In a fever――





“ My Girl ! ”
4







 初めて知った。
 犬夜叉の唇が自分のそれと重なっている。洩れる吐息がひどく熱っぽく、かごめの唇の中に流れ込んでくる。…絡み合って息がつまると、一瞬熱が再発したかのように頭の中がくらりと揺れた。
 掴まれた肩が痛かった。その痛みに、かごめは見開いていた目をぎゅっと閉じる。いや、恐くてかもしれない。初めてでも、知らなくても――これは決して、優しいキスじゃない。それだけはわかっていた。
(なに――)

 想像したことは、あったはず。
 借りた雑誌の後ろの方に、友人から聞いた誰かの噂に…そんな知識は嫌でも向こうからやって来る。中学生なんてそんなものであって、むしろそれが正常の証だ。罪悪感を伴う想像は、大人の世界を理解したようなほろ酔いの気分にさせる。
 今どきこの歳になって一度もそういうことを考えたことがなかったら、ちょっと将来に不安が残るくらいじゃないか。
 大好きな人と…そして自分。何も拒む理由などない。
(わかってるわかってるわかってる、そんなこと)
 そしてついこの間まで、それを密かに望んでいたのが自分だということも――
 だが想像するのと経験するのとでは全く話が違う。頭に思い描いたそれは、あくまで戯【たわむ】れにすぎなかったのだ。
「は…」
 やっと唇が離れ互いの吐息が漏れても、長い間貪られ続けた頭の芯が疼いていた。息を吐き出し、整えて――けれどそこでまた新しい口づけが落ち、かごめは思わず喘ぐ。ぐっと引寄せられた力強さとは裏腹に、今度はやわらかく唇が重ねられた。
 やわらかく…?いや違う、押し殺したように、だ。
(待ってよ)
 ――これは非常にまずい。何だか取り込まれてしまいそうだ。段々抗えなくなってきていて、そんな自分にかごめは驚いた。一体どこでこんなこと覚えたのとか、初めてなんじゃなかったのとか、そんな言葉が頭の中を駆け巡っていたが、結局声には出せず終【じま】いだ。
(ちょっと、待って)
 あたし、まだ。心の中で悲鳴を上げても、生憎と彼の耳には届かない。
 …二度目の口づけが、三度目に変わる。少し深くなって、四度目。…もっと深く。軽く離れて、また重なって、前よりも一歩侵入の度合いをふかめてくる。
(流される)
 本気でそう思った。気付けば抗う身体の力は、もう抜けている。ただ身を任せ、かといって熱情を受け止めることもそれに応えることも出来ず――きつく目を閉じ、かごめは嵐が去るのをただひたすら待っていた。

 再び我に返ることが出来たのは、運が良くてか悪くてか。地面に強く打ちつけられた手首を細い小枝が遠慮なく突いて、かごめがいたい、と小さな悲鳴をあげたからだった。暫し動きがやんだところに、わずかな隙間を縫うようにして湿った風が吹き込んだ。それは熱くなった二人の素肌を、さらさらと冷やしてまた消えてゆく。
 もう見えるか見えないかも分からぬような針の月、そのか細い光と電灯の明りが混ざり合って、犬夜叉の銀髪を、頬を、仄【ほの】かに浮かび上がらせている。琥珀をとじこめた犬夜叉の眼が確かにかごめをとらえ、かごめはまたも心臓を掴まれるような息苦しさを感じた。
「なんで…」
 ――こんなに真っ直ぐに見詰められたのは、多分出会ってから初めてだ。暗い所為で犬夜叉の目に映る自分を見ずに済むのが、せめてもの救いだろうか。そうでなかったら、今頃恥ずかしさで気がおかしくなっているに違いない。
「犬夜叉?」
 自分を見下ろす犬夜叉の目に火が点【とも】って、灼けるように熱い色をしている。それが暗闇の中でもはっきり伝わってきた。手首を握る力がぐっと強まる。
 ――こんな時、どうしたらいいのだろう
 どこかで望んでいたはずなのに、いざこういう状況になってみると訪れたのはひどい混乱だけだった。犬夜叉の態度と――そして反応してゆく自分の身体に、もういい、もう十分だと心の中が叫びをあげている。
「なんで、こんなこと」
 頭上では星が瞬き始めている。戦国よりはずっと数少ないものの、月の光が弱々しいおかげでその煌めきはいつもよりずんと強い。黒い木葉の合間から清【さや】かな光が注ぎ落ち、二人のシルエットをしとどに濡れそぼらせていた。
 星の光に溺れるようにして、若い男女の影がわだかまる。ついと落ちた犬夜叉の輪郭が、ゆっくりとかごめの上に重なった。
「……っ!」
 かごめの今度は首筋を、熱い唇が伝い始める。絹糸のように滑【なめ】らかな犬夜叉の髪が、顔にかかってくすぐったくかごめを撫でた。まるで指先の愛撫のようにやさしい感触は、滑り落ちる唇とにくいほどに裏腹だ。
「…あ」
 きつく、吸われる。途端唇から不本意な声が洩れて、かごめは瞬時に頬を熱くした。顔を倒して冷えた草に押し付け、肩を竦【すく】ませたが、犬夜叉の動きは止まらない。それどころかどんどん深くなってゆく。淡い痛みが散った。
 押さえられた手首を捩ってみても、やはりびくともしなかった。
「いや……!」
 尖った爪の先が柔かい肌を掻いたとたん、全身に痺れるような感覚が走る。甘く焦【じ】れるような戦慄が、まだ成熟したばかりの細い身体を駆けぬけた。
 犬夜叉の動き一つ一つにもたらされる感覚は、どれも生まれて初めてのものばかりだ。頭よりも先に身体が反応して、その度に恥かしさで体温が上がる。自分では自覚がなかったが、かごめは随分と感じやすい少女だった。
(どうして)
 知らなかった。犬夜叉はこんなこと、一体どこで覚えたのだろう。絶対そういう方面には疎いものだとばかり思っていたのに――初めてのかごめでもわかる、明らかに経験者の愛撫だ。明確な意図をもってつづく一連の動作が、よどみない。彼らしいためらいや、迷いすらも、そこからは感じとれなかった。
 犬夜叉の吐息が耳に掛かる。熱っぽい湿り気が肌に絡みつき、神経を捕える。
 かごめは今度こそ声を洩らすまいと身体を固くして、必死に頭の中に他事を浮かべた。
(どうして…)
 犬夜叉は、妖怪だ。人間の自分とは違う。ならばいくら見かけが少年でもきっと色々な経験をしてきたに違いない――そんなことにどうして今まで気付かなかったのだろう。関係を結んだ相手がいたってちっともおかしくない年月を、彼は生きている。数十年、いやもしかしたら数百年。
 そう、好きな人だっていたはずだ。恋をした…相手が。
 …だが、そこまで考えてかごめの思考は停止した。頭から一気に血の気が落ちたのだ。その音さえ聞こえた様な気がして、かごめは目を見開いた。
(なに)
 ――いや
(犬夜叉は、桔梗が好きだったのよ)
 犬夜叉と桔梗は――。
「――やめて!!」
 黒い思いが頭の中を過【よぎ】ったのを、かごめは確かに感じた。そして恐怖した。犬夜叉をひきはなす腕に、自分でも驚くほどの力がこもる。こんなに強く拳で打ったら痛いのではないかと、思いやる余裕すらなくかごめは拳を振り翳していた。
「かごめ!」
「いや!」
 追い縋るような犬夜叉の腕を払い、触らないでと叫ぼうとしたが咽喉が詰まって声にならなかった。代わりに思い切り犬夜叉の頬を打つ。ばしっという穏やかでない音が、蒼い夜の海を鈍く揺らめかせた。
「かごめ」
 さっきより低い声。驚きと怪訝と――そして確かな不快の滲む犬夜叉の声が、かごめの耳朶【じだ】に直【じか】に響いてくる。だがそれすらも鬱陶しく、吐きそうに胸がむかむかした。
(――犬夜叉は、桔梗と)
 いやだ。
 …いや。そんなのいや。
 五十年前に何があったのか、かごめはなにも知らない。知る権利もない。
 いくら生まれ変わりだからといっても、かごめ自身が桔梗と同一視されることを拒む以上、犬夜叉と桔梗のことも口出しせずにおかねばならないのが道理だ。けれど…今改めて生々しい事実を突きつけられてみると、坂道を転がり落ちるように考えは醜いほうへと走ってゆく。物分かりの良いふりをしていた、化けの皮を剥がされた気がした。
(――それじゃあたしが可哀相過ぎるじゃないの)
 犬夜叉と桔梗は愛し合っていたのだ。ならば、何かが二人の間にあったとしてもおかしくはない。
(いやだよ、犬夜叉)
 だってだってあたしは。
 あたしは、犬夜叉だけに。
「かごめ」
「触らないで、バカ!どうしてよ…」
 言いたい事が山程頭に渦巻いたが、もうそのどれもはっきりした言葉にはならず、嗚咽に変わるだけだった。そんな自分がつくづく惨【みじ】めで、情けなくて、余計に泣けてくる。さっき刻まれた口づけの痕が、いまだに熱く疼いて溢れる涙を助長する。桔梗と重ね合わせた唇だろうと関係ない、割り切ったはずなのに、どうしても拘【こだわ】ってしまう自分がいた。
 そういう声で、桔梗のことも呼んだの。好きだと言ったの。
「…どうして」

 いやな問いかけだ。でも、それが本音だった。

「不潔よ、そんな…そんな風に、あたしに触らないで…っ!」



 時折、木の葉が舞い落ちてくる。ふと巻き起こる気まぐれな夜風に絡まって、それは鴉羽【からすば】のように軽やかな、それでいて鋭い螺旋をくるくると描【えが】き散ってゆく。
 男というものは――夜と昼で、こんなにも顔を変える生きものなのか。
 金色の眸【め】が、獲物を狩る野性で炯炯【けいけい】と異彩を放っている。剥き出しになった太腿が、今彼の目に曝されていると思うと恥かしくて、かごめはスカートの裾を一生懸命伸ばそうとまさぐった。
 ざわざわとしきりに風が哭いているはずなのに、まるで沈んだ海の底のように全ての音が遠い。その中でかちゃりと響いた硬質な音は、犬夜叉が腰の太刀を引き抜いて脇に置いたための鍔鳴【つばな】りだ。一瞬横へ流れていた金色の視線が、手を鞘からはなすと同時にひたりとかごめを捕え、かごめは息を呑む。
「どういう意味だよ」
 怪訝【けげん】を顕わにした眉間の深い皺。含みを持った声色さえも、かごめの背筋をすっと撫でる。このままとって食われるわけでもあるまいし――そう思おうとしたが、無駄だった。
「だ、だって…」
 無理矢理口を押し開いても、すんなりと答えなど出てくるはずもない。続ける言葉を失って、かごめは逃げるように俯いた。
(言えないよ)
 ただの嫉妬ではないか。彼が、かごめはかごめだと言ったその言葉を、さっき一瞬信じられなくなった。
『あたしはかごめよ』
 ――そう主張したのは、自分のはずだ。それが今は、桔梗と彼の間に何があったのかを知りたくて、どろどろとした思いに堪えかねている。知りたいくせに、それを言って嫌われるのが恐くて逃げた。犬夜叉のせいにしたのだ。
 自分の思いに真っ直ぐな、あの美しい女【ひと】と、比べようもないじゃないか。
「…ごめん…」
 さやさやとなびいていたかごめの黒髪に、鋭い爪のある手がすっと差し込まれた。驚くほど大きな掌の熱が、直接触れてもいないのに空気を通して頬に伝わる。それだけで、今にも首に爪を立てられるのではないかと、ありえもしない恐怖が湧きあがった。
 こんな…こんな気持ちは本意でなかった。
(好きなんだって言って欲しかっただけなの)
 親子愛でも兄弟愛でも何でもなくて――これは恋なんだと、通じ合った恋なんだと、それが確かめたかっただけ。でも、もう遅いのかもしれない。
 絡め取られた髪に、ぎゅっと力がかかった。髪をとらえたまま犬夜叉が手を強く握ったのだ。次にくるものを予想して、かごめは唇を噛む。そのまま二人の動きが止まって、気まずい沈黙が横たわった。

 神社の境内【けいだい】は、静寂。月影のあえかな夜に、星明りが蒼く澄む。
 その中に、沈んだまま――だがいつまでたっても、犬夜叉が動く気配は感じられなかった。わかるのはただ、痛いほどの視線が注がれているということだけだ。
(――?)
 覚悟を決めて目を上げると、次の瞬間、少年の手はあっさりと取り去られる。そして犬夜叉はすっと視線を逸らし、諦めたようなため息とともにぼそりと声を洩らした。
「…嫌いかよ」
「え…?」
「嫌いかよ、こういう俺は」
「き、嫌いって」
 ――なに言ってるの。思わずそう続けそうになった言葉を、かごめはごくりとのみ込んだ。…分かっている筈。
 答えようと開きかけた唇が震える。かごめは膝元に重なったスカートをぎゅっと握って、俯いた。
 うん、と頷くだけでいい。そうすれば確かめられるかもしれないのに――
 そんなかごめの様子を眺めていた犬夜叉が、もどかしそうに一つ頭【かぶり】を振った。
「かごめを…抱きたいと思う俺は、厭【いや】か」
「……っ」



 ざわめく木々から絶え間なく、噎せかえる緑の薫りが流れ出している。それは紫色の空気にすばやく溶けて、風と共に二人の身体をひんやりとくるみ込んだ。星の光が零れ、境内の敷石を蒼い海に変える。昼の晴天をものともせぬ神木のその木陰の湿り気に、かごめはふるりと背を震わせながら、ためらいがちに呟いた。
「だから…」
 そこで一端【いったん】言葉を切り、唇を湿らせる。そうでもしないと、最後まで声を掠れさせない自信がなかったのだ。
「あたし…あたしは、犬夜叉のこと、好きよ」
 ぴくりと犬夜叉の肩が反応を示した。それを空気越しに感じながら、かごめはゆっくりと頭【かぶり】を振ってみせる。
「厭だなんて思うわけない」
 そして――それだけじゃない。
 犬夜叉の、その蜜色の眸【め】を見詰めながら、もう一度さっきの彼の言葉を咀嚼【そしゃく】する。今更ながらに、その言葉が痛いほどかごめの身に沁みた。彼が自分を求めていると、そんな事が分かっただけでどうして気持ちは凪いでゆくのだろう。
 結局、惚れているのは自分の方なのかもしれなかった。大体、そんな風にそんな目で言われて、無碍【むげ】に撥ね退【の】けることなど出来るはずもない。
「…いいよ」
 いざ言葉にしてみると、それがはじめから決まった、当たり前のことのように思えてくるから不思議だ。頭に渦巻いていた数々の思いは、一気に闇へと消えてゆく。そしてかごめは、ただ一つ残った答えに誘われるまま、犬夜叉の頬へ手を伸ばし、触れた。
 はっと目を合わせた犬夜叉の表情【かお】が、まるで怯えているように見えた。かごめはそれをとらえて、気付かれぬほどわずかな笑みを浮かべる。
(なによ、自分で誘ったくせにさ)
 白銀の髪が、薄っすらと蒼色をのせて淡い光を放っている。白い滝のように豊かなそれを、かごめの細い指が掻き分け、するりと梳【す】いた。そのまま頭を抱いたこれまた細いかごめの腕の中で、犬夜叉がふっと息を吐く。そしてその直後――かごめは背中を掻き抱く彼の腕を感じた。
 強く身体を引かれ、今度はかごめが犬夜叉の腕にすがる。
「……かい、するなよ」
 ひとりごとのように呟かれた犬夜叉の言葉に、かごめはえ、と顔を上げた。胸に押し付けられたままでは表情が窺えないし、あげく抱きしめられた格好で声も聞き取りにくいのだ。どうにか少し顔を上げ、なに、と小さく尋ねる。
 犬夜叉はその言葉に暫し沈黙したあと――唐突な口づけを落とす直前、掠れるような声でもう一度囁いた。

「――後悔、するな」






次章18禁です。お気をつけあそばせ。
苦手な方、少しでも躊躇いをお感じになる方は、自主規制のほどを、重ねてお願い申し上げます。

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