手をかごめの首筋にかけ、爪を喰い込ませる。鋭い痛みと気管を圧迫する鬼女の力に、かごめは思わず呻き声を洩らした。それでもここで引いてはならないと折れそうになる膝を立て、女の手に自分の温かい掌を絡ませて必死に気道を確保する。ぜっと肩を引き攣らせると、どうにか一呼吸分の酸素が流れ込んできたが、それで幾らかはっきりとした感覚が、余計に首の疵を痛ませてかごめは眉を寄せる。自分の掌にぬめりと流れる温かい血が、ぽたぽたと滴り落ちてゆくのを感じた。
「あなたは、愚かなんかじゃ…ない。鬼でもないよ」
 最早声か溜息かさえつかないような声音で、それでもどうにかかごめは唇を震わせる。薄く半眼になった睫毛の間から、女のきりきりと釣りあがった眉が、どこか寂しげに一瞬曇るのが見えた。
「好きな人…忘れられなかった、だけ、でしょう?あたしだって同じ、忘れられない、辛いよ。でも…。それであの人が幸せなら」
 女の爪が深く突き刺さる。う゛っ、と濁った叫びがかごめの唇から洩れた。余りの苦痛で一瞬のうちに意識が朦朧としたが、それでも辛く抵抗して両の指で女の掌を掻き毟【むし】る。
 痛い。殺される。
 気の早い走馬灯が頭の中を走り回ったが、眦に滲む涙が如何してか冷たくて、かごめはどうにか意識を繋ぎとめた。痛みにともすれば閉じそうになる瞼を、最後の力を振り絞って思い切り開き、叫ぶ。
「あの人が…犬夜叉が笑っていられるのなら、あたしは何もかも捨てられる!!」
 …そして何もかも受け入れられる。
 か、と音が聞こえるほどに激しく、かごめの視線が鬼女を貫いた。両の掌が、砂を擦るような音を立てて女の両腕を灼き落とし、かごめは突如解放されて激しく咳き込む。息をする度に咽喉笛につけられた疵がずきりと悲鳴をあげたが、送り込まれる新鮮な空気はかごめの正常な思考を取り戻させた。
 ――ああ…。
 腕【かいな】が、肩が、灰と崩れ去ってゆく。女の顔から最早鬼の形相は失われていた。切なそうに瞳を揺らめかせた女の回りに、蒼白い鬼火がぼっと点【とも】る。女は長い睫毛を伏せ、ぼんやりと消え行く己が身体を見、そして目の前に膝をついたまま自分を見上げる少女を見た。
「あなたは優しい、素敵な人よ…」
 少女が呟く。その時女の眦を伝った涙は、確かに楚々【そそ】たる恋する女のそれだった。そう少女は思う。
 鬼火が女の髪の一筋を灼き、一気に燃え移ってめらめらと滾【たぎ】った。その向こうに消えてゆく女が、一瞬だけ微笑み、そしてゆっくりと瞼を閉じる。
(きっと天国に昇れるわ)
 生まれ変わる未来で、あの女【ひと】は幸せになれるだろうか。愛しい人と何時までも時を紡げるだろうか。
 けれど一瞬垣間見えた女の微笑は幸せそうで…まるで愛しい人の夢でも見ているかのように。
 かごめもふっと瞼を閉じる。ざあ、と大きな風が吹いて周りに漂う霧を吹き払ってゆくのを、かごめは深く閉ざした瞳の奥で、ぼんやりと感じていた。



 夜が明けて、日が昇る。朝霧ももう薄く霞【かす】んで世界一面に光が溢れ、森の奥深くの下草にすら太陽の恩恵が降り注ぎ始める時刻。夜闇を住処【すみか】とする妖かしの支配は終わりを告げて、これから半日の間は、人がこの世界の主役だ。そんな誰もが晴がましい気分に浮き立つところ、独り一晩中まんじりとも出来なかった少年だけが、重たい頭を引き摺っている。
 よりにもよってこんなに気分の沈んでいる時に、如何してこうも天気が良くなるのだろう。嘲られたような気分になって少年はぎりりと空を睨み上げたが、結局のところどうしようもなくてまた下を向いてしまう。
「ちくしょう…」
 夜が明けてから既に本日何度目かになる単語を吐きながら、少年はばたりとその場に上体を倒した。仰向けになった足許で、幾分流れの速い川がざあざあと勢い良く水飛沫を立てている。
 彼は今、昨日かごめが辿った川の、もっと上流の流れにいた。遡【さかのぼ】るうちに幾度か分流した川は随分と狭まったものの、まだ人の身丈と半分くらいの幅はある。けれど流石にもう川原は消えてなくなっていて、小川は小さな崖に隔てられているだけだった。その崖から切り崩れた様に不安定に突き出す岩。彼はそのなだらかな傾斜の上で、今は大文字の形にばったりと横たわっている。この山の石質だろうか、彼の横たわる岩は随分と真っ白で、彼の水干の紅赤が染み付いてしまいそうだった。
 この前独りで夜を過ごしたのは、一体いつの事だったろうか。彼が歩んできた年月を鑑みれば全く微々たる間に過ぎぬのに、蜜月の様に濃かった数ヶ月間を挟んだその前が、まるで永遠のように遠い昔に思われた。
(情けねぇな)
 思いを馳せながら、犬夜叉ははたと自分が考えている事に気付いて苦笑する。随分と腰抜けになったものだ。
 昔は独りでいることが当たり前で、迷った子猫一匹傍に置いたことは無かったと言うのに。
 彼の顔の直ぐ上に張り出す小枝の青葉が、風にさらさらと靡いて朝露と緑の香りを運んで来る。その香りは彼の心を鎮静剤のように和らげて、今はどうしても深刻な悩みに耽る気分にはなれなかった。
 枝に梳かれた日の光は、まるで愛しいあの少女の体温のように。
 鼻先を擽る爽涼な香りは、まるで愛しいあの少女の匂いのように。

 かごめ――。

『なあに?』
 かごめの声がそう、答えたような気がした。でもそんな訳はない。きっと風の囁きが……。



(…寝ちゃった)
 仰向けになって瞼を閉じた不機嫌顔の少年が、どうやら本格的な寝息を立て始めたのを確認して、かごめはそうっと枝から降りる。根元の草がくしゃりと音を立ててひやりとしたけれど、どうやら少年は気付いた風もないようだった。腰を屈めて首を伸ばしてみれば、犬夜叉の顔はまるで間近に見ることが出来た。
(もう少し寝かせておいてあげるわ)
 甘く撓垂【しなだ】れ落ちた少女の髪の毛が一房、犬夜叉の頬を撫でる。

 教えて欲しいの。あたし、ほんの少しだけわがままになっていいですか?
 例え何が起ころうとも、この胸に湧いた泉は尽きることがなくて。どんどん、どんどん、溢れ出してゆくばかり。きっと涸れることはない。…だから。
 忘れてなんて言わない。あたしだけなんて言わない。
 だけど、一つだけ。あたしにも願いごとをさせて欲しい。
 運命が廻【めぐ】って、何かを失って、あなたの胸が絶望に冒されても、あたしはきっと救い出してみせる。必ずあなたを笑わせて見せるわ。…だから、お願い。

 ――決して私を残してゆかないで。
 ――生きて、残って。

 そう言ったら、あなたはどう答える?悲しい顔をする?
 嫌われてもいい、捨てられてもいい。だけど決して逝かせはしない。

 それは、贅沢な望みなの――?



 少年の頬に一滴の雫が落ちる。それは少女の涙だろうか。それともただの朝露だったろうか。







<<2 完.



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