予感
yokann

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「犬夜叉ー!」
 葉擦れの音だけが清かに響く森の中、少女の朗らかな声が空気を揺らす。まだ瑞々しい幼さを残す娘は、大きな襟のついた着物をひらひらと揺らしながら、遠く枝の高みに見える緋色に向かって一際高い声を上げた。
「犬夜叉!」
 はっと少年が振り返ったようだ。ようやっとこちらに気付いたかと頬を膨らませた少女は、次いで少年の頬に昇った驚愕の表情に少し訝しげな色を浮かべる。名も知らぬ秋鳥が、哀愁を込めた一声を残して飛び立っていった。
(また、桔梗の事でも考えていた?)
 まったく、と呟いて少女は独りごちる。毎度毎度で幾らかは慣れたと言え、やはり自分に誰かを重ねられるのは気分のいいものではない。ましてや重ねられた残影は、彼の怨む相手だと言うではないか。少女は柳眉を寄せて、怨めしげに少年を見上げた。此方に気付いていた筈の少年は、今度は俯いて渓谷を見遣ったまま存ぜぬを通す腹積もりらしい。
(冗談じゃないわよ)
 前世だか何だか知らないが、そんな事は自分の与り知らぬ範疇だ。覚えも無いのに嫌われたり避けられたりしては、堪ったものではない。只でさえこちらの世界に来ているのはボランティアのようなものなのだ、もう少し有り難く思ってくれても罰は当たるまいと、少女は腰に手を当てて憤慨した。
「ちょっと犬夜叉!気付いてるでしょ、降りてらっしゃいよ!」
 これでも降りてこない様なら言霊で無理矢理にでも沈めてやらん、と拳を握って構えたが、少年は意外にもあっさりと諦めたようだった。ふっと姿が引込んだと思うと、椛をたわわに纏った枝が二三度、ばさり、ばさり、と揺れる。一番下の太枝からひょこりと少年の素足が覗き、続いて真っ赤な衣がひらと舞い降りてきた。相変わらずの人並み外れた運動神経に、少女は暫し感動を覚える。
(なんだ、意外と素直じゃない)
 もしかしたらやっと話し合う気になったのか、とも思って少女は少しほっとした。何せ一昨日の夜盛大に喧嘩してから、ろくに口も利いていないのだ。いつまでもぴりぴりとしている訳にもゆくまい、こちらとしてもいい加減和解の糸口を掴みたいところだった。
「ね、犬夜叉、一昨日の事だけど…」
 あれはあたしも、と続けようとした唇は、けれどすぐ様虚しく開閉するだけとなった。一瞬じっとこちらを見た少年は、彼女の話を皆まで聞かずさっさと歩き出してしまったのだ。その態度はまるで完全に彼女を無視している。少女は息を吐いて大きく嘆息すると、白銀の流れる少年の背なをじろりと睨みつけた。
「ちょっと犬…」
 ぴたりと少年の歩みが止まる。今度こそ言霊を使われると感じてか、少年は大儀そうに振り返ると、思い切り顰め面をして見せた。
「…用かよ?」
 これまた何と味気ない問いか。用もなければ呼ぶんじゃないとでも言いたげだ。少女は盛大に半妖をおすわりさせたい衝動を何とか堪【こら】えながら、ぐっと頬に力を入れ出来る限り冷静な声を絞り出した。
「だから、あたしは一昨日の事を」
「鬱陶しいんだよてめェはよ」
 はあ?と少女が鼻白む。その様子をさも小馬鹿にしたように一瞥すると、少年はまたしても少女に背を向けながら低く言葉を投げた。
「帰りてぇなら、帰っちまえ。俺ぁもう、てめぇなんざどうでもいい」
「な…っ」
…に言ってんのよ、という言葉は怒りに呑み込まれてかき消えた。行き成り突き付けられた拒絶の言葉は、幾らひどい大喧嘩の最中であるとは言えあんまりだ。思い切りプライドを傷付けられて、少女はわなわなと拳を震わせる。伸びやかな四肢を一瞬ぴきりと強張らせ、思わず眦に浮かんだ悔し涙をぐっと抑えた。
(ひどすぎるじゃない)
 彼女とてこんな血腥【ちなまぐさ】い世界に好き好んで来ている訳ではない。受験だって学校だって大変な時期に、どうして妖怪相手の死闘などしたいものか。出来る事なら平和で穏やかな現代で過ごしたいに決まっている。それでも敢えてこの生活を選んだのは…無論四魂の珠とやらを欠片に粉砕してしまった罪悪感もあれ、この少年への興味も少なからずあった。ぶっきらぼうで粗忽で、全く気の利かない彼が時折見せるあどけない表情。そんなものに好感を覚えたからこそ、わざわざこの世界に留【とど】まってやっているというのに。それを…。
「冗談じゃないわ、ちょっと待ちなさいよ!」
 また歩き出してしまおうとする少年につかつかと歩み寄り、その肩をぐっと引いて振り向かせる。それでも表情を変えようとしない少年の態度が、少女の心を一層怒りに沸き立たせた。
「あんたね、桔梗に似てるからだか何だか知らないけど、今の言い方はひどいんじゃない!?いつだってそんな風だから、この間だって…」
「それが鬱陶しいってぇんだ!」
 ぱしっと軽い音を立てて少年が少女の細い手首を掴み取る。指に少し力を込められて少女は痛っ、と声を上げた。
「押し付けがましいんだよてめぇは。確かに初めは俺が連れ戻したかも知れねえがな、今はもう懲り懲りだ。てめぇの姦【かしま】しい声を聞いてるだけで胸くそが悪くなる。俺が良いって言ってんだ、もうとっと失せな!」
「…っ」
 少女の眦に浮かんだ涙に内心犬夜叉はびくりとする。今も昔も、人が泣いているのを見るのだけは苦手だ。それだけではない、今目の前で哀しげな表情を浮かべる少女は…。
(畜生…)
 ――憎らしいくらいに似ている。桔梗より少し大きな瞳、少しふっくらとした唇、少しあどけない眉宇…けれどそれでも、少女は桔梗に生き写しだ。
(そんな顔で笑ったりするんじゃねえ)
 こんなにも似ているくせに、彼女の性格は桔梗と正反対なのだ、それが許せない。何事にも明け透けで、裏表がなくて、人の心に、平気で直に触れてくる少女。
 桔梗ならこんな事は言うまい。桔梗ならこんな風には笑うまい。桔梗なら、桔梗なら…。
だのに、時々見せる微笑みが似すぎていて、思わず心拍数を上げてしまう不甲斐無い自分がいる。そして次の瞬間に訪れる、やっぱり違うのだ、という悟り。
 ――耐えられそうにない。
 彼女がもう居ない事を思い知らされる。どれだけ彼女を想っていたかを思い知らされる。そして、その彼女に自分は裏切られたのだという事までも、思い出されて――。
(もう沢山だ)
 指に更に力を入れれば、少女は一層痛々しい悲鳴を上げる。普段は強がっていても、所詮は人間の小娘だ。腕の骨の一本も圧【へ】し折ってやれば、尻尾を巻いて逃げ出すに違いない。いや、そんなまどろっこしい事をせずとも、もっと容易【たやす】い方法がある。
 すっと冷めた考えが頭を過【よぎ】った。
 ――殺してやるのも、悪くはない。
 そうすれば自分も、彼女の幻影を断ち切れるやも知れない。人の気も知らずに笑っている娘など、殺したところで今更何の罪悪感を覚えよう。首筋に爪を立てて、少し力を入れてやれば…それで全てが終る。簡単なことだ。
 少年の目の色が変わったのに、少女は気がついたのだろうか。さっきまで手首を捩って逃れようとしていた動きがぴたりと止まって、不安げな目で少年を見上げている。少年はその様を冷たく睥睨【へいげい】すると、漸く腕を放してやった。ばっと手を引き離した少女が、幾らかほっとした様に息を吐く。けれど少年は僅かな間も与えずに、今度は少女の襟首を掴み寄せた。
「きゃ…っ」
「言ったろ、俺は手加減しねえ」
 うなり、彼女の胸に踊る赤いスカーフをしゅっと引き抜き、突き飛ばす。少女の身体は易々とよろめき、枯れた葉の降り積もった地面に勢い良く投げ出された。痛った…、とうめいた少女の声が、少年の耳にやけに小気味よく感じられる。
「…っにすんのよ…っ」
 そう言った少女の表情も、もう先程までの勢いはなかった。縦に黒く裂けた瞳孔がひたと自分を見据えるさまに、少女の背をぬるりと冷たい汗が走る。
(こいつ、本気…?)
 しっとりと湿った山の嵐気が、少女の頬をさやさやと撫でた。冷えた肌とは対照に、弾き上がった心臓がごとごとと揺れて、息が苦しい。認めたくはないが、心底恐かった。一対一では逃げる事も出来まい。実際もし彼が本気で襲って来たら、恐らく念珠など役に立ちはしないだろう。言霊を最後まで唱える前に、真っ二つにされてお陀仏だ。そんな事、ずっと前から、分かっていたけど。
 少年の双眸が、夕陽を溶かして蜜色に光る。彼の指先からさらりと滑ったスカーフが、地に落ちる前に二つに裂けて風に舞った。さっと顔から血の気が引いたのを感じる。少女は悔しげに唇を噛んで、掌に触れる湿った枯葉をくしゃりと握った。
(…馬鹿にしてる)
 殺すつもりなら、こんな事をせずにさっさとどうにでもしてしまえばいい。それをもったいぶって、何だと言うのだ。こうやって脅えている自分を、どうせ彼は面白がって見ているに違いない。人間のくせにとそう思って、彼は自分を嘲っているだろう。いつも彼を思いきりどやしつけている自分も、所詮本気になった彼の前ではただの非力な人間に過ぎなかった。
(悔しい…)
 負けん気な現代の少女の中で、恐怖に僅か怒りが勝る。
 妖怪に首を落とされそうになったこともあったし、腹を喰い破られたことだってあった。並大抵の女の子では潜り抜けられないような試練を、幾つも幾つも潜り抜けてやってきたのだ、肝っ玉も据わろうというもの。もう目の前で人の身体がどろりと腐り落ちようとも、目もあわせたくないほど醜い鬼が吼【ほ】えようとも、恐くない。
「冗っ談じゃない…」
 俯いた少女の肩がぴくりと震えて、少年は片眉を少し吊り上げた。今にも泣き出すだろうか、喚いて助けてと叫ぶだろうか。――そう思ったのに。
 顔を上げた少女の瞳はひどく真っ直ぐで、少年は何かに射抜かれたような…。

「おすわり!!!」
 みし…っ。

 容赦無く力を込めた言霊は、いつも以上の威力で少年を押しつぶしたようだ。揺れるほどの地鳴りが響いて、縫いとめられた少年の身体が更に地中へと埋【うず】もれる。衝撃で揺さぶられた木々から、はらはらと散り初めの紅葉が舞い落ちた。
 そのさまを今度は少女の方が勝ち誇ったように眺めて、ふんと鼻を鳴らす。ゆっくりと鷹揚に立ち上がりながら、ぱんぱんとスカートに着いた土埃を払って、少女は細い人さし指をびしりと少年に差し向けた。そしてもう一度肩をそびやかし、言ってやる。
「大ッ嫌い」
 その声にびくりと耳を動かした少年が、まだ言霊の余波に這い蹲【つくば】りながら顔を上げ、瞳だけは炯炯【けいけい】と凄んでみせた。けれどその頬に椛が二枚ほど張り付いていて、今度は今ひとつ迫力に欠ける。
「てめェ、ふざけやがって…」
「ふざけてんのはどっちよ?」
 間髪入れずに返って来た言葉に、少年が少し言葉を詰らせた。それを逃さず、少女は次々と言葉を被【かぶ】せる。
「俺が良いって言ってるんだから帰れ、ですって?だーれーが、あんたの為なんかに此処にいるって言ったのよ。あたしはねぇ、楓ばあちゃんや村のみんなが心配でここに来てるの。そうじゃなくたってこっちの事が解決しなきゃ、あっちにまで変な妖怪が出るみたいだし」
 あんたの為だけだったら頼まれたって来やしないわよ、と嘯【うそぶ】きながら、少女はくるりと踵を返す。まだ地に臥せっている犬夜叉の様子に、少しやりすぎたかなとも思ったが、今は優しい言葉を掛ける気にもならなかった。
 すたすたと歩いてゆく背中に、少年がのそりと起き上がる気配を感じる。かごめの心臓が思い出したようにまたもう一度、ごとりと跳ねた。さっき胸倉を掴まれた時は、本当に、恐かった。今更ながら恐怖が蘇って、ぞくりと背筋が寒くなる。けれど少女は敢えてそれに気付かぬ振りをして、遠く、目映いばかりに照る夕陽に目を遣った。
 ゆっくりと山の端を溶かしてゆく太陽は、あと半時もすれば完全に沈んでしまうだろうか。椛色【もみじいろ】を吸い上げたかのように、柔らかく、まったりとしたオレンジ色だ。
(やっぱりこの時代の自然は、綺麗だよね。)
 ――あの少年も、気付いているだろうか。
 ふとそんな考えが過【よぎ】ったが、少女は振り向かなかった。何だか振り返ってはいけないような、そんな気も、した。



 ひらり、と何かが目の前に舞い降りて、少年は暫し臥せっていた地面からようやっと視線を上げる。見れば、赤い薄っぺらな布切れが、少年の鼻先一寸程に落ちていた。さっき自分が裂いた、少女の胸紐だ。
(風に飛んでいっちまったんじゃなかったのか)
 しつこい所が持ち主にそっくりだぜ、と悪態を吐きながら身体を起こすと、全身の関節がきしきしと痛む。肩を少し回すなり、ごき、と心地良くない音がして少年は顔を歪めた。
(畜生あの女、思いっきりやりやがって…)
 けれど自分だって一瞬でも殺してやろうとしたのだ、文句は言えまい。そんな風にも思って、少年はまた目の前をひらついた赤い布を爪の先に引っ掛けて捉える。妙につるつるした光沢があって薄っぺらいそれが、抓【つま】んだ指の腹をひんやりと撫でた。
 眦に涙を浮かべて、蒼白に震えた少女。
 眉を吊り上げて、怒りに頬を赤くさせた少女。
 どちらも同じ人物とは思えない、全くよく表情を変える女だ。
(似てねぇな…)
 ――『あたしはかごめ。桔梗じゃないの』
 全くもって似ていない。だけど…。
(かごめ、か)
 暫しの逡巡の後、半分になった赤い布切れを袷【あわせ】に差し込むと、少年はゆっくりと立ち上がった。



 彼女を見付けるのは思い掛けなく容易かった。
 無論その獣並みに鋭い嗅覚を以ってすれば、彼女が何処へ行っても見付けられたろうが、そんな手間を取る必要もなく、梢を抜けた犬夜叉の視界に、つくねんと佇む少女の小さな影法師が飛び込んできた。
 直ぐ脇は渓谷へと堕ち込む切り立った崖だ。その崖の縁には、まるでそこだけ木を切り落としたような、細い裸の道が続いている。その道の続くずっと向こうで、かごめは後ろ手に両手を組んだまま、ただ魅入られるように沈みゆく夕陽を眺めていた。
(危なっかしいな…山風が吹いたら一溜りもねえぞ)
 華奢な少女が易々と谷底へ振り落とされてゆくのを想像して、少年は一瞬眉の皺を深くする。それは、さっきその手で彼女を掻き裂こうとした者の考えとして、ひどく矛盾していたけれど、少年はそんな事には全く気付かなかった。
 後ろに長く伸びた少女の影法師をもう一度眇【すが】めた目で眺めると、少年は高く跳躍する。
 二三度大きく視界が揺れただけで、少女の輪郭は格段にくっきりと大きく近付いた。けれど、もう一跳びで追い着くという所で腰を屈めるのを止め、少年はすたすたと態と大きな足音を立てながら歩いてゆく。かごめの肩がぴくりと動いたのを見れば、大方少年の存在には気付いたのだろうが、やはり気分を害しているようで振り向きはしなかった。
 緩やかな秋風が吹き降りて、かごめの黒髪をさわさわと揺らす。そのしなやかな毛の一本一本が、蜜柑色の陽を弾いてきらきらと耀いて見えた。
「…おい」
 少年が、小さく遠慮がちな声を掛ける。けれどやはり少女は身動きもせず、じっと固まったまま返事も返さない。心なし強張った背なが、彼女自身も少し緊張している事を無言の内に伝えていた。無論その小さな緊縮に、少年が気付く筈もなかったが。
 再度、おい、と声を掛けようとして、少年は一旦口を噤【つぐ】んだ。そして思い直したように口を開くと、今度は徐【おもむろ】に彼女の名前を呼ぶ。
「かごめ!」
 ぱっと少女が振り返った。まだ光の粒子を纏って見える黒い絹髪がぱさりと拡がって、犬耳の少年は少しだけ目を細め、眩しそうにする。少女の頬が、気のせいか僅かに上気している様に思われた。
「聞こえねーのかよ、呼んでんだ」
 焦れたように少年が声を上げると、かごめは驚いた様に少し目を見開く。そして、まるで返事をすることになんて今気が付いたとでも言わんばかりに、ぼんやりとした返事を返した。
「ああ……うん、聞こえてた」
 あのなぁ、と少々うんざりしたように眉間を曇らせると、少年は袷からすっと引き抜いた布を、ずいとかごめの目の前に突き出した。
「…返す」
「…はぁ」
 間の抜けた声。かごめはまだ少しぼおっとしたまま、目の前にひらひらと揺れる赤い布をじっと眺めている。
「お前な…俺が何言ってるか分かってんのか?」
「だから…何が」
 やっと気を取り戻したかごめが、ついでに先程までの憤りも思い出して少々険のある目を少年に向ける。少年は一瞬、う、と言葉に詰ったが、ぎろりと怨めしげな睥睨を一つしてみせると諦めたように次の言葉を吐き出した。
「だーかーら、悪かったっって言ってんだッ!」

 ぷいと背けてしまった少年の頬が、紅い。そのままずかずかと歩いて行きかける彼の背中を眺めながら、かごめは、へー、と小さく呟いた。
(めっずらしー)
 でも、有り難いとも思わねばならない。明日からはまた平穏無事に過ごせそうだ、とそう思って、かごめはたたっと少年の後ろに駆け寄った。逃げるように歩いている割には、追い着くのに然程【さほど】時間は掛からずに、少女はまたしても意外な思いに捉われる。気遣ってくれたと思うのは、買い被【かぶ】り過ぎだろうか。
「…別に」
頑なに向こうを向いたままの少年の背を眺めながら、かごめが小さく呟く。聞こえてないかな、と一瞬思ったが、不機嫌そうな問い掛けの声が直ぐ様返ってきて、かごめは頬を僅かに緩めた。
「別にね、木に引っ掛けちゃっただけだから」
「はあ?」
 今度は少年が間の抜けた声を返す番だった。振り向いた顔を見上げながら、やっと自分を見た少年にかごめは小さく微笑んで見せる。
「だから、これ」

 薄【うす】ぺらな赤が、ひらっと少女の指先で翻る。
 ぱたぱたと暫く靡いていたそれは、ふとした風に絡め取られてあっさりと少女の指をすり抜けていった。

「あ…」
 思わず手を伸ばしかけた少年の腕を、かごめの掌が制するように軽く抑える。その間にもスカーフの切れ端は風に乗って飛んでゆき、紅蓮【ぐれん】の花弁【はなびら】のようにひらりひらりと渓谷の間を落ち始めていた。
 んだよ、いいのかよ、とぶつぶつ言う少年の横で、かごめは腕組みをしながら「あーあ、飛んで行っちゃった。」などと独りごちている。その顔がどこか嬉しそうに綻【ほころ】んでいるのを見て、少年は訝しげな表情を浮かべた。
「いーのよ、別に」
 どうせ破れてちゃあ使いものにならないんだし、と言いながら、かごめはすっと少年の横を擦り抜けて、細い小径を駆け出してゆく。その後ろ姿を、半ば茫然と眺め遣りながら、少年は独り小さく息を吐【つ】いた。



 運命とは何と残酷なものなのだろう。
 生きたいと願うものは死にゆき、死にたいと願うものは生き長らえる。

 穏やかさを知らない少年の心にはやはり、深く癒えない過去の傷。
 過ぎ去った思い出の痕は、どうしても消えはしない、消せはしない。

 ――桔梗…。

 濃厚な橙の空気を頬に受けとめながら、少年はもう一度昔の面影に語りかける。けれど今はもう、掻き毟りたくなる程の胸の痛みは感じなかった。

 ――桔梗、今はどこかで…安らかに、眠っているのだろうか。

 今は、安らかに――。
 ならばこの浅はかな賭けも、赦されるのではないだろうか。
 このまま…生き長らえてみるのも悪くはない。
 自分の愚かかも知れぬ選択が、吉と出るか凶と出るか…そんな事は誰にだって分かりはしないと、そう思うから。

(もう、会えねえんだな)
 桔梗…。

 小さく呟いた名が風に乗り、遠く離れた秋の野へと飛んでゆく。そこにそよめく清かな紫花【しか】に、彼の想いは確かに届いたのかもしれない。



「犬夜叉ーっ!」
「わぁったよ、五月蝿ぇ」

 秋闌【あきた】く空を、豊潤な香りが満たしてゆく。
 そのまた向こうにある、出会いも、再会も…まだここには訪れていない。

 それはただどこまでも穏やかな…。
 秋の日の穏やかな、予感――。






夕焼けを映し出す茜色の川を、犬夜叉と桔梗がふたり、舟に乗って下ってゆく――。
そんなアニメのワンシーンから、とめどなく妄想してしまった「よいゆめ」初期の作品。
後にも先にも、たぶん蓮奈の一番お気に入りの作品になると思います。

<<1 完.



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